生環境の環を歩きながら
「地球の声」に耳を澄ます

塚本由晴(建築家、アトリエ・ワン主宰)+中谷礼仁(歴史工学家)

建築デザインをいかに生環境につなぐか

中谷──さっきの逆使いのお話は「やられた!」という方ですけど、「地球の声を代弁する」という話は共感するのですが、「あれ?」と思ったところがあったので、そこを受け止めてみたいです。それは「地球の声」はどう正当的に代弁できるのかという話です。だって地球活動は勝手なので、私たちに声なんてかけてくれませんから。でも一方で「地球の声」を代弁している現象が確実にあると感じます。そこを展開できたらと思います。今日、会場にいらしている能作文徳さんや佐藤研吾さんの世代は、さきの「空間派」の人たちが嫌で遁走しているわけですよね。

能作文徳氏
能作文徳──「生環境」はとても魅力的な概念だと感じました。私もマテリアルフローやアクターネットワークセオリーに関心があり、まさに鉄がどこからくるのかといったことを考えていました。例えば、シアノバクテリア(藍藻)が酸素を創出できるようになったことで酸化鉄ができ、それが沈殿したものが鉄鉱石として人間の世界に現れるといったことは、建築のマテリアルの捉え直す視点になるんじゃないかと思いました。例えば石山修武さんの『生きのびるための建築』(NTT出版、2010)で「鉄のアニミズム」という話が出てきます。川合健二さんは鉄の生産地を非常に気にしていたという話が出てきます。川合さんは鉄がオーストラリア産か中国産かといったことに関心をもつのと同時に、鉄は土に還っていくということから、鉄を生き物のように捉えていました。この感覚は非常に生態学的な物質の見方ではないかと思って読みました。
一方、今日の話では生環境といったときに対象となる範囲はもっと幅が広いようにも感じました。先ほど日埜さんから「量としての人間」がどのような問題に連続するかと投げかけがありましたが、地球上の人口が100億に達しようとした時に、マテリアルだけでなく、エネルギー、食が危機的な状況になり、その先に生態学的な新たなパラダイムが生じてくるのではないかと思います。産業構造も現代とは異なったものになるでしょう。しかし産業は消費を前提に築かれているので、エコだと言いつつも、歪みが出てきます。そうした状況を批判的に捉える必要があると思います。建築を設計する際においても、エコロジーを批判的に検討し、実践することが求められていると思います。前回の京橋ビエンナーレの2017年ごろに西大井に中古の住宅を買って、自分たちで改修しながら住み始めました。築30年ほどの鉄骨造の建物で、ALCパネルがむき出しになった、断熱も何もない状態です。ジャロージー窓にツインカーボで内窓をつくって断熱したり、廃材をもらってきて内装を仕上げたり......。先ほど中谷さんから「大ブリコラージュ」時代という概念が出たときに我が意を得たりと思ったのは、小さいところですがまさにブリコラージュを実践していたからでした。そういうわけで今、建築のデザインと生環境的な概念をどうにか結び付けるべく試行錯誤しています。

中谷──空間派から批判されるより若い世代の実践は、増改築とかスケールが小さくなるのは否めないとして、そこに構想力を投入することでしか勝ち目がないと思うんですよね。ちょうど石山修武さんの名前が出ましたので関連づけてお話しすると、私は20世紀につくられた世界に示すべき住宅建築のベストのひとつは《開拓者の家》(1986年)だと思っています[fig.13]

fig. 13──《開拓者の家》
撮影=中谷

あの作品は石山さんが手紙で設計指示書を送ってお施主さんが信州の山中で自力で建てたコルゲートハウスですよね。これは工業化社会の到来を絶対的に肯定しながらも、今後とも実現可能なオルタナティブな世界を築こうとしたところから始まっている。一切原理3から逃げていないのに、その使い方のブリコラージュの結果、原理4になっている。能作さんの実践にもそういうオルタナティブな世界観やネットワークがすでにあるのだとしたら、どんなに小さいものでもいいと思うんです。その背景にある構想が何かということが問われているんですよね。

