第2回:マテリアリティとは何か?

加藤耕一(西洋建築史、東京大学大学院教授)

主体としてのマテリアル

ここでブルーノ(ブリュノ)・ラトゥールを参照してみよう。人間/非人間あるいは主体/客体(対象)のあいだのヒエラルキーを解体し、いずれもが行為主体(エージェンシー)となりうるネットワークを考えようとする、彼の「アクター・ネットワーク理論(ANT)」は、現代の建築界でも、モノを重視しようとする立場の人々から、すでにしばしば参照されている。

だがラトゥールの理論はきわめて難解で、容易に建築理論に取り込めるような代物ではなさそうだ。たしかに、ヒトとモノ、そしてそれらが構成するネットワーク、というようにANTのキーワードを並べてみれば、すぐにでも建築理論に応用できそうに見えるかもしれない。だがそうして表層的に概念をつないでいくだけでは、結局はまた、概念の連想ゲームに陥ってしまうのではないだろうか?

ラトゥール自身の主要な研究は科学社会学などと呼ばれるものであり、実験室内の科学者たちの観察に基づく研究が、その実践としてよく知られている。だが彼の実験室研究それ自体は、モノ理論とは直接的には繋がらないように思われる。ただ彼が、その著書『近代の〈物神事実〉崇拝について──ならびに「聖像衝突」』(荒金直人訳、以文社、2017)のなかで、物神(フェティッシュ)や聖像(イコン)といった「聖なるモノ」を取り上げて論じているところをみると、ANTを「モノ」へと繋ぐ回路は、たしかにあるのだろう。ただし彼の〈物神事実〉論では、人間が制作したモノ(fétiche)と、人間の関与の外にある客観的な事実(fait)のあいだの、近代人による区分けが問題にされているのであり、じつは近代人が信じていた客観的事実もまた、多様な行為主体(エージェンシー)のネットワークのなかで制作されたものにすぎなかった、という指摘がラトゥールの議論の主題である。彼はそこから「物神」と「事実」を組み合わせた造語〈物神事実(faitiche)〉を生み出した。

こうした彼の理論を、短絡的に建築に結びつけ、マテリアリティを論じる助けにするのは、容易ではなさそうだ。そもそも非人間(モノ)が行為主体となる、という状況をどのように理解すればいいのだろうか? それはただ単に「モノ」から考えて建築をつくる、ということではあるまい。人間中心主義と作家主義を重ね合わせ、主体としての「モノ」を考えることと既存建物のリノベーションとを重ね合わせてみると、たしかにラトゥールの議論の背景には、現代の建築観における価値観の変化との平行関係が感じられる。だが、非人間(モノ)を行為主体(エージェンシー)と捉えることによって非近代(ノンモダン)を考えようとする試みを、建築の側から理解するためには、もう一歩踏み込んだ議論が必要になりそうだ。

19世紀の建築理論家たちは「空間」という抽象的な対象を論じるために、心理学や生理学を援用した。それらの学問はまさに、人間の意識/無意識を中心としてそこで起こる現象を捉えようとする学問であり、感情移入論は、空間や形態の問題を人間中心主義的に捉えようとしたものといえるだろう。それに対して、21世紀のマテリアリティを論じるためにANTを参照するならば、マテリアルが行為主体となるという点を、本気で考える必要があるだろう。ただ単に、ヒト(主語)とモノ(対象=目的語)を入れ替えて受動態にしたところで、行為主体は変わらないはずである。比喩的な表現のレベルではなく、モノが主語になるという状況を、どのように考えればよいのだろうか?

