ケーススタディ:宮城県牡鹿半島鮎川浜
──《おしか番屋》
──《おしか番屋》
ワークショップの挫折
独立して最初の建築の仕事が東北の《おしか番屋》(2016)であった。石巻市の鮎川浜は、豊かな海と金華山という島を持ち、漁業と観光という小さな産業によって支えられていたが、震災前からジワジワと人口減少がすすんでいた。そして、津波が追い打ちをかけるように町を壊し、それが一気に加速しつつあるような状況であった。私は当初、復興のためのまちづくりに参加し、行政と住民のあいだに入ってワークショップを重ねていたが、フラストレーションを抱えながらのワークショップであった。防潮堤が必要かどうかという本質的な議論は棚上げされた状態で議論せざるを得ない状況、市町村合併とともに力を失って久しい行政に対する住民側の過度の期待、今後さらに進む人口減少のなかでの理想と現実の乖離、日本という国に横たわる構造上の問題と並走しながら、まちづくりをしなければならない難しさを痛感した。
- 宮城県牡鹿半島の鮎川浜[出典=国土地理院ウェブサイト]
「いま」だけの住民参加への懐疑
そんななか、町の漁協が主体となり、町の人も使うことができる半公共の《おしか番屋》をつくることになった。町を歩けば、すぐ知っている人に会うような小さな集落である。ワークショップのようなお役所的な形式をとるのではなく、単純に個人個人に話を聞いてみることにした。漁から上がってきた漁師さんに声をかけて、聞いてみる。いまの季節は何の魚をとっていて、どんな料理がおいしいのか。市場のおじさんに刺身をもらいながら、昔は町の人に向けた朝市をやっていたことを聞き、漁師の奥さんのお弁当づくりを手伝いながら子供はいまこの町に住んでいるのか。そんな他愛ない小さな話の断片をかき集めながら、ひとつの建築になるようなものをイメージしはじめていた。 ただ、いまそれだけを切り取ったとしても、果たして数十年後この町にどれだけの人が住んでいるのだろうか、という漠然とした不安も同時に頭をよぎっていた。漁師を継いだ娘が辞めて、いまは福祉施設で働いていること。若い漁協職員が辞めてしまったこと。地域に入り込めば入り込むだけ、その裏にある問題の根深さと、未来を「計画」することに対する無力さを感じずにはいられなくなっていた。「住民参加」だけで建築を「計画」してしまうと、下手をしたらマーケティングや市場調査をして、すぐに消費されるような凡庸な商品をつくり出すようなことと同じではないか。そうではなく建築には今後起きるであろう、あらゆる変化に対しても揺るがない強さと、変化を許容するおおらかさが必要なのではないかと感じていた。
- ヒアリング風景[撮影=萬代基介建築設計事務所]
余白としての構造体をつくる
ある時、地元の方から「建物をつくってくれたら、あとはそこから考えるから大丈夫」と言われた。それはけっして投げやりな言葉などではなく、彼らの自信のようなものだった。なるほど彼らは飼いならされてしまった私たち都市生活者と違い、力強く自然と向き合いながら暮らしている。寒ければ火を焚き、船が壊れれば自分で直す。親切で口当たりのよい建築では、彼らの野生的な生命力が失われてしまうかもしれない。建築の大部分を余白として彼らに託してみることにした。いまの時点で想像のつく範囲はできるだけ小さくつくり、その代わり残した大きな余白については、彼らが積極的に関わることのできるような、身体に近い構造体としてつくった。建築そのものはできるだけ背景となって消えるように繊細につくり、その繊細なフレームをきっかけにして人の活動が展開されていくようなもの。例えば誰でも使うことのできる大きな庇、455mmピッチのメッシュ状の剥き出しの細い鉄骨、小さく独立しつつも大きく連続する屋根、簡素で身近な仕上げ材など、人間の活動を身体的なレベルで下支えする、下地のような建築である。過疎が進む町では、今後国や自治体による継続的で大きな支援は望むことはできないだろう。その代わりに、個人の自発的な活動を「自走させる」もしくはそれを「待つ」建築の姿が必要なのではないか。
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- ポタリングの様子[撮影=さとう あきほ]
竣工後、千葉学さんや「ISHINOMAKI 2.0」の人たちと一緒に、ポタリング牡鹿というサイクルツーリズムで《おしか番屋》を使っている。使っているといっても、私も地元のお母さんたちに混ざり、お弁当を一緒につくり振る舞う側としてだ。私が伴走者として関わっていくことで、町や人を少しずつ開いていくことができればいいと思っている。そして小さな活動が集積し、大きな風景となった時、「建築」ははじめて完成する。
- 雪化粧の《おしか番屋》[撮影=萬代基介建築設計事務所]