彫刻と建築の問題──記念性をめぐって

小田原のどか(彫刻家、彫刻研究)+戸田穣(建築史)

アメリカ・ドイツをめぐる記念碑の議論

小田原──第二次世界大戦以後のモニュメントやメモリアルを考えるうえでは、アメリカやドイツでの議論も参照する必要があると思います。マリタ・スターケンというアメリカの歴史家が、メモリアルとは死者のリストやテクストが刻まれた死者を想起させる慰霊の碑であり、モニュメントとは説明書きが少なく匿名的で、勝利を顕彰する碑であると『アメリカという記憶』(未來社、2004)で書いています。アメリカという国では、このような区分が有効であることは理解できるのですが、別の国や場所でこれほど明確に分けられるのかは疑問です。特に日本では、「慰霊」と「顕彰」に加えて「追悼」があります。近年、宗教学者の方たちが「慰霊・メモリアル」と「顕彰・モニュメント」という区分けをより詳細に検討しています★9

いくつか記念碑の具体例をあげたいと思います。沖縄県の糸満市にある「平和の礎(いしじ)」(1995)[fig.9]は、ドキュメンタリー作家の上原正稔が、マヤ・リンによる《ベトナム戦争記念碑(Vietnam Veterans Memorial)》(1982)[fig.10]を知り、亡くなったベトナム人の名前が刻まれていないことに疑問を持ったことに端を発し、そのアップデートとして、軍人・民間人や国籍の区別なく、沖縄戦で亡くなられたすべての方の名前が刻まれることをコンセプトとしています。

fig.9──「平和の礎」[Syohei Arai / CC BY-SA 4.0 / 2007]

fig.10──《ベトナム戦争記念碑》[Kārlis Dambrāns / CC BY 2.0 / 2012]

小田原──「平和の礎」の参照元となった《ベトナム戦争記念碑》は、当時21歳の建築を学ぶ学生だったマヤ・リンの案がコンペで選ばれて建設されました。1979年に行なわれたベトナム戦争記念碑基金主催のコンペの条件には、「戦死者や戦闘中に行方不明になったひとびとの名を刻み込むこと」(『アメリカという記憶』96頁)や「記念碑自体が政治的な意味をもたず、周囲に溶け込むようなものにすること」などが課されていました。死者の名を刻むことは、マヤ・リンのアイデアではなく、コンペ参加の条件だったわけです。帰還兵の指示には「メモリアルを創作することが癒しの過程を始めることになるように希望している」とあったようですが、その背景には、NCFA(the National Commission of Fine Arts)が1947年に作成した戦争メモリアルについてのガイドラインがあると言われます★10。このガイドラインには「名前の永続的記憶」「自由という大義の下に名を残した者への感謝」「輝かしい行為を規範に後世に伝える感化」の要素などが規定されています。さらにパリの凱旋門や《サモトラケのニケ》なども手本にして、メモリアルの訴求力が高まるように、ギリシャ、ラテン文字の詩文からの引用が推奨されています。

マヤ・リンによる抽象的な造形プランが一等になったあと、誰の目からも戦争メモリアルであることがわかるようにと、具象彫刻やアメリカ国旗があるべきだという議論が起こります。そしてそれらが追加されるのですが、特に具象彫刻が付加される過程に、アメリカにとってのベトナム戦争の位置づけが表われていて興味深いです。ベトナム戦争では、例えばアーリントン国立墓地にある第二次世界大戦の記念碑《合衆国海兵隊記念碑(Marine Corps War Memorial)》の原案となった「硫黄島の星条旗」のような、広く流布したヒロイックなイメージがなかったために、勇敢な戦士の具象彫刻をつくることができなかった。結局ある意味では無難な、3人の兵士をかたどった《ザ・スリー・ソルジャーズ》が近くに加えられています。

