東北の風景を「建築写真」に呼び込むこと
刊行記念対談:山岸剛『Tohoku Lost, Left, Found』

山岸剛(写真家)×植田実(編集者)

フレームとしての「建築写真」

山岸──今日はこれまで東北の撮影を続けるにあたってお世話になった方々にもお越しいただいています。ぜひコメントをいただければと思います。まず冒頭に植田さんからお話のあった「オン・サイト」連載時に『建築雑誌』の編集長を務めておられた早稲田大学の中谷礼仁先生、ひと言いただけますか。

中谷礼仁氏──まずは出版おめでとうございます。私たちの編集委員会が2011年に任期を終えた後も、山岸さんの東北関連の写真作業は陽の目を見ない時期が4、5年ほど続いたのではないかと思います。新しく撮った写真を見せてもらってはときどきメールで感想を伝えたりしていました。なんとかうまく続いてほしいと思っていました。

山岸──いろいろとありがとうございました。写真集の企画もいくつかの出版社からいただきましたが、結局は実現に至りませんでした。この国だと写真集はカピバラなどの動物写真か、AKBのようなアイドル写真集しか出ないようなので(笑)、なかなかタフな状況だなとは思いましたね。

中谷──しかし、まさに継続は力なりですね。冒頭のスライドでも「オン・サイト」の写真が映し出され、いい写真だなとあらためて思いました。僕は子どものころ、いわゆるフォトジャーナルを見るのが好きでした。山岸さんの端正な構図にはよくその上澄みを感じます。『Tohoku』の写真は、岩波写真文庫の方向ではなくて、昔の『LIFE』のようなオーセンティックな構図に、情報が総合的に収められているという印象を受けました。最初に「建築写真と同じやり方で撮り続けてきた」とお話がありましたが、しっかりした画面の構造のなかにいろんな要素が入り込んでいる山岸さんの写真集は「建築写真」とあえて構えなくても十分ではないかと感じました。

山岸──震災後の8年間で東北に関する写真集は山ほど出版されてきました。自分が撮った写真をあえて建築写真と呼ぶのは、自身の本職であることと、その他の写真との違いをはっきりさせたかったからです。しかし同時に、写真集にまとめるうえで、ひとつの固定した見方に当てはめることは絶対にしたくなかったので、例えば、この本のなかに唐突に白い馬の写真[fig.34]が現れますが、こういう写真はむしろ積極的に採用しました。私にとって「建築写真」というのは、ひとつの柔らかい器、形式であって、ここにさまざまに異なるモノコトヒトがガンガン流れ込んでくればいいと思っています。中谷さんがおっしゃる『LIFE』などの写真は、まさにオーセンティックな形式性を頼みにしていて、ゆえに懐の深い「総合性」に結実するのだと思います。私にとって「建築写真」は、そういった正統性にアクセスするために必須の、とても大切な形式です。

fig.34──《2013年5月10日 福島県相馬郡飯舘村臼石》

日埜直彦氏────おそらく山岸さんはなにを撮っても建築写真になってしまうということなんだと思います。どこに三脚を置いて、どうフレーミングして、という選択が撮影にはかならずあるわけですが、それが山岸さんの言うところの建築写真のもので、安定している。山岸さんだけでなく、写真家であれば誰でもそういうものがあるんでしょう。それは不器用とも言えるかもしれない。でも、器用に対象やニーズに応じてその都度撮り方を変えていては便利な見栄えのする写真にしかならず、それでは写真集を組んだり、展示として成立させるのは難しい。一連のものとして見るに耐えるような写真というのはそういうもので、それについて山岸さんは建築写真と言っているのだと思います。写真家は、いわばカメラという機械がシャッターを押せば写真を写してしまうように、ある一貫した視点を持っていて、だからそうしか撮らないし、撮れない。同じ場所を違う時期に撮った写真を見比べるとその違いが鮮明に浮かび上がるのはおそらくその証左ですし、そういう一種の中立性があればこそ植田さんのような視点が介入して違う面が見えてくるということにもなる。先ほど定点観測と表現していましたが、東北の人たちの眼にも、この写真集は自分たちのドキュメンタリーとして見えるんじゃないでしょうか。4×5の情報量は本当に大きいので、じっくり見ていれば、そのなかに写り込む人や物の移り変わりもゆっくりとほぐれてくるように見えてきますね。そのパッと見るだけでは全部を受け止めきれないような情報量と奥行きが、4×5で撮る写真家のスタイルを成立させているし、それがこういう本をつくらせたようにも思いました。

