八戸市新美術館のプロポーザル──相互に学び合う「ラーニング」構想
ホワイトキューブ型美術館の限界
──「八戸市新美術館」のために、ヨーロッパの美術館を視察されたそうですね。各国の美術館に新しい動向は見られたでしょうか。また、これからの美術館はどのようなものになっていくとお考えでしょうか。
浅子──視察したのは、イタリアの《プラダ財団美術館》(OMA、2017)、《ピレーリ・ハンガー・ビコッカ》(2004に改修)、フランスの《ルイ・ヴィトン財団美術館》(フランク・O・ゲーリー、2014)、《104》(2008に改修)、イギリスの《テート・モダン・スイッチ・ハウス》(ヘルツォーク&ド・ムーロン、2016)、《ターナー・コンテンポラリー》(ディヴィッド・チッパーフィールド、2014)、オランダの《アムステルダム国立美術館》(クルス&オルティッツ、2010に改修)です。最先端の事例を実際に見たところ、それぞれの美術館によって設計者の意図も違えば美術館の思想も違うため、共通した傾向はないように感じました。ただひとつ言えるのは、旧来のホワイトキューブを基本とした展示方法には限界がきているということです。 ただ、視察に行く前は新しい美術館のタイプが見出だせるかと思っていたのですが、いまのところはそれぞれの美術館が新たな答えを求めて模索しているように見えました。
美術館での展示も、形に結実しない作品が増えてきていますが、それをどのように展示し収蔵するかということにはまだ答えが出ていません。ですから、「八戸市新美術館」が世界的に見ても新しい美術館のタイプになる可能性も大いにありえると思ったのです。
森──そうですね。「八戸市新美術館」では、八戸だけではなく全世界に共通の問題を問いているという認識を持っています。私たちの試みがほかの人に参考になる部分も大いにあるでしょう。
浅子──テートのラーニング・システムをリサーチしている山本高之さんというアーティストがいます。彼がテートのラーニング・ディレクターに、「エデュケーション」と「ラーニング」との違いについて尋ねたところ、ラーニングは答えがないものだから失敗してもかまわない、そこが大きな違いだという答えが返ってきたそうです。エデュケーションは、問題と答えがセットになっていてそれを教える方式です。例えばある絵画がどの場所を、どのような道具を使って、どのような技法で描かれているのか、それを教えるのがエデュケーションです。一方、現時点でのラーニングは、あるテーマのもとに街をリサーチするといったように、問いに対する明確な答えはありません。
私たち3人はこの話がとても腑に落ちました。ラーニングにおける挑戦と失敗の過程を蓄積し、研究の対象として次へとつなげていくためには、それらのプロセスを美術館がきちんとアーカイブしていくことが重要だと考えています。さらにこれを設計にも取り入れたいと考えており、今後、「八戸市新美術館」をつくる過程も、何らかの方法でドキュメントしていくつもりです。
西澤──形のない作品、コミュニケーションそのものが作品というタイプのアートがあります。これらの作品の記録・保存の方法の問題は、そのままラーニングをエデュケーション・プログラムのひとつとして考える活動や、ラーニングそのものをアートプロジェクトとして考える場合にも当てはまると思います。時系列のイベントの流れやそれに付随する資料、成果品といったメディウムの異なるもののうち、何を残しどう一連のプロセスを切り取るのかという視点が蓄積されるということがじつは重要で、その蓄積があればこそ失敗から学ぶということが実を結ぶことになるのだと思います。例えば新美術館建設推進室の方と定期的に打ち合わせを行なう、このこと自体はいたって普通の設計プロセスですがこれをラーニングの場にしようとしています。すなわち、推進室の方と使い方を検討する設計打ち合わせを行ないながら、同時に3年後の開館を見据えたオープニング展の企画についても一緒に考えるという試みです。できあがる建物でどのような展示ができるか、そのためにはどのような部屋が必要か、どのようなワークショップが開けるか、小学生の団体はどこから入ってどう移動するかということを打ち合わせであらかじめ話し合う。そうすることによって、設計者にとっては美術館やアートプロジェクトの実際の運営についての学びになると同時に、推進室の方にとっても自分たちの要望がどのように建築になっていくかを知る学びの場になることを目指しています。そして開館したときにはスタッフが空間の使い方を可能なかぎり熟知している状態をつくることができます。それだけのシミュレーションをしておけば、それを履歴として、開館後の実際の使い方との齟齬を埋める際の参照元として利用することができるだろうと思います。
