公共の概念と建築家の役割
近年、公共建築の設計に際して、利用者の意見を反映するためのワークショップがしばしば行なわれるようになった。利用者のニーズに合った使いやすい施設をつくるという目的もあるが、もうひとつ重要なこととして、利用者が施設に主体的に関与することを促し、自分たちの場所として愛着を持ってもらいたいという設計者や管理者の思いがある。
手を加え、場所をつくることが、愛着や責任感を生む。だが、開館後も利用者が自分で施設の改修を行なうことは想定しづらい。開館後は利用頻度だけがワークショップの成果と見なされ、利用者は一方的にサービスを受ける消費者にとどまりがちである。公共建築の設計を通じた持続的な市民参画は可能なのだろうか。
「公共」概念の転換
住宅の場合、持ち家であれば、利用者自身が建物を管理しなければならない。建築家の垣内光司は、祖父が残した町家の改修設計を友人から依頼されたとき、その友人自身がすべてDIYで改修することをルールとして設定した。町家は、構造的に強い建物ではない。改修が一旦完了し、住み始めたあとも、修繕し続けることが必要となる。垣内は、改修を通じて、住み手自身が建物の仕組みを理解し、将来、家が傷んだときにも修理ができるようにした。つまり、垣内の設計行為は、建物に対してというよりも、むしろ施主である友人に対して行なわれたのであり、施主のなかに技術と建物への愛着を埋め込んだと言える。
このような建物への持続的関与を、公共建築において実現するためには、「公共」概念を転換する必要があるだろう。アーティストの島袋道浩は、2013年、「能登」をテーマとした参加型のプロジェクトを行ない、能登に何度も通い、そこで見つけたものを美術館に展示した。また、参加者は島袋とともに能登に出かけ、干し柿のつくり方や「くちこ」という干物のつくり方を学んだ。このプロジェクトのステートメントで島袋は、「ふすまの張り替え方は知らないけれど、間垣のつくり方は知っている人。卵焼きはつくったことがないけれど、くちこはつくったことのある人。(中略)そんな特別な経験と技術を持った人が、この世界に存在していくことこそ僕にとってのパブリック・アート」と書いている
。一般的に「パブリック・アート」と言うと、都市の公共空間に設置される立体作品が想定される。だが島袋は、町の人々のなかに、ある経験が埋め込まれている状態を「パブリック」だと言うのである。島袋に倣って、公共建築だけを単体で考えることをやめ、「公共」は町の人々のなかに散らばっていると考えてみよう。そうすると、町にある建築を主体的に改修し、利用する術を町の人たちに埋め込むことこそが、住民が持続的に関与する「公共建築」をつくることになる。従来考えられてきた「公共施設」は、そのための「基地」となり、「学校」となればよい。
2007年、アトリエ・ワンは、金沢21世紀美術館のプロジェクト工房を「基地」に、金沢工業大学や金沢美術工芸大学の学生たちとともに、金沢の町家を調査した。調査対象にしたのは、行政が保存の対象としたり観光ガイドブックが掲載したりするようなオリジナルの形状を残した町家ではない。むしろ町の人たちがどのように町家を改修しているか、あるいは、町家があった敷地にどのように新しい家を新築したかに注目した。これらは、住み手の都合が優先されたアノニマスな改修である。しかしそこにはあるパターンを見出すことができた。パターン化できることは、町家を活かす知恵が共有されていることを示している。こうした知恵の共有状態こそが「公共」であり、市民が継続的に関与できる「公共建築」なのである。
翌年、アトリエ・ワンは、空き家になっている町家を改修してゲストハウスにした。空き家であるから、積極的な利用者がいない状態だった。町家の改修に関わった人たちで団体をつくり、その後10年間、修理を重ねながらゲストハウスとして運営を続けている。町家に手をかけるという積極的な関与から、使い手が生み出されたのである。
これは、「金沢アートプラットホーム2008」という、市民参加をテーマに町の中で開催した展覧会の一部であった。金沢21世紀美術館の建物は「基地」にすぎず、美術館の活動は町全体に広がっている。同じ展覧会では、アーティストの中村政人が中心となって、「Kapo」というアートスペースをつくるプロジェクトも行なった。このときも、空いていた元印刷会社の建物を自分たちで改修した。その後、この建物は壊されることになったが、改修の経験を自分たちのなかに持ったメンバーたちは、別の建物を見つけ、改修して移転した。このことは、町の人たちに、「アートスペース」という場所をつくり出す術が埋め込まれたことを示している。
建築家の役割
このように、持続的に場所をつくり続けることができる能動的な使い手を町に生み出していく行為が「公共建築」の設計であり、建築家の仕事なのだとしたら、翻って、従来的な公共建築を設計する際に建築家が果たすべき役割とは何か。それは、時代に逆行するように聞こえるかもしれないが、抽象的な概念に形を与えることである。
2016年、DORELL.GHOTMEH.TANE / ARCHITECTS設計の《エストニア国立博物館》が竣工した
