第2回:マテリアリティとは何か?

加藤耕一(西洋建築史、東京大学大学院教授)

形のないマテリアル?

20世紀を代表するマテリアルだったコンクリートとプラスチックには共通点がある。いずれも、それ自体の形を有さない物質であるという点だ。形状の自由という点で、それはこのマテリアルの利点である。だが一方で、物質性を議論するうえでは、物質本来の形態が存在しないという事実は、このマテリアルがほかのマテリアルと比べて「劣っている」ことを示しているようにも思われてくる。

コンクリートが、しばしば石材の「代用品」と考えられたり、金属製のプロダクトが軽量化などのためにプラスチック製に置き換えられたりしてきたことを考えると、これらのマテリアルは、なにかの代用品に過ぎず、便利ではあるが一級品ではない、悪くいえば「ニセモノ」としての性格を根幹に秘めていると思われるかもしれない。

ここではまず、そのニセモノとしての性格が、これらの物質のマテリアリティのネガティブな性質につながっているという仮説を検討し、続いて、そうした「ニセモノ」を批判するモラリティの精神からの脱却を目指してみようと思う。

というのも、第1回「素材と構築が紡ぐ建築史」でも論じたように、本連載の目標は、「偽物やイミテーションは悪である」というような近代的価値観や倫理観を排除して、アーキテクトニックな総体としての建築を論じることだからである。コンクリートもプラスチックも、ひとつの素材であることに違いはない。同じく近代に登場した鋳鉄もまた、融かして鋳型に流し込むことを前提にした素材であり、かたちのないマテリアルだった。鋳鉄は、19世紀の様式主義の時代には、しばしば石の建築がつくりあげてきた装飾モチーフを再現することを得意としたわけである。だが、たとえばパリの都市景観の重要なアクセントとなっている鋳鉄製の街灯や、その他のストリート・ファーニチャーを眺めると、むしろそこに豊かな物質性を感じるような気もする。

ある文脈のなかでは、それがニセモノに見えることもあるかもしれないが、そういった文脈を剥ぎ取ったときに見えてくるマテリアリティに迫ることが本稿の目的である。だがその前に、なぜ近代の価値観が「ニセモノ」を批判しようとしたのか、その背景について考えてみたい。

ロースの素材論とマルクス的マテリアリズム

......コンクリート造に対しては、人々はどうしてよいものやらまったく分からなかった。コンクリートそれ自体は素晴らしい建築材料であることから、これをどううまく利用できるか皆が知恵を絞った。これでもっていったい何をイミテーションできるだろうか、といった新材料が出現する度ごとに、繰り返されるいつもの対処の仕方である。結局は、このコンクリート造を石の代用品として利用することになった。
──アドルフ・ロース「建築材料について」(1898)★12

再びアドルフ・ロースに戻ってみよう。本稿の冒頭でも引用したとおり、1898年のエッセイ「被覆の原則について」のなかでロースは、絨毯に包み込まれた空間を創り出すことこそ建築家の第一の役割であると述べた。彼は、絨毯のマテリアリティを感覚的に捉え、「つくる空間の目的を充足する効果を考えてみる」ことこそが建築家の仕事であると説明したのである。彼によれば、たとえば「住居ならアットホームな感覚、酒場なら和気藹々の愉しさ」などが空間の目的となる感覚であり、その効果は「材料と形態とによって引き出される」と説明される。ロースのこの議論は、マテリアリティと空間の効果を結びつけた点でも、構造と被覆(付加的で補足的なもの)のヒエラルキーを逆転させた点でもきわめて重要なものであったということは、ここまで見てきた通りである。

ところがその一方で、ロースの被覆論とマテリアル論には、近代のモラリティが充満している。彼は、その絨毯論においては前近代的な(あるいは21世紀的な?)マテリアリティ論者である。しかし、そのモラリティ(装飾批判、イミテーション批判)においては20世紀的な価値観を強烈に決定づけた人物であった。

ロースに内在するこの分裂ゆえに、20世紀のモダニズムがロースの装飾批判を継承したとき、彼の被覆論はほとんど継承されなかった。なかでも彼のマテリアリティ溢れる室内空間は、モダニズムが追求したピュアな純粋さという観点からすると、きわめて異質なものであり、まったく理解不能なものであったように思われる。その一方で、21世紀の私たちが彼の被覆論や素材論に可能性を求め、その理論を再生したいと思っても、彼の理論に含まれるモラリティゆえに、再び20世紀初頭のモダニズムに引きずり戻されそうな危うさを感じてしまうのだ。

