第6回:歴史のなかで、コンクリートの尻尾を掴む

加藤耕一(西洋建築史、東京大学大学院教授)
本連載では、ここまで主にマテリアリティの問題について、特に19世紀から20世紀にかけての議論に着目しながら論じてきた。連載第6回目となる本稿からは、時代を一気に古代まで遡り、構築と素材の問題について考えてみたい。

歴史のなかのコンクリート

今回のテーマは「コンクリート」である。コンクリートといえば、20世紀の建築を革新的に切り拓いた建築材料であり、特に日本では「ラーメン構造」の名でお馴染みの、フレーム構造のシステムによって建築構造や建設プロセスを大いに変革したものとして知られている。 一方で、「20世紀建築」の同義語ともいうべき「コンクリート」が、古代ローマで用いられていたことも、これまた広く知られている。いわゆるローマン・コンクリートである[fig.1]。古代ローマ帝国で、数々の巨大モニュメントをつくりあげてきたコンクリート技術は、西ローマ帝国の滅亡とともに衰亡し、その後1400〜1500年の時を経て、19世紀前半のポルトランド・セメントの発明によって復活したと考えるのが一般的なようだ★1

fig.1──ローマのパンテオン(筆者撮影)
ローマン・コンクリートの話題が出るとしばしば言及される建物

コンクリート技術が復活した19世紀後半には、コンクリートに鉄筋を組み合わせる技術開発がさまざまな技術者によって進められ、たとえばフランスでは、フランソワ・コワニェ、ジョゼフ・モニエ、ポール・コタンサン、そしてフランソワ・エヌビックといった技術者たちが、鉄筋コンクリートのさまざまなシステムを開発していったことは、20世紀建築の構築術の重要な背景として、K・フランプトンの『テクトニック・カルチャー』でも詳述されている。

こうした歴史叙述のなかで、私たちはテクノロジーの進化にもとづく「進歩の歴史」を考えがちである。そして、古代ローマ帝国には現代に負けない優れたテクノロジーがあったとして、改めて古代ローマを賞賛するのだ。その一方で私たちは、古代と近代に挟まれた「あいだの時代」は、科学技術の観点からするとまだまだ未開であり、発展途上の時代だったと考えがちである。この歴史観は、まさにルネサンスのヨーロッパ人のそれと同じといえよう。彼らは、この「あいだの時代」を「中世」と名付けた。そしてその野蛮な中世は、暗黒時代(Dark Ages)として知られるようになったのだった。
すなわち、従来のコンクリートの歴史理解には、過去の発展途上を乗り越えることで先進的な近代世界が切り拓かれたとする近代的な進歩史観に加えて、古代を理想的で発展した社会と見るルネサンス的歴史観が混在している。はたしてコンクリートは、古代ローマと近代の2つの時代だけに属する特別な材料だったのだろうか? 本当に、中世にはコンクリートが存在しなかったのか? そもそもコンクリートはマテリアルなのか、構造なのか、工法なのか? いったいコンクリートとはなんなのだろうか?

魔法のようなマテリアル──ライム・サイクル

マテリアルの観点から「古代ローマにコンクリートがあった」と言うとき、そこで注目されるのは、ポゾラン・セメントの存在である。これは石灰と砂と水に火山灰質の物質「ポゾラナ」を混合したセメントであり、その特徴はポルトランド・セメントと同様に、水と化学反応を起こして硬化するという性質である。まさにこの点──水和反応によって硬化するポゾラン・セメントが用いられていた点──において、私たちは「古代ローマにコンクリートがあった」と説明しているのだ。
だが、このことからわかる通り、ここで本質的な問題は「コンクリート」ではない。じつは「セメント」こそが、この議論における本質である。
たしかにローマ人たちは、この「ポゾラン・セメント」に水と細骨材(砂)と粗骨材(小石)を混ぜ、まさに「コンクリート」として用いていた。しかし歴史を紐解くと、「石灰+水+砂+小石」の使い方をしたのは古代ローマ人だけではなかった。セメントは、古くは古代エジプトでも使われていたし、中世を通じても、この「コンクリート的」な混合材料を用いた建設方法は継続的に用いられていたのである。このような建設方法については後で確認することとして、まずここではマテリアルとしてのセメント、そしてその主原料としての石灰について考えてみたい。