ラーニングセンターの構想
浅子──先日、学校など公共施設の遊び場も手がけている玩具・遊具会社の方の話を聞く機会がありました。興味深かったのは、単に遊具を設置して終わりにするのではなく、その使い方も教えているという話です。これもまさに場所を用意するだけではなく、どのように使い続けるかが重要になってきていることの証左だと思います。これまでの施設は運営側に負担を強いるものが多かった。最初のオープニングイベントには人が集まったとしても、それを維持し続けていくのは非常に大変で、うまくいかないことも多い。活気を生み続けるためにはイベントをやり続けるしかないという結論になってしまえば、結局建物はなくても成立したのではないかということになってしまう。美術館の話に戻すと、学芸員の方たちが設計の段階から美術館が開館した後の使い方をともに考え、オープン時にはその美術館について熟知しているという状態にまでもっていければ、その問題を回避できるんじゃないかと考えています。
もうひとつ、遊具会社の方の話のなかで感じたのは、最近の公園と美術館は禁止事項だらけだという点で共通しているということです。公園では、大声を出してはいけない、ボール遊び禁止、スケートボード禁止など、細かくルールが設定されていて、子どもが自由に遊べる場所ではなくなっています。彼らはできるかぎり子どもたちが自由に遊べる場所になるよう尽力していると言っていました。美術館でも、ガラスケースに入った作品は自由に鑑賞できず、見方が限られてしまっています。そこには本来美術がもっていたはずの自由がない。作品制作や絵を描く行為自体はとても自由な行為なのに、美術館でその自由さを体験できないのは残念なことです。「八戸市新美術館」で市民やアーティストが自由に使えるアトリエを用意しようとしているのは、そういう背景があったからです。
森──ここまで、鑑賞者側と展覧会をつくる側の話が中心でしたが、作品を展示するアーティストにとって使いやすい美術館かどうかということも同時に考えています。いままでの美術館であれば別の場所で制作した作品を搬入すればよかったのですが、ラーニングを主体にした新しい美術館においては制作と展示が一体となったようなタイプのアーティストがどのような美術館を求めているのかも一緒に考えていく必要があるでしょう。浅子さんがおっしゃったようにアトリエを用意することを提案していますが、これは作品のみが美術館にあるわけではなく、当たり前のように八戸の街にアーティストがいるという日常をつくるための装置だと考えています。
西澤──それはとても重要な話です。建築家が想定する作品はあいもかわらず彫刻作品だったりするわけですが、建築家の職能が多様化しているのと同じように、アーティストの制作行為や技術も多様化していると思います。彼らのなかには、コミュニケーションに長けていたりヴィジュアライズが得意だったり、ユニークな視点で物事を切り取ることができたり、先ほど名前の出た山本さんのようにアーティストでありながらリサーチャーとしても活動している人もいますから、「八戸市新美術館」がそのような新しいタイプのアーティストともプロジェクトと通じて協働できたらいいなと思います。
浅子──建築がつくられるまでの時間を大勢の人と共有しながら、完成後も一緒に走りつづけることができれば、とても豊かな使い方のできる美術館になる可能性が広がるでしょう。新築の建物は時間を内包していないので、その後の使われ方がどうしても弱くなってしまう。人々も決まったかたちでしか使えず、新しい使い方を発見するのが難しい。ぜひそれを違った状態まで持っていきたいですね。
西澤──言ってしまえば何でもラーニングになってしまう怖さはあるわけですが(笑)、ラーニングを通して美術館でやるべきことは何かを探っていく。そこに鉱脈を掘り当てていくような面白さがあると思いますし、そのプロセスはドキュメントとして開示すること、すなわち設計行為そのものがラーニングを軸としたアートプロジェクトになりえるのではないでしょうか。
浅子──仮にこれがうまくドキュメントできれば、後に続くさまざまな建築設計プロジェクトを記録する方法論としても成立しますね。
西澤──今日の対話自体も、「八戸市新美術館」について説明し、設計がどのような状況にあるのかをお伝えする場ではなく、すでにアートプロジェクトのプロローグになっていると捉えていただけるといいですね。
[2017年5月31日、西澤徹夫建築事務所にて]
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