ロースの「被覆の原則について」は、1898年9月4日の日曜日、ウィーンの新聞『新自由新報』に掲載されたエッセイだった。その前の週の日曜日、彼は同じ新聞の連載で「建築材料について」というエッセイを掲載している★13。連続するテクストとして執筆されたこれら2編のエッセイを見ながら、彼の素材論を改めて解きほぐしてみよう。

ロースは、次のようにマテリアルの「価値」について論じていく。

伝統的価値
商人にとってのマテリアルの価値(同じ重さの金と石では、当然、金のほうが価値が高い) 芸術家にとってのマテリアルの価値(どのような材料で作られてもその価値は変わらない)
今日的価値
労働者によって生産されたマテリアルの価値(労働の時間に応じて価格が決まる) 機械によって生産されたマテリアルの価値(手仕事の場合と同様に、時間に応じて価値が決まる)

ロースによれば「我々は、労働の量をより重んじる時代に生きている」のだという。彼のこの指摘から容易に想起されるのは、マルクスの『資本論』(初版、1867)である。ロースのマテリアリズムの背後には、マルクス的経済学があったのだ。

マルクスは、商品に内在する価値を「使用価値」と「交換価値」の二項に分類した。商品の使用価値を度外視したとき、そこに残るものは、マルクスによれば「労働生産物という属性」であり、「価値としては、すべての商品は、一定量の凝固した労働量にほかならない」★14ということになる。

ロースの議論はマルクスの批判的発展といえよう。彼が、「我々は、労働の量をより重んじる時代に生きている」と言ったとき、そこには若干のアイロニーが込められている。彼はこう続ける。

労働量というものは簡単にコントロールできるし、誰にとってもよく分かるものであるし、それを判断するには熟練した眼とか、あるいは特別な知識など必要ないからである(...中略...)このような計算をもとに、誰もが自分の身の周りのものの価値を簡単に決めたいと思うのである。そうして決められた価値のほかには、ものというものはなんの意味をも持たない。となると、仕上げに多くの労働時間を必要とする材料はあまり使わなくなる、というものだ。
──アドルフ・ロース「建築材料について」(1898)★15

こうした断定にもとづき、ロースは材料のイミテーション批判をはじめる。すなわちロースにとって、材料のイミテーション行為は、構造を偽る行為ではない。それは「労働時間を偽る」行為なのだ。ロースは、構造体の上に仕上げ材を貼り付ける行為そのものを批判しているわけではない。なぜならロースにとっては、「被覆をして内部空間をつくろうとする行為が、構造体をつくるより先に存在した」★16のだから。

結局、被覆もテクスチャーも構造体に貼りつけるものはみな装飾であるというふうに、連想ゲーム的にロースの議論を理解しようとすると、彼の意図を見誤ることになるし、ロースの装飾批判やイミテーション批判を、安易にアルベルティに接続してしまっては、21世紀的な新たな建築マテリアリズムを発展させることが難しくなるだろう。たとえ構造とマテリアルの関係を考える場合においても、チュミが主張したように、両者のあいだに無意識のヒエラルキーを設定してしまわないように、注意すべきである。

今日、私たちが建築におけるマテリアリティを考えるうえでは、マルクス経済学的な労働量の観点からも、ロースのイミテーション批判からも距離をとることを試みるべきであろう。アドルフ・ロースはたとえば、19世紀末当時の壁紙を例に挙げて、次のように言った。

壁の仕上げ材は壁紙を貼ったものだとしても、紙であることを決して見せてはならなかった。だからその壁紙には絹のダマスクの紋織りかゴブラン織り、あるいは絨毯織りの模様がなければいけなかった。ロース「建築材料について」★17

絹のダマスク織りのテクスチャーといえば、前稿の《Miu Miu Aoyama》(ヘルツォーク&ド・ムーロン)をめぐる議論にも登場した、19世紀的なインテリアを装飾する典型的な被覆のひとつである。ロースによれば、それを模した紙製の「壁紙」も登場していたということらしい。19世紀のインテリアについては、次号第3回のテーマとして見ていく予定だが、考えてみれば現代の壁紙も、漆喰の左官仕上げを模した壁紙や、タイルや木目を模した壁紙など、イミテーションで溢れかえっている。素材も、布地、ビニール、紙などさまざまだ。たしかに今日においてもなお、ロースが指摘するように、安価な素材を用いて別の素材をイミテーションする場合が多くあるのだろう。

