インタビュー:都市化の時代におけるデザインという媒介作用

ニール・ブレナー(ハーヴァード大学GSD教授、都市理論)+ダニエル・イバネーズ(ハーヴァード大学GSD、建築家、都市理論)

ダニエル・イバネーズ──あなたはご自身のことを批判的都市理論家としていますね。それはどういう意味なのでしょうか★1

Neil Brenner,
"The Agency of Design
in an Age of Urbanization
- Dialogue with Daniel Ibañez"
Critique of Urbanization:
Selected Essays

ニール・ブレナー──世界は建造・非建造環境のあらゆる側面との関連を含んでいるわけですが、私にとって理論とは、このような世界のなかで、物事を理解し行動するために前提とされている諸々の概念や解釈を、根本的に問いただし、明確化し、そして再発明する手段です。いかに社会関係と空間配置が編成されるのか。またいかに、いつ、なぜそれらが変化し変化することができるのか。こうした事柄について、いつもある基本的仮定を前提とするかぎり、私たちはつねにすでに理論的領域にいるのです。この意味で理論は、実践や行動の領域から離れたものではなく、私たちが考え、行うほとんどすべてのことの必要条件、前提条件であるわけです。理論に外部はないのです。問題は、私たちが自らの社会的、空間的、環境的実践をかたちづくる際に前提とする仮定について、どれだけ反省的かつ自己意識的に、さらには自己批判的でいられるのかということにあります。

日常生活、学者の言説、専門的実践のなかでは、都市や都市化の過程を理解し、それらに働きかけるために、さまざまな概念、メタ的な語り、枠づけの仮定が用いられているわけです。私は都市理論家として、これらのことを明らかにしたいと思っています。批判的都市理論家として、私はとりわけ都市的なもののイデオロギー──空間編成や環境との関係をめぐる支配的な理解が、いかに都市建設や都市化の政治的プロジェクトを正当化するよう働くのか──に関心があります。これらのプロジェクトは、不平等、搾取、略奪、排除、社会的苦しみ、生態系の破壊の特定パターンを強化する恐れがあるものなのです。私は同様に、社会運動や政治運動はもとより、政策立案者やデザイナーを方向づけ、それに力を与えることができるような概念を発展させることにも関心をいだいています。というのも、そうした人々や運動は、より公正で民主主義的に、さらにはエコロジー的にも存続可能な都市化の形式をつくりだそうと努力しているからです。

こうした面で、批判的都市理論は、オルタナティブな都市の未来と新たな都市化の形式、つまり「オルター・アーバニゼーション」に向けた闘争に必要不可欠であると信じています。オルター・アーバニゼーションは、私たちが現在暮らす、利潤に駆り立てられ、社会的に分断され、エコロジーに破局をもたらす支配形式とは異なります。都市に関わる主要な概念、解釈様式、評価システムは、さまざまな社会的不正義や生態学的不合理を規範化するだけに、私たちは批判的にそれらを問いかけないかぎり、このようなオルタナティブな都市の未来が何であり、またいかにそれが実現されるかを思い描くことは困難なのです。

イバネーズ──批判理論はデザインの教育文化や実践に寄与するものだと思いますが、このことをどのように理解していますか。

Laura Kurgan, Close Up at a Distance:
Mapping, Technology,
and Politics

ブレナー──ある種のデザイナーや計画家には理論に対する強い抵抗があります。それはしばしば、世界を根源的な仕方で変化させることに、かれらが切迫感をもって関わっていることに由来するものです。彼らは理論が自らの課題の妨げになるとみなします。つまり、彼らは自らの仕事に刺激を与える大問題に取り組みたいと思っているのです。こうした情熱を、私は確かに評価します。また、彼らが解決したいと望む、それらの切迫した問題の複雑性を探求する努力をよく理解することができます。というのも、そうした問題は非常に錯綜していて、明らかに多くの専門知識を必要とするものだからです。取り組まれるべき深刻な世界の問題があるのに、どうして哲学的ないしは方法論的な抽象にのめり込もうというのか、というわけです。

これはある種、行為に基づくかたちで、理論に抵抗しているのです。こうした抵抗に関わるのは、私にとって非常に示唆的なものでありつづけてきました。それは、解釈だけでなく、行為のためにも、なぜ理論が重要であるかに対する見解を明らかにするという課題を私に課しました。私の議論は単純なものです。すなわち、理論というのは、それがいかなるかたちであれ、世界の建造・非建造環境に介入するための実際に重要な道具であるということです。こう考えることで、直接的な専門作業の領域から離れる一歩を踏み出すことになるかもしれません。しかしたとえそうであったとしても、私は以上のように考えます。この見解においては、理論は、デザインや計画の行為に対して、評価、想像、文脈化、方向づけの重要な手段を提供するものなのです。理論は、文脈、方法、行為者、支持者、可能性、拘束、葛藤や闘争の線、将来的な成果や危険要因のみならず、こうした働き全体の規範的次元を理解するための基礎となるのです。理論がなければ、デザインが介入するこれらの基礎的次元を、体系的に、また適切な歴史意識と倫理的・政治的な反省性を備えて分析することは不可能なのです。この意味において、私たちはつねにすでに理論の領域にいるのです。重要な問題は、デザイン研究のなかでつねに前提とされる解釈過程に、どれだけ反省的になることができるかです。理論的に反省されていなければ、デザインのいかなる実践も無力で、盲目的でさえあるでしょう。それゆえ理論は、批判的に方向づけられ、規範に応じ、文脈に埋め込まれ、そして文脈間の情報に基づくデザインの介入手法にとって必要不可欠な道具なのです。

