アーバニズム、建築、デジタルデザインの実践とグラデュアリズム

中島直人(都市計画研究者、東京大学工学部都市工学科准教授)+秋吉浩気(メタアーキテクト、VUILD)+中村健太郎(建築理論家、モクチン企画)+谷繁玲央(東京大学大学院)

自治感覚を取り戻す

秋吉──VUILDの活動のモチベーションとして、自分たちが生きている社会に参与する感覚を持ちたいという思いがあります。自分達が考え抜いたアイデアが出力されて、目の前にできあがるような体験は、小さな試みではあるけれども、当事者にとっては大きな現象なんですね。どんなに小さな実践でも、この世界を変えられるという自信を持てる事が大事です。このように、身の回りのものをつくる感覚で、自分たちの生活を実感を持ってつくっていこうというモチベーションは、震災以降増えていると思います。生産人口も減少するなかで、地方都市にはUターンで戻ってきた家業の継ぎ手(旦那衆)や、熱量を持った役所の職員など、地域の将来を前向きに考えて行動している人々がいます。本来、地域社会は贈与や相互扶助などの独特の価値経済で満たされていましたが、そこに市場経済が介入したことで、これまで形成されていた関係性が断ち切られてしまった。自分たちが目指しているのは、インターネット的な自律・分散・協調型の世界を建築・都市というフィジカルな世界にも実現することです。個々人や地域ごとが自律して何でも自分達でできれば市場経済は要らず、何でも自分達でもできれば分散してどこでも暮らせ、とはいえ全部を上手にはできないだろうから価値交換して協調して暮らす。そんなポスト資本主義の世界を実現したいと思っています。その実現のために、積極的に既存の資本主義的金融システムを利用していこうと考えています。VUILDはタクティカル・アーバニズムの理念と同じように、小さな運動を起こすことで大きな変化への接続を目指しています。ショート・タームで利潤を回収する超産業資本主義的なVC型の投資ではなく、経済的なリターンとともに社会や環境へのインパクトを緩やかに生み出していくインパクト投資などで上場企業から出資してもらい、活動に共感してくれる仲間を増やしています。やはり中央集約型の方法はどこかで無理をしているんですね。安価な建材を短期的に供給するために、辺境の森林を大量に伐採して環境破壊をもたらし、工業化によって地場産業を吸い上げ、価値経済や独自の流通体系を崩してきた。中央集約型のシステムは依然としてあるのですが、その力を使いつつ、分散化に再投資していくようなあり方を考えています。完全なる別世界をつくるのではなく、メインストリームに寄生することで徐々に養分を吸い取り、最終的には本体よりも大きくなっていく。そんな在り方を目指しています。

中島──先ほどインパクト投資の話が出ましたが、これはESG投資と呼ばれる近年関心が高まっている投資の一環ですね。ESG投資とはEnvironment=環境、Social=社会、Governance=企業統治に配慮した企業を重視して行う投資です。最近、国がこうした投資を後押ししようという動きがあり、私も少し参加させていただきました。そこでEとは何か、SとはGとは、と議論するわけですが、その定義や基準を一律的に決めることにはあまり意味がないですね。ことSocial=社会については、地域によって何が有効かは違いますし、一律に規定できるものではないのです。建築に置き換えて考えても、その建築が地域社会にどのような意義をもたらすのかという話は簡易的な基準で語られる話ではないと思います。

以前、秋吉さんが「WIRED」のインタビュー記事(2019年2月14日)でおっしゃっていた「自治感覚がある環境」という考え方にはすごく共感します。やはり自治感覚が失われていることが都市の問題として顕在化していますし、あるいはそれが問題として顕在化せず漠然と都市的不安のような状態が存在しているところもある。私は銀座を対象にまちづくり・都市デザイン研究を行っているのですが、銀座はチェーン店や不動産に完全に取って代わられたわけでもなく、まだ家業が生きているんですよ。家業を率いる旦那衆たちは、自治感覚のある環境をつくろうとこの15年ほど力を入れています。建築のデザインの話も含め、地元の間で協同してイニシアティブをとっている。自治感覚を取り戻すというのは世界的な動きだと思いますし、まちづくりとものづくりでスケールが違っても目指している感覚は似ているんですよね。パタン・ランゲージや創造実践学の研究者である井庭崇さんが提唱されている消費社会、情報社会の次に来る「創造社会(クリエイティブ・ソサエティ)」の話も同様の考え方だと思います。