聖遺物の力

ラトゥールが「物神」という「聖なるモノ」を例に挙げたことに触発されながら、ここでは、中世のヨーロッパでキリスト教徒たちの崇敬を集めた聖遺物を参照してみよう。聖遺物とは、聖人の遺体や遺骨、さらには聖人となった人が生前身にまとった衣服や手を触れた事物など、聖者にまつわる多岐にわたる品々である。それらは特別な力を有し、病や怪我を治すなど、さまざまな奇跡を起こすと考えられた。聖遺物が有する聖なる力は、「パワー」「エネルギー」を意味する「ウィルトゥス virtus」(ラテン語)と呼ばれる。

ところでこのウィルトゥスは、ウイルスのごとくに伝染すると考えられた。聖遺物はつねにウィルトゥスを放射しているが、ウィルトゥスの放射を浴びた事物もそのウィルトゥスを宿すと考えられた。そのため聖遺物を安置した聖遺物容器なども、ウィルトゥスを常時浴びることにより、聖遺物と同じ効力を持つことになり、事実上聖遺物化することになる。実際、役割を終えた聖遺物容器はしばしば小分けにされ、信徒たちが持ち帰った。また参拝者が自前の布を、聖遺物あるいは聖遺物容器に被せたうえで持ち帰った場合も、その布に「ウィルトゥス」は伝染し、参拝者は労せずしてウィルトゥスを帯びた聖遺物としての布を自宅に持ち帰ることができたのである★11

モノからモノへと聖遺物の聖性(ウィルトゥス)が伝播していく構図は、モノそのものが行為主体となるというANTを連想させる。むろんそれは、中世の人々が聖遺物をそういうものとして理解したということにすぎず、たとえば近代科学の立場からすれば「ウィルトゥスなど迷信に過ぎない」ということになるのかもしれない。だがそれでもなお、その迷信が中世の人々を動かしたとすれば、モノが行為主体となったと見ることができるだろう。

建築における21世紀的な豊饒なマテリアルを追求するうえで、それらのマテリアルがなにかウィルトゥスのようなものを発散していると考えることができないだろうか。マテリアリティを論じることは、ある物質が発する「ウィルトゥス」を論じることである。そして建築空間と被覆の関係においては、被覆のマテリアルが発するウィルトゥスが、その建築空間を豊かなものに(あるいは場合によっては貧相で悪趣味なものに)しているのである。

20世紀のマテリアル

繰り返しになるが本連載の背景にあるのは、20世紀の建築がフォルムに偏っていたことに対し、20世紀末以来、建築の世界がマテリアルに強い関心を抱きはじめたのではないか、という仮説である。だがじつは、フォルムの時代たる20世紀は、コンクリートとプラスチックという2つのマテリアルが全盛を誇った時代でもあった。ここでは、これら2つの特徴的なマテリアルについて考えてみたい。

これら2つのマテリアルは建築とプロダクトの世界で、新時代を象徴するマテリアルとして登場した。それは「新しさ」というマテリアリティを帯びて登場したと言うことさえできよう。だがいま、こうしてマテリアリティの問題を考えているとき、2つのマテリアルからは、どこか貧相で魅力の薄いイメージを感じてしまうのはなぜだろうか。

むろん安藤忠雄建築における打ち放しコンクリートを、安っぽいと批判する人はあまりいないだろう。だが、街中で見かける古い雑居ビルや工場、土木構造物などに目を向けると、そこには無残ともいうべきコンクリートの素材感の表出があるように思われる[fig.2]。それを「ブルータリズム」などと呼んで、現代アート的な意味での「美」を見出すことができたとしても、それはコンクリートの悲惨な質感に対する開き直りの姿勢のようにも感じられる。

fig.2──駅階段のコンクリート(撮影=江尻悠介)

プラスチックについても、同様のことを感じる。ミッドセンチュリー・モダンのポップでカラフルなプラスチック製品の数々は、未来を感じさせる素晴らしいデザインだった。そのデザイン性には確かに、プラスチックのマテリアリティが貢献していたはずである。だが今日、100円ショップに並ぶありとあらゆる製品がプラスチックで作られているのを見ると、そこにはプラスチックの安っぽさが現前してくる。結局プラスチックは、本来備わっていたはずのマテリアリティの可能性を捨て、単なる使い捨ての素材に成り下がってしまったのではなかろうか。

