『Tactical Urbanism: Short-term Action for Long-term Change』イントロダクション

マイク・ライドン(プランナー、The Street Plans Collaborative主宰)+アンソニー・ガルシア(建築家、The Street Plans Collaborative主宰)

マイクの物語

手紙を書くという行為は、孤独でありながら人とつながる唯一の方法である
――バイロン卿(ジョージ・ゴードン・バイロン)

2007年、都市計画の学位を取得してすぐに、私は大学院のあるミシガン州アナーバーを離れフロリダ州マイアミへと引っ越した。1年前の夏にインターンとして働いていた建築・都市計画事務所、デュアニー・プレイター=ザイバーク・アンド・カンパニー(Duany Plater-Zyberk and Company)に入社するためだ。与えられた主な仕事は、Miami 21という市を挙げた一大プロジェクトに関するものだった。当時、とても難解で古臭いものだったマイアミのゾーニング制度を、Form-Based Code[区画ごとの用途を規定する従来型のゾーニングに対し、建物や空間の形態を規定し、用途については複合性を許容するアプローチ]という考えを取り入れた新しく柔軟なものに置き換えるというのがこのプロジェクトの目的だった。新しい制度は、都市開発の効率化を実現し、また公共交通サービスの拡充やグリーン(低環境負荷)・ビルディングの推進、住居地域と商業地域の区分の再考など、マイアミを21世紀にふさわしい都市に生まれ変わらせるさまざまな変化を引き起こす起爆剤になると期待された。この種の試みとして、Miami 21は当時はもちろんのこと、現在の水準で見ても最大規模のものだ。そのような前例に乏しく難易度の高いプロジェクトに関われることは、若く理想に燃える都市計画家であった私にとって願ってもない機会だった。

しかし仕事を始めて数カ月ほど経ち、Miami 21の内容がいかに正確に市民に周知されていないかなどを知るにつれて、私は従来通りの都市計画的方法論に次第にもどかしさを感じるようになっていった。そして、都市に対する情熱がありあまっていた私は、日々の業務以外のチャネルを通じても、新たに住処としたこの街に貢献できる手立てがあるのではないかと考え始めた。

自分にとって身近な問題を解決することから始めようと考えた私が注目したのは、自転車だった。私は自宅のあるマイアミ・ビーチからリトル・ハバナまで、毎日13kmほどの経路を自転車で通勤していたが、当時のマイアミは自転車乗りにとって安全な街でも、魅力的な街でもなかった。私はこの問題について職場の同僚たちと論じ合うようになり、また自由時間を用いて、自転車利用の促進を目指す市民運動に参加するようになった。しばらくして、私の上司であったエリザベス・プレイター=ザイバーク(Elizabeth Plater-Zyberk)から、マイアミ・ヘラルド紙へ記事を投稿することを勧められた。マイアミがなぜ自転車乗りにやさしくない街なのか、それはなぜ改善されなければならないのか、そして具体的に市は何をすべきなのかなどを論説記事にまとめて発表してはどうか、と言うのだ。結果、私の手による記事「マイアミを自転車にやさしい街に(Make Miami a Bicycle-Friendly City)」が、2007年12月ヘラルド紙に掲載された。記事のなかで私は、米国のほかの主要都市と比べてマイアミの自転車政策は遅れていると指摘し、それが他都市との人材獲得競争に負の影響を及ぼしていること、低コストの交通オプションを市民から奪っていること、さらにはMiami 21が長期的に目指す進歩的な理想と逆行していることなどについて述べた。

そして「マイアミのストリートを完成させる」ための具体的な施策として、自転車政策に関する専門の担当職員を雇い、包括的なマスタープランを策定するべきだと提案した。またコロンビア・ボゴタ市の有名なシクロビア(週に1日、112kmに渡る道路を一斉に封鎖することで、自転車と歩行者のためのひとつながりの公園をつくり出す制度)のマイアミ版をつくるべきだとも書いた。

