『建築を政治的なものに変える5つの方法──設計実践の政治序説』イントロダクションより

アルベナ・ヤネヴァ(建築理論家)

建築と社会統制の古典的な寓話から残されたものは何か?

Albena Yaneva,
Five Ways to Make Architecture Political: An Introduction to the Politics of Design Practice.

建築や建築技術の政治的影響を説明するには、どんな話をするのが最もよいのだろう? 建築物が権力を与えられ、統制と支配の機構になっていく経緯を、私たちはどのようにもっとうまく説明することができるだろう? 古典的な例としては、ジェレミー・ベンサムが考案したパノプティコン(全展望監視システム)型刑務所が建築物の社会的影響をよりわかりやすく例示している。ほかの刑務所と同様に、この「刑務所の全展望監視システム」は、受刑者を独房に隔離し刑務作業による訓練を課すという方法をとっていた。しかし、ベンサムのパノプティコンがほかと異なっていた点は、刑務所の中央にある塔に駐在する刑務所長がつねに受刑者と刑務官を見張っていることを示唆する監視の仕組みだった。このヒエラルキーは、刑務所の建物が人間の行動を統制し権力を行使するための機構になるというかたちで、刑務所の構造に刻み込まれた。隠蔽、監視、傍受によって「刑務所長の遍在」が可能になり、それゆえに「権力の遍在」が可能になった。建築は社会的秩序の形成と安定化を促進した。

建築の統制力と秩序を形成する力についてのもうひとつの古典的な寓話は、ロバート・モーゼスが1920年代に建設した橋に関するものだ。政治哲学者のラングドン・ウィナーは1980年に「人工物に政治はあるか?」という挑発的なタイトルの論文を発表した。彼は人工物と物質―空間の配置は社会的関係と権力を具体化すること、そしてインフラと建築物は政治的特性を含み、政治的言語で解釈できることを主張した。モーゼスが設計したロングアイランドの陸橋の低い橋桁は、ウィナーの議論に関する重要な事例である。彼は、これらの橋の高さは無作為に決められたわけではなく、公園道路にバスが入れないようにするために意図的に8.5フィート〔約2.6m〕の高さで建設されたこと、そしてこの独自の設計によって、モーゼスが設計した有名な公園であるジョーンズビーチから人種的マイノリティと低所得者層は排除され、出入りを制限されたのだと主張した。彼が建設した高速道路や橋は公共交通の開発よりも自動車の使用を優遇し、人々の関係を技術的に操作する方法を提示した。「ある種の技術は本質的に政治的特性を含んでいる」★1ので、人工物と物質の配置は私たちが力や市民権を行使するやり方やシチズンシップ(市民性)の経験自体に影響を与える可能性がある。ウィナーが主張したように、私たちは物質の特徴にもっと注意を払う必要があり、また「設計者がつくりだす物質的配置はある特定のコミュニティの問題を解決する方法になりうる」という設計者についての認識を高める必要があるのは、この理由による。建築家や都市計画家に対するウィナーのこの提言は、「構築環境は明白な、あるいは隠れた政治的な目的を含む。私たちは建築物や都市インフラという形態のなかに政治的な次元を認識するべきである。建築は人間の活動の秩序を定める潜在的な力を備えている」と読み取ることもできる。

ウィナーの主張は技術研究、都市研究、政治理論の分野で多くの議論を呼び、そして都市計画の実践者、政策立案者、政治学者の間でも論争を巻き起こした。カナダ建築センター(CCA)で最近制作されたフランチェスコ・ガルッティによるドキュメンタリー『Misleading Innocence: Tracing What a Bridge Can Do(人を惑わす愚直さ──橋ができることを究明する)』は、ラングトン・ウィナーの1980年代の著作がきっかけとなって起こった社会構築主義者とアクターネットワーク理論(ANT)研究者の論争を再現している。この映像では、橋はウィナーが描いたよりもはるかに複雑な物質的かつ社会的な人工物として描写されている。このドキュメンタリーは学術的討論の立役者たちへのインタビューという方法による推論的な階層と視覚的な階層を同時にたどりながら、橋の多元性や多面的な行為主体性を想起している。

