器と料理の本
──鹿児島睦『鹿児島睦の器の本』ほか

杉戸洋(美術家)

2017年夏の東京都美術館での個展「とんぼ と のりしろ」をやり終え、戻ってきた物品も収納し終え、ひと息着いたところ。

普段は彫刻の公募展展示に利用されている天井高のある吹き抜けの地下空間と、その横に繋がる地下2階と地下3階の天井の低い展示室で展覧会をやらせていただいた。この展示室は、学生時代から先輩の彫刻の搬入の手伝いの時や、東京藝術大学の卒展会場としても利用される場所でもあり、何度も訪れている親しみのある場所。何年か前に増築と改修工事がされだいぶ変わってしまったがレンガ色の床タイル、コンクリートのはつり壁、珊瑚色のかまぼこ型の天井はいまでも健在で、とても暗く重厚で美術館の中でも特徴のある空間。普段は作品の物量が圧倒されるほど多く、作品を見るので精一杯で、ここの空間のことなど気にもしていなかったが、いざ自分がそこで展示することになるととてもやり辛い空間だと初めて気付く。

下見に訪れ、展示室と美術館をなめるように見させていただき、一般の人は入らないようなところまで見学して一番面白かったところは美術館の裏側。裏側といっても展示室のその下に広がる空間。上の階とほぼ同じようなレイアウトになっているが、搬入のためのバックヤードになっているため、展示壁もフローリングされておらず、また企画展示室に繋がるL字定規のように細長い通路があったりと、展示室よりも面白い空間が広がっている。こちらだと展示イメージがどんどん湧き出てくるのに対し、自分が使用する展示ギャラリーA、B、Cはまったくイメージが出てこなくて困っていた。

半年がたってもプランができないでいたため、ある日、ギャラリー空間が空の状態になっている時にもう一度見学に行けば、がらんとしたバックヤードを見た時のようにすんなり決まるだろうと改めて向かった。気付いたのは、今後日本ではもう見ることができなくなっていく空間を、展示室として利用するのがもったいないと思ってしまったこと。もしもこの吹き抜けになっている広い空間が大浴場だったらどんなに素晴らしい銭湯になることだろう、と考えてしまい、ますます展示のイメージができなくなり頭を抱えることになってしまった。

しかも、部屋の真ん中に椅子を置き風呂につかるようにボーっと見渡していると、何かが落ち着かない。上のほうは半周ガラス張りで通路になっており、覗き込まれている気分。中途半端な位置に窓があり、青白い自然光が入り込み、天井灯は水銀灯で部屋の光のスペクトルは荒れまくっている。展示室のプロポーションが変で、これは企画展示室の拡大に伴いリノベーションされた時に大きく変わり、そのしわ寄せが集まり、犠牲になってしまったところだと気付く。展示室を改造することはできないが、それらを気にならなくさせる方法はないかと構想を考え直すことになる。普段から力強い絵を描いてれば考えなくても済むのだろうが、主義、主張の弱い作品をつくっている自分には、それが置かれる環境にとても敏感になってしまう。

行き詰るとひとりで喫茶店によく入り浸るのだが、制作について考えるのでなく、忘れるための時間である。適当に雑誌を取り、パラパラめくりながらコーヒーをすすっているのだけれど、そのなかで料理コーナーのページが出てくると妙に見入ってしまう。写真は料理が主役であり、商品ではない。しかしレストランなどの紹介ページだと写っている料理は商品になってしまう。ただただ今夜のおかずは何にしようか悩んでいる人のためにレシピが紹介されているページは落ち着く。料理にはまったく興味がない自分にもつくった気にさせてくれ、充実した気分にさせてくれる。たぶん、これは使われている器が料理をより美味しく引き立たせて、また時には食卓周りの設えが写ったりしていると、人の家に招かれてごちそうになった気分になるからだ。この小さな幸せな時間がいろんなもやもやを忘れさせてくれるのに、自分の家だとこうはならないので不思議である。

鹿児島睦『鹿児島睦の器の本』
(美術出版社、2017)

