ある彫刻家についての覚書
──それでもつくるほかない者たちのために
──それでもつくるほかない者たちのために
第二次世界大戦に際して、日本政府は寒天の輸出を禁じるという奇妙な措置を講じている。この背景には、19世紀末に細菌学者のコッホが(彼の助手であるワルター・ヘッセの妻ファニーのアイデアで)細菌培養に寒天を使用して以降、世界中の研究所で寒天の需要が激増したという事実があった。寒天は日本特有の輸出品であることから、これを禁止することは他国の細菌兵器研究を遅延させるうえできわめて重要な意味をもつ。ただその結果、日本の漁村には大量の天草(寒天の原料)が余ることとなった。この余剰寒天を大胆にも特撮映画に採用したのが円谷英二である。1942年の映画『ハワイ・マレー沖海戦』(監督=山本嘉次郎)においても、一部の海面のシーンに寒天が使われているという。ミニチュアの軍艦を水に浮かべての撮影では波や水しぶきの不自然さが際立ってしまうという弱点を、寒天は見事に解決してくれている。寒天は人々によって食べられ、細菌培養に用いられ、そしてスクリーン上でモノクロにギラギラと海面を模して照っていたのである。
いわゆる「戦争画」に限らず、戦時期の国策映画にも多くの芸術家が動員されている。海軍省肝いりであった『ハワイ・マレー沖海戦』も例外ではない。とりわけミニチュア制作に従事した利光貞三は、戦後になってゴジラの造形を手がけることとなる重要人物である。利光の人形制作における師匠であり、彼を円谷とつなげた彫刻家である浅野孟府
もまた、『ハワイ・マレー沖海戦』に参加している。オアフ島の山々を縫うように戦闘機が真珠湾へと向かうシーンの山肌は浅野の手によるものとされる。山のすれすれを飛行するシーンは、戦闘機ではなく山のほうを動かしているらしい。浅野は1944年の映画『海軍』(監督=田坂具隆)においても重要な役割を果たし、「映画『海軍』の劇的最高潮場面、〈眞珠灣〉特殊撮影の設計責任者たる淺野猛府氏に話を訊く──」と煽り文つきでインタビューまで受けている 。- 『ハワイ・マレー沖海戦』浅野による山肌と戦闘機の飛行シーンは上の動画13:21以降を参照。真珠湾のジオラマについては下の動画の冒頭部分を参照。
『ハワイ・マレー沖海戦』撮影用に特別に制作された特大の真珠湾ジオラマセットには、封切前から並々ならぬ注目が集まっており、多くの芸術家が視察に訪れている(ジオラマセット制作の陣頭指揮をとったのも浅野である)。「いざ、ハワイ見参!眞珠湾セット見学記」と題してレポートを記したのは漫画『フクちゃん』で人気を博していた横山隆一であった
。芸術家たちの見学ツアーの記念写真も残されているが、ジオラマとともに映っているのは、猪熊弦一郎、本郷新、佐藤忠良、脇田和、内田巌など錚々たる顔ぶれであり、中央には藤田嗣治の姿もある 。藤田はその後真珠湾のセットに足しげく通ってスケッチをし《十二月八日の真珠湾》(1942)を描きあげることになるのだが、つまりそれは、この油彩画が、真珠湾を直接観て描かれたわけでも、真珠湾の写真だけを観て描かれたわけでもなく、真珠湾の特撮セットを観て描かれたことを意味している。いうなれば《十二月八日の真珠湾》とは、絵画と彫刻という垣根を超えた、当時の芸術家たちの共同制作となってしまっているのである 。- 映画セットを前にして、前列左より本郷新、猪熊夫人、今村俊夫、藤田嗣治、佐藤敬、坂井範一、猪熊弦一郎、荻須高徳、後列左より芳賀力、内田厳、横山隆一、佐藤忠良、脇田和、中西利雄、宮本三郎。
[出典=新制作協会50年史編纂委員会編『新制作50年』(新制作協会、1986)p.14]
- 藤田嗣治の《十二月八日の真珠湾》は兵庫県立美術館で開催された「Oh!マツリ☆ゴト 昭和・平成のヒーロー&ピーポー」展(2019)に出品された。写真手前には『ハワイ・マレー沖海戦』の資料が並ぶ。なお、右奥の絵画は北川民次《鉛の兵隊[銃後の少女]》(1939)。[写真提供=兵庫県立美術館]
さてこの浅野孟府であるが、関東大震災で壊滅的なダメージを受けた東京において「街頭に働くことを申し合わせ」た芸術家たちが結成した「バラック装飾社」にも名前を連ねていることはよく知られている(というよりもむしろ彼の名は、「三科」や「造形」といったいわゆる「大正期新興美術運動」の中心メンバーとして記憶されているように思われる。しかしそれは彼のキャリアのほんの初期にすぎない)。「バラック装飾社案内状」に目を通すと、中川紀元、神原泰、横山潤之助が「絵画」を、吉田謙吉、大坪重周、飛鳥哲雄、吉邨二郎が「装飾」を、遠山静雄が「照明」を、そして今和次郎が「建築」と「装飾」を担当に掲げているなか、ただひとり浅野だけが「彫刻」と書きつけているのがわかる