ドキュメンタリーが展開するにつれて、私たちはウィナーの解釈はじつに面白みのない技術についての見解だと確信する。なぜなら、それは「バスの高さが12フィートあるのに対して公園道路の高さが8.5フィートだ」という橋の高さに関する議論に終始しているからだ。物質性、形状、構造、技術的革新あるいはユーザーについてはまったく述べられていない。そしてさまざまな自然力、そしてそれらが「低い橋」という特殊な形状を与えられた人工物のなかで、図らずもどのように方向づけられていったのかも述べられていない。その一方で、ただひとつの政治問題、すなわち人種差別についてしか論じられていない。ウィナーは政治問題を人種的な政治問題、そして橋の複雑性をその高さに単純化してしまっている。橋の高さと人種差別を因果説明の定式に当てはめることによって、ウィナーは政治とインフラの間の分断を再現している。しかし、橋は単純に物質的でもないし、あるいは政治的というだけでもない。それは、「政治的なもの」から「自然的なもの」まで、そして「実在的なもの」から「比喩的なもの」まで、広範囲にわたるさまざまな力の交差と均衡としてしか理解することはできない。このドキュメンタリーでは、一連の接写画像を用いてその物質性を示している。私たちはそのさまざまな次元を目の当たりにする。私たちは実際に使われている橋の技術を見る。私たちはこの人工物が使われ、欠損し、修理されるのを注意深く見る。私たちはそうすることで、そのさまざまな次元、そして橋の周囲に集まり、橋を日常的に整備する多くのさまざまなアクターを視覚的に描写することによって引き出されたこの非常に複雑なオブジェクトの行動主体性を、自分の目で確かめる。私たちはこの人工物の不具合を観察し、そうすることで技術と政治の両方をより詳細に理解する。インフラと政治の間の分断を持続させ、低い橋の技術を人種差別の政治問題に単純化することはもはや不可能である。むしろ私たちは、橋によって顕在化されたものや構築環境のより広い文化を理解することに注力すべきだ。

『Misleading Innocence: Tracing What a Bridge Can Do(人を惑わす愚直さ──橋ができることを究明する)』トレーラー © Canadian Centre for Architecture

© Louis Minutoli

このドキュメンタリーは、橋は施工者、建設労働者、保全管理者、都市計画家、警察官、議員、エンジニア、交通管制官がいなくては存在できないということも、私たちに思い出させてくれる。それに関連する「モーゼス」というひとりのアクター、そして(ウィナーの解釈のとおりに)橋の「高さ」というひとつの局面だけしか言及しないのは、あまりに安直すぎる。このドキュメンタリーは、それよりもはるかに多くのアクターたち、つまりネットワーク全体を橋の周りに連れてくる。彼らは皆、橋と相互に関わり合っている。彼らは橋の周りに集まり、橋について話しているが、同時に橋を代弁してもいる。ここで映像を通じて目撃される橋は、さらに多種多様なものが共存する人工物になる。なぜなら私たちはそれが何であるか、あるいはそれが何を意味するかということだけでなく、それが何をするかに注目するからだ。この映像は、橋をけっして静的ではないオブジェクトとして見せている。また、それは「私たちは設計、論争、日常的使用、保全などのプロセスを理解することによって、建築や都市インフラに独自のやり方でアクセスすることができる」というリサーチのアプローチを提唱している。

ウィナーの重要な問いは、「人工物に政治はあるか?」ということだ。あるいは言い換えるならば、これらは「人工物とは何か?」「低い通路があるということは何を意味するのか?」という問いでもある。しかしこれらの問いのいずれも、私たちが問うべき問いではない。それらは、建築物やインフラのすべての解釈を本質に基づく抽象論に追い込んでしまうだろう。そのかわりに、私たちはどのように設計が政治的になるのかを問う必要がある。「橋は何をするのか?」「どこで、どのように?」「どのように、そしてどこで?」「その行動のモダリティはどのようなものか?」「それはどのように接続し、あるいは接続を断つのか? そしてどのように政治的影響を生みだすのか?」「どのように、いつ、どのぐらいの範囲で、そしてどのような状況下で、設計は政治的になりえるのか、あるいは政治的関係を生じさせるのか?」。つまり、橋が人種的政治問題を具現化しているかどうかが問題なのではなく、それが何をするのか、そして設計、論争、改修、使用中、事故制御、交通管理のプロセスなどさまざまな状況において、どのように政治を行うのかが問題なのだ。