イバネーズ──日常のデザイン研究のなかで、こうした批判理論的方向性を用いる方法はあるのでしょうか。

ブレナー──私はデザイン分野の学生に向かって、次のような議論をよくします。それは、私たちが考えるべきなのは、顧客(それが企業であれ、政府やNPOであれ)がかたちを変えるよう命じた場所のことだけではない、というものです。というのは、私たちの仕事がどのように現代資本主義社会にある広範なスケールの問題──社会的・地域的不平等、搾取、立ち退き、疎外、経済危機、環境悪化など──に少しでも対処しえるのかについて、より広く考える必要があるからです。しかしそうするためには、建物、あるいは近隣関係(neighborhood)の観点から場所を考えるだけではだめなのです。私たちはこうしたスケールを、世界資本主義のよりいっそう広範な地理にまで接続する必要があるのです。管見では、デザイン分野は、単に形式的なだけであったり専門的なだけの方向性を避けるべきです。ただ場所とそれがもつ将来性に対する顧客の構想を実行に移すだけの一般的な慣行に対抗すべきなのです。こうした慣行に代えて、どのようにすれば建築、プランニング、デザインが、現代資本主義の深刻な社会危機や環境危機に適切に取り組むことができるのかをめぐって、幅広い規範的かつ政治的な構想を発展させる必要があります──たとえ、このことによって、顧客との争いが、提起された介入に必要な資源の管理をめぐって、繰り返し引き起こされるとしても、あるいは実際にそのような争いが引き起こされるようなときにこそ、そうする必要があるのです。

つまり、私が実際に提供しようとしているのは、戦略というよりもむしろ方法です。それはデザイン、建築、プランニングの仕事を、都市のなかだけでなく、それを超えたより広い政治経済、社会、環境に関わる文脈や変革への取り組みに接続するための方法なのです。たしかに、私は抽象的なレベルで答えが何であるのかを理解できているわけではありません。しかし私が切に願っているのは、学生たちが、自らが置かれている制度的、実践的、文脈的諸条件の下でできるかぎり研究し、これらの条件を結びつけ、それから、体系的にこうした諸条件を、専門的プロジェクトの場所を超えて、現代資本主義の大問題にまで遡ることにほかなりません。私はたえず学生たちをこう駆り立てます。狭い形式的な権限や専門的基準をただ受け入れるな、もっと政治的であれ、もっと社会的に関わり、もっと人道的であれ、研究においてもっとラディカルであれ! と。建築、景観、プランニングの説得力ある空間的知性を生かして、都市、領域、景観のなかにより民主的で、環境的に健全で、社会的に公正で、文化的に意味のある変化を促せ、と。実際に私の学生のじつに多くが、こうした種類の接続を図る方法を切迫感をもって探求し、デザイン分野を、根源的にオルタナティブな未来を描き出すための基礎として考えよという命法を喜んで受け入れてくれているのです。

イバネーズ──しばしば、世界人口の50パーセントが都市で暮らしていると耳にします。あなたは、これが全面的に誤った見解だと力強く論じました。なぜですか。

ブレナー──それはよく引き合いに出される考えですね。これは世界の人口水準に関する国連のデータに由来します。世界の都市人口を測定する試みは、国連では長い歴史を有するものです。しかし、その見かけにもかかわらず、それは科学的というにはほど遠いものなのです。じつのところ、この試みは長らく、相当に問題含みの経験的専門知と、深刻な問題を抱えた理論的仮定に基づいてきたのです★2

ある意味で、世界が都市的なものになりつつあるというのは明らかに事実です。巨大な居住地域の人口は明らかに増加しているわけですから。さらに都市化の過程によって、とりわけ最大の人口重心において、世界中の日常生活が変容していることもたしかに事実です。しかし、都市に住む人々の数を計算するためには、まず都市とは何か、さらにどこに都市の境界があるのかを定義するための一貫した基礎をもたなければなりません。明らかになったのは、それが単純な問題ではないということです。実際のところ、各国の国勢調査機関のあいだで、この問題をめぐる大きなわだかまりが存在しています。しかし、世界の都市人口水準に関するデータの基準として国連によって当てにされているのは、こうした機関なのです。付け加えるなら、そこには解釈の問題もまた存在します。50パーセントというグローバルな都市人口の「閾値」が現在超えられたと言ったところで、そもそも都市とは何か、そしてなぜ都市が問題なのか、それは誰にとっての問題なのでしょうか。