地球の有限性と物質の再配置

中谷──今日はほかにも実践されている人がいるので、いろいろお話を聞きたいのですが、佐藤研吾さんコメントをいただけますか。佐藤研吾さんは東大から早稲田の石山修武さんの研究室に入った方で、今は福島県大玉村で地域おこし協力隊をやられています。

佐藤研吾氏
佐藤研吾──僕は近頃、「人間が中心にいないモノの世界」について考えています。建築設計をやりながら自分で木工作に取りくんでいるのですが、それは建築ほど大きくはなく、家具くらいのサイズのものです。複数の制作物がある場所に集まったとき、人間が考える機能や用途とは関係なしに、モノだけで成り立っている別の世界があるのではないかと考えつつ、その世界の仕組みの想像と、カタチを作るデザインとを繋ぐ回路を探そうとしています。最近は木製の写真機をいくつか作っていましたが、人間の道具であると同時に、モノ自体でもあるような、群体としてのある種の緊張関係をつくろうとしています。そんな、人間のことを半ば置き去りにしてしまうモノの世界を考えるというのは、もちろん究極的には人間のためのものづくりではなくなるので、建築設計という、人間を依頼主とした仕事と矛盾します。その矛盾をどのように調停していくかを考えていかなければならない。
それはともかく、以前、制作を通じて劇作家の岸井大輔さんと話す機会があったんですね。そこで岸井さんから指摘されたのは、「人間中心ではないモノの世界を考えるのであれば、それは20世紀の近代社会が築いた人権を否定する、アナーキーな政治性を伴う」ということでした。なるほど、たしかにそうだと思ったのですが、一方で、物神崇拝という意味でのフェティシズムのあり方を丁寧に組み立て、人間からモノの世界へ歩み寄ることで、人間世界からみるモノと、モノそれ自体の世界を併置できないかと考えています。それは近代的人権を漸次的に融解させていくことかとも。そのためには、空間への注力ではなく、人間がモノを作ること、建てることという生産の次元に軸足を置くべきだと最近は考えています。