この映像は橋を政治的な場に変える。ここでの政治は、人工物がネットワークのなかで行動し、ほかの多くのものと関わり合うなかで形成される。それは、「設計は政治的影響を与えることが可能だが、既定の政治に還元されてはならない」★2。また、設計によって物質の配置、人工物、技術、建築物における力関係を準政治的(サブポリティカル)なレベルで包含し刻み込むことを可能にする規律訓練機関の微視的技術(マイクロテクノロジー)の従来のフーコー的な解釈★3とは対照的に、それは政治的なものの「展開」を描いている★4。この橋が政治的であるというのは論争の場になったからという程度のことだけで、国家政治あるいはイデオロギーの象徴だからという理由によるわけではない。私たちが橋とエンジニア、建築家、政治家、施工者、市民、ジャーナリスト、交通統制官、修理業者などを結びつけたそれまでのさまざまな出来事の経緯をたどり、そしてさまざまな存在論や異なる意見を持つこれらの登場人物が、異なる時間や空間に従って進みながら形成することができるたくさんの予想外の協力関係を究明することができるなら、政治的なものを自分の目で確かめることができるだろう。ここが政治的なものなのだ。人工物そのものではなく、それが行動し他のオブジェクトや人々と関係しながら繋がるやり方が政治的なものなのだ。それは、橋によって顕在化されたさまざまなもののなかに、橋の設計や保全に関わるさまざまな登場人物の間のたくさんの予想外の協力関係のなかに、建築家と都市計画家やニューヨーク市民を結びつけたさまざまな事の経緯のなかに、その変容について説明するプロセスのなかに存在する。

政治的なものはどこにある?

パノプティコン型刑務所とモーゼスの橋という古典的な事例は、私たちに建築と政治の長年の関係を想起させる。建築と政治を結びつけようという従来の試みでは、設計の背景にある政治、あるいは政治のようにみせかけた設計技術を明らかにしようとすることが多い。従来の学術研究では、建築は愛国主義的イメージの構築のための重要な要素と考えられている★5。建築物は「社会的分類装置」としての役割を果たし★6、社会的関係を示す力強い暗喩的表現(メタファー)になることができる★7。建築と政治の関係は、一般的にはイデオロギー、国民、国家、政府、政策、行動主義に関する政治の基礎理論の観点から解釈される。私たちは、建築を好きなように正当化して説明する段階に進む前にこれらの現実を手掛かりに始める傾向があるという意味において、これらの現実は基盤をなすといえる。政治は独自の論理、機関、実践をともなう別の行動領域である。それは建築の適用範囲「外」にあり、建築的なオブジェクトやプロセスとはかけ離れている。建築の世界からは超然と距離を保ちながら、政治はしばしば建築を線的な、干渉を受けない、あるいは介入される因果関係の象徴として説明する。政治は構築物、都市計画、都市的人工物に投影され、映し出され、反映され、あるいは埋め込まれており、その結果、建築物や都市インフラの形態を説明するようになる。

政治哲学は過去20年で急速に発展した。しかし、建築分野がそれに追いつくには長い時間がかかるだろう。ウルリッヒ・ベックは、1990年代に政治の場所の置換が起こっていると論じた★8。つまり、今では政治的行為は制度化された政治的秩序の「隣り」で、あるいはそれを「横断して」起こることが多いため、政治学者は前とは異なる場所で政治を探しているということだ。政治的力学や制度更新という課題の主導権を再び握るためには、政治学者は正式な政治の領域外で起こる「サブポリティカル(準政治的)」なプロセスの研究を行う必要があると、彼は主張した。政治の場所の置換、そして政党にもとづく国家政策の正当化の危機によって特徴づけられる時代において、建築物や建築プロジェクトが奇跡的に権力を正当化あるいは具現化することが可能であるという考えを受け入れるのは、時代錯誤である。そして、民主主義的な設計のためには単にユーザーが設計に参加するだけで十分と考えるのは、浅はかな政治化に甘んじることだ。政党政治や選挙で選ばれた代表者による意思決定だけでは、古典的な政治の近代的秩序を維持することはできない。市民は複数の異なる代表制民主主義の形態を探し求めており、その結果、選挙で選ばれた代表者に正式な意思決定の権限を与えるという政治的秩序は、困難に直面している。私はこの本で、設計は政治的代表のあり方を再考し、政治的行為の場所を新たに創造するのに役立つと論じている。もし従来型の政治が政党や国家の活動に留まるものだとすれば、「政治的なもの」は新しい場所や新しい見方、さまざまな差異、新しいオブジェクト、新しい出来事を受容するオープンな領域と解釈される★9。設計は「行動や思考の新しいあり方を提案し可能性を開く」展開力を持つゆえに、政治的な意味を持つ★10。「政治的なもの」は政治の、そして概して「一緒にいる」ということの存在論的な状況である。それは設計、施工、改修の実践に関連する多くの場所で行われている。それは建築の視覚的表現、設計の実験、物質の配置と都市的人工物によって実行されている。