「石灰岩は建築の父である」と言ったのは、建築史家の中谷礼仁氏である★2。中谷氏は、石灰岩のポーラスで「あたたかく」、耐久性があり、加工が容易という性質を指摘しているが、この文章に出会ったとき、筆者もまた、我が意を得たりという気分だった。
西洋建築史を研究していると、石灰岩という石材が有するマテリアリティの魅力に、いつも惹きつけられる。むろん、ヨーロッパのすべての建築が石灰岩だけでつくられているわけではないが、この石材の優位性は突出している。切石を積み上げる組積造建築の主要な構造材であるばかりか、彫刻表現にも適している。石灰岩で建設された建築の、壁の表面を仔細に観察すれば、中世の職人たちの鑿の跡がのこっていることもしばしばで、細かい鑿跡が一方向に美しく並んでいる様子からは「職人の手の温もり」も感じられるかもしれない[figs.2, 3]。こうした鑿跡は、使用された大工道具によって異なる模様を描き出し、そうした模様をじっくり観察するのも、また愉しい体験である。これもまた石灰岩のマテリアリティのなせる技といえるかもしれない。


figs.2, 3──フランス、ブルゴーニュ地方のゲドロン城(Château Guédelon)の石切り作業(上)と整形された切石(下)(ともに筆者撮影)
ここは1997年以来、中世の道具や技術だけを用いて中世風デザインの城塞の建設を続けている実験考古学の現場であり、ある種の野外博物館となっている。

石材の表面ギリギリまで接近して石灰岩をミクロな目で観察していた視点を一気に引き離し、今度はマクロな都市スケールでこのマテリアルを観察してみよう。たとえばパリの街は石灰岩の岩盤の上に載っており、地下の石灰岩を切り出しては、地上にその石材を積み上げることを繰り返して、この歴史的な魅力溢れる都市を建設してきたのだった。シャンパーニュ地方の中心都市ランスでも同様に地下の岩盤が石切場となり、建材が切り出されたことで生じた地下の巨大洞窟空間が、シャンパン生産のカーヴ(ワイン貯蔵庫)となったことは、よく知られている。地下の岩盤を構成していた石灰岩が転移するようにして地上の都市がつくりあげられたばかりか、それによって生じたヴォイド空間の有効活用が、この都市を世界的に知らしめる文化と産業を生み出したわけである。パリやランスの有名な事例に限らず、フランスではいくつかの都市で、同様の地上と地下の構造を見出すことができる[fig.4]

fig.4──地下の石切場と地上に建設された都市を描いたダイアグラム
引用出典=Jean-Pierre Gély et Jacqueline Lorenz (dir.), Carrières et bâtisseurs de la période préindustrielle: Europe et regions limitrophes, CTHS, 2011.

このように、石灰岩の魅力を語り出せばきりがないのだが、今度は石灰岩の「化学」が建築史のなかで果たしてきた役割に着目してみよう。その根幹にあるのは、英語でライム・サイクルなどと呼ばれる、魔法のような化学変化である。この変化はおそらく古代ローマ時代よりもさらに時代を遡り、古代エジプトの時代にはすでに知られていたようで、古代、中世、近世を通じて現代に至るまで、広くヨーロッパの建設活動を支えていた。

石灰岩の主成分は炭酸カルシウム(CaCO3)である。これを高温で加熱すると、以下の①の化学変化が起こり、二酸化炭素が放出され、酸化カルシウム(CaO)が生成される。この生成物は日本語で生石灰とも呼ばれるが、古代のラテン語でも"calx viva"、すなわち「生きている石灰」と呼ばれていた。

CaCO3 → CaO + CO2 ......①

生石灰(酸化カルシウム)に水を加えると★3、今度は高熱を発しながら加水反応が起こり、水酸化カルシウム(Ca(OH)2)が生成する(反応②)。これは消化と呼ばれる反応で、生成した物質は消石灰として知られる。ラテン語では"calx extincta"であり、単純に石灰(calx)と呼ばれることも多い。この物質こそ、モルタルやコンクリートの主成分として使われたマテリアルであった。

CaO + H2O → Ca(OH)2 ......②

消石灰(水酸化カルシウム)は空気中に置かれると、空気中の二酸化炭素とゆっくりと反応し、最終的に③の反応によって、長い時間をかけて炭酸カルシウムへと変化していく。すなわち元の石灰岩と同じ物質に還っていくことになるわけだ。

Ca(OH)2 + CO2 → CaCO3 + H2O ......③

この3段階の化学反応こそ、ライム・サイクルと呼ばれるものである。石灰岩が高温で焼かれて粉状の生石灰となり(①)、生石灰が水を加えられてペースト状の消石灰(石灰ペースト)となり(②)、消石灰が空気中の二酸化炭素と反応することで、再びもとの石灰岩に戻るわけである(③)。

小学生の頃、ビーカーのなかの水酸化カルシウム水溶液にストローで息をブクブクと吹き込んで、溶液を白濁させる実験をしたことを、朧げな記憶のなかでかすかに覚えている。あの実験はまさにこの③の反応を確かめるものだった。まさかそれが、西洋建築の2000年の歴史の根幹を成す化学反応だったとは、当時は知るべくもなかったが......。

