復興からの創造はいかに可能か

鞍田崇(哲学、環境人文学)+福嶋亮大(文芸批評)+林憲吾(アジア近現代都市史)+岡村健太郎(建築史、都市史、災害史)

被災地域の現在

林憲吾──今回の特集の趣旨は、復興を契機に新しい社会が生まれるための条件を考えることにあります。この特集のきっかけは、以前に、下北沢にある書店B&Bにて開催した座談会「復興に芽吹く」(開催=2017年8月26日)です。昨年2月に岡村健太郎さんの『「三陸津波」と集落再編──ポスト近代復興に向けて』(鹿島出版会)が出版されましたが、それを素材に、ここにいるメンバーで復興の意義を語りました。工学的に語られがちな復興をなるべく人文学の視点から捉えてみたいと考え、『復興文化論』を書かれた文芸評論家の福嶋亮大さん、民藝を軸に地方の文化や社会を考察している哲学者の鞍田崇さんにお声がけしました。ただ、その際は東京での開催で、復興の現場で実際にどのような動きがあるのかを共有できていませんでした。そこで今回は岡村さんのフィールドでもある岩手県大槌町のいまを確認したうえで、座談会を行なうことにしました。

岡村健太郎──今回大槌町を訪れて印象的だったのは、三陸鉄道の橋が架かっていたことです。去年まではなんの工事をやっているのかよくわからないことが多かったのですが、三陸鉄道の橋をはじめ復興のかたちが見えてきたと思います。鞍田さんと福嶋さんは被災地の現況を見てどういった感想をおもちですか。

鞍田崇氏

鞍田崇──復興後の街のかたちが見えてきたのは事実だと思うんだけど、これが理想的なかたちなのかわからないし、なにか確固たる意志を伴った方向に進んでいるようには感じられませんでした。震災という突発的な非日常の混乱状態から、ルーティンとしての街の営みが見られる日常的な状態へと回復しつつあるのはよくわかる。しかし、はたして、その街に根差したものとして復興後の街がつくられているのか。
というのは、盛土や防潮堤など、復興プロセスとして街に施された処置のスケールがあまりにも巨大だから、本来手の届く範囲で営まれる日常のスケール感とは物理的にも心理的にも対極にあるように思われました。僕のなかでは、復興後の街の「ちぐはぐ感」を感じたのが正直な感想です。この問題は大槌町に限らず、今回の震災の復興のかたちとして広く問われていくものだと思う。

福嶋亮大氏

福嶋亮大──住民のニーズに応えると称する土木のポピュリズムのもとで、巨大な防潮堤がつくられ、その結果としてある程度の安全を確保できるかもしれないけれど、従来の海との心理的なつながりがその巨大な「壁」によって隔てられてしまっているわけですね。それは結局、文化の喪失だと思います。その一方で、被災地は建築家の草刈り場になっていて、仕事をしたい建築家たちが一時的にやってきて仕事をし、その土地に根付くものをたいして残せずに帰っていくという現状もあるのではないか。土木のポピュリズムと建築家のエゴイズムが交錯するところに被災地がある。もちろん岡村さんは頑張っていらっしゃると思いますが、総じて言えば、長期的なヴィジョンを出すはずの学者や知識人はあまり役に立っていないというのが正直な実感ですね。

中間領域を担う人材

岡村──風景だけ切り取ってみれば、そのように感じるかもしれませんね。ただ、今回は被災地を見学しただけではなく、被災後の大槌町で精力的に活動を展開されている方々にお話を聞くことができました[fig.1]。津波犠牲者の遺族への聞き取りを進めている「生きた証プロジェクト」実行委員長でお寺の住職の高橋英吾さん、震災後に共同組合を立ち上げいち早く産業再建に取り組んだ漁業加工者の芳賀政和さん、集落サイドの代表として復興に取り組む神主の藤本俊明さんと公民館長の芳賀博典さん、震災後に林業を通して集落再建を目指すNPO法人代表の芳賀正彦さん、そして自然や文化の重要性を訴え続けている元役場職員の佐々木健さんです。

fig.1──インタビューの様子[撮影=林憲吾]

福嶋──今回よくわかったのは、官と民のあいだでさまざまな物事を調整する人間が重要な役割を担っているということです。大槌町の場合は、神社の神主や寺の住職が非常に公共的にふるまっておられますね。住民の声をこまめに聞き、死者の弔いや遺族のケアもやり、新しく建てられる家の状況まで把握している。つまり行政の及ばないようなところに宗教者が深く関わっているわけです。別に悪い意味ではなくて、一種の「フィクサー」がいないと傷ついた社会はうまく回復しない。官と民の中間領域を担う人材がどれだけ分厚く存在しているかが、復興が成功するかどうかの重要な鍵だと思います。

──僕もそれを感じました。例えば宮司さんであれば、新たに住宅が再建されるときには地鎮祭という仕事があって、そういうものに駆り出される。そのことで、いろいろな人と関わりますよね。住職さんも、もちろんいままで弔いをやっていましたが、「生きた証プロジェクト」を始めたことで、仏教の枠組みを超えて、多くの人の弔いに関わるようになった。復興を契機にこれまで神社や寺が請け負っていたネットワークよりもさらに広い関わりをもち始めたわけです。宮司さんや住職さんに次の社会をつくる志があれば、そういう機会によってできたネットワークをうまく利用し、活かすことで次の復興につなげられると思います。