記事が出たのと同じ時期、私は巷で人気を集めていたTransit Miamiというブログに文章を寄稿するようになり、その活動を通して(後に仕事上のパートナーとなる)トニー(Anthony Garcia)と出会った。さらに新設の市民団体であるGreen Mobility Network、そして社会貢献に熱心な若手職業人の集まりであるEmerge Miamiという2つの団体と関わるようになった。

私はこれら新しくできた仲間とともに、市の自転車政策を後押しする非営利団体Bicycle Action Committeeの立ち上げに尽力し、マイアミを自転車乗りにとって魅力ある街にするために市が取り得る行動をまとめたアクションプランを立案した。喜ばしいことに、私たちの立てたプランはマイアミ市長のマニー・ディアズ(Manny Diaz)とそのスタッフに受け入れられ、彼らは市の自転車政策を前進させることに力を注ぐと誓ってくれた。プランの目玉は以下の3つだった。まず、130年以上にわたり米国の自転車利用促進に貢献してきた団体League of American Bicyclistsから、自転車乗りにやさしいと見なされた街に与えられるBicycle-Friendly Communityレーティングを、2012年までに取得すること(この目標は、実際にスケジュール通り達成された)。次に、市の財政が許す範囲で、自転車利用者のための優先的なインフラ整備を行なうこと。そして最後が、シクロビアのマイアミ版(北米では、こうしたイベントに対して「Open Streets」という呼び名が定着しつつある)であるBike Miami Daysを開催することだ。このうち1つめと2つめは、数年にわたる周到な根回しやプランニングを要するものだったが、3つめのBike Miami Daysについては比較的手間もかからず安価であり、さらには視覚的なわかりやすさがあり注目を集めそうだ(なにせマイアミ中心部から車を閉め出そうというのだ)という理由から、すぐに実行に移されることになった。

2008年、Bike Miami Days初回[撮影=マイク・ライドン]

2008年11月、初回のBike Miami Daysが開かれ、嬉しいことに何千人もの人々が参加してくれた。しかも参加者は、典型的な自転車乗りのステレオタイプであるMAMIL(Middle Aged Men in Lycra、ぴったりとしたスパンデックス・スーツを纏った中年男性)ばかりではなかった。女性もいたし、家族全員での参加もあった。また若年層の多さが目を引いた。そして車のいなくなった道路の上で、自転車に乗ることはもちろん、歩いたり、ジョギングをしたり、スケートをしたり、踊ったりなど、みな思い思いの行動を楽しんでいた。ほとんどの参加者にとって、こうした体験は初めてだったのだろう。熱気が周囲を包み、街の空気は明らかに普段とは違っていた。誰もが笑顔で、近隣の店は売り上げが伸びた。縦横に走り回る車の群れがいないことは人々を安らかで開放的な気分にさせたようで、それは開会の挨拶を終え、フラグラー通り(Flagler Street)を率先して自転車で走り抜けたディアズ市長も同じようだった。

Bike Miami Daysは大成功に終わり、しかも単に参加者がひととき楽しんだイベントというだけでなく、もっと大きな目的も果たした。数千人という市民に、いつもの街を新しく刺激的なやり方で体験し、今とはまるで違うマイアミの未来――歩行者や自転車にやさしく、より多くの公共空間が街に広がる未来――の可能性を想像させるきっかけを与えたのだ。当時私たちはタクティカル・アーバニズムという言葉は使っていなかったが、このイベントはまさにそう呼ばれるにふさわしいものだった。私はその魅力の虜になっていた。

Bike Miami Daysの開催を通して、私は自分がいったい何に不満を抱いていたのか、はっきりと自覚できるようになった。マイアミの自転車政策だけでなく、都市計画という分野そのものに不満があったのだ。都市計画コンサルタントとして働いた18カ月の間、私は自分の仕事が、実地における確かな変化につながったと感じたことは一度もなかった。もしかすると、私はせっかちすぎるのかもしれない(それは私の世代全体の特徴だと言う人もいる)。しかし、私が関わった多くの都市計画の議論は、結局机上の議論のみで終わってしまったのだ。高いコストをかけて都市の新たな可能性をあれこれと模索しても、そこで決まった方針の具体的な実装は、政治や経済の都合がつくまで永続的に保留されてしまうのだ。