山岸──ありがとうございます。まぎれもなく山岸が山岸の視点で撮っている、意図して撮っている、だけど、山岸の言いたいこと(だけ)が写っているわけではない。写真は写真家の意図を超えて写っている。意図を超えたものをいかにより多く呼び込むか。カメラで撮るというのはそういうことだと思います。

建築への眼差しを通じて生活や営みを捉える

加藤詞史氏──写真1枚1枚の迫力は言うまでもないのですが、『Tohoku』は、本の重みやサイズ、プロポーションといったことが入念に吟味された、単なる書籍にはない「書物」としての物質的な強さを感じました。東北の自然から建築、人に至るまで大小さまざまな要素に、写真を通して独自のヒエラルキーが与えられ、それが1冊に綴じられることによって時代を超えていくものに仕上がったように思います。先ほど、植田さんが写真に写り込んだ人の姿に言及されていたのをたいへん興味深く聞いていました。そのことと山岸さんがいう「向こう側」は密接に関わっており、失われた生活を建築を撮ることでもう一度、再構築するための視点が「向こう側」ではないかとの思いに至った次第です。また、山岸さんの視点とフランスの女優エマニュエル・リヴァが撮った広島の写真集『HIROSHIMA 1958』(インスクリプト、2008)が重なりました。これには、震災直後の2011年秋に山岸さんとふたりで企画した日本建築学会のイベント「『HIROSHIMA 1958』を谷川俊太郎さんと見る会」の体験があったわけですが。

山岸──エマニュエル・リヴァはフランスのアラン・レネが監督した映画『ヒロシマ・モナムール』(1959)の主演女優です。『HIROSHIMA 1958』という写真集は、リヴァがこの映画ロケのために来日した1958年、はじめて手にしたカメラでほとんど直感的に撮影した広島の写真が、50年後の2008年に1冊の本にまとめられたものです。

加藤──『HIROSHIMA1958』からは、戦後復興期の広島で、生き生きとした子どもたちの姿の向こう側で、建築が立ち上がりつつある様子が見て取れます。それを思い起こしながら、山岸さんはリヴァの逆を行こうとしたのかなと思ったんです。つまり、山岸さんは失われたものやその痕跡となっていく風景を写しながら、その向こう側にある人や生活を捉えたのではないか、そんなふうに読み取りました。

山岸──リヴァの写真は優しく柔らかく、同時に驚くべき精確さで当時の広島を捉えています。写真の素人が、映画撮影前の1週間くらいで、街をふらふら歩いて偶然のように撮った写真が、これほどまでに質が高いのは、それこそヨーロッパのオーセンティシティというのか、ある「古さ」がこの人に写真を撮らせているのではないか? そんなふうに考えて、この写真について詩人の谷川俊太郎さんをお招きし、2011年に建築学会で議論する会を企画したのでした。人物はもちろんですが、その背景にある都市や建築が、画面のなかで人間たちとおなじ強さで平等に捉えられています。たしかに『Tohoku』の写真はリヴァと逆向きのベクトルから撮ってきたのかもしれませんね。

森中康彰氏──乾久美子建築設計事務所の元所員の森中と申します。山岸さんには、乾事務所の作品集『Inui Architects──乾久美子建築設計事務所の仕事』(LIXIL出版、2019)をつくるうえで最近いくつかの作品の写真を撮り下ろしていただきました。2010年から東北の写真を撮り続けられて8年というお話がありましたが、このタイミングで出版することになったきっかけは何かあったのでしょうか? 建築設計で言えば、私も乾事務所時代に岩手県釜石市において《唐丹小中学校》(2017)のプロジェクトに携わりましたが、今はそのような復興関連の仕事が一段落した時期と言え、東北や復興といったことが設計者という自身の立場からは少し離れていってしまったように感じています。先の釜石のプロジェクトなどで三陸地方に通うことがあったり、また釜石に一時的に住んでいたこともあったのですが、私にとってこの本は、当時三陸の風景を見た際の感情を鮮明に思い出させるものであるとともに、後半の新しい建物が少しずつ建ちつつある様子の写真を見るとそうした記憶が覆われていくような気分にさせるものにもなっていて、設計者という立場で今後東北に関わることのもどかしさと重なるものがありました。こうしたことから、山岸さんが今回、出版というかたちで手を離したことにも何かのメッセージがあるのかなと思ったのですが、いかがでしょうか。

山岸──じつはこの写真集の原型が2014年にできていました。先ほどもお話しましたが、その年の6月にそれまでの東北の写真を展示する機会をいただき、その展覧会に合わせて写真集のモックアップをつくったのです。それは日本で出すつもりはまったくなくて、そのモックアップを国際的なブックフェアに出品したり、コンペに応募してあわよくば海外で出版したいと考えていました。結局、そのアイデアは立ち消えになりましたが、2017年の秋ごろ、図らずもLIXIL出版の隈千夏さんのもとにそのモックアップが届き、ぜひやりましょうと言ってくださった。それがきっかけで今に至ります。だから今このタイミングをねらって出すといったことはまったくありませんが、結果的にいいタイミングで出版できたように思っています。

森中──東北の写真はこれからも撮り続けるのでしょか?

