中動態・共話・ウェルビーイング
──國分功一郎『中動態の世界』、安田登『能』ほか

ドミニク・チェン(情報学研究者)

今年の4月に大学で研究室を構えてから、久しぶりに大量の本を日常的に購入する生活に戻った。そして、気づいたら新刊よりも昔の本のほうにのめり込んでいる。たとえば、直近で深く読み解いた本は、1928年にパリで刊行された九鬼周造の『Propos sur le Temps』だ。長い時間を経て、多くの論者のフィードバックを受けることで、古い本は発酵していく。九鬼の本にしても、同時代のベルクソンやハイデッガーの考えに触発されながら、東洋的時間の深度にダイブしている。

私もまた、直観に従って好奇心を走らせてみたら、いつのまにか比較言語学から20世紀中葉のインタフェース研究まで、長い時間の尺度を行き来するようになった。去年よりJST/RISTEXの「人と情報のエコシステム」領域で、「日本的Wellbeingを促進する情報技術のためのガイドラインの策定と普及」プロジェクトに参加し、日本の社会文化となじみの良いウェルビーイング(心の良い状態)の因子を探り、その情報技術的な実装を目論むなかで、自然言語という原初のテクノロジーが人間の心身にどのようなフィードバックを与えているのかという問いの重要性が増している。

國分功一郎
『中動態の世界──意志と責任の考古学』
(医学書院、2017)

その意味で、2017年中にいろいろな研究者との議論のなかで最も参照した本のひとつが國分功一郎さんの『中動態の世界──意志と責任の考古学』(医学書院)だった。端的に言えば、この書籍のおかげで日本と海外を比較する議論のなかで特殊とされる日本的な主体観がけっして世界のなかで孤立するガラパゴス的な概念ではなく、多言語で成立する現象の一形態であることに気づけた。この力作に関する優れた書評はすでにいくつも出ているので、ここでは通り一遍の解説は行なわず、私の研究的関心からの解釈を書いていくことにしよう。

私がいま最も関心を抱いているのは人間と環世界とのインタフェースとしての言語という主題である。それは私自身が幼少期より多言語の文化のなかで育ったという経緯もあるが、今は自分の子どもが同様の環境のなかで成長する様子を観察することで改めてその不思議さに心を奪われているからだ。

私の娘は1歳から3歳までは日本の公立保育園に通ったが、3歳からは私の母校でもある国際フランス学園(旧リセ・フランコジャポネ)に通っている。学校で使う主な言語が日本語からフランス語に移る過程で、彼女は覚えたてのフランス語を話す時に、よく主語を抜かしていた。たとえば日本語では「これがやりたい」という時に、自分という主語を抜かしても何の問題もなく理解できるが、フランス語で「veux faire ça」と、je(自分)を省いて言うのは不自然である。同様に、日本語では「お腹がすいた」と、自身の空腹状態を胃袋に帰責するという表現が使えるが、フランス語で空腹を訴える場合には必ず「自分」が関与しなくてはならない(例えばj'ai faim, je crève la dalle, j'ai le ventre videなど。Mon ventre est videとも言えなくもないが、遠回しでわかりづらい)。

これは文法的な違いという以上に、それぞれの発話がもたらす認識と効果に少なくない差異を生み出す。日本語では主語を抜かすか、あるいは逆にあえて入れることによって、発話内容における自己の存在感を薄めたり、強調したりすることができる。その観点からすると、自己の明示的な関与を省略できないフランス語では、つねに自己が強調されているように、聞き手にも発話者にも感じられる。私はこのようなことを、幼少の頃より日本語とフランス語を日常的に往復する生活を送ってきたなかで、うすらぼんやりと感じていたが、日本的な文化的特性を研究するなかで意識するようになったのはごく最近である。

ファエル・A・カルヴォ+
ドリアン・ピーターズ
『ウェルビーイングの設計論──
人がよりよく生きるための情報技術』
(渡邊淳司+ドミニク・チェン監訳、
BNN新社、2017)

先述した研究の一環で、今年の初めにラファエル・A・カルヴォ+ドリアン・ピーターズ『ウェルビーイングの設計論──人がよりよく生きるための情報技術』(BNN新社、2017)という本を監訳した。この本は、現代の情報技術がそのユーザーに対してどのような心理的影響を与えるのか、ということを心理学の知見を導入しながら論じているものだが、そこで使われている主な理論のほとんどが欧米社会で育まれたものだ。唯一、仏教の体系がアジア文化から生じた、自己という強いフレームから脱却する方法論として言及されているが、それは瞑想という現代人にとっては非日常的な所作と紐づいている。ところが、日本に暮らしている私たちは、日常的な会話のなかで、軽やかに自己の強弱を調整している。

