ショッピング・モール──ミューザック、誤聴、そしてフィードバックの生産的な不安定さ
- Brandon LaBelle『Acoustic Territories:
Sound Culture and Everyday Life』
(Bloomsbury Publishing, 2010)
振動、妨害エコー、そしてラウドネスなどの音的現象の特徴は、音響デザインを通した建築上の調整によって、緩和あるいは制圧されることがほとんどである。これは、特に家庭環境や職場環境において観察される。機器や隣人を音源とする、複数の居住空間を横断する音の妨害的効果は、遮音・防音などの音響的取り組みにつながった。イギリスでは、壁、床、階段に関して、空気伝送音と衝撃音の双方に対して防音をする義務があり、「音の伝達に対する妥当な抵抗」の必要性が強調されている★2。住宅に位置づけられた瞬間、空間音響は美的快楽や音声の明瞭性から、健康と安全性へと焦点をずらす。
空間と音響に関する研究は、音楽技術や電子音響音楽などの分野でも盛んに行なわれ、特に音の動きを動的に組み込む作品などに顕著に現われている。電子音楽のスタジオにおける音的事物(sound matter)の加工と成形は、しばしば建築や空間性に対する問いとともに展開され、作曲的な作業と組み合わさると、耳を多次元的にアクティベートする音を生み出す。音響的性質と電子音を結合することによって立ち上がった心理音響的な音像(sonic figure)は、ソニック・アートの歴史を紡ぎ、今もさまざまなかたちで展開されている。1950年代からの電子音響音楽とソニック・アートのレガシーは、音的・空間的な認識を活用する現代の実践にも見られる。現在の音的実践の多くは、建築や音の位置性に対する感性を組み込み、あるいはそういった感性を前提とし、音の空間的なふるまいの可能性に対する認識を共有している。1990年代に入ると、この認識は映画やホームシアターシステムのサラウンド・サウンド技術などにも適用され、マルチチャンネル・オーディオが一般でも使われるようになった。
この音と空間への認識をさらに広げて、以下ではショッピングモールについて考えたいと思う。ショッピングモールは、きわめて身近でありながら、同時に複数の音的・空間的要素を含む、意外にも複雑な音響デザインを呈している。筆者は、ショッピングモールが巨大な消費文化の勢いに巻き込まれながらも、聴覚(やその他の感覚的事象)の生理学的・心理学的な動態を活用する、「環境建築」を表現するものとして捉えている。それは、特定の建築物の場所的条件を勘案したうえで、音と空間を精巧に構築するものである。それゆえに、日常の「音響領域(acoustic territory)」のなかで、音体験と完全に結びついた空間政治の歴史を浮かび上がらせる、魅力的な地点を提供する。
ショッピングモールは、多様な公共ニーズや交流に応える、活気があり、開かれた空間性を呈する。多くの場合、地域にとって買い物だけでなく、それ以上に集会や住民の参加にとって重要な位置を占める、中心的な公共空間として機能する。そして、多くのエンターテイメント施設も取り入れているため、顧客に対してきわめて幅広い活動を提供している。従って、音響的には、一般的に多くの要素を含む、環境音に満たされた活発な状況を生み出す。こどもの遊び場からフードコート、歯科施設からフィットネスセンターまで、モールは体系的な管理構造のなかで、多くのインタラクションに満ちている。公共的な会合の感覚を構成し提供するモールは、一挙にコミュニティセンター、時間をつぶす場所、消費者のファンタジーに応える場所として機能する。ここで注目したいのは、モールがその空間内に張り巡らされたインターコムやスピーカーシステムを通して、電子音や録音された音を能動的に演出することである。それは、一般的には、モールの雰囲気を効果的に形成する、背景音楽の増幅というかたちをとる。このような増幅は、ショッピングに伴う移動やくつろぎといった感覚──顧客は、ブラウジング、試着、想像などを通して消費実験を体験しながら、妨害されることなく必要な品にたどり着けなければならない──を後押しし、モール体験の流動性を強調することを目的としている。そういった意味では、モールは筋書きが事前に定められた場所であり、その遂行のために、音楽や音が極めて重要な役割を担う、「雰囲気」や「アンビエンス」などといった建築的ボキャブラリーに依拠する。