中谷──では中村健太郎さん、何かコメントをいただけますか。

中村健太郎氏
中村健太郎──モクチン企画でプログラマーをやっている中村と申します。モクチン企画というのは、戦後大量に建てられた木造賃貸アパート(モクチン)を社会資源として捉え、これを再生するためにさまざまなプロジェクトを実践している建築系NPOです。僕がモクチン企画に参画しているのは、このNPOが空間派の建築家の多くが持ちあわせていない、しかし現代においてきわめて重要な態度で建築に取りくんでいると思っているからです。それは言うなれば「建築の生産システムを、存在論的に扱う」といったことではないかと考えています。産業化の進行に伴って複雑・高度化し、建築家の手を離れていったそれは、インターネットやスマホ等の普及によって、小さな設計事務所でも介入可能な"存在論的"対象になりつつあると実感しています。モクチン企画が行っていることのひとつは、「モクチンレシピ」という改修手法のデジタルアーカイブを公開・運用することを通して、これを実践することです。
ただし、この実践を僕は、「建築の情報技術による拡張」というような見方で捉えないようにしています。さきほど塚本さんから「空間と建築の両方を取り巻いているふるまいを扱う」というお話がありましたが、むしろそうした「ふるまい」への眼差しの別バージョンとして解釈したい。それを「建築を取り巻くものに、存在論的な地位を与える建築的知性」というふうに一般化するならば、モクチン企画にとっては、その対象が「賃貸アパートの生産システム」になるということです。その視座の重要性に比べれば、コンピュータもインターネットも単なる道具に過ぎません。きっとほかにも無数の建築的知性のフロンティアが建築を取り巻いているはずですし、より多くの建築家が、それらを取り扱う方法を創りだすべきだと思っています。
これを踏まえたうえで、先ほど話されていたインフラ(物流)の話を宇宙にまで広げてみたいと思います。今、近年凄まじい金額が投資されている宇宙ビジネスのインフラを担うべく、これまで使い捨てだったロケット本体の再利用によって打ち上げコストの廉価化を目指す企業がしのぎを削っています。ここで注目したいのはアマゾンの創業者として知られるジェフ・ベゾス氏です。じつは彼も再利用可能な宇宙ロケットによる物流サービスを実現しようと、「Blue Origin(ブルーオリジン)」という会社を起業しています。彼が2016年にアメリカで行われた「32th Space Symposium」で述べたビジョンは凄まじく、「数百万人という人が宇宙で暮らし、働けるようにしたい。宇宙までも見据えた文明(spacefaring civilization)にしたい」と述べ、さらに「将来的に地球を救うには宇宙を活用しなければならない。限られた地球資源のためにもほとんどの重工業は地球外に移行し、地球は居住用または軽工業用のための地域とすることを考えている」と続けました★2。アマゾンという史上最強の物流企業は、バックミンスター・フラーのように地球を大きな宇宙船とみなしつつ、さらに先を行っています。環境負荷の高い活動はむしろ外宇宙で行おうという文明レベルの提案、惑星規模の産業および資源の再配置を、ビジネスを通して実現しようとしているわけです。
僕は当時この話を知って以来、彼のビジョンと実践に深く感銘を受けています。ですが同時に、そのような近未来において建築家に何ができるのか、考え込まずにいられません。まさしく宇宙スケールの大きな話なわけですが、他方で興味深いのは、ベゾスの野望が「暮らしのエコロジー」の射線上に並んでいるようにも思えることです。それは単にエコロジカルな理由を掲げているということだけではありません。中谷さんの『未来のコミューン』(インスクリプト、2019)には、ミースのファンズワース邸に言及したテキストがありましたね。あの宙に浮く軽やかなデッキの下を覗き込むと、じつは黒く塗り込められたパイプが隠されており、そこには上下水道が詰め込まれている──モダニズムの傑作がその実、絶えず汚物を排出する管によって、地面と醜く接続されているわけです。建築家が空間を扱う"自由 "の背後には、理念的にも実際的にも、予め排除された煙突や上下水道がある。これは空間の純粋化を目指したモダニズムの、影とでも呼ぶべき本質でしょう。僕はこれを読んだ時、ファンズワース邸の床下に見出された近代建築の不気味な本質が、逆に主題化・全面化されたものとして、環境負荷の高い重工業を地球の外へと追いやろうというベゾスのプロジェクトを思い出したのです。
毎分毎秒新たにデザインされる人工物の総体として世界を見たとき、建築家が空間の実現それ自体を通して果たす役割はますます縮小しています。ベゾスの野望は、それを知らしめる最たる事例と言えるでしょう。そのようなときに、建築家が空間の話に集中するというのは、むしろ世界の残余に反転してしまった空間への"撤退"になりかねないのではないでしょうか。建築と、建築を取り巻くものは、変化しつづける世界の中で優劣なく存在しています。その認識に立った上で、「暮らしのエコロジー」のような建築的知性を、空間の達成と同時に発揮することが、建築を実践するうえでの前提になってゆくはずです。さらに言ってしまえば、人工物を創りだすという建築家の権能に付随する、ある種の政治的役割をどう全うするのかが──ベゾスの話を聞いた時、彼が言う数百万人が、どのような空間でどの様に生きるのか、我々にはすぐさま想像されるはずです──今後いよいよ重要になってくると思います。

塚本──ゴミを地球外に持ちだす議論には、そのアセスメント(事前影響評価)をどうするかという問題が付随するよね。20世紀を通じて技術的な水準は高まったけど、その分ゴミも増えた。反省することばかりじゃないですか。マイクロプラスチックの大陸が海に浮くような事態になると最初からわかっていれば、プラスチックを導入するか否か議論もできたはずでしょう。でもそれは実際にできなかったわけですよね。巨大な開発はアセスメントできるけれど、身の回りの小さいスケールに入り込む技術の多くは、その集積がどうなるかアセスメントされない。宇宙開発の話はアセスメントの問題と一緒に考えるとおもしろいのではないですか。