ジェラルド・デ・ヴリーズ★11、アンドリュー・バリー★12およびブリュノ・ラトゥール★13を含む多くの著者が「政治は基礎をなすものではない」「それはもはや〈支配〉〈不平等〉〈権力闘争〉〈選挙〉〈革命〉などの大きな概念に見出されるものではなく、市民、選挙、投票、陳情、イデオロギー、制度化された紛争などに限定されるものではない」と説明している。もし政治が基礎をなすものではなく、還元主義的でもないとしたら、これはそれ自身が身を置き、そしてそこに還元することができる確固たる明確な基盤がないということ、そしてそれは芸術、建築、音楽の文化的現実を説明する基盤になることもできないということを意味する。この非還元主義の政治思想はまだ建築的論説においては非常に新しく、そこから得た見識は建築に新しい視点と言語を与えることができる。もし政治が建築を説明するために使うことができる建築の適用範囲外の基盤でないとすると、私たちはどのように建築物や都市の政治的次元を精査し概念化することができるだろう? 私の答えはこうだ──政治的行為の場所(ローカス)は移動した。「政治的なもの」は、設計および建築の実践の段階で探求され、形成される可能性があり、建築物、計画、施工、改修などのプロセスの多くの要素にとって不可欠なものとみなされる可能性もある。私たちがオブジェクト、現場、都市の一般の人々、そして都市の多種多様な現実の変遷を究明するにつれて、それは姿を現し、人々が目にすることができるようになる。

政治に対する非還元主義的なアプローチから着想を得て、本書は建築が政治的になりうるさまざまな方法を詳しく検討している。同書は建築創造の世界に関与し、構築環境、そのオブジェクト、機関、アクター、オブジェクト性、ネットワークなどの根底にある政治的次元を把握することができるように積極的に取り組む必要があると論じている。建築と政治に重点を置いた研究は数多くある。建築的オブジェクト(図面、計画、法律、規則、インフラ)が政治的になるということに着目した研究は非常に少ない。ここで特に言及すべき2つの研究がある。オランダの計画実践の手法に従って、エミリー・ゴマートとマーティン・ハジャ★14は、設計図面がどのように循環するか、ロッテルダムの南にある島フクセ・ワールトの計画がどのようにしっかりした政治的な計画になるか、そして暫定的にこの計画を政治的なものとして構築するために、従来の建築的手法がどのように変更されるのかを究明する。スティーブン・ムーアとバーバラ・ウィルソン★15は、アメリカのプロジェクトの建築法規の政治性を研究し、どのように建築、社会的正義、都市のエコロジーが「共に構築される」かを論じている。それらはそれぞれが形成される過程で、お互いに影響を与え合っている。ムーアとウィルソンは、建築の生産に関するより広く非還元主義的かつ実用主義的な解釈が必要であると主張している。これらの2つの研究、政治哲学および科学技術社会論(STS)の分野の最近の議論、そして特にオブジェクト指向政治の議論★16、そして行為主体性と物質の市民権についての議論から得た見識を参考に、本書は建築のさまざまな政治的モダリティを説明するための概念的および方法論的なツールを提示する。それは政治学者に政治を別の方法、すなわち建築的、設計者的、都市的なやり方で行う可能性を探求するよう推奨している。その一方で設計実務者には、建築のより政治的な実践のあり方のヒントとなりうる、建築が本来持つ関係の誘発性に対する認識を深めるよう推奨している。

