第9回:20世紀様式としてのフレーム構造

加藤耕一(西洋建築史、東京大学大学院教授)

構築から見た建築の過去・現在・未来

西洋建築史のなかに現代建築を位置づけようと思うと、現代のフレーム構造の特異性が際立ってくる。ここでいうフレーム構造とは、日本で建築を学んだ人ならば誰しもが基本構造として学習するラーメン構造(rigid frame)ばかりでなく、木造の柱─梁の構造や、西洋ではより一般的な柱─スラブ構造も含む、広義のフレーム構造である。西洋の伝統的な組積造が本質的には壁構造であったことに対して、20世紀のフレーム構造は、柱構造へと転換したのだった。

一方で、日本の建築史に目を向けると、伝統的に木造軸組による柱構造が基本であった。明治期にはごく一時的に西洋の壁構造を受容したものの、その後、早い段階で再び柱構造へと回帰する。それは、世界的にフレーム構造が建築の主流となっていく、大きな潮流の一環であったといえるだろう。日本では煉瓦の組積造の時代ですら、木骨煉瓦造や鉄骨煉瓦造も盛んだったから、そこには前近代の木造軸組工法以来のフレーム構造の伝統が、骨の髄まで染み込んでいたということなのかもしれない。

したがって日本で建築を学んだ私たちにとって、フレーム構造の特異性などといっても、あまりピンとこないかもしれない。だが西洋の建築の歴史に現代建築を接続させたとき、シカゴ派による鉄骨フレーム構造、そしてフランソワ・エヌビック以降のRCフレーム構造の普及は、壁構造から柱構造へという、建築を根底から革新するような変化をもたらしたのだった。グリッド状に並ぶ柱を基本構造とする建築の出現は、まさに「20世紀様式」と呼ぶに相応しい、歴史上の革新だったわけである。

私たちは20世紀の建築を論じるとき、20年刻みの時代区分、あるいは同時期のドイツ、ロシア、フランス、イタリア、オランダなどの地域、スクール、派閥の区分、あるいはたったひとつの展覧会に集められたグルーピングに過ぎないものなどを「様式」と見做しがちだ。だが、より長期のスパンで歴史を捉え、20世紀の100年間を1,000年、2,000年の歴史のなかに位置づけたときに、初めて見えてくる建築様式があるはずだ。本稿はそれを、フレーム構造という「20世紀様式」として捉え直してみようという試みである。

「素材と建築が紡ぐ建築史」を論じてきた本連載の第9回となる今回は、主に構築の側から見た建築の過去、現在、未来について考えてみたい。

組積造における開口部の問題

石材や煉瓦を積み上げてつくられる建築は、壁構造となるのが自然である。それは木材を使った建築が柱構造となることの、自然な裏返しといえる。むろん、木材をあえて寝かせて積み上げることで壁構造をつくりだすログハウスや校倉造りもあるし、古代ギリシアの建築のように、組積造であえて柱構造的なデザインを実現したものもある。だが重量があり、もともとの形状が木材のように長細いわけでもない石材や煉瓦は、大地と「点」で接続される柱構造よりも、せめて「線」で接続される壁構造のほうが、まだしも安定するのは当然のことであろう。

組積造は、大地に置かれた材の上に次の材を積むことで成立する、きわめて単純な構造である。基本的には、石材の下にはしっかりとした石材がなければならない。したがって、床、天井、屋根のような水平方向にスパンを飛ばす部位は、木造でつくられることが多くなる。パリのノートル=ダム大聖堂の火災のニュースでは、石造建築なのに屋根が木造だったことに驚く声が多く聞かれたが、石造の組積造建築だからこそ、屋根が木造なのは当然のことだったわけである。

そういうわけなので、廃墟化した石造建築を訪れると、木造の床や屋根は失われ、壁だけが残っているという姿をしばしば見ることになる。よく見れば、かつて床を支えていた木造の梁の痕跡などを見出すこともできるだろう。

fig.1──廃墟となった組積造の住宅。壁だけが残り、床や屋根を支えていた木材の痕跡が確認できる(トルコ、筆者撮影)

さて、では組積造において、自然に逆らう構造的な難しさはどこに生じるだろうか?

