シン・ケンチク
3 手続的幾何学性、または配置計画
こうした微妙な調整作業を拾っていくと、キリがない。まだ、建具や家具について、触れられていない。あるいは、おそらくここでも重要なことだったに違いない「小さな風景」についても、触れられていない。では、書き尽くせないにもかかわらず、延々となぜこんなことばかり書き連ねてきたのか、と言えば、こういう果てしない作業こそが、まさにここでの「建築」だからだ。
海岸から坂を登り、唐丹の集落を歩いてこの学校に辿りつくその印象に、まるで違和感が感じられない。さらに校庭を突っ切り、跳躍する階段を上って、校舎を迂回し、野草の生えた坂道を辿って岡の上に出る。見返すと校舎の上階だけが頭を出しているから、面する建物は横に伸びた平屋に見える。そのずっと向こうに湾が見渡せる。学校を通り過ぎても、ずっと違和感がない。
集落の家々とは学校ではスケールが違う。新築である。使われている素材も違う。色を、集落から採取した、と聞いた。それは関係ない、とは言わない。にしても、ここには、なぜここまでの集落からの連続感があるのか。
- fig.10──東側からの遠景[撮影=山岸剛]
こうした感覚が生まれる理由は、まずはこの建築が「造形的」につくられていないことにある。
モニュメントとしても、シンボルとしても、つくられていない。特徴的な形態も、新しい空間の発明も、構造的アクロバットもない。これ見よがしのところがまったくない。ありきたりの手だけでつくられている。
全体を覆うグリッド体系だけがある。その意味で、この建築は純粋だ。しかしまた、その純粋性を表現しようとする兆しもない。グリッドだけがある。その抽象性を表すデザインというものがありえるのに、それも目指されていない。
目にされるのは凡庸な形と、標準的な素材ばかり。ふつうそう捉えられているところの「建築的」デザインの手すべてが、封印されている。
しかし、これは投げやりにつくられた建築でもなければ、普通であることを目指した建築でもない。それとはまったく逆の、徹底的にスタディされた建築である。
この建築は、きわめて強力な幾何学からできている。静的な幾何学ではない。設計が進むにつれ、全体が揺れ動き、複雑化しつつまた単純化しつつ進行する、終わることのない手続的な幾何学だ。この建築は、それだけでできている。
その強度がもっとも表われるのが配置計画だ。それは、動きながらも、揺るがしがたい精度にまで達する。そして、それを鍛えあげる論理が、建築内部まで侵入し、細部に至るまで、つまり全体を一気通貫に串ざす。
いや、そういう順番ではないだろう。すべてのことが同時に、同じ論理構造──配置計画に代表される──で整えられたことが想像される。
「配置計画」だけでできている、というこの建築の発明。