こうした状況を特徴づけるのにお約束的な言葉となった「都市時代」という考え方を受け入れる人に、私は2つの問題を提起したい。第1に、「いわゆる」都市という普遍的な、いやむしろ全体化を行うようなラベルの下に、世界中の都市状況と都市化過程の多様性を包摂することは本当に有益なのでしょうか。世界の建造・非建造環境の変化が、さまざまなものが集積する人口密集地域の中心部でも周辺部でも進行しているわけですが、実際には、こうした変化を理解するためにより区別されたカテゴリーを、私たちは必要としているのではないでしょうか。

第2に、人口密集地域の外部にあると想定されている「農村」や「非都市」領域とは、いったい何でしょうか。現在地球にある「後背地」は、過疎化、移住、環境悪化のせいで、重要なものではないのでしょうか。それとは逆に、私たちの研究が示したのは、私たちの語彙で表現すれば、都市産業的生活(urban-industrial life)にさまざまな物質的・代謝的な支援を提供するにあたって、世界の非都市地域の景観が非常に重要なものでありつづけているということにほかなりません。そのなかに含まれるのは、大半の一次産品の生産(鉱山、農業、生物資源の採掘など)が現れた、伝統的でありながらも新たに産業化された後背地の空間だけではありません。そこには、北極圏、アマゾンといった一見すると世界のなかでも最果てにある地域、世界の砂漠地帯、山岳地帯、海洋もまた含まれるのです。資源採掘地域、農業や物流がかたちづくる景観、飛び地のように散らばる観光地、破棄物処理場、「生態系サービス」〔訳註:食糧や水の提供、天候などの調整作用、レクリエーションなどの文化的役割といった生態系が人間に与えるさまざまな機能の総体を指す。環境破壊などによって自然の有限性が認識されるとともに、とくに2000年代から広まった言葉〕の提供先のいずれの場所であれ、こうした比較的過疎化した地域は、資本主義的発展のただなかで徐々に作業現場となり、結果として全地球の産業的都市化を支えることになったのです。こうした地域は上述の過程におけるそれぞれの役割を通して根本的に、しばしばあまりにも破壊的につくり変えられてきた──不均等に囲い込まれ、インフラ整備され、領域化されてきた──のです。

これとは対照的なことですが、「都市時代」という考えでは、世界規模で農村的なものから都市的なものへと単線的に移行することがほのめかされています。この考えでは、都市化は純粋に人口の観点から定義され、2つの基本的に静的な空間の容器、すなわち都市の容器と農村の容器とのあいだの人口の再分布が強調されるのです。砂時計の両端を移動する砂粒のように、社会、空間、環境面の変化は、ただ都市と農村という不変の単位間における要素の再分布を通してのみ起きるのだと仮定されているわけです。2つの単位そのものが存在論的に固定され、変化の過程からは隔離され、これらの単位は変化の過程をただ迎え入れるだけで、それによって構造的に変容を受けることはないと仮定されています。このような都市化の理解の仕方はほぼ間違いなく、都市と農村という二元論の2つの極に関してだけでなく、それらを横断する諸々の過程についても、認識を深めるよりもはるかに多くの誤解を生むのです。

イバネーズ──概念的な盲点に加えて、「都市時代」という概念は経験的水準においても擁護できないものであるとあなたは論じてきました。何が問題の要因なのでしょうか。

ブレナー──世界の都市人口を測定するのは非常に複雑で、統計上の混乱に依拠する結果になっています。各国の政府は、自国の国勢調査のカテゴリーと指標にしたがって都市と都市的なものを定義します。いくつかの国ではそれは人口の閾値です──例えば、5,000人であったり20,000人であったり50,000人であったりします。ときには国勢調査機構は、人口規模、人口密度、雇用状況といった指標を組み合わせて、都市居住状況を規定します。ほかの文脈では、都市は政府の決定によって決められる行政区分でしかありません。さらにもし中国、インド、ブラジルのような人口の多い国が都市を定義する基準を変更すれば(時折起こることですが)、全世界の推定都市人口水準は変わってしまうことでしょう。こうしたさまざまな定義を国連のグローバルなデータ表に投げ込んでしまえば、その結果はまったくもって支離滅裂なものになってしまうのです──このように、都市をめぐるグローバルな公的言説に広く普及した権威を行使する国際機関において経験的調査の混乱があるのです。このように経験的水準においてさえも、グローバルな都市人口が50パーセントを超えるという「閾値」の考えも擁護できないものです。それは国連加盟国間における一貫性を欠いた両立不可能な測定基準の採用から由来します。したがってこの考えは、権威筋の事実であることを笠に着てはいるけれども、じつのところ漠然とした思弁的な一般化にすぎないわけです。

