復興を生かす力──
インドネシアの津波被災地に学ぶ

西芳実(インドネシア地域研究、災害対応)

東日本大震災発生の7年前である2004年12月26日に発生したスマトラ島沖地震およびそれに伴う津波災害の例から、災害復興とそれを通じた社会の変容について考えてみたい。この津波はインド洋沿岸の20カ国で約22万人の犠牲者を出し、それらのうち国別の被害が最も大きかったインドネシアでは、スマトラ島のアチェ州を中心に約17万3,000人が犠牲になった。

海辺から臨むアチェ州都バンダアチェ市(2005年2月)。津波で家屋が流され、3キロ先のモスクの尖塔が見える。津波により人口約25万人のうち約5分の1が犠牲になり、遺体の収容だけで2カ月を要した。現在は市内10カ所の集団埋葬地に葬られている。

津波から7年目

アチェでは、津波から7年目を迎えた2011年頃、被災の経験を積極的に外部に向けて語り始める様子が見られた。後から振り返ってみると、このことがアチェ社会における津波災害への向き合い方のひとつの潮目だったように思われる。

筆者は津波後に毎年数回アチェを訪れ、古くからの知り合いや津波後に知り合った人たちから話を聞いてきた。津波の話だけでなく、自分たちの子どもの頃の話を含めてアチェの現代史の一端を知るうえで貴重な話ばかりだった。話を聞かせてくれていた人たちから自分の話を書いて残しておきたいと言われるようになったのが、だいたい津波から7年目を迎えるぐらいの時期だった。タイプライターを寄贈して、空き時間に自分史を書いてもらうようお願いした。

支援団体に供与された復興住宅でタイプライターを使って自分史の執筆を始めたAさん(2011)。70枚の原稿を書き上げ、2017年に亡くなった。

印象に残っているもうひとつの出来事として、2011年12月にアチェで行なわれた津波7周年の記念式典でのアチェ州知事の開会あいさつがある。イルワンディ州知事は、津波被災時にアチェが30年に及ぶ内戦状態にあったことに触れ、同じ社会に暮らす人々が互いに憎しみ合う状況があったため、津波があったときに本来なら救えた命を救えなかったことを悔い、2度と内戦を繰り返してはならないと述べた。そして、この式典の9カ月前に発生した東日本大震災に触れ、自分たちが身をもって津波災害の教訓を世界の人々に伝えていればあれほど多くの犠牲が出たのを防げたはずで、アチェの人々はこれからも自らの被災と復興の経験を世界の人々に伝えていかなければならないと述べた。

津波被災7周年の記念式典であいさつをするイルワンディ州知事(2011)

ここには、救えたはずの命を救えなかった強い悔恨の念と、自分たちの津波被害の思いや経験がほかの人々の助けになるのだという確信がある。これは、物理的な復興事業はまだ道半ばで、個々人の生活再建や心の立て直しもまだ遠い道のりを歩み出したばかりだったとはいえ、アチェ社会が全体として被災から復興の新しい段階へと一区切りをつけていくとともに、被災と復興過程を契機にアチェに新しい社会が生まれつつあることを象徴していた。

内戦下で起こった津波

アチェの被災と復興について語るうえで、津波被災を契機にそれまで30年にわたって続いてきた内戦が終結したことを抜きにはできない。紛争中は、問題を問題として捉えることができなかったのに対し、津波後の復興過程は、問題はたくさんあったが、それらは解決できる問題であり、アチェ域外に出ていた人々が帰郷してアチェの再建に取り組んだ。

1970年代以来、アチェのインドネシアからの分離独立を主張する自由アチェ運動(GAM)とインドネシア政府との間で内戦状態が生じていた。アチェは、国軍と独立派ゲリラという敵対する2つの武装勢力の間に置かれ、人や物だけでなく情報の面でも外部から閉ざされていた。紛争が長期化するなか、2つの勢力間の対立は住民からの資源強奪というかたちで表われた。住民は、武器を手にして目の前に現われるそれぞれの勢力から「税金」を求められ、従わなければ拉致・誘拐されて、運がよければ数日後に生きて帰ってこられるものの、そのまま行方が知れなくなった人も少なくなかった。アチェの若者たちは、インドネシア国軍側または自由アチェ運動側のどちらかにつくか、アチェを離れてインドネシアの他地域や海外に出ていくかの道しかなかった。

