建築情報学とは何だろうか
建築史における建築情報学、歴史的視座からの「建築」の批評
豊田──おそらくいまの日本の建築業界にある種のデジタルアレルギーがあるのは、デジタル技術やそれに基づく価値観の歴史的な相対化ができていないからではないでしょうか。建築史のなかに「建築情報学史」が新しい枝としてしっかり接ぎ木されることで、初めて怖がらずに評価できるようになると思います。そしてこれはおそらく、カンブリア爆発のようなきわめてインパクトの大きい分岐になるはずです。
ニューヨークにいた頃、建築史家マリオ・カルポの『Architecture in the Age of Printing』(The MIT Press、2001)という本に出会いました。日本語訳はされていませんが、「印刷時代の建築」というタイトルで、情報の伝達という視点から建築の歴史を捉え、ルネサンス期に生まれた印刷からデジタルのメディアまでの流れが書かれています。その後の著書『アルファベットそしてアルゴリズム:表記法による建築──ルネサンスからデジタル革命へ』(鹿島出版会、2014)は美濃部幸郎さんによって翻訳されていますが、今後の建築情報学史の形成を考えるにあたって非常に重要な本だと思います 。
最近、建築史家の加藤耕一さんの著書『時がつくる建築──リノべーションの西洋建築史』(東京大学出版会、2017)にもマリオ・カルポへの言及があって驚きましたが、加藤さんのような歴史家の、特にリノベーションという視点で切り取った文脈に、こうした流れが組み込まれるということもとても面白い試みだと思います 。
池田──建築情報学史とは、コンピュータが現われたあとの歴史だけではなく、設計やものづくりと情報との関係の歴史であり、もっと広く長いものです。それはそもそも「設計とは何か」という問いの歴史でもあります。マリオ・カルポが指摘する通りアルベルティの時代から、「これからつくるものをヴァーチュアルな記録メディアに表記すること」が始まったわけです。これが今日のBIMにまでつながるような流れの起源と捉えられます。いまの建築学は、このルネサンス以降の近代科学をベースとし、設計とはあらかじめつくるものを記録することであり、建築とはそれを再現することであるという概念ですが、マリオ・カルポはそうした歴史を書くことで、改めて設計と建築の概念を相対化しています。
「アルゴリズム」も考え方としては紀元前からあるものですが、人間より速く大量に計算ができるコンピュータの存在によって、いまそれがメリットとして活かせるようになってきているわけです。情報学的には、アルゴリズム化し、ステップに分解することによって、ほとんど無限の可能性についてシミュレーションができることを理解しているかどうかが重要です。そうした技術や手法の根底にあるフィロソフィーを理解することによって、建築やデザインの可能性が開かれていくと思います。
このように、情報学的にとらえた歴史や経緯は、「いまここ」を評価し、建築情報学の本質を捉えるうえで非常に大事です。例えば、かつて職人が手作業のなかで経験的な計算手法を使ってやられていたことを考えることで、どうしたらより合理的に可能か、何を変えればよいのか、あるいは何が変えられないのかという思考が生まれてきます。
豊田──長い建築の歴史のなかでは、意匠・構造・環境・材料などの専門性が分かれている期間のほうが特殊で、そうではない期間のほうが常態だったわけですよね。いまはもう一度分野を横断し接続する、もう一度交流を生む技術を手にすることで、細分化された特殊な期間が終わりつつあるだけなのではないかと。「巨匠時代の終わり」「大文字のアーキテクトの終焉」などと悲観的な見解も聞かれますが、既存の価値観や人間のライフスケールのなかだけで見ると判断を誤ります。僕はむしろ建築家という職能の領域が、これまでの常識を超えて劇的に広がる時代の始まりなのだと捉えています。
単純に「建築」というと静的な3次元の構造体であるという理解が一般的ですが、こういう概念自体も実務のうえでもさまざまなかたちで揺らいできますよね。新しい技術によって観測方法が変わると、現象の意味が変わり、僕らの感性も変わっていきます。これまで誤差として処理されていたことが、誤差ではなく意味を持った差異として現われるようになり、その意味や価値が問い直されるのです。物理学でも、ニュートン物理学の世界では問題にならなかったことが、さまざまな技術の進展により、ごく普通の日常で意味を持つようになっています。例えばGPSやインターネット、レーザー技術など、どれもすでに日常生活に欠かせない基礎技術になっていますが、相対性理論や量子力学による処理や補正がなければ実装できないものばかりです。こうした技術や価値の変化は、必要な理論や手段を育てることで、建築の世界にももっと起こりうるはずですよね。結果として、圧倒的に異なるスケールの横断や因果関係の編集可能性など、これまで常識としてデザインの対象になりえなかったものも、デザインの過程で扱えるようになってきています。でも、僕らはまだこの扱い方のノウハウを知らないわけです。
池田──日本の建築教育は、産業のための実学として西洋の技術や知識が取り入れられて現在まできています。その西洋の学問の基礎になっている「近代」は、人間が世界を理解する方法としてのユークリッド幾何学、線形代数、透視図法などをベースとしていますし、ものづくりや産業の規範には部品の標準化による合理化や効率化がありました。われわれが建築学で習うミース・ファン・デル・ローエは、近代産業の大量生産の原理を文化や美学のレベルへと高めた建築思想を体現しましたが、その背景にはその象徴的存在として鉄の圧延による規格化鉄骨の普及がありました。それに対して現代は、コンピュータの発展とともに、こうした近代的な原理に基づく「合理化」や「効率化」といった世界観がどんどん変化しています。われわれ人間のすぐ隣にコンピュータがあり、これまで見えていなかったことが見えてきているのです。そうした大きな歴史観で情報学的に建築を捉えるべきだと思います。