そんな制作が迫っていて焦っているなかの息抜きの時間、雑誌をめくっていると、本の紹介で『鹿児島睦の器の本』(美術出版社、2017)の表紙が小さく写っているのを見かけた。以前、鹿児島さんの作品を名古屋の小さな雑貨屋でたまたま知り、その時はすでに完売で購入できなかったので、本もすぐに売れ切れてしまうのではないかと本屋へ行き早速購入。器がテーブルに置かれ、真上から撮った写真が表紙になっているのだが、そのカバーを広げていくと4枚の写真が並んでいて、それぞれの器が違う質感のテーブルや床の上に置いてある。これがいろんなバリエーションの壁に掛かっている器のサンプル表に見え、その器はもちろん素敵なのだけど、どの図柄も主張し過ぎておらず、形は暖かみがあり、その周りの素材との調和がとれていて、ひとつの繋がった絵にも見える。その器だけとっても、絵としても成り立ち、または扉のドアノブ、服のボタンのような存在にも思えてくる。本の中身は器だらけで料理が盛りつけられた写真などほとんどないのに料理のページを眺めている時のように心が落ち着く。

東京都美術館はタイルがふんだんに使われ、壁は重厚なコンクリートのはつり壁と白い化粧壁。どうすれば自分の作品も主張せずに背景に溶け込ませ、落ち着いた空間にできるか、というヒントが見え隠れしていているように思えた。

この本のなかで紹介されている、2つに割れてしまったプレートを2枚の器として並べている写真を見ていても、表紙に写っている器と背景とその周りの余白の関係を眺めているだけでも、いろんな意味で美術館の壁と絵のことを考えさせてくれた。インテリア的な、建物の尺に合わせるような比率関係をずらしていく方法としての制作を進めようとしていたのだが、その上から被さる別の要素が必要で、建物のディテールが時間的な物として表に出てくるよう引き立たせたく、結局構造を成立させるのは素材と質感なのかと。自分も建物に使われている素材に似たものを加えたく陶器に釉薬を塗るような仕事がほしかった。それは立派な器でもなく絵でもなく、レンガのようにひとつの単位でも物として成り立ち、組織として組まれても何かになるような物をつくろうと決めたのもこの本がきっかけである。今年最も参考になった本である。

鹿児島さんの器は、道具として見ると図案が絵として見えてきて、絵として見ようとするとデザインに変わり、鑑賞する側は、頭のなかで3つの言葉のお手玉をさせられてしまう。図案が押しつけがましくないのも、植物をよく観察し、成形から釉薬塗り、焼成の工程をひとりでこなし、またその上に盛りつけられる食べ物を想定しているからなのだろう。自分が落ち着くシチュエーション、空間もわかっているはずなのになぜ楽しめないのか。来年は空間も立体も、そんな器のことを考えながら大量にできてしまったタイルを使って何か別のかたちで遊んでみよう、とこの本のおかげで目標ができた。

また、窯で焼いた時に割れてしまったタイルもたくさん残っており、それらの割れ方を一つひとつ眺めていると、人がつくった物にはエネルギーが蓄えられていて、さらに手を加えたり、別なものにするためには一旦ある程度解放する必要を感じる。それがいい空間になれば、初めて引き締め直すこと、ものを加えていくことが楽にできるようになる。そういう駆け引きのなかからやることが見えてくるのが楽しい。本の場合も同じで、この本に加えいつか割れたタイルを直そうと『繕うワザを磨く 金継ぎ 上達レッスン』(メイツ出版、2017)を衝動買い。そして自分ではつくることはないとわかっていながら『後藤加寿子のおせち料理』(文化出版局、2017)を最近購入。この3冊を順番にパラパラ眺めているのがいまのちょっとした幸せな時間になっている。

持永かおり『繕うワザを磨く 金継ぎ 上達レッスン』(メイツ出版、2017)
後藤加寿子『後藤加寿子のおせち料理』(文化出版局、2017)



杉戸洋(すぎと・ひろし)
1970年生まれ。美術家。愛知県立芸術大学美術学部日本画科卒業。主な展覧会=「天上の下地」(宮城県美術館、2015)、「こっぱとあまつぶ」(豊田市美術館、2016)、「とんぼ と のりしろ」(東京都美術館、2016)ほか。


201801

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