山岸──もちろん撮ります。昨年の4月にはじめてデジタルカメラを導入しました。これまでは4×5で撮っていましたが、これからはデジタルでも挑戦したいなと思っています。

建築写真のリソース

ロバート・ラプランテ氏──写真集のタイトルの由来について教えていただけますか?

山岸──ネイティブの方にどのように受け取られるか心許ないのですが、「Lost, Left, Found」は「Lost and Found(遺失物取扱所)」という慣用表現に「Left」を挿入しました。「Lost」は津波によって流され、原発事故で「失われた」と同時に、そこからどうするか「迷って」いる震災以後の日本。「Left」は津波に流されても「残った」もの、そしてそこから「出発する」という意味にもとれます。「Found」も同様に、流された後に、流されたからこそ「見出された」過去があり、そこから「基礎をつくる」という意味にも転じる。3つの言葉の円環を描くようなリズム、受動と能動が切り替わっていく感じはこの本がもつべき時間性にぴったりだと自負しています。

ラプランテ──「Lost and Found」にLeftが入ることですこし謎めいた感じが加わりますね。意味の付け方も詩的だと思いました。

山岸──それは安心しました。ありがとうございます。ところで、いま「円環を描く」と言いましたが、三陸地方はまさに繰り返し津波に襲われてきた地域です。日本の近代以降も明治三陸津波(1896)や昭和三陸津波(1933)が起こり、1960年にはチリ津波が襲いました。そしてまた平成にも津波に襲われた。反復する津波、回帰する自然の時間が東北の風景には如実に刻み込まれているし、人々もそのような時間感覚のもとに生きていると思います[fig.35, 36]。津波がくるたびに、人々は新しく土地を切り開き、すまいを移動してきました[fig.37, 38]。何十年後かわかりませんが、津波はまた必ず来ます。次なる津波以後のためにこそ、この本を、この写真による「記録」を活用していただきたいと切に願っています。

fig.35──《2011年10月25日 岩手県大船渡市三陸町綾里岩崎。1933年の昭和三陸津波からの集団高所移転地》
fig.36──《2015年8月26日 岩手県大船渡市三陸町綾里岩崎。1933年の昭和三陸津波からの集団高所移転地》

fig.37──《2012年5月2日 岩手県上閉伊郡大槌町大ケ口》
fig.38──《2017年9月21日 岩手県上閉伊郡大槌町大ケ口》

植田──僕はタイトルや文章をあまり得意としてこなかったんです。それに引きかえ、写真家は文章がうまい人が多い。写真集の巻末に短い文章を寄せたりしていますが、どれも独特の高揚感があって、僕は写真家の文章が好きです。山岸さんはこの本で文章をほとんど残していません。もちろん写真集だから、ただ文章を割愛してもこの写真集に文章がないと感じる読者はすくないと思いますが、何も書かないという態度は積極的に出さないと見えてこない。『Tohoku』に収録されているのは巻末のたった4行。とてもさりげない。ディテールにも言葉では説明しないことで写真そのものを雄弁にする戦略性が窺える。

写真集づくりの慣習に抗うこと

植田──この本では縦位置の写真も90度寝かせて、横位置と同じように配置したりしている。画面のプロポーションを加味すると写真集は結局、縦も横もきれいに収まる正方形になりがちですが、それをやると途端に迫力がなくなってしまう。『Tohoku』はそこに頓着せず、基本的に多方向、あるいは方向がない、無方向と言ってもいいかもしれません。見え方はアナーキーのようで、つくり手の意識はそうではない。今日の対談に向けた事前のやりとりで、山岸さんはこの写真集について「先を尖らす」と形容されていましたが、まさにそういう感覚をつくり出すようなかたちで編まれている。ページをめくるうちに自然な流れで集中度が高まっていく。例えば、瓦礫の山を写したカットが登場しますが[fig.39]、あの写真は部分的、抽象的なようだけれど、地面まで写し込まれているのがポイントで、ディテールだけを見せるのではなく、全体性を保ちつつ、他方でその全体はある一部にすぎないことを語っている。部分と全体の関係が錯綜しながら本全体に波及しています。