モールを、雰囲気的で心理音響的な公共環境として検証するうえで、特有の音像である「フィードバック」についても考えたい。車の運転手が振動的感知の範囲内に位置するのとは対照的に、モールの買い物客は、自らの欲望のイメージを帰還してくるように設計された、精巧な環境に条件づけられる。買い物客は、満足感や充足感が部分的に達成される、あるいは達成が想像されうるような服や、家具、電子機器を求めてモールにたどり着く。その意味において、モールは心理的・感情的な力のネットワークとして、個々の身体の欲望の流れを予想する。つまり、買い物客のエネルギーを利用すると同時に、消費の歓喜と充足感というかたちでそのエネルギーを買い物客に帰還するのだ。このフィードバックは、全てを覆う網として、無数の流動的な生産と消費の粒子に従って推移し続ける、不安定な効果として作動する。
音エネルギーとして捉えると、フィードバックは希薄なまでに引き伸ばされる。それは、マイクのような電子音源とスピーカーのような増幅源の間に、特にそれらの接近した位置によって生じる音の筋として発生し、ループ的なハム音をもたらす。フィードバックは、インプットがアウトプットを出力し、そのアウトプットがまたインプットに影響するという、自己完結型の因果関係を確立する。これは、いかなるシステムにも内在するものとして考えられ、その影響はポジティブにもネガティブにもなりえる。
フィードバックの作用は、コミュニケーションの研究にも出現する。バリー・トゥルーアックス(Barry Truax)の「音響的コミュニケーション」に関する重要な研究では、音響情報の「フィードバック」が「環境への順応、および最も一般的な意味で他者との関わりにおける自己の認識」にとって不可欠なものとされている★3。フィードバックは、コミュニケーションの経路として、自己と環境が変化しつづけるなかでその把握を可能にし、環境に対するポジティブな感受の経路を開く。つまり、フィードバックとは音響的インタラクションの「登録」のようなものであり、接触や接続のポイントだけでなく、破損や遮断のポイントを指し示す。そして、その過程で、自分の存在がより広い音響的生態系への積極的な参加者であるという感覚と共に、場所や場所化(emplacement)に対する位置感覚を生む。
このようなフィードバックの解釈と照らし合わせて考えると、モールは複数のレベルにおける音響コミュニケーションをあぶり出すための環境状況を提供するものである。これらを追求するうえで、モールがいかにして知覚の物質性を総動員して主体性を生産しているのかについても検討したい。この主体性の生産は、流動と切断、そして興奮と失望の不安定なバランスのなか、そして身体と環境、自己と客体の動的な関係性のなかで生じるものである。つまり、モール内に見受けられるフィードバックは、音響情報の不安定な流動の交換として生じ、密かなパフォーマンスとして立ち上がることもあれば、誤聴の瞬間に破綻することもある。モールは、筋書きが書き込まれた空間であるが、その表面上の単調さとは裏腹に、多様な強度を織り込んでいくなかで音を通して複数の経路を開いていくのである。