政治の従来の解釈では、政治的な問いとは「設計や、都市実験や、制作に参加するのは誰か?」「それは技術官僚の少人数のグループなのか、あるいは都市実践や政策の影響を受けるすべての人々が関わるのか?」といった問いだった。設計において政治的な問いを投げかける別の方法は、関係性と都市の規範、グルーピングと連関、行動主体と用途の筋書き、建築物の性能、都市技術、設計、施工、計画の実践に備えられた政治性に注目することだ。このように、この問いはもはや誰が行動し、決断し、選択し、参加し、代表となるか、そして民主主義的な手続きに従って参加しているかということではなく、むしろ設計や都市的実践を通じて、「どのように」行動するための特定の能力が行使されるかということだ。設計はどのように人々を「参加させる」のか? どのようにさまざまな設計、施工、改修の実践が人間の経験を変容させ、人間の軌跡に影響を及ぼすのか? 私は人間という言葉を、「つくる人」(設計者、都市計画家、施工者、改修業者および職人)および「居住者」(住民、通行人、不特定多数の訪問者、そして近隣住民、コミュニティ、市民などのより大きな集団)の両方の意味で用いている。さまざまな経験と性能はどのように共存するのか? 誰が行動するかということに重点を置くかわりに、オブジェクトや人の軌跡を変える実践に注意を向ける必要がある。政治的なものは設計および都市的実践の段階で把握できる現象として現れる。周囲の状況、配置、オブジェクトに私たちの目を向けることが重要である。それによって人間は特有の性質を授かり、劇的な変化を遂げることができるようになる。政治的な場所。

パースペクティブからの解放

建築物はいくつかの主観的な視点(パースペクティブ)によって表現され、比較され、検討され、調整される一方で、建築理論では建築物は「世の中の」客観的事実に基づいているという見解が受け入れられることが多い。「見解の融通性」(Daston 1992)と称されるこの解釈は、個人の視点(パースペクティブ)や観点の相違を暗示している。これは建築的オブジェクトが個々の独自の視点(パースペクティブ)に基づく主観によって精査され、すべての利害関係者のさまざまな利益に基づき評価されるものとして解釈されることを推察していると言えるだろう。さまざまな建築研究は、設計は物質的実体を生み出すだけでなく、多くのほかのアクター(ユーザー、都市計画家、市民グループ)のための意味を有し、設計者はこれらのほかのアクターや組織体が設計プロセスで何を経験するかに注意を払う必要があるという考え方を共有している。設計者は視点(パースペクティブ)を持ち、すべての設計プロジェクトでこの視点(パースペクティブ)が保持されている。つまり彼らは、建築物が何を体現すべきかという自らの信念を意味として捉えている。また彼らは他者の視点(パースペクティブ)、すなわち構築物の客観的現実を彼らの観点において認識している。見解主義的な観点から見ると、すべての建築プロジェクトは私たちが住む世界の解釈を例示している。建築研究者は、ユーザーの参加を除外することなくこれらすべてのさまざまな設計への参加者の視点(パースペクティブ)を研究すること★17が、建築や都市の現実の本質に注意を払う方法だと信じている。しかし、意味の領域に入ることによって、構築された現実は除外されてしまう。逆説的だが、意味の世界ではだれも現実と接していないのに、皆がそれを解釈するのだ。見解主義的な見方では、構築物は触れられないままさまざまな主観的な解釈の背後に退いてしまう一方で、建築物の解釈は多岐にわたる。

ここで私は野心的な試みとして、建築/設計理論において最も有力な見解主義から離れ、そのかわりに建築物の実用性、物質性、そこで起きる出来事を前面に据え、建築物の変遷、居住、改修、プレゼンテーションの複雑なプロセスをたどってみたい。建築物を扱う実践を一括りにするかわりに、設計制作、改修、居住など、アクターの物質的実践、意見の相違、相互協力で明らかに目に見えるかたちで現れる実践の数々を前面に据えるならば、そして都市的実践者(設計者、都市計画家、改修業者、施工者)を前面に据えるならば、設計中の建築物や使用中の建築物は、無限に続くように見える一連の透視図(パースペクティブ)の視点から理解され、解釈され、あるいは認識される受動的なオブジェクトではなくなるだろう。その分析はパースペクティブを免れるだろう。このやり方で進めるなら、ここで論じられる建築物はもう政治的象徴、あるいは大きな政治権力が具現化されたものとしてみなされることはないだろう。むしろ、それらは設計、改修、プレゼンテーション、そして居住の実践のなかで行われることの一部になるはずだ。建築物を設計、実験、プレゼンテーション、改修、経験するプロセスに従うことから、その分析は構築物の「非見解主義的客観性」★18のなかに位置づけられるだろう。それは、オブジェクト自体のなかにある変動性としての置換可能な観察者のエートスを持つ。その変動性の主な供給源は、(見解主義的な見方における)たくさんの視点およびさまざまな主観から、構築されたオブジェクトの多元的な現実へと移り変わる。この考え方では、建築物自体はそれが操作される実践とともに生まれる。この本で書かれていることは、建築物がその実践において、関係する人たちにどのようなことをするかを説明している。そして扱われるオブジェクトは実践ごとに異なるため、現実は多様化する。建築家、都市計画家、改修業者、群衆、技術、ビジュアルなど、それらすべてはひとつ以上存在する。「単数」(singular)ではない。「唯一無二」(unique)よりも多い。このことから、それらがどのように関係するかという問いが生じる。すなわち、政治的な問いである。