しかし私の批判の要点は、これらが単に測定に難のある経験的な問題でしかないというだけではありません。争点となっているのは、より広い理論的かつ解釈的な課題です。都市とは何か、都市的なものとは何か、いかなる目的のために、以上のようなグローバルな都市生活の推定「閾値」に関わる企業、政府、国際機構その他の組織は存在するのでしょうか。

イバネーズ──「都市時代」というイデオロギーに反対して、あなたはそれよりも広範な都市化を理解することを訴えました。その都市化の理解には、都市だけでなく、比較的人口規模が小さく、人口密度の低い広範な地域もまた含まれています。最近の刊行物の多くで、あなたはこのような地域が今では地球規模の都市構造の一部となったことを示しています。どのようにしてそうなったのでしょうか。

ブレナー──論文集『内破/外破(Implosions/Explosions)』(2014)とそれにつづく都市理論研究所(Urban Theory Lab)での私たちの研究は、地球の広範囲にわたる地域が──たいてい「遠隔地」と思われているような世界の森林、砂漠、高山植物帯、海洋といったさまざまな場所が──、集積、巨大都市、そしてこれらを通して広く普及する都市生活様式を支えるために今では搾取され、開発されていることを示すものです★3。しかし、表面上地理的には遠隔地であること、また小さな人口規模であることのために、以上の後背地は、集積地のみに偏った従来の都市時代の認知地図に含まれることはけっしてありません。というのもこの認知地図は、世界の広範な非都市地域をただ空っぽの空間として、世界地図上の空白地として扱うだけだからです。非常に有力で、ある意味ではとても挑発的でさえある夜間光世界地図でさえも、どちらかと言えば地表における非点灯地帯の空白が、視覚化された全体を劇的に圧倒しているのです。私にはこうした見かけ上の空白こそが、都市居住地の代理としてよく用いられる点灯地域の無秩序な広がりを示すものよりもはるかに地図の印象深い側面なのです。この意味でこそ、都市時代という概念はまったくのイデオロギー的概念だと論じたのでした。なぜなら、この概念は巨大な集住地だけに目を向けさせ、こうした集住地を、成長を自己推進する擬似的なエンジンや成長の「容器」として扱うことで、いかに都市生活の成り立ちが、別の場所、まさしく夜間光地図で暗く示されている地域、景観、生態の変化に強く関連しているのかを明らかにしないからです。


他方でこう問うことが不可欠です。急激な農村から都市への移住の一因となっているいわゆる「農村地方」における略奪と立ち退きの諸形態とは何であるのかと。こうした移住は数多くの現代の都市理論家によって自然なものとされ称賛さえされているのです。実際に、世界の巨大都市への人々の急激な移動の引き金となっている、ラテン・アメリカ、南アジア、中国、アフリカといった巨大な領域を有する後背地に生じていることは何であるのか。こうした問題は、とりわけ都市研究の領域において、切迫した根本的な政治問題として提起され始めました。そうしなければ私たちは、いわゆる農村から都市への移行が必然かつ不可逆で、エコロジー的に善であると当然のように思いつづけ、そこから「都市」を囲む分析的な境界線を恣意的に描いてしまいます。そこでの「都市」とは間違いなく、現代的な都市化の過程を現在活気づけているマクロな制度、政治経済学、生態学といった分野からいくつかの段階を経て受け入れられているスケールなのです。

言い換えれば、農村地方から都市への自然で不可逆な運動があることをただ仮定するよりも、私たちは、個別の政策、調整手段、制度、所有関係、権力ヒエラルキー、政治闘争、(戦争を含む)地政学的断絶に着目しなければなりません。それらによって、世界経済のさまざまな地域内とそれを横断する大規模な移動が演出されているわけです。数々の文脈を横断して、こうした過程は明らかに領土の囲い込み、土地利用の集中、農業・工業、採掘や物流機能に関連する新しい巨大なスケールでのインフラ投資に結びついています。というのもこれらは、かつて農村だった地域の持続可能な生活手段を破壊し、環境条件を悪化させる一方で、巨大な人口重心に社会的再生産のインフラストラクチャーを集中させてもいるからです。もちろん、囲い込み、民営化、土地の横領、産業の確立、インフラ整備、金融化、環境悪化のさまざまなパターンや経路がグローバル・サウスを横断して存在しています。私たちは、人々が農村地方から都市への移動を「選択する」のは自然で必然な地球規模の動向であるという、危険なまでに蔓延している物語を受け入れるべきではありません。むしろ、こうしたまだら状の変化だけでなく、その変化がさまざまな文脈の調整的枠組みや政治的闘争を媒介していることにも着目すべきなのです。しかし、これは、非都市の領域、すなわち資本主義的な産業化における多種多様な後背地という存在を、都市理論家にもデザイナーにも等しく担われるいっそう体系的な問いかけへと開くことを意味するのです。