。エストニアという国のアイデンティティを語る博物館の建築を、ソ連時代の軍用滑走路を延長してつくるという大胆な提案が2005年のコンペで選ばれ、リーマンショックを挟んで紆余曲折の後、実現したものである。滑走路という土木的なスケールと建築というスケールとを接続し、池をまたぐことでさらに「橋」という土木的な要素も追加しながら、建築に力強い直線を導入している。起伏のあるだだっ広い荒れ地に直線的でシャープな建築が屹立する。エストニアがソ連から独立したのは1991年で、人種的にはフィンランド人に近く、同人種はウラル以西に分散している。「国家」というものが不安定ななかで、「国家」を立ち上げるという意思が、この博物館の展示物、そしてこの建築に現われている。ここでは、使い手との関係を越えた、「国家」という抽象概念の実体化がある。しかし、この建築を傑作にしているのは、大きさと幾何学によるモニュメンタル性だけではない。茫漠とした敷地に直線的なボリュームが屹立しているように見えるのは、メインエントランス側からだけで、中を通り抜け、反対側のエントランスから外に出ると、屋根が滑走路と連続している。ソ連時代の遺構と結びつけ、エストニアの人々にとっては忘れたい歴史であろうソ連時代のことをリアルに呼び覚ますという緊張感にこそ、この建物の魅力はあるのだ。そこには、ソ連時代も含めてエストニアの歴史を引き受けるという歴史観がある。「国家」という概念が伴う抑圧をこの歴史観がかろうじて免れさせている。公共施設における建築家の役割とは、「国家」や「歴史」といった抽象的な概念に形を与えることではないか。- fig.1──《エストニア国立博物館》。池をまたぎ、屋根は滑走路と連続する。[提供=筆者]
ワークショップの効用
では、公共建築の設計においてワークショップは不要なのか。工藤和美と藤村龍至は、埼玉県鶴ヶ島のプロジェクトで、さまざまな案を模型で制作し、利用者に投票してもらうという方法で、要望を聞き出した。しかし、この事例で重要なのは、決めるためではなく、聞くために投票を行なっていることである。多数決で決めることを慎重に避け、形を最終的に決めたのは建築家である
。また、コミュニティ・デザイナーの山崎亮は、宮崎県延岡市のプロジェクトにおいて、使い手の要望が機能だけに限定されるようコントロールした 。建築家である乾久美子と分業し、形については建築家に任せた。あくまで、最終的な線を引くのは建築家であり、そこには機能からの飛躍が求められるのである。新居千秋の《大船渡市民文化会館・市立図書館 リアスホール》は、襞のような壁面によって、細かい空間に分かれている。新居は数多くのワークショップを経て、この形に行き着いた。もちろん、各空間はさまざまな機能を想定してのものだ。ところが、震災時、避難場所としてこの小空間がうまく機能したという
。多目的な大空間で済ませるのではなく、各機能に必要な大きさや形、設備を丁寧に考え、組み合わせたことで、ヒューマンな空間の質を持ちえたのだろう。《金沢21世紀美術館》が竣工したとき、小嶋一浩は、「この建築は何にでも、そう、たとえば学校にでもなりそうに見える」と評した
。われわれキュレーターと建築家が、現代美術の展示空間として何がふさわしいか、何年にもわたって追求したものが、「学校向きだ」というのである。しかし、これは学校建築の設計を得意とした小嶋の最大の賛辞だと感じた。建物が美術の展示という単一の機能に従属するのではなく、別の使い方を喚起するような抽象性を獲得しているということだからだ。このようにワークショップを通じて、機能や使い手の要望といった、自由な線を描くうえでは外的な要素と向き合い、格闘しながら、空間に織り込んでいく過程で、設計が練り込まれていくということはあり得る。もう1点、ワークショップが重要な役割を果たすと考えられる場合がある。2014年の「ヘルシンキ・グッゲンハイム美術館」のコンペでは、モロークスノキ建築設計の案が選ばれた
。単一のボリュームと直線が特徴的な「エストニア」に対し、小さなボリュームを離散的に配置し、緩やかな曲線を使う「ヘルシンキ」は、木の多用とも相まって繊細で柔らかな印象を与える。だが、ヘルシンキにとって、グッゲンハイム美術館はアメリカ文化の侵略とも受け止められ、そのことも一因となり、コンペ後、この計画は中止に追い込まれる。アメリカ発の「グローバル」と、フィンランドの「ローカル」との結節点にこの建築は置かれており、その架橋のために地域の使い手へのソフトさが求められたと言えよう。コンペ案設計過程でも、クライアントであるグッゲンハイム美術館だけではなく、地元の作家たちの意見を直接聞く機会を設け、彼らが発表するギャラリーを加えている。そもそも建物の設置自体がコンフリクトの裂け目に置かれ、地域との対話が建物の成立自体に関わるような場合、建築家もまたそのための努力が求められるであろう。ワークショップは、建物を建てるということを決定したり、建物に主体的に関わり続ける使い手を町に生み出すために有効である。設計を練り込むのに使われることもあろう。しかし、最終的には、建築家は何もないところに線を生み出さなければならないのである。