中谷──今の中村さんの報告を伺って、私の考えていることはむしろアマゾン・コムと正反対だと感じました。基本的に地球からゴミを出すことは、良いものと悪いものを仕分けしてそれをどちらかに持っていくということです。私の場合は、地球にあるものは基本的に変わらないので、そのなかでそれらをどう再配置して再利用するのか、有限の世界でどれくらい快適にできるかがテーマじゃないかと思いました。紹介していただいた『未来のコミューン』はそういう問題のなかからいろんな未来像や人間の生き方について注意深く書いたつもりです。

人間に現れる「地球の声」の形

中谷──ところで「地球の声」がどのように獲得可能かという問いかけへの答えは、僕は次のように考えました。それは私たちの身体を通して発現している、と。例えば、花粉症や食物アレルギーの症状というのはあきらかに「地球の声」だろうと思います。先ほど塚本さんの話にあったように、エンジニアに求められる政策提言のための基礎研究という最終目標をもつかぎり、個別性が抜けて具体的な問題の解決が疎かになるとたしかに言えるけれど、そこに人間が介する以上、本当はどうしたって具体的な問題になるわけです。花粉症だけでなく、最近では学生もまるで風邪をひくように陥りやすい心の病もそうでしょう。そう考えると「地球の声」はすでに私たちが発しているんですよ。『未来のコミューン』で指摘したように、病が人間を通して社会に問題提起していると捉えればこれは見逃すべきではない状態なのだと思います。

塚本──つまり悲鳴みたいなものですよね。デザインをものすごく広く捉えると、花粉症だってデザインされたものかもしれないんだけど、私たちの仕事にもう少し近づけると、どうやって共感を得るかという問題意識もあります。建築は共感されないと仕事にならないので。

生環境環の不可逆性

中村──「地球の声」としての病、また「共感」としての連帯を、どうすれば未来の建築・デザインの中に位置づけられるのか、ということですね。今の話を聞いて、『未来のコミューン』の最後のセクションが、「人間環境を包括的に捉えようとした」建築家としてクリストファー・アレグザンダー(Christopher Alexander、1936-)を位置づけることから始まっていたことを思い出しました(同書、p.226)。というのも、まさしく病や連帯を取り扱うデザインの方法として、近年活発に議論されている新たなデザイン学の潮流の出自に、アレグザンダーが深く関わっているからです。日本では「デザインリサーチ」という呼び方で広まりつつあるものです。
デザインリサーチの始まりは、1962年にインペリアル・カレッジ・ロンドンで開催された、デザインの方法論に関する国際会議(通称はConference on Design Methods)にまで遡ります。その目的は、戦後の圧倒的な物資不足を背景に、大戦中に大きな成果を上げたオペレーションズ・リサーチ★3等の成果を応用し、「デザイン」そのものを科学的・合理的に実行する方法を作りだすことでした。このカンファレンスに参加していた建築家のひとりがアレグザンダーです。サイバネティクスの影響を強く受けていた彼にとっても、その野心は共感できるものだったのでしょう。こうして「デザインの学問化」は、その「科学化」として出発したのです★4
ところがこうした試みは、70年代に一度頓挫します。先ほどのアセスメントの問題と同じ、「問題が複雑すぎて、何が問題かわからない」ことこそが、デザインにおける問題性の本質であると指摘されたのです。問題が定義できないから、解決を計画することもできない。科学で解き切ることのできない領域だというわけです。「意地悪な問題」とよばれるこの論点は、しかし、デザインを新たな展開へと導きました。デザインとはアレグザンダーの言う通り、コンテクストとしての状況や他者の不確実性・固有性を受け止め、これに具体的な形を与えるプロセスです。そのプロセス自体に従来の科学とは別種の知的実践のあり方を認め、独自の学問的地位を与えようとする動きがあらわれたのです。デザインを行うことそのものに、固有の知的達成を認める学術理論の登場、とでも纏めればよいでしょうか。いわゆる人間中心設計(ヒューマン・センタード・デザイン)や、近年話題になったスペキュラティブ・デザインも、その類縁に含まれると考えて良いと思います。
デザインリサーチ(あるいはResearch through Design)はこの流れを汲む、いわば「デザイン実践としての研究」です。(専門家の専制だけではなく)ユーザーの参加、(デザインだけではなく)リサーチの重視といった新しい価値基準を携えつつ、学術レベルでの蓄積と発展を進めています。このことについてデザイン研究者の水野大二郎氏は、2017年に発表した論文「「意地悪な問題」から「複雑な社会・技術的問題」へ」において、デザインリサーチが「不明瞭かつ個別固有の社会・ 技術的問題を対象とする臨床的、生成的研究であり、複雑な社会・技術的問題に対しても一定の有用性があるアプローチであること」を示しています。「臨床的」や「生成的」といったキーワードを含むこの動きは、中谷さんや塚本さんが対象化しようとしている「声」や「共感」を考えるうえで、建築学の有用な補助線になるのではないでしょうか。

