モノ=作品はいま、どこにあるのか
──『デュシャン』、ジョージ・クブラー『時のかたち』ほか

池田剛介(美術家)

2017年はマルセル・デュシャンが展示会場に小便器を投下してから100年目に当たる年であり、昨年のレビューでは、このことを起点として、いくつかの書物を取り上げることとなった。

2018年は没後50年ということもあり、デュシャン再考の機運は止むどころか、むしろ高まりを見せることとなった。東京国立博物館では大規模な(そして問題含みの)「マルセル・デュシャンと日本美術」展が開催され、さまざまなデュシャン関連本が登場した★1。20世紀芸術に与えたインパクトの大きさゆえに、いわば現代美術の「デフォルト」となってしまい、ゆえにその影響圏を見定めることの難しかったこのアーティストを捉え直すための環境は、いま整いつつある。

『デュシャン──人と作品』
(フィラデルフィア美術館、2018)

このように新たに登場したデュシャン本のなかにあって、今回取り上げたいのは「マルセル・デュシャンと日本美術」展の第一部のカタログという、少々わかりづらい位置づけで出版された書物『デュシャン──人と作品』(フィラデルフィア美術館、2018)である。原題は「The Essential Duchamp」であり、「人と作品」という邦題はミスリーディングだといえよう。作品をアーティストの人生物語に回収するといったものではなく、その活動のエッセンスを濃密に抽出しながら、この類い稀なるアーティストの理解のための新たなスタンダードを描き出す、じつに本格的な内容だからである。

本書は4つのパートに分かれている。第1章では《階段を降りる裸体No.2》を含む活動初期の絵画群、第2章では《大ガラス》や《泉》を含むレディメイド、そして第4章では《遺作》に焦点が当てられている。だが注目すべきは、こうしたいわゆるデュシャンの「代表作」を含むパートではなく、それらと同等、あるいはそれ以上の扱いがなされている第3章である★2

デュシャンが用いた女性風の偽名「ローズ・セラヴィ」をタイトルに冠したこのパートには、目立った代表作を割り当てることが難しい。というのも、この章でフォーカスされる1920〜40年代は、《大ガラス》を「決定的に未完成(definitely unfinished)」のまま宙吊りにしたデュシャンがニューヨークからパリへと戻り、制作を放棄してチェスに没頭したとされる時期だからである。こうしたチェスプレイヤーへの転身は、しばしばデュシャンによる制作否定の徴と見なされてきた★3

ではこの章を通じて、何が明らかになるのだろうか。この時期デュシャンは、チェス・ゲームにのめり込みながら独自の趣向を凝らしたチェスの理論書や関連するボックスセットなどに取りくむ一方で、「ローズ・セラヴィ」の署名を暗号のように用いながら、じつに多様な作品を形にしている。42の語呂合わせを収録した選集、ルーレット賭博に関する《モンテカルロ債券》、マン・レイ撮影によるポートレート、回転することで錯視を引き起こす《回転半球》や、これに関連する実験映画《アネミック・シネマ》、《大ガラス》をめぐるメモ類を集めた《グリーンボックス》や、デュシャン作品のレプリカ群をコンパクトに詰め合わせた《トランクの中の箱》などなど......。

こうした活動は、よく言えば多彩だが、アーティストとしては非一貫的で、とりとめがないものとも映るだろう。だがひとつ言えるのは、この時期、芸術を放棄してチェスに専心したとされるデュシャン神話に反して、じつのところさまざまな「制作」を行っている点である。いわゆる芸術家然とした、独自のスタイルを貫くような振る舞いは周到に避けられる一方で、職人的なものづくりや工業的デザイン、雑誌の装丁に至るまで、じつに多様な「制作行為」に取りくんでいたことがこの章で明らかになるのである★4

そこに見出されるのは、しばしばその制作放棄の身振りによって、いわばメタ制作者として位置づけられるデュシャン像とは明確に異なる、オブジェクトレベルでの形態化を止めることのない「制作者」としての姿である。制作の否定や反芸術といった、もはや手垢にまみれた「コンセプト」を超えて、私たちは再び、デュシャンが残した作品それ自体に目を向ける方へと誘われている。

ジョージ・クブラー
『時のかたち──事物の歴史をめぐって』
(中谷礼仁ほか訳、鹿島出版会、2018)

作品というものが意味や概念にとどまらず、具体的な形を持つということ。事物としての作品たちが歴史を構成しさえするということ──ジョージ・クブラー『時のかたち』(中谷礼仁ほか訳、鹿島出版会、2018)は、作品にまつわるシンボリックな意味を超えて、形態を持つ事物それ自体に私たちの目を向けるための導きの糸となる書物である。しかし「事物の歴史」と聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろうか。

