プロジェクション(なき)マッピングあるいは建てることからの撤退

福尾匠(横浜国立大学博士後期課程)

第16回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展が5月に始まった。この文章はその日本館で行なわれている展示のレビュー、ではなく、すでに日本で出版されているこの展示のカタログのレビューだ★1[fig.1]。したがってこれは「書評」で、書評は好きなので書けて嬉しいのだが、「会期中の展示のカタログの書評」となると話はややこしい。しかし同時に、これが書評でよかったとも考えている。なぜならこのややこしさはこの文章の置かれている状況に関わるものであると同時に、この展覧会の「貧しさ」を増幅させるという肯定的な機能をもってもいるからだ。

貝島桃代+ロラン・シュトルダー+井関悠『建築の民族誌 第16回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館カタログ』(TOTO出版、2018)

竣工主義とドローイング主義

「建築の民族誌(Architectural Ethnography)」を掲げる本展は、従来の建築展が平面図、写真、模型を中心に構成され、「作品」としての建築をいかに展示という場において再現するかということに重きを置いてきた傾向に批判的な介入を行なう。本展のキュレーターのひとりであり、本書の共編者でもある井関悠は、この傾向は1932年にニューヨーク近代美術館で行なわれた、美術館における最初の建築展である「モダン・アーキテクチャー」展のときにすでに顕著であったと書いている。動かせない建築を頂点に置いている限り、展示物はあくまで「作品」の劣化したコピーにならざるをえない。というかむしろ、建築と展示の関係をこのように考えること自体が、建築における作品概念と作家概念の純粋さを保証しているのだと言うこともできるだろう。美術においては美術館の中にあることが作品の作品性を担保するのに対して、建築はつねに美術館の外にあることによって作品性が担保される。

本展は建築と展示のこの近代的な関係性を乗り越えるために、平面図でも写真でも模型でもなく、「ドローイング」のみを展示物として選択した。それも建築家が設計のなかで構想を伝えるために描かれたドローイングではなく、すでに存在している建築のなかで人々がどのように暮らしているかを、その建築の設計に携わったわけではない者が描いたものを中心としている。「民族誌」という言葉は、ここに集められたドローイングがそうしたフィールドワーク的な企図のもとに描かれたことを示している。

作家─作品─展示という近代的なトリニティは、その時間性においては「竣工(completition)」を極点とし、それ以前の時間をそこへ向かう目的論的な想定のもとに整序する。したがって設計図や作家のドローイングもまた「作品」の影として考えられ、その展示は空間的な距離だけでなく、作品との時間的な距離にも依存していることになる。『建築の民族誌』のなかにはミース・ファン・デル・ローエが設計した住宅の住人が、そのなかにどのような家具を置いて生活しているかを調査したドローイングが収められている(Juan Carlos Tello「Archeologia Habitacional(住まいの考古学)」ベルリン、 2009-)。モダニズム建築の権化の「作品」で、実際にひとが暮らしているのだ。「竣工主義」というものがあるとするなら、それは当の建築の(制作の)終わりと(作品としての)始まりをその極限において一致させる思考であるのに対して、このドローイングは、そこに住むひとにとっては始まりも終わりもなくたんに「途中」だけがあることを示している。

もちろん「引っ越し」という切断はあるが、それは建築にとっては他者の生活の「途中」に晒され、あるいはそれを受け入れることを意味する。Du Ho Shunの「My Home/s: Stairecases - 2(私の家、階段 その2)」(ソウル、2012)は作家が過去に住んだ家のドローイングを一直線にくっつけて並べ、それらを貫く階段を描きこむことでひとつながりにしている。われわれはヤドカリのように家から家へ、建築から建築へ、自分の「途中」を運んでいるのだ。したがって「竣工主義」に「ドローイング主義」を対置させるとするなら、後者においては必然的にノマド的な生活様式がひとつの主要なモチーフになる。