内戦が激化するなか、放火により焼失した商店街で家財を探す人々。火をつけたのが誰なのかは今も明らかになっていない(1999)。

津波を契機にインドネシア内外から大量の人がアチェを訪れ、アチェは突如、外の世界に開かれた地域となった。アチェの若い世代が新しい価値や知識を積極的に吸収し、それらの価値や知識を意識して津波後の再建に取り組もうとする姿が見られるようになった。

被災後にバンダアチェで増えたwifi設備を備えたカフェ。伝統的なコーヒーショップと比べて開放的なつくりで、支援団体がパソコンを携えて打ち合わせに利用する様子に若者たちはあこがれた。支援団体撤退後は男女問わずアチェの若者たちで賑わう。

復興事業がもたらす新しい価値

世界各地からアチェを訪れた支援者たちは、理想の社会をデザインし、それをアチェの被災地に適用しようとした。ある支援団体は、学校再建にあたって教室に教壇を設けないデザインを採用し、教師と生徒が対等の立場であるという思想を反映させようとした。別の支援団体は、復興住宅にゴミ分別のキットを配布する際に、可燃物と不燃物だけでなく放射性廃棄物を含む3つに分別するという思想を活動に託した。このように本国でも通念化していない先進的な考え方が世界各地からアチェにもたらされ、アチェの復興事業はさながら「実験場」の様相を呈した。

これらの思想は、アチェを含むインドネシアでなじみがないものだったが、復興事業に参加することを通じて、アチェの人々は新しい思想に触れ、自分たちのものにしていった。海外の支援者はアチェで支援事業を展開するにあたって現地の人々の協力を必要とし、通訳や運転手を雇用した。さらに自分たちと被災者の調整役として地元の若者を現地スタッフとして雇用したり、地元の非政府組織(NGO)をカウンターパートにしたりした。支援事業の進め方を横目で見ていた現地の若者たちは、事業を進めるうえで必要な対外的な説明責任や透明性、そして情報共有の大切さを体得していった。

津波から7年が経った頃から復興事業のなかで育った若者たちの活躍が目立つようになってきた。津波が襲ったときはまだ小さい子どもで、両親や親戚のほとんどを津波で亡くして遠い親戚や知り合いに引き取られて中学と高校で学び、まわりの人々に感謝しつつ、別れた家族・親戚や友だちのことを思い、高校卒業後には自分の経験を踏まえて職業選択する若者たちが生まれている。大学に進学し、さらにアチェの国立シアクアラ大学に新設された大学院の防災学研究科に進学を希望する人も出てきた。

被災時には小学生だったPさんとMさんはシアクアラ大学工学部に進学。日本の盲人用点字ブロックに興味を持ち、卒業研究のテーマにした。研究成果をもとに州政府に提案した計画書が採用され、バンダ・アチェ市内の歩道に百数十メートルにわたって点字ブロックが実験的に敷設された。障害者が暮らしやすい街づくりが夢だ。

世界から向けられるまなざし

アチェの復興の大きな特徴は、災害からの復興と内戦からの復興が同時に進められたことにある。津波を契機に2005年8月に内戦が終結した。インドネシアでは地方ごとの分裂を招きかねないという理由で地方政党の設立が認められていないが、和平合意後のアチェでは地方政党の結成と元兵士の参政権が認められた。元兵士たちは地方政党を結成して選挙に臨み、市議会・県議会や州議会の議員になり、冒頭で紹介したイルワンディのように州知事に当選する人も出てきた。GAMの元兵士たちが議会で多数派を占めると、これまで行政の現場で知識や経験を蓄積し継承してきた行政官との間でせめぎ合いが生じた。このせめぎ合いは日々さまざまなレベルで起こっているが、象徴的なのはイスラム法の法制化である。