歴史のなかの「石灰」と「モルタル」

古代ローマの建築家ウィトルウィウスをはじめとする多くの古代の文筆家たち(プリニウス、大カトー、ほか)が、この石灰岩の驚くべき変化を観察し、記述している。彼らはむろん化学式こそ記していないが、少なくとも現象として、このライム・サイクルを理解していた。それは現場の職人たちも、まったく同様だったことだろう。彼らはこの現象を熟知しており、それを建設行為に応用していたのである。
石灰岩を砕いて粉にしただけでは、当然ながら、砂や水と混合してもセメントとしては役立たない。

粉砕された石灰岩は、それが焼かれていなければ、砂を交ぜて一緒に壁体に投入されても硬化しないし、また壁を一体に保つことができない。 ──ウィトルウィウス『建築書』II-5-2★4

「しかし、石灰が水と砂を受入れるとなぜ壁体を強固にするか?」ウィトルウィウスは四元素の考え方から、その理由を次のように推測している。

それは、石が他の物体と同じように元素から組成されていることが原因であると思われる。気元素を多くもつものは柔らかく、水元素を多くもつものは湿によって粘り強く、地元素を多くもつものは硬く、火元素を多くもつものは脆い。(...中略...)炉に入れられて火の激しい力につかまり以前の硬い性質を失った時は、それの力で吸出され抜去られて、開いた空虚な孔を残す。それ故、この石の体内にある水分と空気が熱せられ取去られ、隠れた残留熱を自分の中にもった時、石はこの火の力を取戻す前に細孔の空隙に進入する湿によって熱くなり、こうしてまた冷えて石灰の体から熱を放出する。
──ウィトルウィウス『建築書』II-5-2★5

すなわち、もともとの石灰岩は「地元素」の性質により硬い。だがそれが炉に入れられて熱せられると「火元素」の性質により脆くなる(生石灰)。さらに、生石灰に水を加えてペースト状になった消石灰は、「水元素」の性質により粘り強い、ということになるのだろう。
もちろん、四元素の考え方にもとづくこの説明は、①〜③の化学反応で示したような化学元素の考え方にもとづく現代科学からすれば、誤りと言うべきかもしれない。しかしウィトルウィウスは彼なりの考え方にもとづいて、現象をていねいに観察し、描写していたことが理解できるだろう。

上記の引用のなかで、彼は反応によって生じる熱に着目して、その理由をなんとか説明しようとしている。生石灰に水を加えたときに、高温の熱を発するという現象は、注目するに値する不思議だったに違いない。さらにもうひとつ彼が強調するのは、重量の問題である。炉の中で高温で熱せられた石灰岩は、「重さの約3分の1が減じている」と、ウィトルウィウスは指摘している。化学的に見れば、炭酸カルシウム(石灰岩)のモル質量が100.087g/molであるのに対し、①の反応によって酸化カルシウムと二酸化炭素とに分解されると、酸化カルシウム(生石灰)のモル質量は56.0774g/molとなるので、たしかに質量は半分程度に減じるのである。
ウィトルウィウスはこの質量減少を、窯で焼いたことによって「水分が乾し上がった」ためと考えており、さすがに分解して二酸化炭素が生じたことまではわからなかったようだ。だがこの質量が減少するという事実は、ライム・サイクルと建設活動の関係性においても重要なものだったようである。
①の化学反応で生石灰を生成させるため、一般に石灰窯(lime kiln)は石切場の近くに設けられた。石灰窯で生成された生石灰は、その後で、それを必要とする建設現場まで運搬されたと考えられる★6。重量のある石灰岩の運搬にはたいへんな労力を要するが、生石灰に変化させてから運搬すれば、半分程度の重さですんだわけだ。生石灰は袋詰めにされるなどして現場に運ばれ[fig.5]、現場近くに設置された消化槽の中で水と混ぜ合わされて消石灰が生成されたと考えられる★7

fig.5──袋詰めにされて運ばれてきた生石灰(ピーテル・ブリューゲル(父)《バベルの塔》ウィーン美術史美術館蔵、1563年頃より部分)
森洋子「ピーテル・ブリューゲルのウィーンの《バベルの塔》を詳察する」(『北方近世美術叢書III ネーデルラント美術の誘惑──ヤン・ファン・アイクからブリューゲルへ』ありな書房、2018)を参照のこと。
引用出典=Wikipedia Commons

『ローマの建設術──その材料と技術』の著者である考古学者で建築史家のジャン=ピエール・アダンによれば、モルタルを調合するために、古代ローマの職人たちはまず、砂を地面に山積みにし、そこに直径1〜3m程度のクレーター状のくぼみをつくった。そのくぼみの中央に、壺や手桶のようなものに入れて消化槽から運んできた消石灰を投入し、そこに少しずつ水を注ぎ入れながら、3.5mほどもある長い柄のついた鋤のような道具を使い、時間をかけてよくかき混ぜ、モルタルを調合したのだという★8[fig.6]

fig.6──古代ローマ人によるモルタル調合の想像図(Jean-Pierre Adam作図)
引用出典=Jean-Pierre Adam, La construction romain: matériaux et techniques, Picard, 1984.