ビニールクロスで、とりあえずそれらしい表現を模しておこう。そうした現代における思考停止的なイミテーションの乱用は、ロースでなくとも批判したくなるところである。だが、ある素材が別の素材をイミテーションすることが、すべて悪いと決めつけるのは早計であろう。歴史的に見ても、たとえばルネサンス期のインテリアでは、漆喰(スタッコ)による彫刻が数多く見られる[fig.6]。こうした漆喰による装飾は、石灰岩や大理石による装飾表現を模しながら、石材以上に艶めかしい質感で、柔らかく繊細な表現を可能にするマテリアルだったのである。

fig.6──フォンテーヌブロー宮殿《フランソワ1世のギャラリー》のインテリア装飾(筆者撮影)

このようにマテリアルの特性を最大限活かし、そのマテリアリティを引き出すやり方であれば、それが伝統的な建築表現をイミテーションするやり方であろうと、あるいはまったく新しい表現であろうと、頭ごなしに否定する必要はあるまい。ロースにはロースの、時代の必要性から引き出された倫理観があった。だがロースから120年を経た私たちが、そのモラリティだけを盲目的に継承することは、あまり賢いやり方とはいえないだろう。

マテリアリティと建築デザインを考える。その際に重要なのは、近代的モラリティの陥穽にはまらないことである。

痕跡・時間・マテリアル

ピーター・ズントーは、彼の著書『建築を考える』のなかで、映画のワンシーンを例に挙げながら、登場人物とその舞台となるダンスホールについて考察している。映画の中心となるのは登場人物であるが、その雰囲気を醸し出しているのは「寄せ木張りの床や壁の板張り、背後の階段や側面にあるライオンの足など」のマテリアルである。

むろんその際に思い浮かぶのは、歳月とともに素材に醸し出される古色、表面についた無数の傷、剝げて艶を失ったニス、すり減った角などである。が、目を閉じて、そうした物理的な痕跡やまっ先に浮かぶ連想を消してみると、心にはそれ以外の印象、もっと深々とした感情が残される──流れ去る時間の意識、そして場所や空間で展開し、そこに独特の雰囲気をおびさせた人間の生に対する想いが★18

人間が生きた痕跡と、マテリアルが帯びる時間性。ズントーによれば「すぐれた建築は人間の生の痕跡を吸収し、それによって独特の豊かさをおびることができる」のだ。

ズントーが言っていることは、いたって普通のことである。だがそれはたしかに、マテリアリティの本質的な側面のひとつを言い当てているといえるだろう。ヒトがモノに痕跡を残し、今度はその痕跡によって、モノがヒトに語りかけるのだ。

話が少し逸れるが、去る2018年5月19日、筆者は九州大学総合研究博物館で開催されたシンポジウム「Furniture for Future 使いながら守る・つなげる 新たな仕組みとしかけの提案に向けて」★19に参加した。九州大学では、2005年からはじまった伊都キャンパスへの移転事業に伴い、不要になった古い建物が次々に取り壊されている。九大博物館は組織としては2000年に設立され、しだいにもぬけの殻となっていく箱崎キャンパスのなかで、2005年以来、旧工学部本館のなかに設置されているのだそうだ。筆者は『時がつくる建築』で、大きな社会変動のなかで不要となった巨大構造物に人が住み着いて住居化していったさまざまな事例を取り上げたが、周囲の校舎が次々に取り壊され、ポツンと取り残された旧工学部本館内に入居している九大博物館という存在は、まさにそれを実践しているようで興味深いものだった。

移転に伴い、古い校舎に残された家具もまた、大量に廃棄されてきた。定められたスケジュールのなかで、日常の教育や研究もこなしつつ、大学という巨大な組織が引越をしなければならないとなれば、研究データや資料、実験の器具や設備などが最優先され、「家具」といういくらでも代替可能なものが見捨てられるのは仕方ないことかもしれない。それも、最近のコンパクトで軽量な家具ではなく、無垢の木材がふんだんに使われ、サイズも大きい、旧帝大時代まで遡るような重厚な家具群である。運び出すのも一苦労であろうことは、想像に難くない。