鞍田──いまの話を聞いて思ったのが、お寺だったら弔いという「終わり」の側の視点から新たなネットワークを再構築していて、それに対してあえて単純にいうと、神社の場合は、地鎮祭に象徴されるような新たな「始まり」の側の視点からやはり新たなネットワークを形成しているわけです。でも本当に大事なのは、「始まり」と「終わり」のあいだにある、日々営む仕事や生活だと思う。今回の復興では、日常生活のような中間的なことを取り戻す役割を誰が担うのかがまだ明確になっていません。例えば、きょう話をきいた加工業者さんみたいに、復興活動を続けている個人の存在はたしかにあるんだけれど、震災直後の「とにかくなにかやらないといけない」というなかで生まれた活動はいまや役割を終えていて、次の段階が見えておらず、個々の営みに終始するにとどまっているというのが現実だと思う。その中間の中間は誰が担うのでしょうか。

アソシエーションの伏流

岡村──僕が主な研究対象としている昭和三陸津波(1933)後の復興においては、産業組合という組織が重要な役割を担ったことがわかっています。産業組合とは、1900年制定の産業組合法に基づく組織で、資本主義が浸透していくなかで立場を弱くしていった農業者や中小規模の商工業者などを救済する目的で設置された組織です。当初は必ずしも農山漁村に浸透したわけではなかったのですが、昭和三陸津波後には、復興を担う組織として、とくに公的資金の受け皿として各被災集落に設置されていくことになります。つまり、先ほど話のあった官と民の中間領域を担う人材を、いわば行政サイドが準備したとみなすことができます。

福嶋──それは国家が一方的に準備したものではなく、東北に潜在しているアソシエーショニズムが役立ったということですね。岡村さんの著作で紹介されていたように、『ポラーノの広場』の宮沢賢治や『遠野物語』の柳田國男はそれぞれ産業組合の推進者だった。『遠野物語』もサブカル的な妖怪の本というよりは、アソシエーション(結社/組合)を育てるための「集団心理の研究書」として読んだほうがいいわけです。アソシエーションと東北の復興史の関係は、もっと評価されるべきです。

鞍田──そういう意味では、被災後の復興を語るには、その前史が重要です。岡村さんの著作でも指摘されているように、いきなり昭和三陸津波があってそれに対して迅速に対応したのではなく、大きな時代背景として農山村の疲弊があり、そうした近代社会のひずみが表われてきたなかで発生したのが昭和三陸津波でした。そうした前史があったからこそ、昭和三陸津波の復興にはある種の萌芽が潜んでいたといえるのでしょう。

──今回の震災後も漁業者さんたちが協同組合をつくっていましたね。ただ、お話では、いまは事業がある程度軌道にのって、個々が自立していく段階とのことでした。いわば協同組合は、復興のスターターとしての役割を担ったといえます。昭和三陸津波のときの産業組合には持続性はありましたか。

岡村──実際には、戦争があったのでそんなに持続性はなかったと思います。ただし、理念としては、農山漁村の生活や経済的な部分を改善しようということで、もう少し射程の長いことを考えていたと思います。一方、今回お話を聞かせていただいた協同組合のプロジェクトは、震災後の非常に短い期間に生まれた小さな動きでしかなかったとのことでした。

鞍田──「ポスト近代復興」を掲げた岡村君の著作では、じつのところ、復興における理想的な意味での近代性とはなにかが問われていると思うのだけど、いまの議論はそれに関わるものでもありますよね。問題はネットワークの形成そのものは比較的容易となったこの時代において、グローバルからローカルまでさまざまな階層に存在するさまざまな主体間のバランスをどのように取るかということなんじゃないでしょうか。それが現代において問われるべきことだと思うのですが、そのあたりについてはどうお考えですか?

岡村──一番身近にできる範囲を自分たちがやって、そこでできない範囲を市町村や県がカバーして、その次は国がカバーしてというような、いわゆる補完性の原理が理想だと思います。ただ、今回の震災では残念ながらそうした理想的な状況はみられませんでした。一方、昭和三陸地震の時は、ある種理想的なバランスが垣間見えました。その要因としては、関東大震災(1923)や昭和恐慌(1930−31)といった前史を経験した官僚たちがそこでの知識や経験を糧にして昭和三陸地震の復興活動に臨んだことが大きいと思います。逆に言えば、今回の東日本大震災でもたくさんの派遣職員が、国や他の自治体から被災地に来て経験を積んだはずで、そうした人たちが次の災害の復興活動に取り組むときに、これまでとは違うことが実現できるのではないかと期待しています。
また、近年の日本における災害復興のキーワードとなっている「創造的復興」を巡るさまざまな主体間のバランスについては、本特集において饗庭伸先生が論考を書かれています。


201803

特集 復興からの創造


復興からの創造はいかに可能か
創造的復興のジャッジ
復興を生かす力──インドネシアの津波被災地に学ぶ
岩手県上閉伊郡大槌町 2018/2011
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