イバネーズ──以上のような傾向に対抗するために、より参加型のガバナンス方式を利用することはできるでしょうか。広い見識をもった政治的に活動的な市民は、どの程度まで、都市化のオルタナティブな形式を発展する基礎となるのでしょうか。

ブレナー──たしかに世界のさまざまな場所で、こうした領土的囲い込み、インフラ整備、産業転換、金融化の戦略に対する多くの抵抗があります。企業は、自らの活動の社会的・環境的費用を民営化すると同時に外部化することを可能にする政治的構造なしでは、自らの意志を課すことがまったくできません。また企業は、いわゆる「ベスト・プラクティス」であれ、構造的必要性や実利的な妥協であれ、自らの活動を正当化し、合法化し、自然なものとするイデオロギーを普及させずには、蓄積の戦略を追求することもできません。政治システムがあらゆる空間のスケールで民主主義的に管理される度合いに応じて、現在世界中で強まりつつある略奪による蓄積過程から住民を保護するために、国家権力を私たちのものにする可能性はつねにあるのです。

他方で新自由主義──地域の資産を民営化する姿勢で、社会全体に影響を与える投資決定に対する企業管理を強め、資本蓄積の社会的・環境的費用を外部化する──は、いまだに現代の支配的な調整戦略でありつづけています。社会生活や領土開発を組織するために市場の力だけに依拠すれば、不平等の増大、インフラの不備、政治的分断、公的医療の危機、環境破壊、民主主義の赤字〔訳註:民主主義的な正統性や合意が欠けている状態を指す。特に加盟国の国民の意志が反映されることなく、欧州連合が進める機能的な統合に対する批判として用いられる〕などを含む大規模な社会的混乱や調整の失敗をもたらすということに関する根拠を私たちはたくさんもっています。実際のところ都市、領土、景観の全体、もっと言えば地球全体に影響を及ぼす投資決定を、民間企業が利潤を追求して管理することは、社会的・生態学的災害だったのです。それゆえ問題はいかにコモンズ、すなわち集団的資源としての都市、ひいては領土や環境に対する民主的かつ政治的に調整された管理を領有することができるのかということにあります。集団的資源は、利潤最大化原則にしたがって投資決定を行うための排他的自由裁量権をもつ人々に、万人の未来を決定させてしまう調整レジームの存続というよりも、万人によって積極的に産み出され、共有されるものなのです。

フランスでアンリ・ルフェーヴルによって練り上げられた自主管理(autogestion)という考えは──自己運営や草の根的な管理──領土的組織化のどのような民主主義的形式にも核心としてあるべきです★4。しかしルフェーヴルは、フランス共産党に対して非常に批判的で、1970年代のユーゴスラビアの自主管理実験にもきわめて懐疑的であったので、こうした期待と相いれない解決不可能な矛盾点を指摘しました。自主管理は、下からのみ、行為者自身によってのみ実行可能です。上から自主管理を奨励する試みは、草の根という基本的な原則を侵害します。しかし同時に、制度的な支えや法的保護という広範なスケールの枠組みなしでは、自主管理的な、すなわち根源的に民主主義的な動員の背後にある変革への衝動は、この要求にもっとも脅威を感じる人々による攻撃や破壊行為にさらされやすいものになってしまうのです。

つまり問題はこうなります。いかに社会編成は築き上げられるのか、と。政治的諸制度が下からのイニシアチブを通じて領有され変革されることに絶えず開かれながらも、下からの変革の新たな形式を促進する未来のプロジェクトに通じる道をけっして遮断しないような社会編成はいかに築き上げられるのでしょうか。もし完全に自主管理的ないしは自己運営的な社会が確立されたなら、国家は絶えず下から領有され変革できるとルフェーヴル自身は述べています。このように言うことで、ルフェーヴルは少しいたずらっぽく、まったく違う文脈でかつてレーニンによって公準化された意味で国家は「廃絶される」と示唆したのです。それは明らかに理論のみならず実践においてもより複雑な命題です。

イバネーズ──都市化の過程をかたちづくるにあたって、デザイナーに固有の媒介作用とは何でしょうか。

ブレナー──それが今日のデザイン領域においてもっとも差し迫った問題であり、またもっとも厄介でもある問題です。あなたが顧客に用意された土地で仕事をするとき、どのようにあなたはこの機会を利用するでしょうか。もしあなたの目的がより広く、社会に対して進歩的で、政治的な包摂力をもち、エコロジーにも理解ある影響を、その土地のなかだけでなく、その外にまで与えることにあるとしたら。もしあなたがこの土地を、広範なスケールにわたる政治経済および環境に及ぼす過程に媒介され、またそこに埋め込まれているものとして理解するとしたら、どのようにあなたは自らの限定的な介入を利用して、こうした巨大な権力構造やメタボリズム的な流れに影響を及ぼすのでしょうか。例えばどうしたら、デザイナーたちは新自由主義の広範な支配体制に対抗するために自らの専門能力や介入方法を利用することができるのでしょうか。