近年、私の住む京都では観光客が急増しており、町のいたるところで団体客がツアーガイドに率いられながら解説を受けているのを目にする。事物の歴史という言葉で私が想起するのは、こうした観光ガイドの類である。この屏風は〇〇時代の〇〇派の影響を受けた〇〇によって描かれたものであり云々。そこではおおよそ事物に「付随する」情報が語られており、目の前にある事物それ自体について語られることは、ほとんどない。なぜだろうか。

おそらく事物は、すでに目の前にあるからである。目の前にあるものは自明であり、語られる必要がない。見たままのものではなく、それにまつわる文脈や蘊蓄を語ることが、事物についての知見を広げると考えられているのである。だが、こうした事物にまつわる情報(コンセプト?)の煙幕のなかで、あられもなく目前にあるはずの事物を、まったく見ることができていないとしたら?

原著は1962年刊行だが、そこには現代に通じる問題意識が見出される。つまり知られざる傑出した作品や、新たな様式などは、すでに出尽くしている、というポストモダンな認識である。残されているのは、これまで注目されてこなかったマイナーなアーティストに光を当てるか、ひたすら様式を細分化していく、といった落ち穂拾いのみ。「美術史の引き出しは最後のひとつまでひっくり返され、教育者や観光省の目録への記載は完了したのである」(p.34)。そのなかで「新しさ」として残るのは、移ろいゆく状況の反映として現れては消える流行であり、その消費だけ。状況は今と大差ないことがわかるだろう。

事物の歴史を通じてクブラーが提起するのは、私なりに解釈するなら、古色蒼然とした歴史でもなければ、移ろいゆく流行としての新しさでもない、いわば「古いものの新しさ」である。この世界はさまざまな事物に満ちており、それらはすでに独自のネットワークを築いている。こうした事物の持つネットワークをクブラーは、シークエンスという言葉で表現する。挙げられるのは次のような例だ。

例えばアフリカの部族彫刻は、20世紀初頭にピカソらによって注目され、新たなシークエンスとして開かれることとなった。対して古代ギリシャの壺絵はすでに閉じたシークエンスであるという。しかし閉じた事物の連なり(それをクブラーはシリーズとも呼ぶ)は、完全に死んでいるというわけではなく、いわば仮死状態として、再びシークエンスが開かれることを待っているとも言える。

クブラーは、歴史に対する生物学的な比喩を批判しているが、それは生から死へと向かう単線化を忌避してのことでもあるだろう。そうではなく事物の歴史においては、過去の事物が新たに生まれ直し、また〈今ここ〉の事物が別の時間や空間に存在する事物と結びつきながら、ネットワーク状の「かたち」を形成している。

先に観光ガイドを例として挙げたような、事物それ自体とそれにまつわる文脈的な蘊蓄との関係は、「自己シグナル/付随シグナル」という言葉で概念化されている(p.58)。しかし、象徴的な意味の解釈をめぐるイコノロジー=付随シグナルの前景化を否定して、モダニスティックな純粋形式主義=自己シグナルへの純化へと向かうのであれば話は早いのだが、そうではない。なぜならクブラーの議論のポイントは、事物の持つ自己シグナルを重視しながらも、なお事物の「歴史」、すなわち過去のモノたちとの連関にあるからである。

〈今ここ〉にある事物の自己シグナルと、過去の事物の自己シグナルとの離散的な共鳴によって形成される歴史。それは、事物を背景にある文脈へと霧散させることなく、しかし〈今ここ〉に現前するものとしてのみ単純化するのでもない、いわば個別の閉鎖性(stand-alone)を持つ事物たちによる複合体(complex)としての時間のありようと言えるだろう。

岡﨑乾二郎『抽象の力
──近代芸術の解析』(亜紀書房、2018)

こうした個別の特異性を持った事物たちが、しかし時空を超えて連なりを持つ歴史とは、いかにして実現するのだろうか。岡﨑乾二郎『抽象の力──近代芸術の解析』(亜紀書房、2018)は、クブラーによる「事物の歴史」の理想的実践版とでも言いうる、驚くべき書物である。

本書は、大きくは20世紀前半の日本の近代芸術を射程としながら、しかし時代や地域を隔てて生み出された作品群を縦横無尽に結びつけつつ展開する。そこでは、これまで十分に注目されてきたとは言えない、しばしば近代美術史の傍流と見なされてきた作家/作品たちに、新たな光が当てられることとなる。その議論の核心に据えられるのが、「抽象」の概念である。