プラスチックのマテリアリティを考えたとき、興味深いケーススタディとなるのが、アップル・コンピュータ製品の変遷である。1998年、アップル社はオーストラリアのボンダイ・ビーチをイメージカラーとした、青い半透明のプラスチックで成型されたiMac「ボンダイブルー」を発表した[fig.3]。1970年代以来、コンピュータとしての性能は向上してもボディは一貫してクリーム色のプラスチックであり続けたコンピュータが、革新的な変身を遂げた瞬間であった。この製品の爆発的ヒットは、スティーブ・ジョブス伝説の一部として語り継がれるのかもしれないが、20世紀末になってプラスチックのマテリアリティを最大限引き出すようなiMacが登場したことは、やはり同時代のマテリアルに対する関心の高まりとの平行現象であったように思われる。その後トランスルーセントのiMacはさらに多色展開し、このプラスチックの「スケルトン・デザイン」は、ありとあらゆるプロダクトに影響を与えることになった。

fig.3──iMac G3「ボンダイブルー」(1998)
引用出典=https://ja.wikipedia.org/wiki/IMac#/media/File:IMac_Bondi_Blue.jpg

だがアップル社は、プラスチックのマテリアリティを10年間謳歌した後、戦略の転換を諮る。2008年に登場したのは、アルミ削り出しのMac Book Airであった。その後、現在に至るまでアップル社の多くの製品、とくにモバイルで手に触れることの多い製品は、Mac BookもiPhoneもiPadも、しだいにこのアルミ製ボディに統一されていく[fig.4]。プラスチックからアルミニウムへの、マテリアルの転換であった。

fig.4──MacBookのカラーバリエーション
引用出典=https://ja.wikipedia.org/wiki/MacBook#/media/File:MacBook_2015_-_all_colors.jpg

プラスチック・ケースのノートパソコンと比べたとき、アルミ削り出しの触感はなんともいえず心地よい。冷んやりすべすべとしていて、意味もなく撫でまわしたくなるような手触りだ。ぶつければ傷も付くのだが、その傷さえも愛着につながるような気がする。それは、プラスチック製品が傷つくとその部分が毛羽立ち白濁し、触れるたびに残念な気持ちになるのと対照的である。

1990年代後半以来のアップル社のマテリアル戦略は、バーチャルなデジタルデザインにも表われた。2010年から数年の間、iOSのアプリはスキューモーフィズム(Skeuomorphism)デザイン満載となった。革装幀の手帳のようなカレンダー・アプリ、レポート用紙のようなメモ・アプリなどである。コンピュータ上でもiPhone上でも、一時期、画面のなかは溢れかえるマテリアルでいっぱいになった。マテリアルの氾濫は、その反動としてのフラット・デザインを引き起こし、アプリのなかのバーチャルなマテリアルはその後、おおむね影を潜めることになる。だがいまでも、たとえばKeynoteのテンプレートのなかには、革装本、布装本、羊皮紙、黒板など、この時代のスキューモーフィズムの名残を見つけることができるだろう[fig.5]

fig.5──Keynoteのスキューモーフィズム

すなわち、1998年のiMacの登場以来、今日までのアップル・コンピュータのデザイン戦略には、リアルなマテリアリティと、バーチュアルなマテリアリティに対する強い関心を見てとることができる。そのなかで、プラスチックというマテリアルは、20世紀の終わりの一時期、素晴らしい輝きを放ったものの、結局は消え去っていくことになったのだった。




★11──秋山聰『聖遺物崇敬の心性史』(講談社選書メチエ、2009)17-18頁


201805

連載 アーキテクトニックな建築論を目指して

第12回:大変動の時代の建築第11回:建築の「時間デザイン」と「メンテナンス」という哲学第10回:マテリアル・カルチャーとテクトニック・カルチャー第9回:20世紀様式としてのフレーム構造第8回:西洋建築史に見る鉄のテクトニクス第7回:仕上げのテクトニクス、表層のマテリアリティ第6回:歴史のなかで、コンクリートの尻尾を掴む第5回:21世紀のアール・デコラティフ(後編)第4回:21世紀のアール・デコラティフ(前編)第3回:建築史学の現代性第2回:マテリアリティとは何か?第1回:素材と構築が紡ぐ建築史
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