方法

本書で示される建築の政治的次元の研究は、建築および設計実践の現実主義的な見解を含む実利主義哲学から着想を得ている。それは多元的な自然と文化の釣り合いのとれた見解に依拠している。いかなる観点も優先しない視点(パースペクティブ)に立つ。つまり、それは科学技術社会論(STS)の伝統に端を発するアクターネットワーク理論(ANT)に基づくアプローチである。STSは構造主義の高まりの後、ブリュノ・ラトゥール、ミシェル・カロン、マドレーヌ・アクリック、マイケル・リンチ、ピーター・ギャリソンらの著作によって1980年代に全盛を極め、社会的なものの理解に関する新しい概念や方法論を生み出した。過去10年で、STS、そして特にANTは、設計・建築研究、文化地理学、物質文化研究の分野で研究者の間で批評的な称賛を得た。ANTは「自然/文化」「物質性/意味」「主体/客体」のような単純な二元論を打開するための社会調査の方法である★19。この方法を建築分野に持ち込むということは、建築や設計者の理論やイデオロギーではなく、建築の文化や設計者の実践を調査するということを暗に意味する★20。ANTによって、建築家、設計者、エンジニア、居住者が、それぞれの利害や理論とは関係なく──彼らの日常業務、個々の行動、共同体のグルーピングなど――何を行うかを報告し、それによって論説の内容ではなく行動の実際の内容を優先することが可能になる。建築家は、自らの理論、価値観、イデオロギー(批評的理論により支持されるアプローチ)を持つ重要な存在であり、そして建築と対立していないからという理由ではなく、彼らがたくさんのオブジェクト、建築物、人工物、そして建築や構築環境を構成する手段や理論が存在できるようにするからという理由で研究されるべきだ。この方法は、建築事務所の労働環境の社会的文脈化だけに依拠する伝統的な社会学的アプローチ、そして建築設計のすべての産物を社会的に構築されたものとして扱う人類学に基づくアプローチの両方とも回避するのに役立つ★21、22

ANTに触発された建築のアプローチでは、以下のことを仮定する。ひとつめには、「主観的」と「客観的」の間の分断は放棄される。建築研究では、オブジェクトは2つの異なるやり方のいずれかで──それらが本来持つ(それらを物質、現実、客観的、事実に基づくものとして定義する)物質性を通じて、あるいは(それらを社会的、主観的、生命を持つものとして定義する)もっと「象徴的な様相」を通じて把握されることが多い。ANTは、このモダニズム的な分断を回避するのに役立つ。建築のリサーチは「物質は意味に取り込まれる。それは世界のなかにある」と主張しながら、一方では物質性、もう一方では政治がどのように融合するかの分析に携わることができるだろう。

2つめには、私たちはANTを参考にしながら、もののたくさんの物質的な次元を前もって純粋な物質的特性あるいは社会的象徴に限定することなく、正当に扱うことができるだろう。物質は、あまりに多次元的で、活発で、複雑で、驚異的で、反直感的で、固定された人工物や変化のない制度のなかで説明することはできない。ANTの観点の2つめの利点は、それがこれらの次元のより全体的な見方を示し、たまにしか考慮されることのない多くの驚くべき行動主体の複雑な集合体を受容するように私たちを促すことだ。このような説明によって、建築をつくるプロセスと経験するプロセスの両方における人間でないもの(ノン・ヒューマン)への思いがけない愛着が明らかになるだろう。そしてそういった愛着が、それらをいっそう物質的に興味深いものにするのだ。

3つめに、ANTの観点は、建築分野の外から説明を得ようとするかわりに、コンテクストを変動するもの、すなわち、動き、進化し、さまざまなオブジェクトや実践とともに変化するものと見なす。コンテクストは、プロジェクトの進展のすべての段階、経験のすべての段階に影響を与える多くの次元から成り立っている。そして、これがANTの観点の3つめの利点だ。市場要因、社会階級の分断、経済的制約、社会的慣習、あるいは政治などの外的要因が建築に与える影響を分析するかわりに、私たちはさまざまな種類の事例、オブジェクト、技術的状況や制度の性能を把握しようと試みるべきだ。ANTは、私たちに人間が苦労してさまざまなオブジェクトや環境と関わり合い、さまざまなスケールのダイナミックな建築文化を形成するやり方をたどるために使うことのできるもうひとつのツールを与えてくれる。