だが、この「抽象」という語は、私たちが思い描くそれとは、少し異なっているかもしれない。例えば本書においてキーストーンの位置に据えられる熊谷守一は、基本的には猫をはじめとする身辺の事物をモチーフとして描いており、いわゆる抽象的な作風とは見なされていない。ここで「抽象」とは、いったいどのような意味を持つのだろうか。私なりに言えば、次のようなものだ。

日常生活のなかでも私たちは、日々多元的な情報に接している。例えば会話のなかで相手から放たれる「大丈夫?」という言葉は、こちらの状況を心底気にかけている場合もあれば、「手伝いましょう」というメッセージでもありえるし、はたまた単なる社交辞令の場合もあれば、こちらを小馬鹿にしているケースもありえるだろう。

私たちは日常会話においてさえ、単に相手の言葉だけ文字通り聞いているのではなく、声の大小や調子、身振りや表情、話される状況やそれが伝えられる媒体など、さまざまな情報を受け取っている。じつのところそこには、きわめて雑多な知覚データが入り乱れており、それらの情報を自分なりに総合したうえで「大丈夫?」という発話に対する、適切な答えをそのつど探している。常日頃より私たちは、こうした多元的情報が殺到する、危うい交差点の只中にいるのである。

こうして与えられる多元的情報に、しかしなんらかのまとまりをつくるものこそが「抽象の力」である。キュビスムの絵画、例えばピカソの描くギターは、しばしば多方向から見えるパースペクティブを混在させることによって伝統的な遠近法を解体しながら抽象性へと近づいたとされる。しかし岡﨑は、そのような視覚のみに還元した理解では単純すぎると言う。実際ピカソのキュビスムには、視覚のみならず触覚的テクスチュアや、さらには音や言葉までもが多元的に扱われているのである(キュビスム期のピカソ作品には音楽記号や断片化した言葉なども詰め込まれていた)。

再現された対象(ギター)という平板な意味に回収されることのない情報が雑多なまま詰め込まれ(A)、にもかかわらず、いかに私たちはギターをそれとして認めること(B)が可能なのか──このAとBとの間には、なんらかの隔たりがあるように思われる。そしてこのような隔たりを生み出しつつ、しかしこれら異なる次元の間を橋渡しするものが「抽象の力」であり、そこにこそ岡﨑は近代芸術の原理を見いだすのである。

本書における「抽象」の意味を理解するうえでもう一点肝要なのは、抽象の概念が「具体」すなわち事物ないしモノと対立する仕方で扱われている「のではない」という点である。本書のなかで岡﨑は、抽象を「何かの再現ではなく、現実的な力を持つ具体物」(p.157)として位置づけている。

例えばなんらかの意味やイメージといった再現する対象を持たない抽象絵画は、その色彩-形態において「作品それ自体性=具体性」を体現していると言える。裏を返せば作品が、こうした色彩-形態という作品それ自体=具体物として成立するならば、いかに具象的なイメージが描かれていようとも、作品は「抽象の力」を持ちうる、ということである。(先に触れた熊谷守一の絵画は、このような意味において「抽象」と言える)。

ここで私が問うてみたいのは、おおよそ20世紀前半の近代芸術に範囲を絞ったこの議論が、芸術の現在を考えるうえでどのような意味を持ちうるのか、という点である。あらためて確認すれば、本書の基本線は、(クレメント・グリーンバーグに代表される)一元的・単線的な歴史主義を批判し、より多元的に開かれた作品=事物のネットワークを語るという、クブラーに通じる議論である。

だが冒頭で述べたように、とりわけ20世紀後半から現代にかけてデュシャンによるインパクトが、いわばデフォルトの環境として浸透しながら、現代の芸術は絵画や彫刻というようなジャンル=一元的技術体系に基づく探究を投げ捨て、いわば「なんでもあり」の超多元的な様相を遂げることとなっている。さらに近年では、作品を具現化することよりも、それが生み出す「関係性」を重んじる傾向や、またその延長上には、作品=プロジェクトがもたらす現実的、社会的効果を重視する向きも、広く認められるようになってきている★5。「作品」はいま、とめどなく拡散していると言えるだろう。

こうしたなかで、もう一度デュシャンが20世紀芸術にもたらした影響圏を見定めつつ、再び「作品」の単位について根本的に問い直すことが求められるのではないだろうか。そしてそのときヒントとなるのは、クブラーが言うような、有限な形態をもった「事物(things)」としての作品であり、また岡﨑が実践してみせるような事物=作品たちによるネットワークとしての、別の美術史である。私たちにはいま、作品を現実的・社会的な効果のなかに霧散させるのでもなく、しかし作品の絶対的な完結性を前提とする近代主義とも異なる道を模索することが求められている★6