松田──「地球の声」を聞く、というと、ヒト以外のすべての現象を「聞く」主体として、あくまでも人間が前面にせり出してくる印象がありますね。それだと人間中心主義的な伝統的西洋に発する思考の延長上に留まらざるをえない。その意味で、「地球の声」という言いまわしは、私にはちょっと乗れないところがあります。それから、「エコロジー」という言葉の使い方を整理したほうがよさそうですね。エコロジーも、人を中心において、そこにとってやさしく調和的な概念というわけではなく、また人が倫理的に理想化したい地球像でも、すでに、ないでしょう。こうした議論を進めるうえでは、エコロジーという言葉にどのような定義を想定して使うのかを、慎重に吟味しなくてはなりません。またそのうえで、生環境様式のアイデアについて誤解がないように確認しておきたいのは、これは単なるエコロジカルな相関主義ではないということです。それは、生環境の理解とはかけ離れたものです。そのうえで皆さんのご発言について少しコメントをさせて頂くと、今、キーワードに挙がっていた「人間中心設計」は、これ自体一度きちんと考えないといけない問題だと思います。他方で、佐藤さんの発言にあった物同士だけの世界というのもたいへんおもしろい着眼点ですが、お話の中の「道具」はあくまで人間から発想されていたように感じたので、それはモノとして独立しえないのではないかと少し疑問に思いました。ちなみに「モノ=非生命」を「生態的ではないもの」とする立場もあると思いますが、生環境環ではむしろ、その中を動いている物質は生き生きとした活力をもち、物質相互のやりとりが生命や生態も駆動しているといったイメージも含まれているように思います。実際、生命が停止しても物質は残存し、次の循環のフェーズに移動していきます。また、生命体はこうした物質循環の環のうえでこそ成り立っています。しかもそのうえ、物質それ自体が生物と共進化してきたとも言える。別の言い方をすれば共組織化の関係にある。
またここで、別途重ねて付け加えておくならば、生命体はつねに多数の異種とともにあることで生きているということに日常感覚を開くべきとも言えます。中谷さんが例示したアレルギーは、そういった状況の一部に人体が過剰な反応を示したものであるわけで、そもそもヒトはいろいろな異種とのサイバネティクス状態にある。広い意味でのデザインがそれに気づいたうえで実践されているか否かという問題ではないかと思います。
ところで、サイバネティクスの話が出ましたのでこれに関連して言うと、フェミニズムの文脈ではこうした知見は早くから深められています。その代表的なものがダナ・ハラウェイ(Donna Jeanne Haraway、1944-)の『猿と女とサイボーグ(Simians, Cyborgs, and Women)』(1991)ですね。論考の中身はべつに猿と女とサイボーグの関係を直接論じているわけではありませんが、なぜタイトルにこの3つがこうも印象的な形で並んでいるのかをやや乱暴にまとめると、これらはすべて「人間」ではないからです。これらは、人間=Man、すなわち、西洋的-伝統的人間の外にある存在で、かつまた境界的な存在である。その意味で連帯するのです。そしてハラウェイは異種によるサイバネティクスを、「人間」を乗り越えるための戦略として示す。「人間」を脱自していくわけですね。
それともうひとつ。今日の生環境環のダイアグラムでは、原理3を「生環境からの逸脱」と表現している点について補足しますが、未来は、今-ここではつねに未成立です。また、今-ここそれ自体は、過去の時間及び出来事と、今現在とを結びつける往還運動のなかにしか認識できません。人はまだ、生環境からすべて完全に逸脱しているわけではない。まだ、ね。ですから、「逸脱」はある面では未来です。しかし、思考のあり方によってそれはいつでも達成されうる。今にも過去にも、それはあるでしょう。地球から脱出する人間像も次第に変化するといった話が先ほどありましたが、地球から脱出可能な技術をもっておかないといけないという考え方それ自体も、観念によって突き動かされている。これは原理3が拡大する駆動力と似ています。それらは、生存上やむにやまれずというよりは、思想から生まれてきたものです。その根底にあるものは資本主義で、原理3の拡大とは特に、自由主義的資本主義経済の延命をはかるうえで手放せないタービンである。例えば、スペースコロニーはいつも、それらがたぐり寄せようとするような未来でしょう。原理3は資本主義と科学との強靱な結びつきによって支えられているわけで、なおかつそれは後戻りできません。

