エクスペリメンタル・フィールドワーク・ガイド

笠置秀紀(建築家)

都市のフィールドワークによって変化するのは、対象ではなく自分である。この考えをもとに、本稿では都市におけるフィールドワークの周縁に位置する、ワークショップや関係する諸活動を概観しつつ、よりラディカル(根源的・急進的)なフィールドワークの方法論を探る。

フィールドワークの多様性

ひとえにフィールドワークといっても文化人類学から社会学、建築、都市、ランドスケープ、地理学、地質学と分野によって、その実像の違いは大きい。一般にフィールドワークといえば文化人類学を思い浮かべる人も多いだろう。ヒロイックな人類学者が未開社会の営みを見つめ、人類普遍のシステムを見出していく。現代ではもはや調査対象は文明世界が多く、一見して文化人類学は社会学と区別がつかなくなっている。社会学では、統計を中心とした量的調査と、インタビューなどを通した質的調査の対比がよくなされる。後者はほぼフィールドワークと同義と言ってよいだろう★1。工学の領域で大きく発達した建築・都市分野においては、フィールドワークは、量的(工学的)に対するかたちで、質的なものを志向しているよう見うけられる。ただし社会学の人々が建築都市分野のフィールドワークに触れれば、その違いに戸惑うかもしれない。建築物や都市の構造のようなハードウェアを扱い、もしくは人々を扱ったとしても、その動線や動態にフォーカスしたフィールドワークと、そのビジュアライズが多いからだ。さらには考現学やデザインサーヴェイのようなフィールドワークも含めると広く奥は深い。

日常と社会を超えるフィールドワーク

では都市をフィールドワークすることはどのような意味があるだろうか? 例えば都市が未開の地であれば、調査によってあらわになったものは世間に発表すべき発見と捉えられる★2。しかしながら私たちの目の前に広がる都市はさまざまな情報によって表象され、掌握され、すでに社会のなかで共有されている。フィールドワークを通してまず立ち上がるものは、その共有されていたはずの都市が違った様相に見えてくる自分のなかの変化だ。社会学者の好井裕明は日常に対するフィールドワークを「調査研究する私がそれまでに考えていたことを軽やかに超えていくような"軽やかな知"と出会うことこそ、フィールドワークの醍醐味」であり「日常を生きる私を見直す営み」だという★3。その要件として「つねに自分をできる限りオープンにしておくこと」「フィールドワークする私を、つねに「あけておく」必要がある」★4という。また加藤文俊によるフィールドワークの方法論「キャンプ」においては、「キャンプ」を「キャンパス」に対置させながら、同じ人が集まる場所でもインフォーマルな場、再発見や創造力が生まれる場として定義されている。★5

ワークショップとしてのフィールドワーク

前述のようにフィールドワークの体験で感じられることは、自分に変化を与える点において、ワークショップの体験とよく似ている。しばし優れたワークショップの体験が強烈な高揚感や嫌悪感につながるのは、その儀礼的なしくみによって自分が社会から遊離した感覚を覚えるからであろう。あるいは、そんな実存的なものではなく、公民館の机の上で付箋を模造紙に貼りたくる、合意形成の道具としてのワークショップはイメージされているかもしれない★6。しかしながら本来はフィールドと深く結びついた実存的な体験を組織する行為だ。


建築・都市分野におけるワークショップといえば、ランドスケープデザイナー・環境デザイナーのローレンス・ハルプリンが始祖だと言われている★7。妻のアンナ・ハルプリンはコレオグラファーであり、ハルプリン夫妻はダンスにおけるワークショップを応用して、公園の設計やコミュニティデザインを行なった先駆者である。彼らのワークショップはスコアと言われる指示書に従い、参加者に街を体験させる。指示された経路に従い街を歩き続けるものや、離れた2点間を歩きそのサウンドスケープを独特の記号を使い記述するものだ。1日中会話をせずにフィールドワークをするスコアや、目隠しをして歩くスコアもあり★8、感覚を遮断することで、自分の別の感覚をオープンにする試みだと思われる。またスコアのなかにはMyth(神話)やRitual(儀式)という名前のつくものもあった★9。言葉だけを聞くとスピリチュアルなものが連想されるが、モダンダンスに対する当時のポストモダンの空気感をよく表わしている。


