復興からの創造はいかに可能か
東北の開放性とインテリジェンス
- 左から林憲吾氏、鞍田崇氏、岡村健太郎氏、福嶋亮大氏
福嶋──なにかにつけて東北は閉鎖的だと言われるけれど、吉里吉里のような海に面した小さな集落でも、近世から海運業等を通じて外部との交流があった。あるいは大槌町に来る途中に通った遠野にしても、近世は交易で栄えた城下町だったわけで、江戸ともかなり交流があった。遠野といえば河童とか座敷童子がイメージされるけど、この種の妖怪だって単純に土俗的なものというよりは、江戸で流行った商業的なサブカルチャーでもあるわけでしょう。日本人が忘れている東北の開放性を手掛かりにして、東北のイメージを変えることができそうです。
- 林憲吾氏
林──以前に歴史学の方が指摘していたことですが、近世では地方において科学的な知が生まれるような動きがありました。それが近代に大学が設立されると、中央で科学知が生まれ、地方に広がるという構図が当たり前になります。そうしたなかで、地方の開放性や知性が見えづらくなくなったのではないでしょうか。
福嶋──そうですね。例えば、江戸時代の国学は地方にいくつも拠点があった。島崎藤村の『夜明け前』じゃないけど、そのいわゆる「草莽の国学」が明治維新のエンジンにもなったわけです。と同時に、江戸時代は中心の文化的洗練が地方に伝播し、各地で質の高い特産品がつくられるようになった時代でもある。鞍田さんの研究している民藝はその所産ですよね。近世以来の日本は「知」と「美」が列島のあちこちに分散している国だった。
大槌町に関しても、今回お話を伺った元役場職員の佐々木健さんのように、東京の大学を出てから地元に戻ってきて、その地域を知的にリードする人たちがいて、伝統を参照しながら長期的なプランを立てたり、自分たちの地域的アイデンティティを再構築しようとしている。地元の視点と他者の視点を組み合わせながら、まさに「人文的」な仕事をやっておられると思います。逆に、中央からやってくる工学系の人たちはその人文的な方面が弱いんじゃないでしょうか。そうすると、復興のプランも近視眼的になってしまう。
- 岡村健太郎氏
岡村──哲学者のユルゲン・ハーバーマスは「文芸的公共性」という言葉を用いて、17世紀後半から18世紀のフランスやイギリスにおいて、文芸作品を読むインテリ層のなかでの文芸的公共性が政治的公共性に先んじてあったと述べています。それはまさに、佐々木健さんの頭のなかに宮沢賢治や井上ひさしが描いていたような社会があって、震災後それをどのように実現していくか悪戦苦闘していたことと重なります。
鞍田──インテリジェンスを万能みたいには思わないけど、ただ現状としては、地方のインテリジェンスに関して、世代の問題があると思います。佐々木健さんは60歳くらいで、吉祥寺の和尚さんは40代だったけれど、地方の街において中間的な領域での調整役は、ある世代以上の人だと思います。それは、本来街の将来を担っていくべき世代の20〜40代の人たちが都市部に出てしまっているからでもありますが、世代間の橋渡しをすることが大事だと思います。
福嶋──人口減少社会に入って今後は限界集落も増えるし、否応なく地方も再統合されていく。ただ、そのときも、いろんな地域で公共を担っている人々がそれこそ「アソシエーション」として連合していくようなかたちを取らないと、うまくいかないように思います。その意味でも、東日本大震災からの復興は、一時的な「復旧」で終わるのではなく、未来の地域のヴィジョンにもつながらないといけない。ただ、大学人が地方の知識人を「いいね」と言っていても本当は仕方がないんですね。最近は「地域の視線に立って」というお題目が多いけれども、工学系でも人文系でも、むしろ地域住民とは別の視線を提示できないとそもそも存在価値がないと思います。
アチェの復興と創造
岡村──一方、本特集で西芳実先生が取り上げているインドネシアのアチェの事例では、震災復興を通して新たな社会が創造された側面があるということですが、具体的にはどのようなことがあったのですか。
林──2004年、僕がインドネシアに滞在しているときに、スマトラ島沖地震がありました。アチェにも行きましたが、見渡す限りのものが津波で流されていて本当に驚きました
重要だったことは、復興支援の大半が中央政府ではなく、国際NGOなど国外の組織によってなされたことです。西先生によれば、震災直後は、反政府組織がはびこるとされる地域には支援団体の介入が国軍に制限されていたそうです。しかしそこにも次第に支援団体が入るようになった。反政府組織がはびこる地域というのは、そもそも政府が国軍を送るための方便として使っていたもので、国軍が支配していたのが実情だった。だから、実際は国軍も支援をしてほしい。そのため途中から支援団体が入ってもよい状況になりました。これはつまり、生存を重視するなかで、内戦下での前提がどんどんうやむやになったということです。
- fig.2──被災後のアチェの様子[撮影=林憲吾]
岡村──アチェではグローバルとローカルが一気に結びついているということですが、実際にはそのあいだに差配する人がいないと、復興がうまくいかないのではないかと思っていました。支援が手厚い場所とそうでない場所が生じてしまいかねない。なぜうまくいっているのでしょうか。
林──そもそも偏りのある支配がされていた地域ですから、その支配を成立させていたローカルの論理が是正される機会になったといえるのではないでしょうか。日本では、震災があったとき、政府主体でインフラ整備から生活物資の提供まですべてやれてしまう。つまり日常生活をサポートするところまできめ細かく行なうことができます。それに対して、インドネシアでは国外の援助団体がそれを担ったわけですが、いままで抑圧されていた生活者の声が表に出やすくなったのかもしれません。政府では完全にコントロールしきれない支援がそうした状況を切り開き、新しい社会をつくっていったといえると思います。3.11の時もそういう期待感はあったと思います。
福嶋──スマトラの場合は津波が来たことによって、一種の「善悪の彼岸」が開示されて、いままでの戦争が棚上げにされたわけですね。それに対して、東日本大震災の津波は、社会的な分断をもたらしているところがある。例えば、隣の人間は家が流れてしまったけれど、自分の家は流されなかったというような話を今回聞きました。同じ震災という出来事を経験しているはずなのに、運命が別々になってしまい、それがときには社会も引き裂いてしまう。この「運命の分断」は街の内部だけではなく、自治体のあいだでも起こっていることです。別々になってしまった運命をむりにひとつにはできないという困難さのもとで、共同体を立て直すしかない。それはとても大変なことだと改めて痛感しました。
- 被災地域の現在/中間領域を担う人材/アソシエーションの伏流
- 東北の開放性とインテリジェンス/アチェの復興と創造
- 震災遺構と記憶の継承/新たな言葉を創る