今日ANTに興味を持つ建築家や建築理論家は非常に多い。ANTを概念的に説明することはできない。なぜなら、それは経験的なケーススタディに基づいているからだ。私たちはそれらのケーススタディを感覚的につかむことができないと、そのアプローチを理解することはできない★23。ANTの理論としての位置づけに関して、ANT研究者の間では混乱が起きている。ジョン・ロウは、ANTは理論ではないと主張した。なぜなら、それは根拠に基づいてではなく、記述的にものごとを説明するからだ。彼は「それは、さまざまな関係性がどのように集まるのかという......興味深い物語を語るためのツールキットだ」★24と断言した。経験にもとづくさまざまな事例のネットワークをたどって記述することにより、内在する新しい理論(小文字の"t"のtheory)が現れる。それらは、市場の本質★25、人間の身体★26、そして科学的な事実と真実★27、設計の技術的検討★28などに関する新しい理論だ。それらの「興味深い物語」が展開するにつれて、私たちはアクターの世界から直接的に立ち現れ、彼らの生来の言葉で語られる、内在する理論を見出す。ANTの方法論を用いることによって、結果的にひとつの基礎理論が形成されるのではなく、アクターの世界を構築する行為を説明するためにより適した内在する多くの新しい理論が必然的に生み出される。ANTを活用することによって、私たちは「形成過程にある建築」を研究することができる。それは建築的オブジェクトや状況が政治的になるプロセスを究明するための新しいツールを提供してくれる。

設計がどのように政治的になりえるかを理解するために、私はいくつかの物語を伝えよう。そのためには、政治的なもの(とても小さな小文字のtとp の"the political")に関連して内在するさまざまな理論を探し出すことになる。私は設計および都市計画の事務所内や、工事や改修の現場、そして公開プレゼンテーションの場において、いかに政治が明るみに出るかを検証する。これらは従来の政治的行為の場所とは関係がない現場であり、建築的なものと政治的なものの両方が実行され、制定される可能性がある現場である(ことが多い)。これらの現場を分析し詳細に調べることが、この研究の核となる。私は一連の「どのように」(how)という問いを手掛かりに読者をこれらの場所の核心へと導き、政治的な影響を与えるさまざまな実践や設計手法について、経験に基づいて記述する。私は建築家がどのように世界の構築に関与し、そしてどのように設計実践の過程でさまざまなツールを用いて現実を操作するのかを追求する。私はどのように画像や模型が建築事務所の外を旅するか、それらがどのように修正され、細工され、見直され、手を加えられ、駆け引きされるか、それらはどのように異なる集団の形成を誘発し、さまざまな反響を巻き起こし、コミュニティに影響を与えるか、いかにこれらのビジュアルが政治の現場になるかを説明する。ここでの議論は、政治は建築や建築の分析と適切な関連性をもたないということではない。政治と建築は抽象的な構成概念である。それゆえにそれらはお互いを説明することはできない。しかし実践の段階、形成過程の段階では、政治的なものと建築的なものの両方とも、無数の流動的で不安定な、壊れやすくさまざまなものが混じり合う小さな要素に分解される。政治的なものは、どのようにそれらが展開されるかをたどることによってのみ把握することができる、建築実践の根底にある次元として現れる。