秋吉──ありがとうございます。自治感覚は会社など組織の運営にも応用できる話なんです。よく言っているんですが、会社と社会は字面通り鏡だとおもっていて、会社という小さな共同体を設計することが、社会という大きな共同体を設計することに繋がると信じています。とはいえ、会社は地域社会や自治体と比べても自らの意志で構築しやすい組織です。最近、会社の統治を従来のトップダウン型ではなくプロジェクト型に編成するなど、ギルド的な分散型に組織編成するトライアルが始まりつつあります。そこではプロジェクトで得た利益をどう分配するか、運営も含めてメンバー自身が決める。個々が組織経営にコミットすることで会社のシステムが透明化すると、その先には会社をみんなで自治する環境が拓けますよね。新しい組織モデルの研究者であるフレデリック・ラルーの言う「ティール組織」はその最たる例です。組織の進化を5段階に設定し、圧倒的なトップが支配する組織形態(オオカミの群れ型)から段階的に進化を紐解き、個々に意思決定権があり組織の存在目的に合わせて生命体のように進化する組織形態(ティール型)について論じています。これからのまちづくりにおいても、同様に個別のプロジェクトベースで編成し、プロジェクトのインカムをどう分配するかをメンバーが決めるような方法がありえるのではないでしょうか。そういった観点で、知人の林篤志氏が主宰する「Next Commons Lab」は今回のテーマと合わせて、その先端的実践であると思っています。

谷繁──明らかに社会が成長する時代ではなくなり、縮小する時代においては、成長時代のように資本回収をベースにした意思決定の論理では都市や建築を扱うことはできないはずですよね。それでも現状の企業形態を維持するための論理が実際の社会の論理になってしまう場合もあります。例えばリノベーション前提に中古物件を購入する場合、融資を受けるには確実な性能向上を証明しないといけないなど、ストック活用するにもハードルが高いのが現状です。でも、もはや新築至上主義の時代ではないので、住宅産業も今後はすでにあるものをいかに維持管理するかがテーマになっています。そのときにトップダウン型の企業のように維持コストが高いものではなく、プロジェクトベースで動く組織のあり方はヒントになるだろうと思いました。

1970年代〜80年代の建築家、都市計画家の実践とグラデュアリズム

谷繁──中島先生は近代から現代までの都市のあり方を「つくる都市、できる都市、いとなむ都市」と分析されていますよね。1960年代、都市計画法の改正や容積率制度の導入を転換点とし、都市は「つくる」ものから、開発需要の受け皿を用意することで民間の経済活動によって勝手に「できる」ものとなった。しかし「できる都市」を継続できる場所はきわめて限定的で、人口減少や都市の縮退が進む現代は、各土地固有の物語である「生活文化」を対象とした「いとなむ都市」の時代であると書かれています(『都市計画の思想と場所──日本近現代都市計画史ノート』、東京大学出版会、2018)。70年代、80年代に石山修武さんのような建築家が展開した独自の住宅生産は、資本主義的な「できる都市」へのカウンターだったと言えますよね。

中島──そうですね、建築家が住宅づくりから撤退したわけではなかった。一方で「HOPE計画」や、大野勝彦さんの「地域住宅工房」のように、大工の職能やコミュニティなど伝統的な組織をうまくエンハウンスメントするやり方で、地方都市でまちづくりや住宅産業を展開する動きもあったわけです。建築家が撤退した後も大工たちが伝統をうまく引き継いでいる地域がいまでもあります。これは理想的な状態だと思いますし、大髙正人さんが福島県三春町のまちづくりで目指していたかたちでしょう。彼らの実践は小さな運動のひとつなのですが、ローカルに閉じてしまっていた感があります。これらによって国全体の生産システムが変わったかというと、そこまでの展開はなかったのだろうと思いますね。

