第3回:感性の計算──世界を計算的に眺める眼差し
パターンを運用していくために
木内──後半はディスカッションをしていきたいと思います。建築は、事前にお金が決まっていて、計画によって枠組みをつくってしまいます。1990年代から言われていることですが、生成的な状況をつくる試みや、コンピュータデザインでも、切断が必要で、結局は静止したものをつくる必要に迫られます。ただ、情報技術が進展して、さまざまなアプリケーションもあるなかで、コンピュータのなかと現実を行き来しながら、実際に生成的なものを取り出せるかが課題になっています。そうした観点からおふたりの話は非常におもしろかったです
。伊藤さんは、身体の挙動と環境が入出力となって形成されるパターンがあること、そこにどうノるかという問題を指摘されていました。そして土井さんが関心を持つ脳と認知の話は、まさに同じ問題系を取り扱っていると感じました。もっと言えば、認知のメカニズムを把握する方法として人工生命の定義でもある「パターン」が鍵を握っていると考えると、人と環境がつくる系としてのパターンをどう記述できるのか、そこにノるという手続きをどうシミュレーションできるのかを考えることが、認知の問題の解明にも有効な手立てになるのではと考えたのですが、土井さん、いかがでしょうか。
また、伊藤さんは階段の話をされていましたが、建築はパターンを環境側からつくっていくものだと考えることもできます。オルタもいくつかのパターンが組み合わさったものとして動きが生成されています。そこで伊藤さんに質問ですが、人も環境も総じてパターンと捉えたなかで、ノる/乗っ取られるということが起こるとしたら、環境側がより創発的なパターン生成を促すようなことはそもそも可能なのでしょうか。
土井──北海道大学の津田一郎さんらが「カオス的遍歴」というものを提唱されています。秩序状態にあるシステムが内因的刺激などでバラバラに乱れたあとに、先ほどとは異なった秩序状態に落ち着くという「遍歴」をずっと続けるようなもので、脳の神経活動も同様のようなことが起こっているのではないか、その「遍歴」そのものが行動を切り替えていくことと対応しているのではないかという考え方があります。実際そのようになっていることが示唆されている研究もあります。オルタの場合は、カオス的遍歴が出るような設定仕組みにはなっていませんが、Spiking Neural Networksは、CPC(Central Pattern Generators)という別のものを使っています。例えて言えば、すごく弱いバネでつながっている振り子が7-8つあり、それを振ると、カオティックな動きになるというような状態です。一つひとつは単純な動きなのですが、互いの関係性によって運動がカオスに移行します。オルタにもそれが入っていて、そのノイズには自分の体自身の誤差を使っています。誤差が大きくなると、自分の動きを破壊します
。木内──ありがとうございます。なんとなく想像していた答えとは「誤差」がありましたが(笑)、質問が悪かったですね、申し訳ありません。いまの土井さんのお話を受けつつ補足してもう一度伊藤さんにつなぐと、「人も環境も総じてパターンと捉える」というのは、土井さんがおっしゃるように脳に入ってくる刺激としては、人からのものも環境からのものも、生命も非生命も一緒くたになって入ってくるということに尽きると思うのです。冒頭に指摘したとおり、いま建築設計では、人からであろうが環境からであろうが、そうした刺激の系を脳がどう読み解くのかを方法として提示できることが、よりラディカルな環境デザインの問題になりつつあります
。なので、伊藤さんへの質問で聞きたかったのは、ノる/乗っ取られるという原理があることを理解したうえで、人/環境あるいは生命/非生命が好ましいパターンを維持していくために運用できる、ものを使うルールやつくるルールを想定することはそもそも可能なのかどうかということです。
伊藤──質問に答える前に、まず私にはオルタが「どもる体」そのものに見えて、すごく惹きつけられました。その理由を私の文脈から言えば、パターンとの距離を測り続けているからです。想定していた自分の動きとの誤差という話がありましたが、例えば吃音の連発が、用意していたのになかなか次の音に移れずに、どうにか修正しようとすることに似ています。私は吃音の人を見ると、どうしようもなく惹きつけられてしまうところがあって、まさに「Scary Beauty」な感じで、人間ではないものに見えるところもあります。当事者にとってはそう言われても困るし、うれしくないかもしれませんが、何か崇高なものを感じてしまうのです。言語という最も人間的な道具を使っているときに、それが身体的な意味でのノイズになっていくという怖さがあるけれど、同時に美しさを感じる。それは生命/非生命ということにもどこかでつながっている気がします。