当時の特集雑誌を紐解くと、ローレンス・ハルプリンからグループ・ダイナミクス(心理学者クルト・レヴィンによって研究された集団力学)への言及もある★10。同時代のアメリカに起点を持つセンシティビティ・トレーニング(アウェアネス・トレーニング)ともワークショップは近しい関係だったことがうかがえる。センシティビティ・トレーニングは、現代の日本では自己啓発のように、矮小化して理解されているが、フィールドと強く結びつくことを担保にすれば、本来のワークショップの機能を十全に発揮する可能性も少なくない。宮台真司によれば、アウェアネス・トレーニングのような手法を踏まえつつ、優れたワークショップの例として、森で遊ぶ子供たちの体験をあげている。「暗闇が迫った森では鳥や獣たちが騒ぎ、(中略)『得体の知れないもの』として立ち現れ、子供を恐れさせる」。「だが以降の子供は自信を失うどころか、逆に翌日から堂々とした佇まいに成長する」。「従前自分を制約してきたエトスや価値セットや心の習慣から、人為的セッションを通じて自由になるという意味で」、ワークショップは「まなびほぐし」なのだという★11。つまり社会の外部を知覚することで、目の前の社会を超える契機をつくり出す役割が、フィールドを通したワークショップにはあるのだ。

都市を歩くということ

フィールドワークの最も一般化したかたちが「まち歩き」になる。必ずと言っていいほど、まちづくりのイベントなどでは「まち歩き」が行なわれる。歴史や街の資産を探求するタイプや、TV番組のような「ぶらり」な「まち歩き」までさまざまである。「まち歩き」の極北として、都市で歩くことを抵抗の政治性としたのがギー・ドゥボールを中心としたシチュアシオニストであった。なかでも「漂流(デリーヴ)」は1人から2、3人、多くても4、5人のメンバーにより、数時間から1日のあいだ、都市の心理地理学的な起伏、流れ、渦に身をまかせ、地域を歩きまわるリサーチの手段であった。その目的は「感情の逸脱という成果をめざすのか」「むしろある地域の研究をめざすのかによって、暖昧になったり厳密」であったりするという★12。いずれにせよ、歩くことによって行政上の地区、産業によって変形された大都市とはまったく別の生きられた地理を浮かび上がらせるのだ。彼らの代表的な表象物である『心理地理学的地図』『THE NAKED CITY』を見るとパリの地図が心理地理学によって断片化され、その地域がもつ流れが矢印で表現されている。


好対照な事例としてケヴィン・リンチの『都市のイメージ』があげられる。同じく歩行を通して都市のイメージを分析するものだが、基準は「わかりやすさ」である。リンチによれば、都市のイメージはパス、エッジ、ノード、ディストリクト、ランドマークによって構成されており、これらがわかりやすく認識できた都市が優れた都市だという★13。交通や緑地をはじめ、特にランドマークのような視覚的なものが優位な要素となり、さらにそれらを改善するという使命を帯びた構築的な方法論と捉えられる。同じ都市の感覚を扱いながらも興味深い対称性だ。リンチに比べシチュアシオニストの心理学的地理がどのようなものかは多くの説明がなされていないものの、都市を歩くことが、目的なき彷徨、雰囲気や情動、遊戯的なものによって都市を読み直し、合目的的、機能的な都市に対するオルタナティブを提示していたのだ。それはドゥボールが批判し続けたスペクタクルの視覚性が覆い尽くした、都市の表層を剥ぎ取るための方法になっている。