安田登『能──650年続いた仕掛けとは』
(新潮社、2017)

このことを最初に意識させられたのは、能楽師・安田登さんの謡の稽古で「共話」という概念を学んだことがきっかけだった。安田登さんは今年『能──650年続いた仕掛けとは』(新潮社)を刊行され、世阿弥に端を発する「能という思考」の特性を平易な言葉で解説している。

私は去年より安田さんのもとで月に2回ほど謡の稽古をつけていただいており、いつも謡の練習をしている横からさまざまな方向の雑談が始まるのだが、これが非常に面白い。ある日、『定家』という曲の話になった時に、クライマックスでのシテとワキの掛け合いが共話的であるという。つまり、ひとつのフレーズを2人が主語を共有しながら、協働して完成させる。

ワキ あまねき露の恵みを受けて、
シテ 二つもなく、
ワキ 三つもなき、

そして、そのフレーズは途中で完成することなく、地謡が続ける。

地謡 一味の御法の雨のしただり、皆潤いて。......

このように、複数の主体が入り交ざった共話の後に、まるで風景に融けるかのような描写がもたらすカタルシスは何なのか。いまだに私はこの不思議を明確に言語化できていないが、この心理的な流れの構造はウェルビーイング、つまり「心の良い状態」と密接な関連があるのではないかと考えている。

言語学者の水谷信子先生は、外国人が日本語を習得する際にぶつかる困難の観察から、日本語に特徴的な話法としての「共話」を独自に定義している。私なりの概念を交えて説明してみよう。AとBという話者がいる場合、たとえば英語においては、Aが話し終えてからBが話し始めるというターンテイクの形式が自然であるが、日本語においては、有意に多いあいづちの数と、文章を途中で止めて相手に続きを促すという構造に見られるように、いわば相互的なテイクオーバーが行なわれる。水谷先生は前者を対話的と呼び、後者を共話的と呼ぶが、特に共話は心理的な安らぎをもたらす効果があるのではないかと指摘している。

すべてを言わなくてもわかってくれる存在がいること、強く自己を主張しなくてもコミュニケーションが成立することが安心を生み、精神的な支えとなると表現しているが、私はさらにそこに、先の能のなかの共話に見られるように、自分と相手の主体性が交わり、環境に融ける感覚が生み出されることが、心理学でいうところのSense of Coherence、世界と自己が整合するポジティブな感覚を生み出すのではないかと考えている。

このような関心を育むなかで私は、中動態という能動と受動という二元論からの脱却を可能にする概念は、共話的なコミュニケーションを介した主体と環境との融和という効果が、けっして日本という一地域に限定されない普遍的な知覚につながることを示唆しているのではないかと、考えさせられている。共話にしても、日本語だけで成立する概念ではなく、程度の差こそあれ、中国語でもロシア語でも英語でも発生している。合理的な対話だけが知性ではなく、感覚的な交感を可能にする共話というものも、情動知能(Emotional Intelligence)を捉えるうえで重要なヒントとなるのではないか。

情報学の分野ではコンピュータと人間のインタフェースを考えることを主としているが、ダグラス・エンゲルバートが言語的相対論のサピア=ウォーフ仮説に深く影響されたことの逆向きの発想として、言語をインタフェースとして捉えることで、共話的な効果をもたらすコミュニケーションの様式を構想することができる。さしずめ、ネット上で起こっているフィルターバブルというグローバルな情報的疲弊を打破するひとつの道筋として、中動態と共話を接続することを試みていきたいと考えている。


ドミニク・チェン(どみにく・ちぇん)
1981年生まれ。情報学研究者。UCLA卒業、東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。NPO法人コモンスフィア/クリエイティブ・コモンズ・ジャパン理事。株式会社ディヴィデュアル共同創業者。著書=『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック──クリエイティブ・コモンズによる創造の循環』(フィルムアート社、2012)『インターネットを生命化する──プロクロニズムの思想と実践』(青土社、2013)、『謎床──思考が発酵する編集術』(松岡正剛との共著、晶文社、2017)ほか。訳書=『シンギュラリティ──人工知能から超知能へ』(NTT出版、2016)ほか。


201801

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