ほとんどの都市計画家がそうだろうが、私は世の中に対し目にみえる貢献がしたいと思ってこの分野を志した。そしてその貢献は、「そのうちいつか」ではなく、現実的な期間内に実を結ぶことを望む。短期的なイベントとはいえ、Bike Miami Daysは私が過去に参加したどのワークショップやシャレット[建築、都市計画、景観、交通、行政など、多数の多様な専門家が短期間で課題と解決策を思案するワークショップ]、ミーティングよりも実効性があると思えた。もちろん、大規模なインフラ整備や計画プロジェクトには固有の役割がある。新しい鉄道の敷設や橋の建設、都市全体のゾーニング制度の改革などは、間違いなく重要な大仕事だ。しかし、そうした大型プロジェクトを実際に遂行するには幅広い合意の形成が必要で、それは都市計画家が自分たちの仕事を、従来通りの方法論に従って的確にこなしたからといって自然と生まれてくるものではない。都市をよくしていくには長期的で大規模な計画に加え、数多くの小さな取り組みを手際よく進めていくことも必要だ。そして実際のところ、そうした小規模のプロジェクトこそが、市民を市政に巻き込み、やがて大掛かりな計画の実行を可能にする礎となったりするものなのだ。都市には大きな野望と、細かな戦術(タクティクス)の両方が必要なのだ。

こうした考えのもと、私はOpen Streetsのような試みを、都市計画のひとつのツールとみなすようになった。都市が市民とつながり、市民を動かすツール、そして逆に市民が政府を動かし変化を引き起こすツールとして。Bike Miami Daysは、マイアミ市の新しい自転車政策に対する市民の理解と興味を育むうえで重要な役割を果たした。公共空間を活発に動き回ることは、意識はされずともじつは数多くの市民が望んでいたことだったのだろう。そのことがあのイベントを通して顕在化されたのだ。都市計画家が何年という期間をかけても実現できる保証のない新しい街の風景が、イベントの開催期間中の短いあいだだけではあったが、たった数週間の準備の後、あの日マイアミのストリートに姿を現わしたのだ。

初回のBike Miami Daysから数カ月経った頃、私は市が新しく雇った自転車政策担当職員であるコリン・ワース(Collin Worth)から、マイアミ市がこのたび正式に策定した自転車政策に関するマスタープランの実行を手助けしてくれないかと頼まれた。事務所で働く日々は快適だったが、私はこれを独立のチャンスとみなし飛びつくことにした。自宅にオフィスを構え、友人のつてを頼って数百ドルでウェブサイトをつくってもらい、Street Plans Collaborativeという屋号のもと個人事業主としてビジネスを始めた。

マイアミ市との仕事が落ち着いた後、私はニューヨーク市のブルックリンへと引っ越すことにした。当時ニューヨークでは、ジャネット・サディク=カーン(Janette Sadik-Khan)率いる市の交通局の指揮のもと、数百マイルの新しいバイクレーンの整備、試験的な歩行者用プラザの設置、(Bike Miami Daysと同種のイベントである)Summer Streetsの開催など独創的な取り組みが次々と実施されていたというのが、引越しの理由だ。こうした新しい動きにすっかり魅了され、触発された私は、同様に「計画と実践の健全なバランス」を志向している活動家や自治体がほかにいないか調査を始め、事例をリストアップしていく活動を開始した。また同じ時期、Transit Miamiですでに数年間一緒に仕事をしてきたトニーと正式に仕事上のパートナーとなることを決め、彼を共同経営者に迎え、2010年にStreet Plansは法人化された。

私はOpen Streets的なプログラムの事例はもちろんのこと、それ以外にも、創造的なやり方で都市の政策や街並みにインパクトを与えているさまざまな短期的プロジェクトについて調査を続けた。2010年の秋にはニューオーリンズを訪れ、ニューアーバニズムの推進を目指す団体Congress for the New Urbanismから派生した、自らを「NextGen(新世代)」と呼ぶ集団の集まりに参加した。そこで私は彼らに、これまでの調査を通してその存在が浮き彫りになった、不況にあえぐ全米各地で自発的に出現している低コストの都市改善プログラムの潮流について紹介し、議論を交わした。