ニューヨークのハイライン〔訳註:廃線となった鉄道の高架部分に建設された公園〕は、今ではありふれたものになったとはいえ、こうしたジレンマの範例となりました。それを限定的な手法で分析し、それが置かれた文脈から切り離すのであれば、ハイラインは、これまでの都市インフラストラクチャーの美しい、急進的でさえある領有であり、結果として新しく、刺激的で活気溢れる力強い景観や環境の経験を生み出しているように見えるでしょう。しかし、ハイラインがそれを取り巻く地域の社会関係に実際に与える影響に着目するならば、それはほぼ間違いなく空間的不正義を増大させ、ジェントリフィケーションや立ち退きを早め、ひいては支配的な階級エリートや旅行者の要求によって独占された閉鎖的かつ排外的な都市の建設を促進するのに役立ってきたのだと言えるのです。

善意あるデザイナーであれば、たぶんはっきりと次のように答えるでしょう。ある場所に限られた特徴しかないとしても、進歩的で先見の明があり、美学的に説得力に富み、生態学的にも配慮あるデザインを依頼するほうがよいいのだ、と。もっと保守的で、それほど実験的でも魅力的でもないが、包摂や参加などのほかの基準は満たしているようなデザインを実行に移すよりは、と。私はこうした立場をよく理解できます。しかし、都市条件についてより根源的に民主主義的かつ平等主義的で社会的に多様性のある構想に熱心であるデザイナーが、このような回答に満足するとは思えません。難点は場そのものの規定にあります。というのは、場の境界線があまりにも狭く引かれると、介入によって潜在的に成し遂げられうることへの私たちの想像力が、逆に制限されてしまうのです。管見では、このように境界線を引いてデザインの場所を決めることに抗い、アンリ・ルフェーヴルが「都市への権利」と呼んだもの──現在存在するものとしての都市的なものを根源的に民主主義的なかたちで領有すること、またより広くより包摂的で民主的な運営方法で、都市的なもの、つまり未来の可能空間を産み出す力を集団的に領有すること★5──に接続するより広範囲の要素、過程、闘争を考慮する必要があります。

もちろん実際問題として、以上のように都市空間を発展させる草の根からの根源的に包摂的で変革的なモデルを、どのようにして達成するかは非常に難しい問題です。しかしただそれを議論の俎上に載せ、議論しつづけるだけでも、私たちは、富裕層、資産家、投資家、デヴェロッパー、金融資本だけに都市への権利を認める新自由主義的な支配体制に対抗し始めることができるのです。明らかなことですが、デザイナーは、デヴェロッパーや、より一般的には資本によって直ちに必要とされる能力を有しており、市場の要請にただ反応し、自分を一番高く買ってくれる人にその能力を売るよりもずっと多くのことを行うことができます。デザイナーはまた技能を生かして、コモンズ、つまり万人によって産み出され、共有され、絶えずつくり変えられる空間としての都市的なものの構想を促進することもできます。デザイナーは、交渉において、しばしば自分が思っているよりもはるかに強い立場にいます。なぜならば、彼らの専門技能と想像力は、より広範な社会、政治、エコロジー面での変革に、非常に効果的に寄与できる大きな潜在力を働かせるものだからです。デザイナーはもっと政治的かつ倫理的な見識をもてるはずです。デザイナーは、顧客の厚かましさと要望を受け入れ、市場の要請に従うこと以外に「オルタナティブはない」などと決めてかかるよりも、自らの仕事にふさわしい規範的要件に関する価値判断を下せる、と私は思うのです。

デザイナーは、さまざまな組織や金融構造のなかで仕事をしています。それは小さなスケールで独立したコンサルタント業務から、大規模な労働力、専門機器、インフラストラクチャーを管理するArupやAECOMのような非常に巨大なスケールを有する国際的な企業にまで及びます。私たちは、進歩的ないしは急進的なデザイン研究の促進に寄与できるさまざまなありうべき制度、金融、科学技術の再配置について、さらにはそれらが現代の都市的生活様式をつむぐ社会、空間、環境の織り目(fabric=構造)にもたらす結果についてもっと考える必要があります。純粋に利潤を追求するだけの枠組みでは、デザインはただ利潤最大化と投機的投資の道具として機能するよりほかにはありません──ひいては搾取、略奪、排除、不正義、浪費からなる都市をいっそう強化することになるだけです。しかし、別の枠組みは可能なのです。そこではデザインが、進歩的な社会変革、社会的・文化的実験、民主化、社会的地位の向上、環境改善などの強力な媒介となることができるのです。