谷繁──なるほど、前時代の建築家や都市計画家の実践に対して、秋吉さんは再現性に着目されていますよね。デジタル技術は別の場所においても同様の実践をできる強みがありますし、バラバラに実践しつつもデジタルなネットワークで繋がることもできる。住宅市場の調査研究をされている島原万丈さんが『本当に住んで幸せな街――全国「官能都市」ランキング』(光文社新書、2016)のなかで、都市を「官能性」という軸で数値評価しています。これは新自由主義の価値観では定量化されない評価軸に残していく戦略と言えますよね。「官能性」のように、空間の資本化によって失われてしまう生活文化にどういうアプローチをするのかといった試みは、複数に存在しながら連帯していく動きとして展望があると思います。

ところで、今日の議論では二項対立として捉えられそうな話が出ました。例えば資本経済と地域経済、資本化された都市空間とそこからこぼれ落ちる都市の隙間。これらは大きな二項対立として加速させるのではなく、両者の間を往来するように実践していくことが今日の命題ではないかと思います。

秋吉──その話には共感します。平川克美氏の『21世紀の楕円幻想論──その日暮らしの哲学』(ミシマ社、2018)では、二項対立的思考を「真円的」と言い、2つの焦点のバランスによって全体像を捉えなおす「楕円的思考」を説いています。二者択一の隔たれた世界ではなく、その間でどのように節度良く振舞うかという姿勢は、全体包括を目指す現代的な世界像なのだと思います。中島先生のおっしゃる通り、地方に分散して「HOPE計画」や「地域住宅工房」などを実践した前時代の建築家は、小さな動きから始めやがて大きな動きに繋げようと試みたけれど、はたしてそれはローカルに閉じたまま途絶えてしまった。VUILDは地域社会で活動しつつ、そこに没入するわけではなくつねにグローバルなネットワークと接続しています。あるいはグローバルな都市で実践しつつもローカルな生産拠点と0.1%でも繋がっている。このような姿勢でさまざまなプロジェクトを仕掛けています。地方か都市かという二者択一ではなく、地方と都市で同時共存することは、やはりデジタルテクノロジーがあってこそ成せることなんです。

また、大手企業に寄生するように協働を進めているプロジェクトもあります。VUILDで制作したクラウドシステムをAPI(アプリケーション・プログラミング・インターフェイス)で大手企業と連携するような、既存のサプライチェーンの一部の構造だけを分散型に置き換えて、そこに僕ら自身もコミットするような寄生型のビジネスですね。

中島──なるほど、面白い。すべてをつくり変えることは難しいので、ある部分だけを分散化する。まさにグラデュアリズム的な手法ですね。これは流通のシステムや都市空間においても応用できるはずです。革新的にすべてを変えることはできないですからね。

秋吉──そうなんです。革命は血が流れるが、誰もが味方になる漸進的な社会変革の方法があってもいいのではないか。強い原作者性を発揮してスクラッチでシステム構築するのではなく、アバンギャルドに既存のシステムをハックするイメージですね。建築家だろうがメーカーや工務店だろうが、アップデートすることのない建築産業のOSに従属しているという意味ではみんな一緒です。量と規格化が求められた工業化時代は終わり、これからの成長しない時代における、質と個別化に対応するためのOSのアップデートが求められます。

中島──前時代の建築家は既存の強いシステムに対し、まったくのオルタナティブなシステムをつくろうとしたんですよね。グラデュアリズム的な実践は、オルタナティブを新たにつくるのではなく既存の一部を変える。これは前時代とはまったく違う動きだと言えますね。とくにモクチン企画の活動を見ていて強く思うことですが、高度経済成長期に大量生産されたものを逆手に取っている戦術が特徴的ですね。目の前に大量生産されたものがあり、そこに切り込めると一気に展望が広がるのだろうかと思います。

谷繁──やはり石山さんをはじめとした建築家は、近代や高度経済成長期の産業の批判者だと思います。しかし、かつて大量生産されたものはもはや敵ではなく、目の前に転がっている廃棄対象や遺物でしかなくなった時代に、われわれはそれらを遊ぶ対象として見ることができる。工業化住宅から「ハウスメーカーがつくったともの」という記号が剥奪されて、たんなる「モノ」になり、そこにわれわれがもう一度介入できる。近代の飼いならしと言えるのではないでしょうか。20世紀の工業化は1を100にすることでした。工業化住宅は画一的だと思われていますが、実際にはひとつの型式(システム)でも実際に建てられる住宅は自由設計で千差万別です。21世紀のポスト工業化時代においては前世紀に建てられた多様な100が存在します。それらに断熱性能などの環境性能を上げるためにはどうすれば良いかを考える必要があります。そのひとつずつに対応した改修方法を提案するとすれば、かつては多くのコストがかかると考えられたけれど、今は容易に対応することが可能なのかもしれないですね。今まではある組織がつくったものはその組織しか修理や改修することができなかった。しかしそこに別の組織がグラデュアルに介入できる可能性をモクチン企画やVUILDから感じます。