ニューオーリンズで紹介したこの新たな潮流にはっきりとした呼び名と形を与えるべく、私たちは2011年にブックレット『Tactical Urbanism: Short-Term Action, Long-Term Change』のvol.1を編纂し、ウェブ上の文書共有サービスSCRIBD上で無料公開した。Street Plansのウェブサイトにリンクを張り、同業の仲間たちに告知して、久しぶりに休みを取って旅行に出かけた。ブックレットは25ページほどの短く簡単なもので、その時は大した注目を集めるとは予想していなかった。ニューオーリンズの集まりで出会った20人ほどの人のうち、5、6人くらいが読んでくれれば、きっと上出来だと満足しただろう。ところが公開から2カ月もしないうちに、このブックレットは10,000回以上閲覧された。私たちはタクティカル・アーバニズムの可能性を信じていて、しかもそれが米国において明確な潮流として現われつつあることも知っていたものの、直接の知り合い以外にもこれだけの人が関心を示してくれたことは予想外だった。

2011年の秋には、私たちは単にタクティカル・アーバニズムの事例を収集して記録していくだけでなく、会社の業務としてもその企画や実践を行なうようになっていた。ある日、同業の友人であるオーラッシュ・カワーザード(Aurash Khawarzad)が、タクティカル・アーバニズムに関するさまざまな情報やアイデア、実施ノウハウなどを集まって交換できる場をつくってはどうかと持ちかけてきた。ブックレットに対する反応などから、ネット上ではタクティカル・アーバニズムに一定の支持があることがわかっていたが、実世界においても人を集められるほどの注目度があるのか試してみるよい機会だと思った。すぐにクイーンズに拠点を置く芸術家集団Flux Factoryが、ロングアイランドシティにある彼らのイベントスペース(もとは絵葉書工場だった場所だ)を貸してくれることになり、そこで多数の外部組織と連携しながら、私たちは第1回のタクティカル・アーバニズム・サロンを開催した。そこでは北米中から150人以上の専門家が集まり、最新の取り組みについて発表し、互いの意見に耳を傾け、議論し、ビールを飲んだ。数多くのアーバニストたちの熱意と仕事に触れ、さらに自信を深めた私たちは、『Tactical Urbanism』のvol.2を書き上げて公開した。含まれている事例の数は、vol.1の倍だ。またタクティカル・アーバニズムの簡単な歴史についても記述しており、合法なものから(執筆時点では)違法なものまで、存在する幅広いアプローチを俯瞰しやすい構成になっている。(違法なアプローチのうち多くは、その後各地の自治体の支持を得て合法化されている。)

クイーンズでの初開催以降、私たちはフィラデルフィア、サンティアゴ、メンフィス、ルイビル、そしてボストンの5都市でタクティカル・アーバニズム・サロンを実施した。『Tactical Urbanism』の追加ボリュームも続々と公開されている。vol.2はオリジナルの英語版に加えて、スペイン語版とポルトガル語版を制作した。vol.3は中南米に焦点を当てた内容になっており、よりよい公共空間の創造を目指すサンティアゴの社会的企業、Ciudad Emergenteと共同で執筆した。vol.4はオーストラリアとニュージーランドの事例をまとめたもので、こちらはメルボルンのCoDesign Studioの手によるものだ。この文章を書いている時点で、これら全ボリュームは合わせて100カ国以上で、計275,000回以上閲覧されている。私たちは世界各地を回ってワークショップを開き、そこで学生や専門家、一般市民に、タクティカル・アーバニズムを用いた参加型の都市づくり・街づくりの可能性について知ってもらおうと努力を続けている。

これまでの道のりを振り返ってみると、マイアミ・ヘラルド紙の簡単な論説記事を書いたことが、その後数多くの素晴らしい人々に出会い、数多くの素晴らしい機会やアイデア、そして課題と巡り合うきっかけになった。やはり小さなことから始めても、大きなことにつながることはあるものなのだ。