それは開口部である。窓や扉は、安定的に石材が積み上げられた壁に穿たれた孔である。この点が、日本の伝統木造と大きく異なる点だ。木造のフレーム構造の場合には、すべてが「開口部」となるため、むしろ建具で開口を塞ぐことで建築が成立するわけである。これに対して、組積造の開口部の場合、本来スパンを飛ばしたくない石材を用いて、開口部の上端を支えなければならない。まずはここに、組積造建築の最初の難所が待ち構えている。

fig.2──日本の伝統木造におけるフレーム構造の開口部(京都、筆者撮影)

開口部の上部にわたされる水平部材は、楣(まぐさ)と呼ばれる。英語ではリンテル(lintel)だが、語源はあまり定かではない。遡ればフランス語の"linteau"(古フランス語:lintel)、ラテン語の"līmitāle"などに行き着き、それは英語の"limit"と関係する語のようである。すなわち「境界」「端」を意味する言葉だったようだ。

だが楣(リンテル)は、単に開口部を縁取る飾りというわけではない。組積造における、もっとも重要な構造要素のひとつである。石材を用いて楣とする場合には、一塊の長い石材を切り出して用いる必要があるが、あまりに長大な石材を使えば、大きなスパンを飛した際に、楣そのものの自重によって損壊する危険が高まる。そのため、いわゆるモニュメント以外の建築では、木材を使って楣とする事例もしばしば見られるし、近代になると、組積造の住宅において鉄骨の楣の用例が増加することにもなるわけである。

fig.3──頑丈な木材による楣(リンテル)を使った開口部(フランス、筆者撮影)

したがって、石材の楣(リンテル)を用いて組積造の壁に開口部を設ける場合、どうしても横幅のある窓をつくることが難しくなる。開口部の上部に、さらに石材を積み重ねて壁を立ち上げていく場合には、楣にかかる荷重がさらに大きくなるので、なおさらである。ヨーロッパの伝統的な街並みにおいて、縦長の窓ばかりが並ぶことの主要な理由は、こうした構築的な理由にあるといえるだろう。ちなみに、20世紀になってル・コルビュジエが「新しい建築の5つの要点(les 5 points d'une architecture nouvelle)」のひとつとして「水平連続窓」を挙げたことは、楣構造とは異なるフレーム構造の新しい構築的な可能性を、デザインの問題として明示したものだったと理解できる。この点については後述したい。

fig.4──ヨーロッパの伝統的な街並みで見られる、縦長の窓が並ぶファサード(フランス、筆者撮影)

楣構造からの発展

このように楣(リンテル)は、壁に穿たれた開口部を支える部材として、組積造建築の歴史を通じて長く使われ続けた。一方で、上述したスパンの問題、すなわち幅の狭い開口部とならざるをえないという、楣の根本問題を解決したもののひとつが、アーチだったと言えるだろう。古代ローマ以降、西洋の建築でアーチが使われるようになると、宗教建築や宮殿建築のようなモニュメントでは、開口部にアーチが多用されるようになったことはよく知られている。アーチ構造は、少なくとも楣構造よりは、横幅の大きい開口部を支えることが可能だった。都市の世俗建築においても、主要な扉口や、ファサードを象徴的に飾る巨大な窓などには、しばしばアーチが用いられた。

中世には、制約の多い楣(リンテル)を用いながら、できる限り大きな窓を開けるため、アーチとは別のタイプの窓も発明された。十字窓(fenêtre à croisée)などと呼ばれるこのタイプの窓は、中近世の邸宅建築などを飾る華やかな開口部だが、構築術的に考えれば、楣式の開口部4つを集めて並べたものと見ることができる。このように、組積造の壁体に開口部を設けることは、西洋の石造建築においてもっとも構築的な工夫が必要な箇所であると同時に、その工夫は意匠的な美しさも生み出してきたわけである。

fig.5──中世後期から近世の邸宅建築などで見られる十字窓(フランス、筆者撮影)

こうした組積造の開口部を成立させる楣構造は、古代には、建築の主要構造としても用いられた。古代エジプトの神殿建築で見られる「多柱室」と呼ばれる独特の空間は、神殿の内部空間を垂直材、水平材のすべてを石材で構成させるために、巨石を用いた柱と楣(post and lintel)の構造を用いている[figs.6, 7]。これほど巨大な石材を用いてもなお(あるいは巨大で重量があるからこそ)、そのスパンは控えめである。結果として、神殿の内部空間は、柱だらけの多柱室となったのだった。


figs.6, 7──ギザのピラミッド複合体、神殿の平面図とT字型多柱室
(引用出典=S・ロイド+H・W・ミュラー『図説世界建築史2 エジプト・メソポタミア建築』堀内清治訳、本の友社、1997)

ほかにもたとえば、おそらくエジプトの神殿と同程度に古いと考えられるイングランドのストーンヘンジでも、巨石を用いた柱─楣構造が見られる(fig.8)。紀元前3000〜2000年といったきわめて古い時代の巨石文化のなかでは、石材を用いた柱─楣(post and lintel)構造が、建築の主要構造としてさまざまに挑戦されてきたわけである。

fig.8──ストーンヘンジ(筆者撮影、イギリス)