★1──平芳幸浩『マルセル・デュシャンとは何か』(河出書房新社、2018)やマルセル・デュシャン+カルヴィン・トムキンズ『マルセル・デュシャン アフタヌーン・インタヴューズ──アート、アーティスト、そして人生について』(中野勉訳、河出書房新社、2018)、平芳幸浩+京都国立近代美術館編『百年の《泉》』(LIXIL出版、2018)など。
★2──瑣末に思えるかもしれないが、第3章への比重の大きさは、本書のつくりそのものにも現れている。じつのところこのセクションに割かれたページ数はほかに比べて最も多く(1章=28ページ、2章=36ページ、3章=38ページ、4章=32ページ)、また参照される作品数(関連資料を含む)についても、この章が最も多い。(1章=26点、2章=42点、3章=50点、4章=35点)。編年的にデュシャンの軌跡を位置づけていくというスタンダードなつくりのなかに、しかしこれまでの私たちの理解を超えて新たなデュシャン像を提示しようとする、静かな野心を感じ取ることができるだろう。
また、書評の枠を外れることになるが、東京国立博物館での展示においてひとつの大きな問題は、この第3章の部分にあたる展示セクションが、非常に狭苦しく暗い部屋に押し込まれていた点にある。現代美術に多大な影響を与えたレディメイド(第2章)と、謎めいた一大プロジェクトとしての遺作(第4章)との間の、捉えどころのない過渡期のようにも見えかねず、であるとすれば、鑑賞者はこの時期に現れるデュシャンの制作行為の重要性をとり逃がすこととなってしまう。
★3──昨年のレビューで取り上げた中尾拓也『マルセル・デュシャンとチェス』(平凡社、2017)では、そうした見方に抗して、チェスを通じたデュシャンの「造形」性に光が当てられている。
★4──この時期のデュシャンの制作を特徴づけるものとして「箱」を挙げることができる。メモや複製物といったバラバラの断片的要素にひとまず「まとまり」を与える箱の作用は、後述する抽象の議論にも、遠からず通じている。
★5──こうした状況は、例えば「炎上」のような出来事を引き起こせば、それは既存の制度や社会に対する「問題提起」なのであり、つまりはそれこそが「アート」なのだ、といったところまで地続きであるように思われる。そのような認識は通俗化した20世紀芸術の理解に基づくにすぎないと批判することは容易いが、しかし現代の芸術が、いまだにそれを刷新する新たな地平を見いだせていないことも事実だろう。
★6──現在準備中の拙著『失われたモノを求めて──不確かさの時代と芸術』(夕書房、近刊)では、こうした拡散をきわめていく芸術の現況を踏まえながら、現実的・社会的な効果へと作品を霧散させることなく、しかし純粋な自律性とも異なる仕方で、21世紀に新たに「作品」を再起動するための道を描き出そうとしている。


池田剛介(いけだ・こうすけ)
1980年生まれ。美術家。東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了。展覧会=「あいちトリエンナーレ2013」、「Regeneration Movements」(国立台湾美術館、2016)、「Malformed Objects──無数の異なる身体のためのブリコラージュ」(山本現代、2017)ほか。論考=「干渉性の美学へむけて」(『現代思想』2014年1月号、青土社)、「虚構としてのフォームへ」(『早稲田文学』2017年5月号、筑摩書房)ほか。著書=『失われたモノを求めて──不確かさの時代と芸術』(夕書房、近刊)。


201901

特集 ブック・レビュー 2019


1968年以降の建築理論、歴史性と地域性の再発見 ──ハリー・マルグレイヴ+デイヴィッド・グッドマン『現代建築理論序説』、五十嵐太郎『モダニズム崩壊後の建築』ほか
谺(こだま)するかたち ──岡﨑乾二郎『抽象の力』、ダニエル・ヘラー=ローゼン『エコラリアス』
現代日本で〈多自然主義〉はいかに可能か──『つち式 二〇一七』、ティモシー・モートン『自然なきエコロジー』ほか
ゲノム編集・AI・ドローン ──粥川準二『ゲノム編集と細胞政治の誕生』、グレゴワール・シャマユー『ドローンの哲学』ほか
「建築の問題」を(再び)考えるために──五十嵐太郎ほか『白井晟一の原爆堂──四つの対話』、小田原のどか編著『彫刻1』ほか
あいだの世界──レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ』、上妻世海『制作へ』ほか
モノ=作品はいま、どこにあるのか──『デュシャン』、ジョージ・クブラー『時のかたち』ほか
堕落に抗する力──ハリー・マルグレイヴ+デイヴィッド・グッドマン『現代建築理論序説』、ジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』ほか
オブジェクトと建築 ──千葉雅也『意味がない無意味』、Graham Harman『Object-Oriented Ontology: A New Theory of Everything』
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