沖縄でもアメリカでも「名を刻む」方法が採用されていますが、他方ドイツでは事情はまったく異なります。1993年、ドイツの国立追悼施設である《ノイエ・ヴァッへ》に、公の審議を経ないままケーテ・コルヴィッツの《ピエタ》[fig.11]が据えられたことから、大きな議論が起こります。《ピエタ》の設置は、当時首相だったヘルムート・コールの独断的決定でした。ユダヤ人たちの慰霊施設でもあるドイツの国立追悼施設にキリスト教のモチーフを採用することは宗教的図像への安易な依存であること、戦争でなくなった息子を抱いた母のモニュメントは戦争で死んだ兵士だけを追悼の価値的中心に置いているのではないかということ、もともと小作品であったものを作者の死後に4倍以上に拡大したのは作品の改ざんではないか、などの批判があり、これを機に記念碑の造形を見えるかたちで議論していこうという動きが始まっていきます★11

fig.11──拡大されたケーテ・コルヴィッツ《ピエタ》[撮影=大室佑介]

小田原──1994年に始まった《ホロコースト記念碑》の最初のコンペでは、ノイエ・ヴァッヘのピエタをめぐる論争を踏まえ、ナチスや、ユダヤ教の宗教的象徴を安易に用いたもの、具象彫刻は最初に脱落し、クリスティーネ・ヤコプ=マークスによる100m四方のコンクリート製のプレートに、亡くなった420万人分のユダヤ人の名前をすべて刻み込むという提案が一等になります。しかし、ユダヤ人は何千人もの同姓同名者がいるので、生年も記さなければ個人名であっても匿名と同じであることや、420万人という想像を絶する数では、たとえすべての名前を可視化しても匿名であることと同じではないかという指摘、そもそも420万人という数字に根拠がないことや、遺族の同意なしに氏名を彫り刻んで公表することは情報保護法に抵触するという懸念、ユダヤ人にとってホロコーストの想起は人間にとっての最大の屈辱の想起であって、名前を彫ることはそれを永遠化することになるため、家族の名がそこに加えられるならば法的手段を講じて断固阻止するという声明がユダヤ人歴史学者から出されるなど、強い批判が相次いだこともあって、このプランは完全に否定され、実現されることはありませんでした。つまるところ、この最初のコンペは挫折に終わります。さらに、1997年に2回目のコンペが開催されますが、これも挫折を余儀なくされます。ここでも大きな論争が起こり、なぜ記念碑が「芸術」でなければならないのかが問われました。2度目のコンペでは、リチャード・セラとピーター・アイゼンマンが協働して考案した4,000本の柱による「石碑のフィールド」と、ゲネージ・ヴァインミラーの作品が最有力候補となり、ダニエル・リベスキンドとヨハン・ゲルツも加えた4つのプランが最終選考に残りました。しかし、そこから最終案をひとつに絞ることはできず、コンペを終了することもできないまま膠着状態が続きます。ベルリン市長が記念碑建設に反対し、連邦政府とのあいだに対立が生じ、主催者の意思統一が困難になったことなどがその理由とされています。そのようななか、コールは、セラとアイゼンマンの作品へ特別に関心を寄せ、これを受けてコンペ主催者はふたりにプランの実現性を高めるための修正を求めます。セラは、最終案が決定されていないなかでの、このようなコールと主催者の作品への特別な介入は公正性に欠けるとして、修正には応じずコンペから降りてしまいます。1998年、16年続いたコールによる保守連立政権が破れ、ゲルハルト・シュレーダーによる中道左派政権が誕生した際に、記念碑問題の早期解決が明言されます。ですが、依然としてコンペは終了しておらず、最終案を決定する主体も、どのように終了させるべきかも、終了を誰が決めるのかも判然としない状況下にありました。最終的には連邦議会の決議によって、コンペの終了とアイゼンマンの設計プランが実現されることが決まります。

