建築の民族誌、その行為=経験としてのドローイング

貝島桃代(建築家)+青井哲人(建築史・都市史)

世界の「フリースペース」

編集──さて、他国の展示についても伺いたいと思います。まず金獅子賞(最優秀賞)に選ばれたスイス館の展示「Svizzera 240 - House Tour」についてはどのような感想をお持ちですか。各国は「フリースペース」をどのように解釈し表現していたのでしょう。

青井──社会や都市の公共性と取り組んだリサーチ系の展示が多いなかで、スイス館は身体スケールを揺さぶるインスタレーション的な展示でした。既存のパビリオンのなかに、住宅らしき空間を複雑なシークエンスで組み込んだ展示で、窓やキッチンの大きさや天井高が、通常のサイズのものから一回り大きかったり、小さかったりと、複数のスケールのものを随所で辻褄合わせをしながら併存させています。一番大きなドアだとノブが2mくらいの高さにあったり、逆に一番小さなドアだと四つん這いにならないと通れない。そこを子どもたちが走り回ったりして、たしかに楽しい展示でした。たぶん私たちの身体スケールを撹乱して、住宅あるいはその部材の生産・消費のシステムへの自覚を喚起して、さて「フリースペース」とは何か......という趣旨なのでしょう。だとすればわかりやすいけど安直な気がしましたし、都市の公共性やそれにかかわる政治が多くの館で問われるなかで、射程が狭いのではないかとも思いました。

貝島──残念ながら日本館は受賞を逃しましたが、多くの方から好評価をいただきました。審査員──Frank Barkow(アメリカ)、Sofia Von Ellrichshausen(チリ)、Kate Goodwin(オーストラリア)、Pier Paolo Tamburelli(イタリア)──のラインナップから、彼らは彼らで主張したいことがあったのだろうなとも思います。展覧会が情報的でなく、政治性に偏らない、純粋な空間としての楽しさや自由を、インパクトのある空間展示を評価することで主張したかったのだと思いますが、これによって、丁寧に展示や調査をすすめていた展示に対して評価がなかったことは本当に残念です。

スイス館の展示はスイス連邦工科大学(ETHZ)の若手のチームによるものです。私もETHZで教えていることもあり、その若手が評価されること自体は喜ばしいことではあります。展示空間はびっくりハウスのようなテーマパーク的空間構成で、これを経験するなかで、インスタグラムなどのSNSによって、不動産ビジネスのマーケットへのオーバラップや情報の拡散を意図し、カタログではスイスの白いアパートについてさまざまな思想家の寄稿を展開していました。これらは現状の批評にはなったと思いますが、保守的なスイス社会が抱える不動産マーケットのドグマから建築が解放されることになりうるのか、今後の彼らの展示情報の拡散状況なども含め見守るなかで、私自身もさらに考えてみたいと思います。

審査員特別賞に選ばれたイギリス館「Island」も体験型でした。パビリオンの建物にはまったく手をつけず、その上部に新規の構造体をつくり、足場を組んで来場者を屋上に上げる展示でした。空中からの眺めは気持ちが良く、すばらしいものでしたが、同様のアイデアは過去のビエンナーレやパブリックアートの文脈でも何度か試されてきているし、私たちもオーストリアのリンツのアートプロジェクトで複数の建物にまたがる公共の屋上《リンツ・スーパー・ブランチ 2011》を設計したことがあります。それらの先例のなかでの位置づけはどのように考えているのか、ぜひ聞いてみたいものです。

青井──屋上を日替わりでインスタレーションの場、イベントスペース、カフェとして使っていくということらしく、それも「フリースペース」への解答なのでしょうが、正直言ってなぜこれが特別賞なのか、物議を醸しそうだなと思いました。ちなみにイギリス館は2年前のビエンナーレのときから、建物内には手をつけていないらしいですね。足場を組む展示にしているのは、パビリオン自体の老朽化とは関係ないのでしょうか。

貝島──ヴェネチア・ビエンナーレ会場は重要文化財に指定された建物がほとんどで、会場内の樹木もすべて遺産なんです。だから伐採したり穴を開けたりすることができない。じつは制約がとても多く、展示に際してさまざまな申請を出さなければいけない。それもあって、イギリス館の屋上でも既存樹木をよけて壁などが設けられています。見えない法の網目に宙吊りになっている。今回のイギリス館では、大きな足場をつくるのに他館よりも多額の費用をかけています。今年度から美術展と建築展の連携が始まったそうです。そういった運営も、今回の展示のプロセスになっています。それぞれのキュレーターは制約や限られた予算のなかでできることを模索することも問われていますからね。

青井──なるほど。必ずしも本質的な話ではないかもしれませんが、そうした会場のコンテクストを踏まえて展示を見ていくのも案外面白いかもしれません。カルロ・スカルパが設計したべネズエラ館も老朽化がひどく、内部に足場を立てていて、その修理自体が展示とされていました(「CCS - Espacio Rebelde」)。カナダ館は正規の展示をアルセナーレ会場に移し、本来のナショナル・パビリオンのほうは来るべき建物の修復についての展示でした(「UNCEDED: Voices of the Land」)。詳しい事情は知らないのですが、そういった例をいくつか見ると、建物の維持が今後のビエンナーレの課題のひとつになりつつあるのだろうと思いました。