4,000〜5,000年という圧倒的な長期の時間の流れのなかで、朽ちることなく存続してきたこれらの遺構は、エジプトやイングランドの建設者たちによる、永遠ともいうべき長期持続に対する挑戦が実証された実例ともいえるだろう。木造の架構ではけっして不可能な建築の永遠性に対する挑戦が、巨石の柱─楣構造では可能だったわけである。しかしその一方で、この構造がもたらす空間的な制約が大きすぎたことも、また事実であった。近現代の建築のディスクールにおいては、エジプトの神殿の多柱室からは、メソポタミアの〈百柱の間〉などとともに、コンセプチュアルな魅力が見出されがちであった。しかしながら、構築術の観点から考える限り、この空間は理念的・概念的な狙いによって生み出されたものというよりは、柱─楣構造の構築的な制約によって、結果的に誕生したものと見るべきであろう。

古代ギリシアの神殿建築も、こうした巨石文化の柱─楣構造の構築的な潮流のなかに位置づけることができる。だがエジプトやストーンヘンジの柱─楣構造が、2つの巨石の上に1つの巨石を載せるというきわめて単純な門型の構成によって成り立っていたのに対し、ギリシアの神殿建築では、より技巧を凝らした楣構造が使われた。円柱(後にオーダーと呼ばれるようになる)も、モノリスの一塊の石材ではなく、ドラム状の石材を積み上げたものが使われた(これは古代エジプトの建築でもしばしば見られる)。円柱の上に載る「アーキトレーブ」は、まさに隣り合う円柱同士の上に載せられた楣(リンテル)なのだが、整形された要素として水平方向に連続的に続くことと、さらにアーキトレーブの上はトライグリフやメトープなど、少し小さい石材から成る要素が交互に並べられた「フリーズ」となること、さらにその上部では「コーニス」が水平方向に連続することなどにより、結果として、一つひとつの門型の楣構造はほとんど目立たなくなっているといえるだろう。むしろ列柱とその上部で連続する水平要素が、ギリシア神殿のデザイン全体を統一的に見せることになるわけだ。

fig.9──ギリシア神殿における楣構造を構成するアーキトレーブとその上部のフリーズ、コーニス
(引用出典=Robert Mark ed., Architectural Technology up to the Scientific Revolution, MIT Press, 1993)

ギリシア建築で見られる、以上のような円柱(オーダー)と架構構造は、木造建築との関係で説明されることも多い。円柱のデザインにおける柱頭の植物の葉飾りの要素や、円柱の側面に施された縦溝(フルーティング)が、丸太との関係を示すように思われるからだろう。だが、巨石を用いた柱─楣(post and lintel)構造は、ギリシアのなかだけで発展してきたわけではなく、古代ギリシア建築に強い影響を及ぼした古代エジプトの建築において、すでに発展していたことを考えれば、ギリシア神殿の発展段階の内側に、木造架構から石造の架構構造への発展を見出すことには、少し無理があるだろう。たしかに、オーダーと呼ばれるギリシアの円柱デザインの淵源には丸太や木材があったかもしれない。だが、その構築術そのものは、おそらく古代の巨石文化のなかで育まれてきたものであっただろう。

一方、ギリシアの神殿における楣構造は、エジプトの神殿における楣構造と、本質的に異なる点を有していた。それは、エジプトにおける楣構造が、多柱室という石材で構成された内部空間を志向したのに対し、ギリシアのそれは内部空間を実現するための楣構造ではなかったという点である。ギリシア神殿の内部空間は、壁に囲われることによって成立している。列柱とアーキトレーブは、あくまで建築のファサードだけにかかわる要素といえる。たしかに屋根を支える主構造もこれらの列柱であるから、この円柱と楣から成る架構が建築の主構造であるのはたしかなのだが、それは、あくまで内部空間とは無関係に存在しているのである。

結局のところ、西洋の組積造建築において、柱─楣構造は、建築の内部空間を発展させることはなかった。西洋建築の空間を発展させたのはあくまで壁構造であり、その壁によって支えられたのは木造天井、あるいは石造のヴォールトやドームであったといえるだろう。

そのなかで少し例外的な存在が中世のゴシック建築であり、そこではヴォールトを支えるリブと、そのリブを下から支える細いシャフト群から成立する骨組み的内部空間が構築された。ゴシック建築における組積造による骨組み的な構造体が、鉄の引張り材を使用するという技術革新によって実現したことは、前稿「第8回:西洋建築史に見る鉄のテクトニクス」で見た通りである。こうして実現された骨組み的組積造では、壁いっぱいの窓面が設けられ、そこに巨大なステンドグラスが嵌め込まれたのだった。

しかし、ゴシック建築は骨組み的ではあるものの、フレーム構造そのものではない。ゴシック建築の骨組み的性質については、拙著『ゴシック様式成立史論』をご覧いただければ幸いである★1