ミドルズボロで構想された「Build a Better Bolck」の期間中、自転車専用レーンマークをスプレーでペイントするマイク・ライドン
[撮影=アイザック・クレメール(Isaac Kremer、Discover Downtown Middlesboro)]

トニーの物語

タクティカル・アーバニズムについて本格的に思いを巡らせるようになったのは、当時4歳の息子をつれて、メモリアル・デイの週末にニューヨーク旅行にいったことがきっかけだった。それは親子2人だけの特別な旅行で、タイムズスクエアにある巨大なおもちゃ店が目的地のひとつだった。おもちゃ店のちょうど真正面のエリアはブロードウェイの一部だが、そこは私たちが訪れたその当日の朝にプラスチック製のドラムの列で封鎖され、たくさんの椅子が置かれ、車道から歩行者用の広場へと変貌していた。それは驚くべき変化だった。

おもちゃを買って店を出ると、私と息子はその新しくできた広場の椅子に腰を下ろした。ニューヨークにはかつて数年住んだことがあり、また幼少の頃からこの街は何度も訪れている。しかしタイムズスクエアを心地よいなどと思ったことは一度もなかった。その日までは。ブロードウェイに突然現われたこの広場を、周囲を歩く人々はどう使ってよいかまだわからなかったようで、みな積極的に中に入ることはせず歩道からただ眺めていた。私と息子は、その日率先して広場に入っていった最初の数人のうちの2人だった。次第に、ゆっくりと、人が広場に流れ込むようになった。私たちは新しく買ったおもちゃで一緒に遊んだり、ただ街の風景を楽しんだりして、しばらくそこで時間を過ごした。こんなことは、以前のこの場所ではできなかったことだ。

ブロードウェイの急激な変身は、私に強烈な印象を与えた。当時私はマイアミで建築事務所での日々の業務に加えて、市民運動家としてもいくつかのプロジェクトに関わっており、その両方の活動を通して、都市の変革を引き起こすことがいかに難しいかを実感していた。しかしここニューヨークにおいて、数百万ドルの資金も、10年単位の期間も必要なく、道路が公共空間へと生まれ変わったのだ。それはなんと素早く、簡単で、効果的なやり方なのだろうか。

私はこのアプローチには大きな可能性があると感じた。昔、大学院で学ぶためニューヨークから地元のマイアミに戻ってきた私は、しばらくすると、どうもこの街では私の思う都会的な暮らしができないという感覚を覚えた。優れた交通システムや豊富な公共空間など、快適な都市生活を支える重要な要素のいくつかが、この街には欠けている。郊外型のマイアミ大学のキャンパスで都会の暮らしに対する渇望が増していった私は、この愛する地元についてより深く学び、よりよい街、「そうなれるはず」の姿へとマイアミを変えていくことを目指そうと考えた。

以降、私は市政や都市計画にまつわるものなどさまざまな市民向けの集会に顔を出すようになり、新聞に投書をしたり、都市の機能やインフラに関係するあらゆるイベントに参加するようになった。私は市民運動に没頭していった。しかしいくら私が積極的に市政と関わり、市のこれからに貢献することを願っても、市の正式な職員でもなければコンサルタントとして雇用関係にあるわけでもない私にできることには限界があった。

溢れるエネルギーを発散させるひとつのやり方として、私はマイアミの都市計画、特に交通問題にフォーカスしたブログTransit Miamiに文章を書き始めた(後には編集長を任されるようになった)。当時はインターネットをはじめとした新しいテクノロジーが市政や都市生活に目に見える影響を与え始めていた時期で、ブログはそうした動きの急先鋒だった。そして執筆活動を通じて、私はMiami 21や新しい交通税の導入、そしてマイアミの自転車文化の創成に深く関わるようになった。これらの経験は、私にいくつかの重要な教訓を与えてくれた。