アイゼンマンは積極的に修正にも応じ、《虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑》(通称=ホロコースト記念碑)は、2,711本のコンクリート柱を用いた現在の造形として、2005年に完成しました[fig.12]。ホロコースト記念碑には、一見してそれとわかるような碑文や国旗はありません。訪れてみると、石碑に腰掛けて談笑する若者たちや寝そべっている人もいて、人々はそこでじつに思い思いに、自由に過ごしていました。そういった「開かれた芸術作品」を記念碑とすることが、果たして死者を悼み、過去を想起・反省することになるのかと、いまでも論争は続いています。

fig.12──《虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑》
Holocaust monument - Berlin / CC BY-SA 2.0 / 2009]

小田原──これらの記念碑建立の経緯には、日本、アメリカ、ドイツの文化の違いが表われています。名前を刻むという普遍性があるように思われる方法も、ある場所では良しとされても、まったく否定されることも起こりうる。母子像という図像も、歴史的背景や宗教的立場によっては、受け入れ難いという反応が出てくる。つまり、現状、これが正解だという記念碑の造形はないということです。さまざまな先行事例を参考にしながら検討を重ねていくしかありません。

長崎で母子像建立を契機とした住民と行政の衝突が起きたのは1996年、ドイツでのピエタをめぐる論争は1993年です。母子像という主題、時期、そして行政のトップによる独断的決定がそもそもの契機という構図など、共通する要素が多分にあります。当時両者が接続できなかったのは、本当に惜しかったと思います。《平和祈念像》の問題も踏まえ、日本で記念碑彫刻をめぐる世論をまきこんだかたちでのコンペが始まるきっかけになったかもしれません。とはいえ、安易にドイツやアメリカを「正しい喪」のあり方として、手本にしようと言っているわけではありません。日本には日本固有の歴史と文化がありますから。

戸田──日本でも《国立広島原爆死没者追悼平和祈念館》(設計=国土交通省中国地方整備局営繕部 丹下健三・都市・建築設計研究所、2002)や《国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館》(設計=国土交通省九州地方整備局営繕部 栗生明+栗生総合計画事務所、2003)といった施設ができていますが、それへの批評や議論はあまりなかったように思います。おそらく1950-60年代であればそうした空間がどうあるべきかという議論があったかもしれません。近年、巨大な建設事業についてのトラブルが続いていますが、巨大であるということは、それだけで何かしらの象徴性を発してしまいます。時に感情的な応答を引き起こすもので、それは建築のもつ力でもあるはずですが、その可能性と危うさへの意識は今日かならずしも共有されているようには見えません。1974年に神代雄一郎が「巨大建築に抗議する」(『新建築』1974年9月号)というテキストを発表し批判され、日本における建築批評の分水嶺であったと考えられています。神代の軌跡、そして「巨大建築論争」については青井哲人さんの講演があります★12

このなかで青井さんが指摘している適正規模の問題は、初期の近代主義、特にCIAMのなかでも議論されたことでしたが、青井さんの言葉を借りれば「人が集まる・参加している意識が持てる場」についての問題が、私たちの関心のなかでは重要でしょう。現在の「みんなの家」を巡る問題群とも接続されるテーマです。神代が語った「人間」もとても抽象的なものでしたが、現代における「みんな」とは誰なのか。「みんな」は「家」にどのように関わるのかを考えなくてはいけないでしょう。


★8──小石川建築《石の祈念堂》(2014)
★9──國學院大學研究開発推進センター編『慰霊と顕彰の間──近現代日本の戦死者観をめぐって』(錦正社、2008)
★10──新田秀樹「癒しの壁」『宮城教育大学紀要』34巻(宮城教育大学、1999)
★11──米沢薫『記念碑論争──ナチスの過去をめぐる共同想起の闘い 1988〜2006年」(社会評論社、2009)以下、本節ではこちらを参照した。
★12──青井哲人「基調講演2:神代雄一郎、その批評精神の軌跡」10+1 Website(2013.6)


201808

特集 記念空間を考える──長崎、広島、ベルリンから


彫刻と建築の問題──記念性をめぐって
ドイツの記念碑と共同想起の現在──《ホロコースト記念碑》とコンペ案から
記念碑を内包する記念碑──《ノイエ・ヴァッヘ》の空間と意味の変遷
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