じつは中世に描かれたミニアチュールにも、建設現場が描かれたものが数多くあり、そこでも同様のモルタル調合の様子が描かれている。fig.7やfig.9に描かれた建設現場では、石切職人たちが石材を整形している隣で、地面にぶちまけられたり、あるいは木枠で区切られた混合槽に入れられた石灰を、山積みの砂や手桶で注ぎ込まれた水と混合し、長い柄のついた道具でかき混ぜている。こうした様子を見ると、建設現場での活動は古代から中世まであまり変わりがなかったことが理解できるだろう。こうして調合されたモルタルは、手桶に入れられて、建設が進む現場のそれぞれ必要な箇所へと運ばれていったのだった[figs.7-10]


fig.7──《フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌』》(1465年頃、Ms. fr 247, fol. 163, Bibliothèque Nationale, Paris)より、ジャン・フーケによる挿絵「エルサレムの神殿の建設」
引用出典=Roland Recht (dir.), Les batisseurs des cathédrales gothiques, Éditions les Musées de la Ville de Strasbourg, 1989.
fig.8──モルタルを調合する職人(同上、部分)


fig.9──《ジラール・ド・ルシヨン物語》(15世紀、Cod.2549, Österreichische Nationalbibliothek, Vienna)より「12棟の教会堂の建設」
引用出典=Alain Erlande-Brandenburg, Quand les cathédrales étaient peintes, Gallimard, 1993.
fig.10──モルタルを調合する職人(同上、部分)

だが、こんな製法で、石灰と砂と水の混合比を調整することなどできたのだろうか? ウィトルウィウスは、消石灰に砂を混ぜてモルタルをつくる際の、石灰と砂の厳密な混合比について、それが山砂の場合と川砂/海砂の場合とに区別しながら、次のように説明している。

それ〔引用者註:生石灰〕が消化されてから材料が次のように交ぜ合わされる。すなわちそれが山砂の場合は砂3と石灰1が注ぎ込まれ、川砂あるいは海砂の場合は砂2と石灰1が投入れられる。こうすれば調合正しい混合比となるであろう。なお、川砂あるいは海砂に砕いて篩(ふるい)にかけた瓦屑3分の1加えるならば、用うるにいっそう良い材料の調合となるであろう。
──ウィトルウィウス『建築書』II-5-1★9

実際のところ、古代においても中世においても、モルタルの質は、煉瓦や石材を用いた組積造建築の施工の質を大きく左右したはずである。上記のようなモルタル調合の手順を考えると、ウィトルウィウスが述べたような厳密な混合比が守られたかどうかは不明だが、熟練の職人は、最良のモルタルを混合するために努力したに違いない。

fig.11やfig.12を見ると、モルタルを混ぜ合わせる作業のすぐ脇に、三脚の上に置かれた容器があり、職人がシャベルのような道具を使って、そこに調合済みのモルタルを入れている様子が描かれている。消石灰と水と砂を混ぜ合わせる作業は、職人の勘に頼る作業だったかもしれないが、施工に用いられるモルタルは、混合作業中のものを適当に運んでいって使うわけではなかった。いい按配に混ぜ合わされ、熟練の職人が「これで大丈夫」と太鼓判を押したモルタルが、ようやくこの三脚の上の容器に入れられる。すると別の職人がそれを手桶に移し、施工の現場に運んでいくという手順が、これらの細密画から推測することができるのである。

fig.11──ルドルフ・フォン・エムス《世界の歴史》(1385年頃、Ms 2, theol 4. Gesamthochschul-Bibliothek Kassel, Landes-und Murhardsche Bibliothek)より「バベルの塔の建設」
引用出典=Roland Recht (dir.), Les batisseurs des cathédrales gothiques, Éditions les Musées de la Ville de Strasbourg, 1989.

fig.12──モルタルを調合する職人(ピーテル・ブリューゲル[父]《バベルの塔》ウィーン美術史美術館蔵、1563年頃より部分)
引用出典=Wikipedia Commons


  1. 歴史のなかのコンクリート/魔法のようなマテリアル──ライム・サイクル/歴史のなかの「石灰」と「モルタル」
  2. コンクリートとは何か?/水硬性石灰と気硬性石灰/コンクリートと建築理論の歴史

201902

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