市場の権威的イデオロギーが絶えず世界中を支配する現状においてさえ、デザイナーに対しては、より社会的に統合され、エコロジー的に均衡がとれ、領域的に一貫性のある都市構造を生み出すことへの寄与を求める要請が新たに生まれているように思われます。加えて明らかなことですが、想像可能なあらゆる空間スケールにおいて、このような進歩的・急進的なデザインが差し迫ったものとして求められています。それゆえ、社会的に進歩的で急進的なデザイナーにはなすべき多くの仕事があります。とりわけオルタナティブな都市生活と、都市的かつ地域的変革の新たな経路に向かう構想や戦略を産みだすために、どのようにしてより効果的に自らの能力を用いることができるのか、という仕事です。

イバネーズ──デザイナーの批判的で政治的な仕事において、視覚化と表象の戦略によって果たされる役割とは何でしょうか。このような空間をめぐる知性は、より社会的に公正で、民主的に管理され、さらにはエコロジーにも配慮した建造環境に向けた闘いに、デザイナーが提供できる固有の能力のひとつなのではないでしょうか。

ブレナー──いまでは、私たちはきわめて精巧な地理空間データソースと専門的なプラットフォームをもっているので、私たちは微粒子から地球までのあらゆるスケールで無数の地域的・生態的状況に関する視覚化をかなり容易につくりだすことができます。しかもそれは、見た目において非常に洗練されながらも情報量の多いものです。結果として私たちは、今の複雑な世界を本当に画像レベルで複製することができたという幻想を信じ始めているのかもしれません。このような想定から、私には、新しい地図作製の実証主義と考えられているものが生みだされているように思えます。それはつまり、地図が生活を模倣的に反映するものであるという傲慢な思い込みです。

イバネーズ──おそらくボルヘスの有名な寓話「学問の厳密さについて」に似たところがありますね。この短編小説では、最終的には模倣の欲望こそが、地図によって表象されるはずの帝国全体という実物スケールにまで地図を拡大させることを地図作製者に強いるわけですね。

ブレナー──まさにその通りです。けれども、地理空間に関する主流派の研究手法にあるうぬぼれは少し違うものです。というのもそれは、ただ視覚化を実行する機械のなかで、多くの微粒子的な空間データ形式をレイヤー化することを通じて、「帝国」の複雑性を捕獲するダイアグラムを現実に創りだせる──まさに、ボルヘスの寓話におけるように、世界全体という大きさにまで拡大された地図を作製する必要なしに──と述べているからです。このような傲慢な欲望に対抗するために、都市的なものの単一のダイアグラムは存在しないし、これからも存在しないということを主張したいと思います。都市理論研究所では、この巨大で徐々に影響力を強める地理空間に関する機械装置を批判的に反省的な仕方で今後使いこなせるかどうかという問題とつねに格闘しています。これまでの研究では、明示的に反模倣的である地図化の手法を追求してきましたし、画像データの錯覚に積極的に抵抗しようとしてきました。私たちの野心は、都市化の問題系にアプローチしながら、対抗的視覚化の文化を創りだすことにあるのです──言い換えれば、地図があたかも都市的過程の複雑性を本当にまるごと捉えているかのように地図自体を提示するよりも、はっきりとそれ自体の人為性、つまり地図が有する抽象、構築、解釈としての役割に目を向けさせるような地図を作製することにある、ということです。再び言い換えれば、ここでは抽象が、イデオロギーに反対する抵抗──古典的なマルクス流の動きですが、現代ではそれが視覚的な形態をまとうのです──となるわけです。

このことと同時に私たちの研究では次のことを主張しています。機械それ自体、つまり現代の地理空間データの視覚化装置というのは、衛星網や広範なスケールの情報処理システムを備えながらも、きわめて特殊なメタ地理学的構築物、限定された解釈様式に基づき、世界の都市や地域の景観を積極的に再形成しようと試みているさまざまな制度(国家、企業)に直接結びついている、ということです。この意味において、地理空間データが、中立的な「現実」を表象するのに徹したレンズを提供することはめったにありません★6。それゆえ、資本主義下の地球に拡がる都市的なものの「帝国」を表象する目的で、たとえこうしたレンズ(そして言うまでもなくほかのもの)の能力を利用しつづけるとしても、レンズそのものの媒介作用を暴露することによって、私たちの批判的な表象能力をこうした機械に向け直す必要があるのです。これを実行するのが、ある種の批判理論的レベルの反省を、空間的に実現するということなのです。私は長らく、このことにテクスト上での研究を捧げてきました。それゆえ私たちにとって、対抗的視覚化のプロジェクトは、都市化のオルタナティブな形式を構想し、最終的にはそれを産みだすという集団作業に絶対的に不可欠なものなのです。