貝島──日本館は広さが確保されているので使いやすいのですが、展示しにくそうなパヴビリオンもけっこうあるんですよね。それらの制約のなかでイスラエル館の「In Statu Quo: Structures of Negotiation」はかなり面白い内容でした。

青井──イスラエル館の展示には僕も感心しました。「フリースペース」というお題について考えるとき、「自由」の対立項に何をもってくるかによってテーマが決まるところがあり、多くの場合、束縛、支配、専制、あるいは資本とか開発主義といったものがそこにあてがわれています。そのなかでイスラエル館では、特定の権力から勝ちとるものとして「自由」を考えるのではなく、3つの一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)をはじめとする複数の宗教のあいだで、日常的な実践としての礼拝その他の行為をかろうじて互いに尊重する、暗黙の調停といったものがあるのだということを取り上げていました。「status quo(現状維持)」としてしかありえない「自由」、複数の力のあいだの隙間のような場所として確保された不安定な「自由」というのでしょうか。 私たちが暮らしている都市や地域の場合でも、上からの力、下からの抵抗といったモデルで考えるよりも、いくつかの力のあいだに調停される自由というモデルで考えたほうがよい場合がかなり多いでしょうね。そういう意味で普遍性もあったと思います。展示では、ルイス・カーンやイサム・ノグチなど10くらいの専門家が「嘆きの壁」の辺りに提案したプロジェクトを同一スケールで模型化してもいましたが、特に興味深かったのは奥の部屋で流されていた映像作品です。虐げられているイスラム教徒たちが礼拝を行なうためにどのような日々の実践(行為)がなされ、また管理されているのか。具体的に言うと、礼拝のための空間の使用が時間によって定められていて、特定の時間になると門が開き、脇に置いてあった蓙を広げ、礼拝の室礼をセッティングする。終わりの時間になるとそれらをまたクルクル、ガタガタと片付けて脇に寄せ、衝立で隠す。その一連の黙々たる実践を、イスラエル軍の兵士が銃をもって見守っているという映像でした。

アルセナーレでのチリの展示「Stadium: an event, a building and a city」もイスラエル館と同様に政治的な文脈で「自由」を扱っていましたが、そのアプローチはかなりシニカルなものでした。チリでは1973年のクーデタによるピノチェト軍事政権が自由主義化の政策をとるのですが、そのとき首都のスタジアムに何万人もの人を集め、それまで剥奪されていた土地の所有権を人々に再付与します。もちろん、これによって、土地の売買や開発が行なえるようになるわけで、それが自由化ですね。展示の中心は、スタジアムの楕円形平面のなかに都市の街区(urban tissue)をモザイク状に詰め込んだようなコンセプチュアルな模型でしたが、それがすべて砂でつくられ、初日からもう崩れはじめていました。

「フリー」「スペース」をドローイングから考える

貝島──そもそも今回の総合テーマは「フリー」も「スペース」も、近代に発見された概念、言葉です。日頃なんとなく受け入れている「フリースペース」についてあらためて思考することで、近代から続く問題や可能性を再定義する機会とすることが出題者の意図と言えるでしょう。

青井──そうですね。最初に「フリースペース」というお題を聞いたときは、何だか素朴な言葉遣いだなと思ったのですが、あらためて考えるとなかなか難しい問いかけですね。

「フリー」も「スペース」も、ものすごく乱暴に言えば19世紀から20世紀初期にかけて実質化した言葉でしょうね。このあいだに産業構造と社会構造の革命が進み、それまで王侯貴族や教会が支配していた領域が放出されました(日本でも遠からぬことが明治維新以降に進みます)。もちろん、放出された土地は開発や売買の対象になり、あるいは(新しい権力としての)公共行政の対象となりました。つまり私的領域や公共的領域となった。「フリースペース」はこれに意味を与えることだったと考えてみることができます。

たとえば地縁共同体や大家族から放出されてきたアトム的な人々は都市へ流れて、そういった新種の領域に吸収されます。バラバラの人々を配置する空間としての住宅(私的な自由)と、バラバラな人々を整流させる空間としての公共施設や都市オープンスペース(公共的な自由)。それらを計画したりデザインしたりする職能として生まれてきたのが、近代建築家や近代都市計画者ですよね。僕たちの専門性の歴史的な根っこはそのあたりにあります。つまり得体の知れない新種の領域に「フリースペース」としての秩序と価値を与えることだったのではないか。50-60年代の議論もまだその線上でした。でもいまはずいぶん違います。むしろ小さな権利を何とか守るとか、その都度かろうじて立ち上げるような営みを通してでないと「フリースペース」を想像しにくい。なぜそうなのか。地域や国によっても異なる分厚い文脈が引きずり出されてきそうです。

貝島──今回のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展が掲げる「フリースペース」をさらにドローイングから考えるため、私たちは8月にワークショップを行ないます。商業都市ヴェネチアという多様な人々がやってくる環境をこのテーマと掛け合わせる試みだと言えます。