中村──建築がどのように組み立てられているのか、どのように再構成しうるのかという知識やノウハウに立脚して、制作やメンテナンスの可能性を広げてゆく方法には基本的に賛成です。「知財の戦術」とでも言いますか、ハウスメーカーからオープンソース・ハードウェアまでのグラデーションの間に、多様な実践がありうるんだろうと思いますね。

中島──いまの知財の戦術に近い話で言えば、2022年度に高校で地理が必修科目になるのですが、すでに2013年度から地理では「生活圏の地理的な課題解決」、つまり都市計画的な話題を教えることになっています。つまり、高校に進学する者の全員が都市計画に触れるということで、そこで何を教えるのかが議論となっています。こうした教育での展開はひとつの大きな動きだと言えるでしょう。ここでも大事なのは、教育内容を標準化し、おしなべた都市計画の教育をするよりも、各地域での課題解決の小さな運動についても光を当てることです。小さな運動と大きな都市計画の多様性を教えるべきだろうとは思います。

中村──それは面白いですね。先程CUPの実践にも触れましたが、都市についての"教育"は探求しがいのあるテーマだと思います。

小文字の「政治的なもの(the political)」

中村──モクチン企画での活動を通じて見えてきたことですが、賃貸物件の入退去に伴う工事内容の意思決定プロセスは、いわゆる「設計」とは根本的に異なるんです。工事内容は現場の状況からほとんど自動的に決定されますし、数百万円かかるような改修工事でも、図面を引くようなことはほとんどありません。つまり建築家が図面や模型を用いて行うような視覚的な検討プロセスがほとんどない。にもかかわらず長きにわたって大量の賃貸アパートの再生産が行われてきた。そこには設計上の選択肢が見積書に直結する意思決定プロセスと、それを支える工務店・職人・問屋・建設資材などからなる、独自の生産システムが存在しています。 僕はモクチン企画のプログラマとして、ウェブサービスを書くことを通じてこうした存在と対峙しているわけですが、サービスを運用するという経験は、賃貸物件を支える世界との終わりのない対話のようなものです。こうした状況をわざわざつくり出すことに意味があるとすれば、賃貸物件の空間についての知見を"学習する共同体"として、不動産管理会社や工務店、物件オーナー、そしてモクチン企画の"連帯"を下支えしている、ということにあるんじゃないかと考えています。つまりウェブサービスが、ある種のコミュニティ・アーカイブの役割を果たしているのではないか、ということです。しかし建築や都市の生産システムに対するこうした感覚を一般化することは意外に難しく、そこが研究者としての個人的な課題のひとつです。

本特集ではそうした問題意識に示唆をあたえてくれる事例として、建築理論研究者のアルベナ・ヤネヴァによる『Five Ways to Make Architecture Political: An Introduction to the Politics of Design Practice(建築を政治化する5つの方法 デザイン実践の政治学入門)』(2017)の序章を掲載しています。ここでヤネヴァは、本書を通して政治学者に建築や都市を通して行われる(投票や政党といった制度政治のシステムとは異なった)政治の存在を指し示すこと、また設計者に建築の政治性を認識するためのヒントを与えるんだと書いています。師であるブリュノ・ラトゥールが提唱するANT(アクター・ネットワーク・セオリー)を素直に継承したヤネヴァの立論はやや掴みどころに欠ける部分もあるのですが、いま必要な要点だけ言えば、小文字のtとpで表される「政治的なもの(the political)」という言葉が重要です。これに対置されているのは、例えば「支配」や「権力闘争」「選挙」といった、すでに確立された政治の「大きな概念」です。ヤネヴァは政治の大きな概念を使って建築や都市を説明することは、その実態を矮小化することにつながると断じます。かわりに採用されるのが、建築や都市をつくり出す過程で関係をもつ無数のモノ──図面、計画、法規、規則、インフラ──が、人や他のモノの働きに変更を促す働きの束を丹念にすくい上げ、組み替えていくというアプローチです。