fig.39──《2011年5月1日 岩手県宮古市臨港通》

中谷──山岸さんが先ほどから「建築写真」にこだわり続けているのを聞いて、ひとつ別の呼び名を思いついたので喋ってもいいでしょうか。これは建築写真というよりも「GL写真」ではないでしょうか。GLはもちろん建築用語でグラウンドライン(地平面)の略記号ですが、これを建築の基準線ではなく「大地」と捉えれば、その上で瓦礫だろうと建築だろうとあらゆる人工物が相対化され存在しているという震災後のフラットな視点を獲得しているというまとめ方もできそうです。先の発言以来『Tohoku』の写真を妙に安心して見られるのはなぜだろうと考えていて、おそらくそんなグラウンドの現前がほぼ全ての写真に写り込んでいることに気づきました。廃墟になった建物の窓を撮っていても、その窓の向こうに海や大地の水平面がしっかりと覗いています。これが妙な安心の原因ではないだろうか。通常グラウンドラインを入れて撮ると被写体は地面に相対化されて迫力が損なわれてしまうのですが、他方でそれによって距離感が生まれ、空間が写るのですべて相対化できる写真になる。この写真集を今確かめてみると収録されている写真の99%に地面が写っているので、山岸さんの写真が持っている特質はそういうところにあるんじゃないかと合点がいきました。この構図の中で被写体そのものの力が失われていないのだから大したものだと思います。

山岸──ありがとうございます。ご指摘はよくわかります。そういった方法こそ私が建築写真から学んだことであると思います。その他、対象に正対すること、光の当たり方とヴォリュームの出し方、水平・垂直をとるといったことも含めてそうです。たとえば、私にとって二川幸夫さんの写真における正対性、正面性と、昨今の建築雑誌に掲載されるような写真の正面性は次元が違うものという感じがするんですね。二川さんが建築を真正面から撮ると、そこには建築のこれまでの歴史が画面に雪崩れ込んでくるような、とても豊かでみずみずしい建築のマトリックスが生け捕りにされている感じがある。私はグラウンドラインにかぎらず、いつもそういう建築写真の形式性こそが呼びこめる豊かな資源にアクセスして、それをその都度拝借しながら写真を撮っているという実感があります。とてもありがたいことです。

植田──6年前に国立新美術館で「印象派を超えて──点描の画家たち」展がありました。クレラー゠ミュラー美術館の所蔵品を一堂に集めて、印象派、点描派などを再定義する企画です。作品はモネからゴッホにつながり、点描画のスーラを経由して、最後はモンドリアンに至る長い時間軸で、ある特徴をもった作品を展示していましたが、カタログを見ると「DIVISIONISM」と書いてある。分割主義と言われるのでしょうか、しかし展覧会にこの用語は登場しない。おそらく「DIVISIONISM」では日本の美術ファンには通じず、集客が見込めないと判断した美術館側の思惑でしょう。そこで「新しい印象派」などとあいまいなカテゴリーが与えられていました。でも、せっかくの機会を逸したと思えるんですよ。日本では一般に学校で学んだ美術の分類がすり込まれていて、印象派の後に後期印象派が起こり、フォーヴィズム、ダダへと至る流れがなんとなく頭にあるのですが、近現代美術史がこのように分割されることの見直しはとうの昔から手を着けられていて、それを系譜化しようとしているのではないか。クレラー゠ミュラーのコレクションはその端的な証拠です。

同じことが写真の分野にも言えると思うんですね。どこか「○○イズム」や「○○派」で括るような風潮があいかわらず強い。山岸さんの写真集が持っている自由さには、ある種の分割主義的というか、縦横に頓着せず、やがて抽象に至るような方向性が感じられたんです。こうした志向性は映画で言うとジョナス・メカスでしょう。メカスはカメラをぶらすように撮った映像を3時間も見せたりしましたが、こうした手法は、画面を原色で分解していくフォーヴィズムや点描派、印象派のような新しい写実性を考えた系譜につながると思うんです。翻って、日本の写真がどうかと言うと、一方には山岸さんのような写真集もあり、他方には新しい機材の紹介やフォトコンテストが欠かせない大衆メディアもある。