。23歳の浅野は、瓦礫の山と化した帝都においてなおも、彫刻を通して社会に資することができると信じていたのであろう。しかしその後の浅野の仕事の多くは、いわゆるモニュメンタルで自律した彫刻とは異なる時期が続く 。舞台美術、玩具、人形劇、立体アニメーション、特撮など、彼の作るものはどれも、直接まなざされるのでもなく、それ自体として自律してもおらず、永続性も期待できないものとして存在している(彼は実写版「鉄腕アトム」[1959-1960]においてアトムの頭部を制作したりもしている )。浅野はこうした自身の制作のあり方を親友・岡本唐貴にこう嘯いた──「作品は精神的排泄物だ 」。そんな飄々とした浅野孟府であるが、1953年に『建築と社会』という雑誌に寄せた文章では、「人生は厭になる程労苦を与える。その上、貧しい生活の連続の中で彫刻を製作する。これから先は迷つてしまう」と書きつけ、いかに彫刻家が貧困に苦しみながらかろうじて制作に時間を割いているかが、そしてその不安定な生活ゆえに日本の彫刻が生き生きとしていないことなどが吐露されている
。こうした怨嗟の声に共鳴してしまうと、例えば次のような箇所などは建築に対する恨み節のように読めてしまう。「敗戦後いたる所に大建築が現れるという無制限な、無原則的な建設工事は、茲(ここ)でも復興という美しい名によつて、一般の生活とは隔絶した場所で、東京銀座の松坂屋の大レリーフ、高島屋新館の立像、大阪御堂筋のキヤバレーのレリーフ等々、建築と彫刻と結びつけ試みられ始めた。これ等は、彫刻家が足踏みしている状態の中で建築に結びついたのである
」こうした状況は、ある意味で、美術と建築が協力しあい荒廃する都市において公共性を立ち上げようと動いた「バラック装飾社」のデッドエンドであるようにも思える。しかし他方で浅野はこうも綴っている(こちらのほうがはるかに重要である)。
「『いつたい建築とは何であるか』私は人間の風習とか意義とかはぬきにし、建築は人生をいとなむ箱であると考えて見ます。それでは、彫刻は何であるかというなれば、物にデコボコを作る事だと云えると思います。『それでは箱にデコボコをつけてもよいではないか』とも云えます
」この自問自答において、浅野は建築と彫刻の違いといった、ジャンルおよび形式的な定義論争からかろうじて免れえている。実際、彼の実践には「彫刻」が多岐にわたるさまざまな実践の最後の綴じ目として与えられているのみである
。繰り返すが、浅野孟府によって手がけられた仕事の多くは、スクリーン越しにまなざされたり、舞台の背景であったり、一度きりのものであったり、自律せず人の手を動力にしたりしている。無論、これらの特性が浅野の仕事を貶めることには何ひとつとしてならないし、彼は何よりも展覧会が中心となって作品制作と批評が行われるような芸術のあり方自体を疑問視していた。「大きな物語」が失われ、「フィクション」が効力を失い、エビデンス(証拠)と目に見える合意に基づいた創作ばかりが増えたと言われる現代であるが、それでもなお/だからこそ、自然のふりをした「大きな物語」や「フィクション」は跋扈している。ジャンル、時代区分、国土といったものはその最たる例であろう。私たちはこう問うてみなければならない。「そのカテゴリーを採用することで、該当するものたちを開くことができているだろうか(囲い込んではいないだろうか)、より魅力的にできているだろうか(よりつまらないものに見せてはいないだろうか)、奪われようとしている未来を取り戻す契機になっているだろうか(与えられた「過去」を語る権利の奪い合いになっていないだろうか)」と。
1970年(大阪万博の年である)に浅野が制作した最大の野外彫刻が、今年ひっそりと消えようとしていることはおそらくあまり知られていない
。大阪城公園のなかに位置する「大阪社会運動顕彰塔」──そこには1744名もの活動家たちが弔われている。四角い台座そのものであるかのようなその彫刻は、浅野の意志どおりの姿であるというよりも紆余曲折を経て辿り着いたものであり、諸般の事情から、届け出上も「彫刻」ではなく「格納庫」である。したがって公的には格納庫がひとつ老朽化して撤去されるにすぎない。私たちが生きたいと思う未来(の彫刻/建築)は、まずもってこの事実をぶっちぎらねばならないはずなのだ。