むしろ驚嘆すべきは、そうした大混乱のなかで、それらの巨大でかさばる家具類を、可能な限り回収し保管してきた博物館の努力であろう。その結果、いまでは回収された家具は400点を数えるという★20。それらの家具には大学の備品番号を記した古いラベルが貼られており、購入年月日や価格までもが記録され、管理されてきた貴重な史料である[figs.7, 8]。九大博物館によるこの試みは、家具の博物学や、大学史研究といった、貴重な研究分野を開拓していくことになるだろう。


fig.7──九州大学総合研究博物展示第2室
fig.8──同、廊下標本棚(ともに撮影=九州大学総合研究博物館)

だがいっそう興味深いのは、こうして「レスキュー」されてきた大量の家具を、リペアしたり世の中に放出したりすることで、再利用しながら残していくための検討が進められていることである。世の中に放流した家具類をどのように博物館のコレクションとして管理していくことができるのか、また(廃棄されたとはいえ)旧国立大学の備品を売却したり貸し出したりするためにはどのような制度設計が必要なのか、など解決すべき問題は多い。だが、ここで進められようとしていることは、まさに物質文化研究(Material Culture Studies)の壮大な社会実験である。20世紀の使い捨て文化が骨の髄まで染み込んでいる私たちが、モノと密接な繋がりを持ちながら豊かな生活を取り戻す可能性が、この大規模な実践のなかに秘められているように思われる。

シンポジウムの議論で面白かったのは、世の中に放出される際の、これらの家具の取り扱いについてである。ある意見によれば、それらの家具はいずれも博物館の所蔵品として、また貴重な歴史資料として、ある種の文化財としての扱いを受けるべきだ、ということになる。それでは、もし民間でこれらの家具を借り受けた(あるいは譲り受けた)人が、その家具を好きな色に塗りたいと考えた場合、それは許容されるのだろうか? これらの家具については、地元、大川家具の職人技の助けを借りて、歪みや緩みをていねいに修理し、表面もていねいに磨き出して、往時の姿を取り戻すことも試みられている。90年前の家具が新品のように生まれ変わった様子を見ると、もともとの家具の質の高さと、現代の職人の技術力の高さに圧倒されるばかりである。だが、このリペアについても、机や椅子についた傷の一つひとつが、その家具に刻まれた歴史そのものであり、古い家具が新品同様に生まれ変わることで、そこに刻まれてきた痕跡が失われてしまうことを嘆く声もあった。

いずれの意見ももっともであり、これらの議論から唯一の正解を導き出すことは難しいだろう。博物館の所蔵品、歴史資料、文化財といった「普遍的」な観点から導かれる解答と、一点一点の家具(モノ)とそれを今後使うであろう個々のユーザー(ヒト)の「個別的」な観点から導かれる解答は、それぞれ異なるものになるだろうからだ。

個人的な意見を述べれば、マテリアリティの観点からこれらの家具について考える限り、個別的で個人的な感覚を重視し、普遍的な正解からは距離を取ったほうがいいように思われる。ある個人は、過去の痕跡がさまざまに残る、古びたマテリアリティを好むかもしれない。また別のある個人は、新品同様に生まれ変わった高級木製家具の質感を好むかもしれない。いずれの場合も、その個人がその家具に対して愛着を持って使用していくのであれば、その好みについて云々する必要はないのではなかろうか。

ここには同じ型の家具が(バリエーションを含むかもしれないが)大量に存在する。そこから得られる歴史資料としての情報はきちんとデータとして収集し、また最も状態の良いものは、博物館内で収蔵品として(文化財的に)保管すればいいだろう。そこまでは普遍的で学術的な手法に基づく仕事である。だがそのうえで、館内で保管しきれない家具を民間に放出させるときには、むしろ個別的で個人的な愛着や関心にまかせて使い続けてもらうことにこそ、未来の可能性があるように思われる。好きな家具を使うのに、ルールで雁字搦めにされるくらいなら、ほかの家具を使いたいと、私なら思う。

その古い家具に関心を持って使いたいと考えるような人ならば、面倒なルールを押しつけなくとも、人間の生の痕跡によって時間性と豊かさを帯びた古い家具の、ズントー的な意味でのマテリアリティに敬意を表するだろうと思う。そうした個人は、また、自分自身の生の痕跡がそこに加わっていくことも、よく理解しているはずだ。その個々人が生きた痕跡について、第三者がとやかく言う必要はないように思うのである。

19世紀のインテリア論へ

さて、次回は19世紀のインテリアを巡る議論に入っていこうと思う。マテリアリティと痕跡に言及しながら、ヴァルター・ベンヤミンは19世紀のインテリアについて次のように論じた。