山岸──植田さんがおっしゃったように、正方形のフォーマットで、上質紙に余白をたっぷりとって写真が大事に置かれているような、いかにも品のいい本にはしたくなかった。この本の制作のあらゆる局面で座右に置いていたのは、「統合の誘惑に逆らう」(W・G・ゼーバルト)ということでした。とにかく「いい感じ」にしてはならなかった。「いい感じ」に上手くまとめて、この写真群がもつ「記録」のゴツさを、都合のいい「記憶」にしてしまうことは絶対に避けなければいけませんでした。先ほどの人間が不在云々の話とつなげて言えば、この「記録」は東北の「大地」のためのものであって、「人間」のためだけの、人間主義的な「記憶」に供することはしない、と言っていいかもしれません。縦の写真を横に寝かせたり、言葉による説明がないといったあり方は人によっては不親切だと思うでしょうが、植田さんがそれを"多方向的""無方向的"と形容して下さったことは、その意味で我が意を得たりの思いです。人間にも動物にも、山川草木にも宇宙人にも、過去にも未来にも届いて欲しいです(笑)。

また、先ほど加藤さんも言及してくださいましたが、この本では写真1枚1枚を丁寧に見せつつ、量を量塊として見せること、そのヴォリューム感が肝でした。物理的な大きさ、厚み、重さ。地層のような本。1枚1枚の質は決して軽んじることなく、大事にはしすぎない。「質より量」でこそつくりたい、見ていただきたいと考えました。

植田──どんな写真集も編集されるときは、1ページ目の写真を何にするか決めて、それを起点に最後のページまで構成を考える。つまり、ひとつの物語を組み立てていくことから逃れ難いのですが、『Tohoku』はそういう慣例さえも疑い、始まりも終わりもない、唐突に終わるような見え方を辞さないつくりになっているのに加え、同じカットが何度も登場したり、写真同士を重ね合わせたりと、1冊の写真集に全体性を与えている。いわばアート志向的というか見る人によってはダダ的と言われてもいいほどのラディカルな写真構成の本になっています。個々の写真はふつうに編集されても十分評価されるにちがいなく、それはこの会場に展示されている、大きく引き伸ばされた数点の写真を見てもわかります。でも山岸さんが特異な編集にしたのは、写真がどうしても持ってしまう物語性を避けたからだと思います。しかも東北や災害という対象はテーマとしてあまりにも強すぎる。それは記録としての強度があると同時に、物語としてすぐ消費されてしまう強度でもある。そこを山岸さんや造本設計・デザインの岡﨑さんが考え抜き、版元のLIXIL出版が決断した。特異とも言えるけれど、刊行に至るまでの緊張感がこの写真集のリアリティになっています。

美術の近現代が従来の写実を破壊してきた仕組みと写真はすこし違っていて、今も写真そのものの技術が飛躍的に進歩し続け、しかも誰もが手にできるものになっています。その現在を山岸さんは最大限に利用しつつ、事実の物語に流されることのない関係をつくろうとした。そのように、東北や震災から逃げられない多方向性あるいは無方向性として確立する写真集として、読みました。

山岸──そういうふうに読み込んでいただけて本当に嬉しく思います。しつこいようですが、津波はまた必ず来ます。そして次の津波の後は、今回の津波の後とはまったくちがうことになると私は思っています。私などが言うまでもないことですが、現在の状況は「近代」の成れの果てであり、この国は転形期にあると思います。次に自然のとてつもない力がやってきたときにどうするか。それを考えるための、この先の未来のための資料にしたいと思ってこの本をつくりました。だから今流通している物語や言葉でこの写真を腑に落としてもらいたくない。ボールは遠くに投げたいと思いました。既存の言葉で納得するのではなく、この写真に触発された新しい言葉で今日、植田さんとお話ができたことに感謝します。

[2019年3月17日、LIXIL: GINZAにて]

山岸剛(やまぎし・たけし)
1976年生まれ。写真家。著書=『Tohoku Lost, Left, Found』(LIXIL出版、2019)、『井上剛宏作庭集──景をつくる』(共著、鹿島出版会、2014)。撮影を担当した書籍=『日土小学校の保存と再生』(鹿島出版会、2016)、『住宅設計ドローイング──波板の家』(オーム社、2019)、『Inui Architects──乾久美子建築設計事務所の仕事』(LIXIL出版、2019)など。

植田実(うえだ・まこと)
1935年生まれ。編集者/住まいの図書館出版局編集長。著書=『集合住宅物語』(2004)、『都市住宅クロニクル』(全2巻、2007)、『集合住宅30講』(2015、いずれもみすず書房)、『植田実の編集現場──建築を伝えるということ』(共著、ラトルズ、2005)、『いえ 団地 まち──公団住宅設計計画史』(共著、住まいの図書館出版局、2014/日本建築学会著作賞)など。


201904

特集 建築の実践と大きな想像力、そのあいだ


平成=ポスト冷戦の建築・都市論とその枠組みのゆらぎ
ある彫刻家についての覚書──それでもつくるほかない者たちのために
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