東日本大震災に被災したある家族が6年のあいだに11もの異なる場所に引っ越した軌跡を辿ったもの(青井哲人、NPO法人福島住まい・まちづくりネットワーク、福島アトラス制作チーム「LIVING along the LINES-Fukushima Atlas( LIVING along the LINES──福島アトラス)」(福島、2017-)、イラク北部のシリア難民キャンプでの生活を詳細な地図とスケッチによって描き起こしたもの(Jan Rothuizenほか「Refugee Republic(難民共和国)」2014)などは、人々の移動やかりそめの停止、現代における人と建築の関係の不安定性を描き出している。あるいはそれにともなってここに「仮設」というモチーフも加わるだろう。2013年ウクライナの反政府デモにおけるバリケードを地図にプロットし、細部をドローイングしたBUREAU A, Burøの「Maidan Survay(広場の調査)」(キエフ、2014)は、広場をオキュパイする、「建築」と呼べるか怪しいような荒々しくはかない構築物を細かい線のドローイングによって記録している。

このように本展では、世界中のさまざまな地域から過去20年間のあいだに制作された42作品のドローイングが集められている。「暮らしは建築を凌駕する」とは本書の裏表紙にある惹句だが、まさに本展は作品としての建築を廃位し、人々の暮らしとの関係から建築の機能や危うさをあぶり出すのだ。

まんべんないフィールド

さて、冒頭に述べた「貧しさ」は、本展における作品選択のこの「まんべんなさ」に関わっている。どうして日本館が、世界各地の、さまざまな目的のもとに制作されたドローイングを展示するのか。本展における選択の枠組みは、「ドローイング」であることと「建築や都市に関わるフィールドワーク的な企図をもつもの」であることが重なり合うゾーンにあり、これはあえて比べれば「日本のモダニズム建築」とおなじくらいの外延をもつだろう。これほどの広がりのある枠組みを「テーマ」あるいは「コンセプト」と呼べるかどうか疑問だ。あるいはこのように問うととたんに「過去20年間」という縛りは恣意的なものに見えてくる(キュレーターの貝島桃代が2001年に刊行した『メイド・イン・トーキョー』以降に集められたものだという説明がなされているが、それこそ恣意的だろう)。そこで現代という時代を区切るということだろうか。それも自明ではないはずだ。

加えて、本展に集められたドローイングの多くは、なんらかのプロジェクトの一部として制作されたもので、ドローイングが主たる制作物であるのはむしろごく一部だ。さらに42作品のうち22作品が書籍の図版の一部であり、この文章は「会期中の展示のカタログの書評」にとどまらず本の図版の一部を集めて展示した展覧会のカタログについての文章であることになる。なぜこの展示を本屋でやらなかったのか、あるいは書籍を閲覧できるかたちで展示しないのかと思う。プロジェクトの一部分を切り取ってしまうせいで、ドローイングがプロジェクトのなかでどのような位置づけと機能を持っているのかブラインドされてしまっていることも少なくない。もちろんそれぞれの作品に短い解説文が付されてはいるが、それぞれはあまりに短く、ごく大まかな概要だけを伝えている。

「建築の民族誌」をテーマとして掲げるなら、かならずしも対象をドローイングに限定する必要はなかったはずだ(文章でも写真でも映像でもいい)。ドローイングをコンセプトの中心に据えることと、それだけを展示物とすることはまったく別個の水準にある選択なのではないだろうか。扱うプロジェクトの目的や手法や意義が十分に伝わるようなしくみは、この限定を解除しさえすれば簡単につくれたはずだ。このまんべんなさとそれに付随する情報の浅さ、そしてドローイングへのこだわりはいったいなんなのか、この問いに答えることが以下この文章の目的となる。そこから現代の建築をめぐる問題も浮かび上がってくるだろう。しかしここでは結論にジャンプする前に、20世紀の初めにいったん戻ってみよう。