アルセナーレ会場の展示は作家性の色濃いものが比較的多かった印象です。そのなかで銀獅子賞に選ばれたベルギーのアーキテクテン・デ・ヴィルダー・ヴィンク・タユーは自身の改修プロジェクトを展示していました(「Unless Ever People - Caritas for Freespace」)。ユニークなのは、展示構造体として用いていたマテリアルを、展示終了後に病院のデッキとして再利用しようとしていることです。モノとモノの関係のなかで空間がつくられていくことや、歴史や過去のものを含めたネットワーク的な空間の広がりに対する彼の意識的な態度には共感しました。ETHZでも「カルーセル(回転木馬)」というテーマを掲げて、材料、知、文化などさまざまなものが等価であり創造のためのリソースとなるスタジオを展開しています。これにも通じるテーマでした。

青井──「フリースペース」というテーマへの各国館の応答として多かったのは、さきほど言いましたが、巨大開発や公共権力、社会経済的な圧力に対する小さな下からの生活実践にかかわるものでした。シチュアシオニスト的な線ですね。あるいは、レバノン館のように深刻な環境破壊を分析的に可視化した展示「The Place that Remains. Recounting the Unbuilt Territory」や、大地の連続と特異点をテーマにしたメキシコ館「Echoes of a Land」のように、人間の生産生活と生態系を意識したテリトリアル・スタディの例も少なからず見られました。あと、中国館は大都市とか大開発から離れて、カントリーサイドの問題を扱った「Building a Future Countryside」です。市川紘司さんから聞いたのですが、最近はレム・コールハースも田舎は面白いと言っているらしいし、中国の建築家たちも田舎の町や村に建築的関心の対象を移しているらしい。

他方でロシア館「Station "Russia"」にはもう降参という感じでした。新しい高速鉄道計画を紹介する内容で、主要駅の開発プロジェクトの巨大な模型を展示していました。これ以上ない開発主義の宣言ですね。社会主義リアリズムの古い駅舎へのノスタルジーと、構成主義的なグラフィックのスピード感が一緒になっていたのは面白かったですが。

編集──お2人のお話を伺って、日本館はそうした都市環境の政治経済やエコロジーなどを扱う他館のテーマを潜在的に折り込んでいるし、ドローイングという方法についての思弁的広さを表現し、「フリースペース」というテーマに非常に意識的であるという印象を持ちました。

青井──そうですね。日本館のドローイングは現実に起こっている都市生活の変貌とか社会政治的な諸問題を扱っていますし、同時にドローイングの書き手のいる空間も主題化されています。その両方に「フリースペース」への問いがあるというわけですから、重層性のあるコンセプトで挑んだ優れた展示だと思いました。ちょっとハイコンテクストだったとは思いますけどね(笑)。

貝島──ほかにもドローイングに関する展示はありましたね。例えばイタリア館の展示で中国の王澍が学生たちと、小さな町家の隙間空間を1分の1の模型で展示していましたが、この「Cloud Village」でも、壁画を一般の人も含めた共同作業のプラットフォームとして使用する試みを行なっていました。地形のラインが描かれるとそれを基本にいろいろな絵が展開していたのは面白かったです。カッチャ・ドミニオーニのドローイングや、エリザベス・ハッツが自分のドローイングとあわせてさまざまなドローイングを展示していました。ドローイングは建築にとって欠かせないスキルであることをどのように社会に活かせるのか、考えていく必要があると改めて思いました。

(figs.1, 2以外はすべてcopy;Andrea Sarti/CAST1466, 国際交流基金提供)

[2018年6月1日、Skypeにて]


貝島桃代(かいじま・ももよ)
1969年生まれ。建築家。筑波大学准教授、スイス連邦工科大学チューリッヒ校建築ふるまい学教授。塚本由晴とアトリエ・ワン共同主宰。アトリエ・ワンの作品=《ハウス&アトリエ・ワン》(2006)、《カナル・スイマーズ・クラブ》(2015)、《ツリー・ハウス》(2016)ほか。アトリエ・ワンの著書=『空間の響き/響きの空間』(LIXIL出版、2009)、『Behaviorology』(Rizzoli、2010)、『図解アトリエ・ワン2』(TOTO出版、2014)、『コモナリティーズ』(LIXIL出版、2014)ほか。

青井哲人(あおい・あきひと)
1970年生まれ。建築史・都市史。明治大学准教授。著書=『彰化一九〇六年──市区改正が都市を動かす』(アセテート、2007)、『植民地神社と帝国日本』(吉川弘文館、2005)、『福島アトラス』(NPO法人福島住まい・まちづくりネットワーク、2017)『近代日本の空間編成史』(共著、思文閣出版、2017)ほか。https://medium.com/vestigial-tails-tales-akihito-aois-notes


201807

特集 建築の民族誌──第16回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 日本館


建築の民族誌、その行為=経験としてのドローイング
自由に見るためのループ
プロジェクション(なき)マッピングあるいは建てることからの撤退
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