室内は私人の宇宙であるだけでなく、彼が閉じこもる容器でもある(...中略...)自分がよく使っている物やアクセサリー類の形跡をなくさないように気を配ることが、彼の名誉にかかわることでもあるかのように、すべての事態が進行していく。彼は、飽きることなく、たくさんの物の型取りをつづける。スリッパや時計、スプーンとナイフとフォーク、雨傘のために、彼はカバーやケースを考案する。あらゆる接触の後を残すビロードやフラシ天の布を、彼はとくに好む。第二帝政様式において、アパルトマンは一種のキャビンとなり、その居住者の痕跡が室内に型として残る。これらの痕跡を調べ、跡をたどる探偵小説は、ここから生まれてくる。
──ヴァルター・ベンヤミン「パリ──19世紀の首都〔フランス語草稿〕」(1939)★21

19世紀、ベンヤミンが「私人の宇宙」と呼んだ個人の室内空間が生まれたとき、そこで暮らす「私人」は室内に痕跡を残すことで、「大都市での私的な生活の形跡の不在を取り戻したい」と考えた。ヒトとモノの双方が痕跡を残していく19世紀のインテリア。生の痕跡、マテリアリティ、居心地の良い空間という三つ巴の関係性が、ベンヤミンのインテリア論にも表われている。
19世紀のインテリアには、21世紀のマテリアリズムが参照すべき秘密が隠されていそうだ。次回はその秘密に迫ってみたい。

パリ、パサージュ(撮影=大室佑介)




★12──ロース、前掲書、29-30頁
★13──「建築材料について」(『新自由新報(Neue Freie Presse)』1898年8月28日(日曜日))、「被覆の原則について」(『新自由新報(Neue Freie Presse)』1898年9月4日(日曜日))
★14──カール・マルクス『資本論』第1巻第1分冊(資本論翻訳委員会訳、新日本出版社、1982)67頁
★15──ロース、前掲書、25頁
★16──同、36頁
★17──同、前掲書、29頁
★18──ペーター・ツムトア『建築を考える』(鈴木仁子訳、みすず書房、2012)25-26頁
★19──2017年度トヨタ財団研究助成プログラムD17-R-0714「活用文化財としての歴史的木製什器の在野保存──新たな文化財概念の確立とその保存活用方策に関する実践的研究」(研究代表者=三島美佐子)
★20──2018年5月時点。しかも、九大博物館はまだこの「レスキュー」をやめるつもりはなく、今後の移転完了までに廃棄されるであろう家具類を回収・運搬するための費用を、現在クラウドファンディングで募っている。(2018年7月31日まで。https://readyfor.jp/projects/kyudai-furniture
★21──ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』第1巻(今村仁司+三島憲一ほか訳、岩波現代文庫、2003)48頁



加藤耕一(かとう・こういち)
1973年生まれ。西洋建築史。東京大学大学院工学系研究科建築学専攻教授。博士(工学)。東京理科大学理工学部助手、パリ第4大学客員研究員(日本学術振興会海外特別研究員)、近畿大学工学部講師を経て現職。主な著書=『時がつくる建築──リノべーションの西洋建築史』(東京大学出版会、2017)、『ゴシック様式成立論』(中央公論美術出版、2012)、『「幽霊屋敷」の文化史』(講談社現代新書、2009)ほか。訳書=P・デイヴィース『芸術の都 ロンドン大図鑑──英国文化遺産と建築・インテリア・デザイン』(監訳、西村書店、2017)、H・F・マルグレイヴ『近代建築理論全史1673-1968』(監訳、丸善出版、2016)、S・ウダール+港千尋『小さなリズム──人類学者による「隈研吾」論』(監訳、鹿島出版会、2016)などがある。


  1. おかしな三段論法/構造と装飾のヒエラルキー/素材感を定義する
  2. 主体としてのマテリアル/聖遺物の力/20世紀のマテリアル
  3. 形のないマテリアル?/ロースの素材論とマルクス的マテリアリズム/痕跡・時間・マテリアル/19世紀のインテリア論へ

201805

連載 アーキテクトニックな建築論を目指して

第7回:仕上げのテクトニクス、表層のマテリアリティ第6回:歴史のなかで、コンクリートの尻尾を掴む第5回:21世紀のアール・デコラティフ(後編)第4回:21世紀のアール・デコラティフ(前編)第3回:建築史学の現代性第2回:マテリアリティとは何か?第1回:素材と構築が紡ぐ建築史
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