建築情報産業の可能性──分野を横断し接続する
池田──UCLAで教鞭を執る阿部仁史さんに聞いたのですが、最近はCG映画やゲームデザインの業界に進む建築学科の卒業生も多いようです。じつはそうしたヴーチュアル環境表現の業界では、建築出身の学生が日常的に鍛えてきた3次元的な把握、空間や形態と体験とのあいだの操作能力が重宝されています。つまり、今後はヴーチュアルとリアルのミックスとしてわれわれの環境体験を総合的に構築することになっていくと思いますし、それができるということは新しい意味での建築的な能力になると思います。
豊田──情報技術は、これまで概念として漠然としか共有ができなかった高次元情報を、他者と客観的に共有できるものとして扱うプラットフォームとしての可能性があります。経験や勘ではなく、情報技術によって複合的な情報や概念が共有化、体系化、蓄積されれば、建築の可能性は劇的に広がり、これまでになかった価値を持ちえます。そして、そのアウトプット先は建築物である必要すらなくなります。経済や分子生物学かもしれないし、スポーツ科学や宇宙工学かもしれません。建築にはそういう高次元の情報を計画的、戦略的に扱う専門家を育てる可能性があるわけです。
情報技術を単に受け身として使うのではなく、拡張的なデザインの手法として扱える人が価値を持ちます。建築のトレーニングをしていて、せっかく空間や高次情報を処理する能力や素養があって、そこに社会のニーズも生じているのに、そうした学生の興味を引き出したり、適性に気づかせる機会や理解、教育システムが圧倒的に足りていません。建築産業としてもそこに投資や人材育成がもっとなされるべきです。
池田──建築学と同じように、これまでの建築産業も自らボーダーを決めて領域を定義し、その内側でビジネスを成り立たせようとしてきました。典型的なのはライセンスで、一級建築士の制度は、まさに誰が何に対してどんな責任がある、という職能的な定義がされています。しかし現代ではそうした囲い込みによって、クリエイティビティという意味でも、ビジネスチャンスという意味でも、可能性の芽を摘んでしまっています。既存の領域を超えた、これまでは建築分野ではないと思われていたことにも建築情報学は役に立つはずであり、逆にもっと外部と連携して拡張していくことこそが建築産業の生きる道なのではないでしょうか。
日本のゼネコンの施工技術は間違いなく世界一だと思います。ただし、その世界一を決めていた20世紀的なクライテリアである、計画されたものを精度高く、安全に、安くつくるという根本的な価値が、リバースエンジニアリングのような情報技術の登場で揺らいでいる面もあり、21世紀的なクライテリアを持つ建築性能にはチャレンジできていません。ほかの産業では、既存の社会的リソースを読み替えていくアイデアによるスタートアップが一般的に広がっているのに対し、建築の領域でのスタートアップ企業やベンチャーはとても少ないのが不思議です。
豊田──例えば、ほんの10年くらい前までは、CADはスケール感を失うから建築の本質から外れて駄目だ、などと事あるごとに言われていました。しかし、僕はむしろミクロとマクロを自由に行き来すること、異なるスケールを縦横に、もしくは並行して扱えることこそが価値だと思います。建築とは本当に静的であることだけが価値なのか、というような問いから新しい価値が生まれるわけです。建築とは固定されて動かないものではなく、本来は動き、変化するものだったのではないかという思考によって見えてくる可能性が確かにあります。
多くの日本の大企業は、昭和の高度経済成長期の成功モデルという価値観や体制に縛られすぎていると感じます。いまやこれだけグローバルに技術的な進展があるなかで、旧来の体質のままたいした肉体改造も神経系の改変も経ずに、小さな改変で生き延びようというのは虫のいい話です。最近、著名な大企業から未来ビジョン構築やコンサルティング等の相談を受けることもありますが、個人同士のレベルでは共有できても、組織の判断や行動になった途端に現状認識が甘くなり、結局必要なスピードで必要な行動をとれないことが多くあります。特に重厚長大である建築業界こそ、もっとリスクテイクと投資をして、体質を変えていく意識を持たないと、結果が出るのに10年単位の時間がかかる業態ですからね。例えば「Autodesk(オートデスク)」は最近大きくオープン側にかじを切り、彼らではないとできないこと、現代ならではの大企業の影響力のつくり方、知見や才能の集め方をよく理解していると思いますし、ドイツの「KUKA」やスイスの「ABB」といったロボットアーム企業も多様なジャンルに積極的に投資をしています(最近、KUKAは中国家電大手の「Midea Group」に買収されたことでも話題になりました)。日本にはトヨタ自動車をはじめとした自動車メーカーや、安川電機やファナックのようなロボットの大手企業、世界をリードするようなゲーム会社などがあるのに、新しい価値や体制づくりへの投資は十分でないような気がします。産業規模としては自動車業界と双璧となる規模を持ちながら、2万社といわれるゼネコンに資本が細分化されてしまっている建設業界では、そうした新しい動きへの業界を挙げた投資という動きが形成しづらいことはなおさらです。せっかくの変化の時代に、企業規模の大小に限らず日本発の新しい価値への投資を誘発するようなプラットフォームとして、建築情報学会のような場が求められていると思います。まだ技術的優位性がある日本の建築業界として、2020年までの貯金が大局的に使える状態にあるうちに、次の世代へとつないでいく努力が必要です。そうした動きをより説得力を持って行なうためにも、建築情報学会のような知見の共有とオーソライズの仕組みが必要なのです。
- 契機
- 建築史における建築情報学、歴史的視座からの「建築」の批評/建築情報産業の可能性──分野を横断し接続する
- 建築情報学会=コミュニティ、ソーシャルネットワーク