アクソノメトリー極小史

美術史家イヴ=アラン・ボワは、「アクソノメトリーの変身」★2という論文において、「アクソノメトリー(軸測投影図法)」がモダニズム建築とモダニズム絵画の交差点となった歴史的な経緯を詳細に辿っている。この描写幾何学は、「パースペクティブ(線遠近法)」において平行線が交わる(=消失点)ことが想定されるのに対し、平行線はどこまで行っても交わらず、したがって奥行き方向にどんどん対象が小さくなっていくということもない。平行四辺形を3つつないで描かれた立方体がアクソノメトリー空間の基礎的なユニットだ。大きな駅やショッピングモールにある、各フロアを斜め上から見たものを並べて階段やエレベーターを書き加えた地図を思い浮かべればいいかもしれない。パースペクティブが鑑賞者を消失点と対称な一点に固定するのに対して、アクソノメトリーにおいて「眼はもはや特定の場所に固定されず、眺め[view]は訓練されず、「石化」されることもない。まさにこの眺めの解放、光学的な解放こそが、西洋の幾何学が古代ギリシャにおけるその始まりから拒み続けてきたものなのだ」★3

アクソノメトリーはパースペクティブにくらべて幾何学的に複雑であるわけでもないし、方眼紙とペンさえあれば比較的簡単に描ける。しかしこの図法が自分の位置を見出すには、20世紀まで待たなければならなかった。ボワは、ルネサンスにおいて平面図とファサードの立面図が建築家の、パースペクティブが画家の特権的な道具であり、建築家にとってパースペクティブは「いつわりの現れ」★4を提示するものにすぎなかったと報告している。アクソノメトリーは平面図とパースペクティブのあいだ、事実と現れのあいだの対立のなかで「半端者」として顧みられることがなかったのだ。

しかし20世紀初頭の、とりわけデ・ステイルとバウハウスという建築と絵画が合流した2つの運動において、アクソノメトリーはこの合流を象徴するものとして文化の表舞台に登場する。その典型はテオ・ファン・ドゥースブルフの《Contra-Construction Project (Axonometric)》(1923)ヘルベルト・バイヤーがヴァルター・グロピウスのオフィスの内装を描いた《Isometric Rendering of the Director's Office in Bauhaus Weimar》(1923)に見ることができる★5。絵画が平面性を希求するようになったこと、建築が基礎的なユニットをキューブに切り詰めるようになったことを、アクソノメトリーは架橋するのだ。

終わりに

『建築の民族誌』に目を向けなおしてみると、「モダニズム」と誕生の時をおなじくするこの図法がいたるところで用いられている。本書におけるこの語の用例をピックアップしてみよう(括弧内はページ数)。

「アクソノメトリックを用いることで、異なる地下インフラの相互関係を示す」(058)
「記録、分析、比較するための効果的なツールとしてアクソノメトリックの図法に依拠」(063)
「線画のアクソノメトリック図は各事例の全体像を提示し」(074)
「現代の北京の情景をアド・ホックに切り取り、それらの物語を統合したアクソノメトリック図」(131)

これらを見ると本書においてアクソノメトリーは、光学的な再現と情報的なマッピングをひとつのドローイングのなかに同居させるための特権的な手段として用いられていることがわかる。たしかにこの図法は街のひと区画をまるごと(あるいは地球が丸いことを考慮に入れずにすむ限りでの広大な空間を)フラットに表現でき、捨象あるいは抽象化によって見られるべきものをわかりやすく提示することができる。

したがって、こうしたアクソノメトリーの用法は近代的なものから隔たっているようにも思える。というのも20世紀初頭のモダニストたちはあくまで、彼らの作品が前提とする空間性がこの図法に適ったものだと考えているにすぎないように見えるからだ。それに対して「建築の民族誌」に集められたドローイングは、各要素および各レベル(フロア)の同縮尺での並置と関係性の提示、および矢印や文字情報などのシンボルの書き込みといった、「民族誌」的あるいは操作的な企図に最適な描画法としてアクソノメトリーを活用している。

