第2回:子どもたちとともにつくった学び合う場
──八戸市を拠点とした版画教育の実践

坂本小九郎(宮城教育大学名誉教授)+西澤徹夫(建築家、西澤徹夫建築事務所主宰)+浅子佳英(建築家、タカバンスタジオ主宰)+森純平(建築家、PARADISE AIRディレクター)

生きた想いから滲み出る「地域性」

坂本──版画クラブで描いた作品はすべて教室に持っていき、授業で子どもたちにも見せました。このように版画クラブをひとつの中心としながら、そこで自由に描いた作品を元にして授業でも紹介することで、作品と人とのつながりを広げていきました。版画クラブは本当に文化センターのようになりました。私のところを訪れてくる人はいまも忘れず、その時の思い出が自分の心の根になっていると言います。
美術の授業ではそれほど難しいことをやったわけではありません。円筒形の描き方、遠近法といった基本的なことをやりました。その一方で、版画は何枚も刷れますから版画クラブの子どもたちが学級に持ち帰り、作品を級友たちに見せることで、主題や技術なり方法なりがみんなに伝わっていきました。私は積極的にその仲立ちをしました。それが学校のクラブ活動を中心に私がやってきたことです。

浅子──一方で技術を教え、他方で「よく見る」ことを教えた、と。

坂本──そのとおりです。私たちの作品が美術館に収蔵された理由のひとつの方向として、先ほどおっしゃったように「地域性」の話があります。それはしばしば表面的なものに留まりがちなものですが、版画クラブで着目した地域性は、浜辺で働く人々が生活の必要から名付けた無数の岩や浜辺の名前を調べ集めることも大切なことでした。岩の名前や形、あるいはそこで働いている人たちの姿とか、その地に伝わる伝説なども重要でした。
当時の漁師たちは、木造船でオホーツクやベーリング海に行き、漁をしました。そこで遭難する人々もありました。船で亡くなられた方々についての悲しい話を聞いているうちに、版画クラブの子どもたちも、祖父や父親から聞いた話や、海で体験した怖い話をしてくれるようになりました。私はそのような体験談を積極的に子どもたちに集めてもらいました。
ある子どもからは、海で死んだお兄さんがアンコウの入った網を引きずりながら歩いている夢を見たという話を聞きました。この話には続きがあり、次の日に魚市場に行くと大きなアンコウが揚がっていて、その口から骸骨が出てきたため、「この骨はきっと兄のものに違いない」と思って、そのアンコウから出た遺骨を葬ったのだそうです。
それから、岬のあたりで舟に乗りながら夜釣りをしていると、岩の影から幽霊の乗った舟が出てきて「桶を貸せ」と言い近づいてくるという話もあります。そこで桶を貸すと幽霊の乗っている舟に溜まっている水をこちらの船に入れて沈めてしまうというんですよ。そこである漁師が底を抜いた桶を渡したところ、幽霊が水を汲んで入れようとするのだけれどもうまく汲めなくて、やがてあきらめて消えてしまったそうです。これは他の地域にも伝わっているようです。そんな話が鮫町の灯台の辺りに伝わっていて、子どもたちが聞いてくるんです。ほかにも、種差海岸の松林の石の中にお化けのようなお婆さんが住んでいたという話も聞きました。そういう話がいっぱいありましたよ。
漁港、魚市場で働く人々、海辺で働く人々のほかに、このような、そこに生きていた人々の想いを表現させてみたいと感じたため、子どもたちとの版画の連作の共同制作に取り組んだのです。最初に制作したのは木版画集、ドライポイント版画集の「海の怪奇」「海の物語」というシリーズでした。これは私自身が若いときから『遠野物語』などをよく読み、学生時代に遠野に行ったり柳田國男(1875−1962)の本を調べたりしていたことも関係しています。このほか、小泉八雲の怪談など、人物の心の深いところからの想いは私の少年時代、心を動かしたものです。まさに八戸の浜辺にそれが残っていて生きていました。
「なんで坂本は子どもたちに得体のしれない怖い化け物を描かせるんだ」と言われることもありました。けれども子どもたちは自分たちの生きている地域の深さやすばらしさにとても感動し、たくさんの版画をつくりました。それをさらにより多くの人に伝えようと、版画展を八戸の街で何度か開きました。