モールは、複数のパフォーマンスを活性化させる入れ物として機能する。それらのパフォーマンスは、モール文化を消費主義からの社会的価値の撤退----純粋な資本を原動力にする匿名的で非人格的な空間──と捉える観点を強化すると同時に、建築的効果が織りなす現象に対する好奇心も引き起こす。日常生活の研究の一環としてモールについて考えると、ネガティブに解釈されることが多いモール文化を再評価する可能性を見出すために、モールの回廊や店にとどまりたくなる。スピーカーから流れる次の曲を待ちながら、店員と顧客が野球リーグで起こっている問題について話しているのに耳を傾ける。この観点からは、モールは筋書きが完全に書き込まれた音響・空間デザインと、そこで生じる多様な公共体験の合流点として浮かび上がってくる。マネージメント文化に起因する、音と聴覚の心理的・社会的効果を引き出す演出の場。この総合的な音体験のなかでは、社会的なつながりの揺らぎもまた、モールの筋書きのなかの外縁的あるいは入れ子的な存在として聞こえてくるかもしれない。このようにして、本論ではモールを背景音楽の効果と環境建築に見受けられる豊かな曖昧さが形成する、複雑な聴取を発生させる空間として提示したい。
〔...中略...〕
音響フィードバックの全域において背景を参加者とすることで、モールにおける聴取は「注意散漫」なかたちもとることになる 。「気が散ること(distraction)」は、しばしば意外な思考や感情、ひらめきや意味をいざなってくれる。よって、気が散ることは音の一次的事象を取り囲むすべてを認識するための生産的なモデルとして機能しうる。そして、それは「通常聞こえる範囲外にあるものが突然聞こえる可能性」を示唆する。音環境を、その多次元的複雑性を含めて察する能力を可能にする、あるいは醸成するのだ。気が散ることは、特定の構造内やにおいてパフォーマンスや期待されるふるまいを行なう──想定したゴールに達するか達しないか──という感覚を緩めることで、最終的には空間に書き込まれた筋書きを崩す機能を持ちえるかもしれない。気が散ることは、潜在的により人間的であることなのだ。
背景音楽の制作は、実効性あるインプットの生産への参加者としての背景の理解につながる、重要な鍵となるかもしれない。 ミューザックは、背景を露わにするものとして、現代の環境における強力な意味作用を持ったものとして聞けるだろうか。そして、「注意散漫な聴取」は、社会空間において自己の筋書きを書き換えるためのポジティブな語彙として導入できるだろうか。背景は、新しい接触を醸成するための現場となるかもしれない。それは、周辺的でマイナーなエネルギーを引き出し、見過ごされるものに居場所を与える契機となり得る。ミューザックやその他の環境テクノロジーは、新しい主体性を発生あるいは誘発させるからこそ、背景に居座っているのだ。
〔...中略...〕
モールを「音の建築」として扱うことで、「聴取」を極めて能動的な要素として強調してきた。そうすることで、音体験の影響が劇的に前面に押し出され、心理力動的な抑揚を持った場のアンビエンスが引き出される。この劇性を明らかにするために、手垢にまみれた「音分裂症(schizophonia)」の議論や、感覚を操作することで「自由」を侵害するものとしてのミューザックといった議論を避けるようにしてきた★4。むしろ、「曖昧さ」を導入し、「誤聴」を受け入れることで、背景音楽の可能性を指摘した。
物理的そして空間的な動きとして、音は音源となった物体や身体の条件に関する情報の束とともに、それに関連する環境をも運ぶ。トゥルーアックスが「音響情報のフィードバック」と呼ぶものを創出するのだ。しかし、コミュニケーションの媒体としては、音が運ぶ情報は本質的に一次的で一過性のものである。環境へ消えていくものとしてしかコミュニケーションを成立させることができない。したがってコミュニケーションに対して重要な媒体を提供すると同時に、意味作用を不安定にもさせる----世界とお互いを聞くことを可能にしながら、同時に聴取の豊かな曖昧さと対峙させるのである。そういった意味でも、「フィードバック」は、つねにノイズになるか静寂へと消えていくかの線上を進む、絶え間ないプロセスなのである。可聴な事象の距離、親密性を生みながらも気を散らす空間、そして連帯感や転移などによって、強度が上がったり下がったりする。このようなコミュニケーションのモデルは、調和も安定もしておらず、継続的な折衝や驚きを伴う他者との関係性を導入する。そして、それこそが筋書きの書き込まれた可聴空間に、拭い去ることのできない影を招き入れるのだろう。
翻訳=松山直希