イバネーズ──だから、あなたは基本的に、地図作製が政治的声明であるべきだと言うのですね。

ブレナー──建築、景観設計、プランニング──デザイン分野のすべて──もまたそうです。それらは政治的声明でなければなりません。ただし、それは単に国家機関が政治的なものを定義するといった意味においてのことだけではありません。それらは、想像的な構想、実践能力、空間的知性の形式、地域への介入手段を結集して、人々が日常生活のなかで、また日常生活を通して、都市的なものを領有し、共有し、変革できるよう促すという根源的に自主管理的な意味でこそ、政治的言明でなければならないのです。



翻訳:平田周



★1──カリフォルニア建築大学California College of Architecture(CCA)のクリス・ローチ教授に、彼がニール・ブレナーと行い、以下の文献で公刊されることになった初期の対話の要素を踏襲することを許可してくれたことに感謝したい。The AGENT, California College of the Arts/CCA (March 2014). 私たちは編集に協力してくれたアダム・タナカにも感謝を記したい。
★2──以下を参照。Neil Brenner and Christian Schmid, "The 'Urban Age' in Question," International Journal of Urban and Regional Research 38, no. 3 (2014): 731-55.
★3──Neil Brenner, ed., Implosions/ Explosions: Towards a Study of Planetary Urbanization (Berlin: Jovis, 2014). 以下も参照。 Neil Brenner and Christian Schmid, "Towards a New Epistemology of the Urban," CITY 19, no. 2-3 (2015): 151-82; and Neil Brenner "Theses on Urbanization," Public Culture 25, no. 1 (2013): 86-114.
★4──Henri Lefebvre, State Space World, ed., Neil Brenner and Stuart Elden; trans. Gerald Moore, Neil Brenner and Stuart Elden (Minneapolis: University of Minnesota Press, 2009).
★5──Henri Lefebvre, "The Right to the City," in Writings on Cities, ed. and trans. Eleonore Kofman and Elizabeth Lebas (Cambridge, MA: Blackwell, 1996): 63-184; David Harvey, "The Right to the City," New Left Review, 53 (September/October 2008): 23-40. さらなる議論の展開として、以下を参照。Neil Brenner, Place, Capitalism and the Right to the City, Keynote Lecture, Creative Time Summit, New York City, November 2013: 以下のアドレスで閲覧可能である。 ttps://www.youtube.com/watch?v=V_dk7-8Hms8
★6──この議論は以下の文献でさらに展開されている。Neil Brenner and Nikos Katsikis, Is the World Urban? Towards a Critique of Geospatial Ideology (New York: Actar, forthcoming). 以下の先駆的な文献を参照。 Laura Kurgan, Close Up at a Distance: Mapping, Technology, and Politics (Cambridge, MA: Zone Books, 2013).
Neil Brenner, "The Agency of Design in an Age of Urbanization - Dialogue with Daniel Ibañez" Critique of Urbanization: Selected Essays, Basel: Birkhäuser, 2016, pp.224-236.


ニール・ブレナー(Neil Brenner)
ハーヴァード大学デザイン大学院(GSD)教授。都市理論。主な著書=『Implosions/Explosions: Towards a Study of Planetary Urbanization』( Jovis、2014)、『New State Spaces: Urban Governance And The Rescaling Of Statehood』(Oxford University Press、2004)、『Critique of Urbanization: Selected Essays』(Birkhauser Architecture、2016)ほか。編著書=『Spaces of Neoliberalism: Urban Restructuring in North America and Western Europe』(John Wiley & Sons、2003)、『Cities for People, Not for Profit: Critical Urban Theory and the Right to the City』(Routledge、2011)ほか。

ダニエル・イバネーズ(Daniel Ibañez)
ハーヴァード大学デザイン大学院(GSD)。建築家、都市理。編著書=『Wood Urbanism: From the Molecular to the Territorial 』(Actar、2018)、『Third Coast Atlas: Prelude to a Plan』(Actar、2017)、『New Geographies, 6: Grounding Metabolism』(Harvard Graduate School of Design、2014)ほか。

平田周(ひらた・しゅう)
1981年生まれ。日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、南山大学外国語学部フランス学科准教授。思想史。論文=「人間主義論争再訪──アルチュセールとルフェーヴルの理論と実践における人間の位置」(『相関社会科学』第21号、2012)、「ニコス・プーランザスとアンリ・ルフェーヴル──1970年代フランスの国家論の回顧と展望」(『社会思想史研究』第37号、2013)など。共訳=クロード・ルフォール『民主主義の発明』(勁草書房、2017)など。


201811

特集 プラネタリー・アーバニゼーション
──21世紀の都市学のために[前編]


プラネタリー・アーバニゼーション研究の展開
ジェントリフィケーションをめぐるプラネタリーな想像力
「広範囲の都市化」が生みだす不均等な地理──後背地、ロジスティクス、地域闘争
インタビュー:都市化の時代におけるデザインという媒介作用
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