中心も地平線もない空間と、始まりも終わりもない「暮らし」のカップリング。しかしここに集められた作品の多くは、そこにとどまらずなんらかの未来や目的を投影(projection)しているはずだ。ドローイングへの対象の限定とアクソノメトリーの多用は、つまるところ個々のプロジェクトがもつ「建築」あるいは「建てること」への欲望を切り捨て、「暮らし」をその欲望から疎外してしまっていないだろうか。どうして建てることと住むことが一致するような局面を想定しないのか。この建てることからの撤退が示す貧しさ、疲弊、意気消沈こそが現代の建築の焦眉の課題であるはずだ。建てることなく暮らす人々を描くことが「建築の民族誌」なのだとしたら、ピーテル・ブリューゲルの《バベルの塔》を「アンビルト・ドローイング」と呼んでみせることのほうがよっぽど建築への信頼に根付いた身振りだろう★6


このように厳しく批判するのは、本展を、現代の建築をめぐる「症状」あるいは「危機」のあらわれとして見たほうがものごとを冷静に、そして生産的に考えることにつながると考えているからだ。問題はつぎのようにまとめることができる。現代の建築ははたして、「権利問題」として、建てることを肯定できるのだろうか、と。『建築の民族誌』がプロジェクトを断片化し、どこまでも続く平面に散らばる人々をマッピングすることは、建てることの不可能性を証してしまってはいないだろうか★7。これは本展が扱う事例に、震災や難民、紛争、貧困といった、もはや建てることができない、あるいは建てることが否応なく搾取につながる状況がいくつも含まれていることにあらわれている。したがって本展は、個々の作品の投影を無効化し貧しさを増幅させることで、きわめて批評的な視座を現代の建築に投げかけていると評価できる。しかし同時に、やはりわれわれはそんなことは身をもって知っているのであり、アクソノメトリーには決して描かれることのない空に「暮らし」の外部を見るのだ。



★1──貝島桃代+ロラン・シュトルダー+井関悠『建築の民族誌』(TOTO出版、2018)
★2──Yves-Alain Bois, "Metamorphosis of Axonometry", Daidalos, n. 1, 1981.
★3──Ibid,. p. 46.
★4──Ibid.
★5──https://www.moma.org/collection/works/232および https://www.bauhaus100.de/en/past/works/architecture/isometrie-direktorenzimmer-weimar/を参照。
★6──三浦丈典『起こらなかった世界についての物語──アンビルト・ドローイング』(彰国社、2010)36-39頁
★7──サミュエル・ベケットの「死せる想像力よ想像せよ」において、建てることの不可能性に撃たれた人間の暮らしの終わりはつぎのように書かれている。「どこにもひとかけらの人生もありゃしない、へん、楽な仕事さ、とあなたは言う、想像力は死なず、え、死んだって、そう、では死せる想像力よ、想像せよ。島々、海、碧空、草木、一目だけ見なさい、ふん、あっと言う間に消えてしまった、当分現れることはなかろう、これは省略。そのうちに白一色のなかに真っ白な円丘のような建物が見えてくる。入り口はない、入りたまえ、寸法を測りなさい」(『サミュエル・ベケット短編小説集』[片山昇+安堂信也訳、白水社、2015]199頁)。



福尾匠(ふくお・たくみ)
1992年生まれ。横浜国立大学博士後期課程、 日本学術振興会特別研究員(DC1)。現代フランス哲学、 芸術学、映像論。初の単著、『眼がスクリーンになるとき──ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』(フィルムアート社)を7月26日刊行予定。


201807

特集 建築の民族誌──第16回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 日本館


建築の民族誌、その行為=経験としてのドローイング
自由に見るためのループ
プロジェクション(なき)マッピングあるいは建てることからの撤退
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