ヤネヴァの主張は、一つひとつの小さな政治的作用=「政治的なもの」をたどることによって初めて、建築を通じて編み上げられる政治性を取り扱うことができるというものです。こうしたアプローチは、例えば建築事務所における所員やインターンの役割ワークショップでのイメージパースや模型の振る舞い、はたまた建築史における黒人や女性の身体の取り扱いまで、建築という営みが「建築家」という大きな概念の影に隠蔽してきた存在を、幅広く議論の俎上に乗せる方法になりうるのではと思っています。なにより、賃貸物件の生産システムのような異なる世界との共通言語になる。それは建築を「建築家」の名のもとに純化してゆくのではなく、より多くの物事へと関係させてゆくための方法になりうるのではないかと思うんです。

中島──難しい問題ですね。大きな建築史のなかで捨象された存在については、社会史や文化史の領域における、小さな単位を対象とした記述「マイクロヒストリー」に近いと思います。16世紀のイタリアで異端の嫌疑をかけられた粉ひき屋の異端審問の記録を詳細に分析したカルロ・ギンズブルクの『チーズとうじ虫』(1976)あたりを嚆矢とした、あえて対象を小さな範囲に絞り、徹底的に歴史を記述する方法論です。ただし、「マイクロヒストリー」の微視的な視点は、そこでの問い自体の微小性を意味していません。重要なのは、「マイクロヒストリー」は、大きな歴史の問い、マクロな歴史学の問いに答えるための方法論であるという点です。微視的であることはひとつの選択された戦術であって、マクロな問いへの接続こそが肝なのです。その背景としては、ミクロな歴史とマクロな歴史の間におけるフラクタル的自己相似性の仮定がありますが、今日、話題となっている大きな政治性と小さな政治性との関係にも通じるのではないでしょうか。

中間的な役割を実装して、消費の海を泳ぐようにデザインする

秋吉──ヤネヴァの話についておっしゃることはわかるのですが、僕としては大きな政治性で語られている事象を反省的に小さな政治性から考えていくだけではなく、小さな政治性がどうすれば大きな政治性に繋がるのかを考えたい。VUILDでは小さな実践から始めて、いかに大きな世界に接続するのかをずっと思考しています。そのなかでキーとなる概念が「ミドルウェア」です。現在さまざまなCADソフトが存在するように、細分化されたソフトウェアがそれぞれの製作企業の既得権益に閉じた状態です。そのためソフトウェア同士を繋ぐための共通のデータフォーマットとなるような第3のソフトウェア(=ミドルウェア)を開発しているところです。A社、B社のCADでそれぞれつくったデータが、ミドルウェアを通して共通のデータフォーマットに集約され、分散化された地域の生産拠点に繋がるというシステムを構想しています。先ほどの話で言うと、OSかアプリケーションかという二項対立ではなく、その間を再設計することで、両端を改変する方法論です。ミドルウェア、あるいは中間プラットフォームの介入には、島社会的に閉鎖されていた世界をグラデュアルに変えていく可能性があるのです。マスを担う企業にミドルウェアのシステムを導入して、サプライチェーンに寄生しつつ、大きな企業を小さな地域社会に寄せていくことも可能ではないかと思います。

中島──なるほど、そうしたミドルウェアの存在は従来の企業がもつ職能を大きく変えていきそうですね。

秋吉──まさに多くの人がその危機感を抱いているのですが、そんなショート・タームで現在の職能が消えることはないと思います。今後しばらくは現状の産業構造は変わらないでしょう。そのなかでアートのように完全なオルタナティブを展開するだけでは、社会との接続が断絶されてしまう。やはり消費の海を泳ぐように既得権益に溢れた現在の産業レガシーにダイブして、ポジティブにデザインしていこうと考えるほうがおもしろいと思いますね。