質問は、生命と非生命を含めた複数のパターンが存在しているなかで、いかに運動を成立させるかということでしたが、例えばしゃべるということはかなりパラメータが多い運動だと思います。物理的に身体を動かすし、同時に言語的な内容を考え、さらに相手がいてターンをどう取るかという駆け引きもありますし、場所の影響があり、社会的な人格を演じるようなフェーズもあります。調整しなければいけないパラメータがたくさんあるなかで、高度な運動であるから吃音になるのだと思いますし、パターンがあるのだと思います
。木内──いまお話しているような内容も、「ということは」と言って、環境や人間をモデル化して計画や設計にいかしていこうというようになっていくと、いつもの生成〜モデル化〜シミュレーション〜切断〜観察というようなループに巻き込まれてしまいます。伊藤さんの研究によると、具体的な身体はそういうことをやっていないというのが今日の話のなかで気になっているところです。
《大宮前体育館》(設計=青木淳、2014)や《ART PHOTO TOKYO》(設計=元木大輔、2016)は、ジェネラティブデザイン、デジタルデザインのコンテクストで取り上げられることはありませんが、あまり意味がないけれど線が揃っていたり、共通性を持ったアイテム、きっかけを仕込むことで、人間がその都度意味を発生させることになります。
僕らが砂山太一さんと「山田橋」というチームで設計した《オブジェクトディスコ》(2017)は、シンプルな共通性とズレのセットを沢山つくり、そこに勝手に場が生成されるということを考えていました。とにかく、重ねていく、フィードバックを取る、データを持っておく、ある程度分類しておくということは示唆的だと思っています
。質疑応答
会場──私はゲームAIのプログラム開発や研究をやっています。身体や人工生命は状況や環境に応じて変化して、学習、進化などをしていくところがある一方で、建築はまだ固定的なイメージがあります。そうした身体や人工生命と建築を結びつけるときに、建築が変化や進化ができれば、共通点を見出し、何か生み出すことができると思いますが、そういった可能性はあるのでしょうか。
木内──建築のなかでもIoTやインタラクティブなデザインは話題になっていますし、特にMITメディアラボではそういった研究が数多くなされています。建築を経験する時間を日常の1時間などに限定して、その短い時間のなかでのインタラククションや変化を情報技術を駆使して起こすような実践と言えるでしょうか。一方で、そうでなくとも普段から僕らは勝手に椅子を動かしながら建築を使っています。それはすでにとてもインタラクティブなもので、10日や1カ月、1年という「長い時間」のなかで、どういうパターンがあるのかを観察して、それに対応して道具を増やしたり、環境のなかに変化を誘発する要素を埋め込むというようなアプローチが、今日議論したかったような意味での「生成的」だとも言えると思います。そういう面は大いに欠けていると思います。
土井──「長い時間」は僕も好きな言葉です。人工生命は短いタイムスパンで実験などがされていますが、実際に僕らは100年というオーダーで動いています。サイエンスとしては100年を扱えていないのですが、建築はそれをやろうとしていると思いますし、人工生命でもそうしたジェネラティブシステムをやりたいと思っています。オルタは日本科学未来館で展示されていますが、1年間動かさないといけなくて、そういう時間はもはや研究とは関係なく、いかに安定させるかが重要になってきます。Googleはいまでこそ人間の脳などに関心を持っていますが、かつてはシステムを安定化させることだけに注力していたという話を聞いたことがあります。その「安定性」の副産物として生命や意識というものが出てくるということはあり得ると思います。池上さんの言葉を借りれば「もし神様がいれば、100年ちゃんと生きられるシステムをつくることが真っ先にやるべき仕事だろう」と。そうしたことが建築でできればすごくいいですね