ここで提示されるANTから着想を得た設計、改修、あるいは居住の政治的次元に関する記述★29のすべては、3つの類似する特徴を備えている。ひとつには、それらの記述はさまざまな観察において出会った建築に参加するすべての人々──個人と集団、人間と非人間──を含み、調査の期間に限定されている。これらの物語のなかのアクターは、彼らが残した軌跡の数、そして彼らが見つけた自らの存在をより強める方法を根拠に選ばれた。彼らはその場に現れ、さまざまなプロセスに積極的に参加し、彼らの名前はインタビューや設計の参加者との気さくな会話、そしてテキストやビジュアルの記録のなかで示された。彼らは設計、建築物、改修現場、建築家や施工者のビジュアル、アーカイブや施主の計画文書に侵入した。彼らは変化を起こし、効果をもたらした。彼らはそのような経緯で、建築が政治的になっていく過程に関するANTに触発された物語に含まれるのに「ふさわしい」アクターとして現れたのだ。2つめに、これらの観察は、人間のアクターと非人間のアクター(建築物の階層、フレスコ画、物質的配置、設計のスケッチ、グレア、アトリウム、階段、プレゼンテーション模型)を均等に扱うことによって、さまざまな研究を通じて集められた異なる要素からなるデータを包含している。このことは、非人間的なものを代弁する任務を与えられた者たちの行為だけを追うだけでなく、非人間的なものが人間に応答する状況を見極めることによっても実現されている。3つめには、これらの説明は単にアクターを民俗学的に説明し、あるいは批評的なやり方で建築的オブジェクトの背後にあるもの――作用している政治勢力を明らかにするかわりに、彼らをネットワークとして配備している。「配備する」とは、ある特定の行為主体だけに行為を関連づけ、あるいはそれを永続的な歴史的構造物およびシステムと関連されて説明するかわりに、人間と非人間的なもののすべての共同体の性能を詳細に記述するということを意味する。

私はANTを「アクターたちの世界を構築する力の演繹的な定義を彼らに押し付けることなく、アクターたちから学ぶための非常に荒削りな方法として」★30用いることによって、中心となる人間主体に重点的に依拠し、非人間的なもののための余地はほとんどないものとしての建築物の一方的な解釈を打開することを試みる。特にここで記すANTの解釈において、私はこれから建築物になるもの、使用中の建築物、改修中の建築物、形成過程にある建築物のゆっくりとした変容をたどる。すべての経験に基づくケーススタディ、そしてすべてのANTの説明の共通点は、それらはすべて政治的なものの出現についての物語を語っているということだ。しかしそれらは、設計に参加する人々の間のさまざまな種類のつながりを追うことによって、現実の異なる秩序を想起することによって、あるいは政治的なものをつくるためにひとつにくっつけられたさまざまな要素の回路をたどることによって、さまざまなやり方でそれを語っている。

私が強く望むのは、良い建築と悪い建築、政治的に健全な、あるいは不健全な設計を区別するための何らかの分類形式を提示することではない。いかなる一般規則も方法も設定しない。そのかわりに、私はANTに着想を得た建築実践に対する問いに関与することによって、これらをよりよく知るために、「政治的なもの」が現れる可能性がある特定の状況のなかで仕事をし、あるいはそれらの状況に取り組むための特別なツールを提案する。私はさまざまな設計の世界の特殊性に注意を払いつつ、変化をもたらし、介入することを可能にするために、経験的な説明をできるだけ詳細に述べることに努める。分析を建築の形成過程の段階に位置づけることで、この本が実践者にとってさらに政治的な実践に向かい、変化をもたらす新しい方法に熱意を持って取り組むためのきっかけとなることを願っている。




原註
★1──Winner, L. (1980), 'Do Artifacts Have Politics?', Daedalus, 109(1): 121-136
★2──Barry, A. (2001), Political Machines: Governing a Technological Society, London: The Atholone Press.
★3──Fouclault, M. (1975), Surveiller et Punir: Naiisance de La Prison, Paris: Gallimard.
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翻訳=坂本和子


Title: "Introduction" in Albena Yaneva, Five Ways to Make Architecture Political: An Introduction to the Politics of Design Practice, Bloomsbury Academic, 2017, pp. 1-11
Author: Albena Yaneva
© Albena Yaneva


アルベナ・ヤネヴァ(Albena Yaneva)
ブルガリア生まれ。マンチェスター建築研究センター所長。建築理論家、科学技術研究、人類学者。建築における人類学的、民族誌的研究に対して2010年にRIBA会長賞が与えられた。著書=『The Making of a Building: A Pragmatist Approach to Architecture』(Peter Lang、2009)、『Made by the Office for Metropolitan Architecture: An Ethnography of Design』(010 publishers、2009)、『Mapping Controversies in Architecture』(Routledge、2016)、『Five Ways to Make Architecture Political: An Introduction to the Politics of Design Practice』(Bloomsbury Academic、2017)など。


202001

特集 建築の漸進的展開


グラデュアリズム──ネットワークに介入し改変するための方策
アーバニズム、建築、デジタルデザインの実践とグラデュアリズム
『建築を政治的なものに変える5つの方法──設計実践の政治序説』イントロダクションより
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