都市に座ること

こうしたフィールドワークの系譜の周縁にある現象や活動にはどのようなものがあるだろうか。1990年代に携帯電話が普及し始めると、公共空間での通話が世間の問題としてメディアで取り上げられた。パブリックスペースにプライベートの会話が露出することで、他人を不快にさせるというわけだ。時を同じくして取り上げられた言葉が「ジベタリアン」である。地べたに座る行為を菜食主義者のベジタリアンにかけて公共空間に座る若者を総称したものだ。こちらもさまざまな道徳的な批判を受け、足腰の弱った習慣などと結び付けられた。この両者の現象は見方を変えれば、携帯電話によって空間の感覚が大きな変化を遂げる兆候に感じられた。携帯電話というテクノロジーが産み出した環境によって、公共空間を捉える人々の感覚が変容していたのだ。宮台真司は地べたに座る若者の観察から興味深い言葉を記している。


ホームレスもストリートキッズも、人々が行き交う路上で「ペタン座り」する。これを自分でもやってみると不思議なことが起きる。それまで、そこは「通行する場所」で、行き交う人は「通行人」だったのに、視線がグッと下がると、彼らがスゥーッと遠ざかって「ただの風景」になり、路上も当たり前の機能的な場所ではなくなって、突如「空白の場所」に様変わりする。★14


合目的的な場所から目的が薄れ、自分自身もその目的をなす「誰か」というレッテルが剥ぎ取られる。路上に「座る」という単純な行為は、都市の日常を批判的に見る視点を与え、都市をフィールドワークする技法のひとつと言えるだろう。

都市に潜ること




いまだにこの世界で未開の地を切り拓く人々がいるとしたら、それは都市探検家にほかならない。彼らの探検の対象は、都市を見下ろす巨大な高層ビルの建設現場にある頂上のクレーンの先、あるいは打ち捨てられた病院や軍事施設の廃墟だ。前者は都市のスペクタクルを生み出す高層ビルに対して、管理をすり抜け征服する自己顕示欲を満たす人々だろうか? 後者は廃墟マニアよろしく、朽ち果てる廃墟のなかに過去の人間の営みを見出す、ロマンチストな考古学者だろうか? このような都市探検家を追いかけまとめられたB・L・ギャレットによる『「立ち入り禁止」をゆく』を読み進めると、派手な探検家のイメージよりも、都市を取り戻すための情動にかられるフィールドワーカーとしての実像が浮き彫りになっていく。廃墟に潜入しそこに泊まった体験の記述からは、いきいきとした都市の姿が伝わってくる。


歪んだ窓枠から割れたガラスを風がはがす音を聞いているうちに、静けさが破られた。なにか金属の固まりが、僕らには届かなかった屋根の部分に繰り返しぶつかる音がするのだ。細切れの沈黙のなかで、ダンがいままでの場所を織り成す構造物に、これほど包み込まれたように感じたことはなかったと言い(中略)廃墟で一時的に暮らすこと(中略)は僕らを場所の物質性そのもののなかに組み込むようだった。★15


都市探検家は都市に深く潜り込み、肉薄することで、人々の社会を通り抜け、第2の自然とも呼べる都市の物質性に迫っているようだ。おそらくそんな抜け穴は、高層ビルのようなランドマークや廃墟ではなくても、近所のビルの隙間や雑居ビルの非常階段にぽっかり穴をあけて、私たちのフィールドワークを待ち受けているかもしれない。

これからのフィールドワーク

都市のフィールドワークやワークショップの根源的なものを探求していくと、必ずと言ってよいほど1960年代周辺の事例に突き当たる。前述のハルプリンやシチュアシオニストがそうだ。都市が合理主義や資本主義によって大きく人々を「疎外」し、さまざまな矛盾が激しく吹き出していた時代背景と深い関係がある。それに対して現在、フィールドワークやワークショップが注目を集めるのは、依然として「疎外」が都市で進み続け、矛盾が緩やかに私たちを締めつけているからだろうか? 一方で60年代の試みは、極端に革命を突き進め失速し、ワークショップは自己啓発か机上の合意形成のための口実に成り下がったものも少なくない。私たちには革命でも陳腐化でもない、緩やかに日常を変えていくハックのような実践が必要ではないだろうか。