アチェは住民の多数をイスラム教徒が占め、インドネシアのなかでも最も早くイスラム教を受け入れた地域としての誇りがあることから、イスラム教徒でない人も含めて、イスラム教の価値に照らしてアチェ社会をつくることに対する反対はないと言ってよい。問題は、イスラム教の価値に照らした社会づくりとは具体的にどのようなものかについてさまざまな議論があるはずだが、多様な層の人々の意見が十分に集約されることなく、イスラム化としてわかりやすい法制化が進められ、結果として社会のマイノリティに対して公開の場で見せしめ的な仕打ちを容認する状況を招いていることにある。また、そのような場面だけ取り上げて繰り返し報道されることで、せめぎあいのなかで調整をはかろうとする人たちの努力が蔑ろになりかねない。報道や研究を含め、外部世界がアチェ社会にどのような関心の目を向けるのかということは、アチェ社会が今後どのような道を歩んでいくのかという問題と密接に関わっている。

変わる被災社会の位置づけ

ここまでもっぱらアチェ社会について述べてきたが、最後にインドネシア全体の社会の変化についても述べておきたい。アチェ州以外では地震・津波の直接の被害はほぼなかったが、この津波災害はインドネシア全域に認識の変化をもたらした。

災害に対する直接的な対応に関連して、インドネシアに災害ボランティア文化が生まれた。アチェの津波被災地にはインドネシア国内各地から救援・復興のボランティアが多数訪れた。州やその県・市が派遣したものもあれば、学校・企業・病院がそれぞれ派遣したものもあった。その多くは数人でひとつのチームを組織し、背中や胸に派遣元組織の名前が入ったお揃いのジャケットを着て、遠目にも災害ボランティアだとわかるような姿で現地入りした。同じインドネシア国民として被災者に支援の手を差し伸べる状況が目に見えるかたちで現われたことで、これ以降、インドネシアでは大きな災害が発生すると国内各地から災害ボランティアが被災地入りして救援・復興にあたる姿が見られるようになった。

また、津波被災を契機にインドネシアにおけるアチェの位置づけが変わってきた。これまでインドネシアのほかの地域の人々にとって、アチェの人々とは、外部からの侵入者に対して戦いも辞さない「ファナティック(狂信的)」な人々であって、それをイスラム教の信仰が支えているために余計に手に負えないという印象が持たれていた。しかし、この数年で、インドネシアの他地域の人々、とりわけ知識人層の間で、アチェについて語ることが知識人としてのたしなみであるというような雰囲気が醸成されつつあるように感じられる。文学作品や映画でもアチェが言及されるようになり、従来のような辺境の異質な人々という扱いではなく自分たちの社会の一部、共通する事柄として話題に上るようになってきている。

被災と復興の経験は個別のものであり、災害の規模や地域によっては、復興の意味そのものも異なる。現場では、被災後という新しい環境のなかで、被災前からの課題を含めて人々が個々の意思と創意工夫によって自らの暮らしをよりよくしようと日々奮闘している。そのような視点抜きに、被災者や、潜在的な被災者である私たちすべてが、専門や立場、さらに地域や時代の違いを超えて災害と復興について考える共通の議論の場をつくることはできないだろう。


西芳実(にし・よしみ)
京都大学東南アジア地域研究研究所准教授。インドネシア地域研究、災害対応、人間の安全保障、移民、地域情報学。
著書=『災害復興で内戦を乗り越える──スマトラ島沖地震・津波とアチェ紛争』(京都大学学術出版会、2014)、『被災地に寄り添う社会調査』(京都大学学術出版会、2016)。主な共編著=『記憶と忘却のアジア』(青弓社、2015)、『歴史としてのレジリエンス──戦争・独立・災害』(京都大学学術出版会、2016)など。


201803

特集 復興からの創造


復興からの創造はいかに可能か
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復興を生かす力──インドネシアの津波被災地に学ぶ
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