最後に、冒頭に「10+1 website」4月号の鼎談「平成=ポスト冷戦の建築・都市論とその枠組みのゆらぎ」のお話が出ましたが、これについて少しだけ触れさせてください。鼎談のなかで述べられている反ヴィジョン的実践を「リーン型」と呼ぶとすれば、それ以前の強いヴィジョン的実践は「ムーンショット型」と呼ぶことができます。近年のスタートアップ業界を見渡すと、海上都市を構想する計画に資金が集まったり、むしろメタボリスト的な壮大なヴィジョンを打ち上げた方がドラスティックな成長が見込めるという見方も現れつつある。一方で、今回のテーマである漸進主義とは、壮大なヴィジョンがありつつも、実践はしたたかに小規模から始め、ミドルウェア的手法でスケールしていく立場なのではないかと思います。反ヴィジョン的実践はイシュードリブンに現状の世界の対処療法的改変しかできない気がしているので、やはりヴィジョンが必要なんだろうと思います。とはいえラディカルに、劇的に世界を変えるのではなく、漸進的実践の積み重ねでヴィジョン達成に近づいていく。そうした捉え方です。

中村──ありがとうございました。今日は思想的な解釈から方法論的な解釈まで、グラデュアリズムについての多様な意見が得られたと思います。トピックは多岐にわたりましたが、トップダウン的でもボトムアップ的でもなく、それらを媒介する中間的な振る舞いを、という共通認識は一貫していたのではないでしょうか。そうした実践によってこそ、近代の遺産としての建築・都市と対峙していく可能性が開けるはずだと。 さらに言えば、こうした中間的な役割を果たす層の厚みと連帯が、これからの建築や都市にはますます必要であるという話でもあったのかなと思います。その裾野は建築家や都市計画家だけでなく、リサーチャーから不動産屋まで、コミュニティ・アーカイブから芋煮会まで、多種多様な主体と実践に開かれているはずです。"グラデュアリズム"が目指す世界のあり方の一端が、たしかに垣間見えたのではないでしょうか。

[2019年11月26日、東京大学工学部都市工学科にて]


中島直人(なかじま・なおと)
1976年東京都生まれ。東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻准教授。博士(工学)。専門は都市計画。主な共著書に『都市美運動──シヴィックアートの都市計画史』(東京大学出版会、2009)、『都市計画家石川栄耀──都市探求の軌跡』(鹿島出版会、2009)、『建築家大髙正人の仕事』(エクスナレッジ、2014)、『都市計画の思想と場所──日本近現代都市計画史ノート』(東京大学出版会、2018)ほか。

秋吉浩気(あきよし・こうき)
1988年大阪府生まれ。VUILD株式会社CEO。アーキテクト、メタアーキテクト。主な作品に《まれびとの家》(2019)など。主な寄稿に、「自立分散型の生産システムをつくる」(新建築、2018年10月号)、「『やわらかいもの』──Architects as a Service:デジタル技術が可能にするやわらかい建築家像」(建築討論、2019年7月号)など。

中村健太郎(なかむら・けんたろう)
1993年大阪府生まれ。2016年慶應義塾大学SFC卒業。NPO法人モクチン企画所属。プログラマー。東京大学学術支援専門職員。専門はコンピュテーショナル・デザインの理論と実践。主な寄稿に、「Eyal Weizman "Forensic Architecture VIOLENCE AT THE THRESHOLD OF DETECTABILITY" 建築が証言するとき──実践する人権をめざして」(建築討論、2018年11月号)、「『アクター・ネットワーク』──『科学』としての建築学は可能か」(建築討論、2019年7月号)など。https://note.com/kentaro5a18

谷繁玲央(たにしげ・れお)
プロフィールは別頁に記載。


  1. 政治的、産業的な意思決定の中心から疎外された建築家/「技術の民主化」は第2フェーズへ/デジタル技術は中央集権的体制をつくる?
  2. 自治感覚を取り戻す/1970年代〜80年代の建築家、都市計画家の実践とグラデュアリズム/小文字の「政治的なもの(the political)」/中間的な役割を実装して、消費の海を泳ぐようにデザインする

202001

特集 建築の漸進的展開


グラデュアリズム──ネットワークに介入し改変するための方策
アーバニズム、建築、デジタルデザインの実践とグラデュアリズム
『建築を政治的なものに変える5つの方法──設計実践の政治序説』イントロダクションより
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