以下では一気に時間を下り、近代におけるフレーム構造の誕生を見ていこう。

フレーム構造の誕生

1880年代〜90年代にかけて発展したシカゴ派の高層ビル群が、鉄骨フレーム構造を大きく発展させ、高層のオフィスビルという20世紀的な建築の新たなビルディングタイプを創出したことはよく知られている。本稿が「20世紀様式としてのフレーム構造」を想定したとき、その「様式」誕生の契機は19世紀末のシカゴにあったといえるだろう。

本稿の試みは、シカゴ派の革新を「鉄」という産業革命以降のマテリアルの面で強調するのではなく、組積造の壁構造から鉄骨のフレーム構造への転換にこそ、その重要性を再認識しようとするものである。その意味で本稿は、連載第7回の表層の問題(「仕上げのテクトニクス、表層のマテリアリティ」)、第8回の鉄の問題(「西洋建築史に見る鉄のテクトニクス」)において議論してきたことの続編に位置づくものである。第7回でも引用したD・レザボローとM・ムスタファヴィは、20世紀の建築における表層の問題を論じるにあたって、「建物のエレメントを構造部材と非構造部材、すなわちフレームと被覆とに区別」する見方が「19世紀末から20世紀初頭の、世紀の変わり目のシカゴで鮮烈に登場した」と指摘した。

レザボローとムスタファヴィが着目した「フレームと被覆の区別」は本稿においては「構造とデザインの区別」と換言することも可能だろう。ここまで見てきたように、建築のファサードのデザイン、すなわち壁と開口部のデザインは、前近代の組積造建築においては、意匠の問題であると同時に構造の問題であった。本連載が「構築術」に着目するのは、この概念が、「フレームと被覆」あるいは「構造とデザイン」を区別することなく、建築のデザインを考えるものになりうると思うからだ。

19世紀末のシカゴで革新的に登場した鉄骨フレーム構造は、単に高層ビルを実現した技術革新であった以上に、構築的な面で、建築のあり方を根底から変えるものであった。シカゴにおける最初の鉄骨フレーム構造の高層ビルは、ウィリアム・ル・バロン・ジェニーによる《第1ライター・ビル》(1879)で実現した。この建物を皮切りに、シカゴでは少しずつ、この新しい構造形式の高層ビルが建設されていく。この真新しい建設技術は、専門家のみならず一般の人々にも驚きを与えたようである。たとえばホラバート&ローシュ事務所が本格的な鉄骨フレーム構造で取り組んだ《タコマ・ビルディング》(1889)が建設されたときの、シカゴの人々の驚きは以下のようなものであった。

この建物の前面は鉄と鋼による純然たるスケルトンであり、組積造の兆候も見せず、日ごとに高くなっていった。これだけでも注目に値することであったが、ある日突然、レンガ、モルタル、工具が起重機で運び上げられた。人々が驚きを持って見守るなかで、レンガが2階、8階、10階で同時に積まれ始めた。2ヶ月以上にもわたってシカゴ警察は、ラサール・ストリートとマディソン・ストリートの交叉点に10人もの警官を送り、交通整理をしたのである★2

fig.10──タコマ・ビルディング(現存せず)
(引用出典=『プロセスアーキテクチュア』35号、プロセスアーキテクチュア、1983)

組積造の伝統のなかで暮らしてきた西洋の人々にとって(新大陸アメリカの人々にとってすらも)、石材や煉瓦が地面から積み上がっていくのではなく、鉄骨のフレームばかりが組み立てられていく様は、前代未聞の建設現場だったわけである。そして、フレームのあいだを埋める非構造壁としては、煉瓦が用いられたわけだが、その煉瓦も地面から順に積み上げられていくのではなく、2階、8階、10階というそれぞれ異なる高さで同時に積まれたという点が、人々の驚きとして強調されている。大地と結びついていた組積造の「壁」が、フレーム構造の非構造壁となったことで、大地と切り離された。そしてこのとき、建築における「構造とデザイン」あるいは「フレームと被覆」もまた、分離することになったのだった。

アメリカ、シカゴから発展した鉄骨フレーム構造に加えて、19世紀フランスでは、鉄筋コンクリートのフレーム構造が登場する。フランソワ・エヌビックが開発した鉄筋コンクリートを用いた柱─梁構造のシステム(1892年、フランスで特許取得)は、周知のごとく、RCフレーム構造の大きな発展をもたらしたわけである。

fig.11──フランソワ・エヌビックによる鉄筋コンクリートの柱と梁のシステム
(引用出典=Hennebique System of Ferro-concrete Construction, Principles, Advantages, Application, Paris, 1902)


201908

特集 乾久美子『Inui Architects』刊行記念特集


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なぜそこにプーさんがいるのか──『Inui Architects──乾久美子建築設計事務所の仕事』書評
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