私たちはいま、ささやかな実践として"URBANING_U"という都市の学校を2017年から始めている。そこではわれわれがフィールドワークを通して経験したことや、前述の事例のエッセンスを参照しながら、誰もがフィールドワーカーになれるプログラムを編み始めている。人々の営みの基盤である都市を、誰もが読み解きDIYできる環境が立ち上がることを想像しながら。


★1──岸政彦、石岡丈昇、丸山里美『質的社会調査の方法──他社の合理性の理解社会学』(有斐閣、2016)p.15
★2──毛利嘉孝「フィールドを開くこと──文化研究とフィールドワーク」、田島則行ほか編『都市/建築フィールドワークメソッド』(INAX出版、2002)
★3──好井裕明『違和感から始まる社会学──日常性のフィールドワークへの招待』(光文社新書、2014)p.57、p.74
★4──前掲書 p.54
★5──加藤文俊『キャンプ論──あたらしいフィールドワーク』(慶應義塾大学出版会、2009)
★6──木下勇『ワークショップ──住民主体のまちづくりへの方法論』(学芸出版社、2007)p.49
★7──建築・都市分野のワークショップについては「10+1wesbite」2017年2月号で特集されている。https://www.10plus1.jp/monthly/2017/02/
★8──ローレンス・ハルプリン『PROCESS Architecture NO.4 Lawrence Halprin』(プロセス・アーキテクチュア、1978)
★9──昆野まり子「アンナ・ハルプリン(Anna Halprin l920-)研究──Ritualとしての舞踊『Circle the Earth』からMyth生成へ」、『お茶の水女子大学人文科学紀要 第56巻』(お茶の水女子大学、2003)
★10──ハルプリン、前掲書、p.248
★11──宮台真司「ワークショップの社会学─越えられない壁を「越える」ために─」(2012)。http://www.miyadai.com/index.php?itemid=959
★12──ギー・ドゥボール『漂流の理論 アンテルナシオナル・シチュアシオニスト第2号』(1958)
★13──ケヴィン・リンチ『都市のイメージ』(岩波書店、1968)
★14──宮台真司『世紀末の作法──終ワリナキ日常ヲ生キル知恵』(メディアファクトリー、1997)p.120
★15──B・L・ギャレット『「立ち入り禁止」をゆく──都市の足下・頭上に広がる未開地』(青土社、2014)p.46

参考文献
クレア・ビショップ『人工地獄──現代アートと観客の政治学』(フィルムアート社、2016)
ジョン・アーリ『モビリティーズ──移動の社会学』(作品社、2015)


都市フィールドワークを知るためのブックガイド


◎フィールドワーク関連

田島則行、久野紀光、納村信之編著『都市/建築フィールドワーク・メソッド』(INAX出版、2002)

建築都市分野のフィールドワーク、ヴィジュアリゼーションがぎっしり詰まった決定版。建築家の職能が拡張される。三浦展、塚本由晴らによる寄稿もある。



◎ワークショップ関連

木下勇『ワークショップ──住民主体のまちづくりへの方法論』(学芸出版社、2007)

ワークショップの歴史、事例、理論が読みやすくまとめられている。参加型フィールドワークやまち歩きを設計する際にも有用である。



◎シチュアシオニスト関連

加藤政洋、大城直樹ほか『都市空間の地理学』(ミネルヴァ書房、2006)

シチュアシオニストの研究者である南後由和による解説がある。ルフェーブルやセルトーなど周辺の理論も別章でわかりやすくまとめられている。



かさぎ・ひでのり
1975年東京生まれ。建築家。ミリメーター共同代表。日本大学芸術学部美術学科住空間デザインコース修了。2000年、宮口明子とミリメーター設立。公共空間に関わるプロジェクトを多数発表。プロジェクト=「アーバンピクニックシリーズ」、「コインキャンピングTents24」、「アーツ前橋交流スペース」、「URBANING_U」、「清澄白河現在資料館」ほか。


201704

特集 フィールドワークの諸相──「野」の歩き方


エクスペリメンタル・フィールドワーク・ガイド
夜の登歩──グラフィティ・ライターと都市の自然
フィールドワークと在野研究の現代的方法論
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