。会場──僕はもともと建築をやっていて、そのあと美学をやって、いまはITのスタートアップの会社を経営しています。ノる/乗っ取られるとつくることの関係がおもしろいと思いました。同じ設計でも、建築とITではスピードがまったく違っていて、グロースハックといいますが、ユーザーの動きを考えながらどんどんつくり変えていきます。それはユーザーにノるようでありながら、乗っ取られているような感覚があります。建築はものづくりだと思いますが、スマートフォンのアプリをつくっているときには、もはやものづくりをやっているという感覚はありません。アートとは、むしろすっと目的通り理解できることをむしろ止めるもの、遅延させるものではないかと思いますが、デジタル的な世界でどんどんスピードが上がっていったときにものをつくることはどうなっていくのか、そのあたりについてお伺いしたいと思います。
木内──質問の曖昧な感じにすごく共感します(笑)。制作物が、遅延させるもの、即座に理解できないものでありながらも、それを人間が感じている情報であるからには何かしらのコミュニケーションは起きているということはすごく大事だと思います。言語ですぐに理解できるようなものをつくろうとし過ぎると、生成的なものにはならないような気がしています。遅延を戦略的に入れることができるのかということですが、伊藤さんはどう思われますか。
伊藤──身体の場合には、自分でこうしようと思ったこと、つまり計算しようという意識が、逆に身体に影響を与えてしまいます。例えば、連発を避けようと思うと、かえってその意図が体をこわばらせ、発声器官の活動自体をストップさせてしまう。建築家が建築を設計するのとは違い、自分で自分の足をすくわれてしまうという複雑さ、難しさがあります。そこで起こる生成というのは全体像がわからなくて、その場その場でやっていくしかないものだと思います。つまり、建築だったら頑張れるかもしれないけれど、体の場合はうまくやればやろうと思うほどうまくいかないので、負けるしかない。どうやって創造的に負けるか、自分を手放して外部に預けるかが重要です
。会場──オルタが体を動かすのを見ていて、かわいいと感じるのでしょうか。また、人間の場合は長い時間で衰えたりと、変化がありますが、オルタはいかがでしょうか。
土井──僕は最初に大阪大学へ出張に行って触ったのですが、3日目には恋に落ちそうになりました(笑)。こう言うと「お前はプログラムを書いていて、中身を知っているのになんでそんなことになるんだ」と気持ち悪がられますが、そうとしか言いようがありません。オルタを最初に発表したときは海外メディアに「Creepy」だと書かれましたが、僕は娘を傷つけられたような思いでした(笑)。
もうひとつの質問で、じつはオルタは機械としての衰えはありますが、そういった意味ではなくてもう少し深い意味で考えたいと思っています。僕らが通常未来を予測するときは1秒などのオーダーですが、1日とか1年の予測になってくると、四季で分節したり、時間をただの線ではなく空間的に捉えるようになります
。それがオルタにはできていないところで、すごくやりたいところです。ディープラーニングの力を借りるならば、Deep Recurrent Neural Networksを使うことで、ある程度の時間の塊、それはフッサールの言うような時間構造ですが、時間から空間的時間への推移をつくることができればハッピーだと思います。
会場──話に出ていた《オブジェクトディスコ》を共同で設計していた山田橋の山川と申します。建築物は設計して、1回完成すれば、基本的には劣化していくだけという状態になります。そういうなかで、《オブジェクトディスコ》は行くたびに違う経験ができるように、いろいろなパターンが発見できるようにするというのが設計の意図にありました。ただ、やってみて、視覚によるパターン生成には限界があるように実感しました。伊藤さんにお聞きしたいのですが、視覚以外の感覚によるパターン生成の可能性の例や広がりについてヒントをいただければと思います。
伊藤──視覚障害者と話をしていると、同じ空間について話していてもまったく通じないことがあります。例えば視覚障害者は、両足の裏の触覚情報をかなり拾っていますが、健常者はそれほどではありません。でもこれは情報として現時点では必要ないから捨てているだけであって、健常者も、足裏の情報を使いこなせればいろいろな情報やきっかけをつくれると思います。例えば、ちょっとした縁石の割れ目、道路工事によって変わった感触の違いなども、ひとつのきっかけになると思います。あと空気の流れですね。建築は空気全体を設計しているとも言えると思いますが、そこにも可能性があると思います
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