中谷──そう、戻れない。宇宙に行くしかなくなるんですよね、最終的には。でも全員が行けるわけではない。

松田──宇宙開発をめぐっては、テラフォーミング(惑星改造)をなんとか推し進めたい資本主義側に対し、地球にとどまって地球の「エコロジー」の保守を主張する側があるわけですが、しかし突き詰めれば地球上での長期生存への希望にはどちらにも明確な答えが見いだせない状況にあって、果たして現生人類がそれを達成すべきなのかということも含めて、加速主義的な思想がさらに進めば極左では資本主義を止めるための一種の革命という意味からも絶滅を選ぶか、地球資源を使い尽くしてやはり宇宙に脱出するか、というダークな導かれ方も想像されうる。
しかしまた別の観点をとれば、地球それ自体も宇宙由来の物質が集合して形成されたもので、現生人類はそこから鉄などを取り出して原理3に至ったわけですから、地球と宇宙が二つの極として配置されるべきなのかという疑問もあります。宇宙は地球の外部ではなく、あらかじめ内にも含まれている。ましてや地球を生じさせた母体である。宇宙と地球はその点では疎外関係ではない。といったようなことも含めて、原理4を考えるにあたっては、原理3から4への移行がなぜ必要だと思われるのかという議論を、複数の立場から立体化していくことが非常に重要になると思います。

塚本──私たちは現在、原理3と原理4のあいだの矢印にいますよね。原理2の段階での物事の捉え方はもう少しシンプルで、中谷さんがイランのバルカネ村で出会った補修用の石材を調達しにきた人のように資源に直接アクセスできていました。これに対し、原理3では人と物のあいだにいろんな産業が介入します。産業革命の後では生産性を十分に発揮するには地元の材料だけではまかないきれなくなり、多方面からかき集めることになるわけですが、そんなことは大資本でなければできません。環境や社会がそのような組立てになると身の回りの資源にアクセスできなくなります。目の前に杉林があるのに、北米の輸入材の方が安くて楽なので、それで家が建てられてしまう。資源へのアクセシビリティを問題にすると、個別のデザインが何をすべきか、考えやすいんです。




★2── 「「数百万人が宇宙で暮らす世に」――Amazon・ベゾスCEOがコロラドで語った未来とは?」(IT mediaビジネスonline、2016)引用
★3──分析、意思決定、作戦立案、計画設定等さまざまな問題に対して、数理的、統計的なモデル、アルゴリズムを用いることで、最も効率的になるよう決定する科学的技法
★4──中村健太郎「サイバネティクスの建築学──デザインリサーチに埋め込まれたクリストファー・アレグザンダー」参照


201904

特集 建築の実践と大きな想像力、そのあいだ


平成=ポスト冷戦の建築・都市論とその枠組みのゆらぎ
ある彫刻家についての覚書──それでもつくるほかない者たちのために
このエントリーをはてなブックマークに追加
ページTOPヘ戻る