浅子──場所や経験に結びついた地域の伝承を子どもたちから聞き集め、作品づくりにつなげていったということですね。とくに、怪談を集めることで、たんなる物理的な地域のリサーチにとどまることなく、当時の人々の想いや死生観までをもたぐり寄せ、子どもたちの想像力につなげていったという部分は非常におもしろいですね。

坂本──そういうことは「地域性」という言葉ひとつで括られがちですけれども、その地域のさまざまな伝説というものは、子どもたちや彼らの両親や祖父母たちの生きた想いのなかから滲み出てくるものなんです。それを一般的な意味での「地域性」とは異なるところまで深く掘り下げていったことがやはり大事だったのではないかと思います。
それから私自身の若さと地域のダイナミズムが、まさにカルチャーショックともいえるかたちで私を動かしました。21歳のときから25年間ずっと八戸にい続けたことも関係しています。鮫中、南浜中、江陽中、湊中、大館中などと転勤していきました。そのあいだに時代も変わり、中学校の指導方針も高校受験を優先するようになり、版画クラブではなく塾に行かなければならない子どもも増え、たくさん点数を取るために自分さえよければいいという競争意識も徐々に芽生えていきました。子どもたちの心もバラバラになる面もありました。そうなると美術教育は非常に危機感が強くなってくるんですね。美術教育の脆さと同時に、その危機感を共有し版画クラブに集まってくる子どもたちもおりました。これは私とともに子どもたちが発行した多くの「文集」や「学級新聞」にも見られることです。この危機感といかに向かい合うかが私にとっての大きな課題となりました。美術や美術教育はこの社会でなんのためにあり、どのような意味があるのか、このような考え方は、私という「個人」が「歴史」と「地域」の流れのなかで生きていく過程で培われたものだと言えます。子どもたちも共有していました。
だから私たちが制作してきた版画作品もまた、「個人」と「歴史」と「地域」のつながりのなかで生まれているわけです。前にも話しましたが、そこには私個人の生き方と、子どもたちの変化と、地域性の変化とが三つ巴になった状態で一体化して記録されているということです。ここから生まれたそれらの作品一つひとつには、単純に上手か下手かという技術的な指標では計ることができない重みがあります。一般的に「優れている」とされる作品や、表面的な「地域性」を描いた作品は日本中にたくさんありますけれども、ひとりの人間が25年間にわたって主題を積み重ね、発展とひとつながりになったひとつの時間軸で記録し続けた作品はそうありません。これこそが私たちの作品を、そのことを大切に思った八戸の人々、地域の人々が収蔵する動機となったと思います。
みなさんがこれからつくる「八戸市新美術館」も、これらの心を映した版画群のなかで、作品の念に出会った未来の子どもたちが地域のすばらしさを発見し、自分たちも創造しようという願いが生まれる、そのような観点が活きる美術館であればいいと願っています。

西澤徹夫──そのようなかたちで地域に潜むものを可視化するということに美術や美術館が貢献できればすばらしいと思います。


201712

連載 学ぶこととつくること──八戸市新美術館から考える公共のあり方

第6回:MAT, Nagoyaに学ぶ
街とともに歩むアートの役割
第5回:YCAMの運営に学ぶ
地域とともにつくる文化施設の未来形
第4回:学ぶ場の設計から学ぶ──
ラーニング・コモンズと美術館
第3回:美術と建築の接線から考える
美術館のつくり方
第2回:子どもたちとともにつくった学び合う場
──八戸市を拠点とした版画教育の実践
第1回:森美術館からの学び
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