1つめの教訓は、現在の都市計画のプロセスは相当な機能不全に陥ってしまっているということだ。例えばMiami 21の始動当初、私はマイアミが新しい、進歩的なゾーニング制度の導入を図っていることに心を躍らせていた。しかし、そのような巨大で複雑な制度の刷新が、どれほど骨の折れるものであるかはまるでわかっていなかった。制度の詳細は数百回の市民集会を経て詰められていったもので、それは開かれたプロセスであったと私は考えていたが、それでも密室での決定がなされていると非難を浴びた。最終的に、Form-Based Codeを取り入れた優れた制度案ができあがり、それは無事承認されたものの、そこに至るまでの道のりはけっして平坦ではなかった。いくら進歩的で素晴らしい案を用意できたとしても、それに対するきちんとした理解を市民の間で広めることは難しく、結局多くの人は反対の意を唱えてしまうのだ。それに加えて、法律家やデベロッパー、ロビイストなどがそれぞれの主張を抱えて入り込み、会議はいつも、さながら反対意見の博覧会のような様相を呈してしまっていた。私は思っていた。このような非生産的な混乱に陥ることなく、誠実で周到、かつ開かれたプロセスを通して大規模な制度変更を行なうことははたして可能なのだろうか、と。

同じ頃、マイアミ・デイド群[マイアミ市が属する群]で住民投票が行なわれ、群の運営する鉄道網Metrorailの大幅な拡張の財源となる新しい交通税の導入が決定した。私は期待を胸に賛成票を投じたが、数年経っても約束された拡張は一向に実現しなかった。計画では130kmにおよぶ新しい鉄道が敷設されるはずで、市民の間には幅広い支持があった。しかし自治体側に、そのような高コストのプロジェクトを実行する意思が乏しかったのだ。それからさらに10年が経ち、地域の人口増加に伴い公共交通の必要性はますます上昇しているが、相変わらず工事はごくわずかしか行なわれていない。この交通税の失敗は、また別の教訓を私に与えてくれた。トップダウン式の大規模な建設プロジェクトは、往々にして都市の問題を解決できないということだ。都市環境の改善に関して、私たちは新しいアプローチを見出す必要がある。そして私は機敏で軽やかな小規模プロジェクトが、大規模プロジェクトの腰の重さに対するひとつの回答になりえるのではないかと思い始めた。

その後、マイアミにおける自転車文化の急速な発展を目の当たりにし、私は小さな変化が、確かな長期的な変化につながることを知った。Bike Miami DaysやCritical Mass[多くの自転車乗りがいっせいに集まってサイクリングを行なう、啓発目的のイベント]などの、それぞれは低コストで規模も限定的なプロジェクトの連続が、やがてバイクレーンなど街の自転車用インフラの大幅な増強につながった。小さく手軽で、多くの場合は短期的なプロジェクトが、結果的に巨大プロジェクトが目指すのと同じような広範な影響を都市に与えることがありうるのだ。

大学院を修了した私は建築事務所チェール・クーパー・アンド・アソシエイツ(Chael Cooper & Associates)に勤務し、そこで大規模な複合型開発プロジェクトと、小規模な住宅プロジェクトの両方に携わった。市民運動でもそうだったが、やはり私の時間と労力の多くは大規模プロジェクトに割かれることになった。地域全体をつくり変えてしまうことを目指すような、壮大なスケールのプロジェクトにも関わった。しかし結局のところ、私に最も満足感を与えてくれたのは比較的小さな規模のプロジェクトだった。それらは短期間で、目に見え、評価可能な結果を生み出すからだ。対して巨大プロジェクトは、いつまで待ってもそのほとんどが実施までたどり着けないのだ。

息子とニューヨーク旅行に出かけ、私たちが後ほどタクティカル・アーバニズムと呼ぶことになる試みに対する理解を深めたのはこの頃だった。旅行から帰った後、私はとあるシャレットで、(自治体政府の怠慢や財政緊縮、合意の欠如などが原因となり)各地で都市の諸問題に対するさまざまな、安く短期的な解決策が実装されていることを知った。事務所ではちょうど建設プロジェクトの依頼の割合が減っており、私は代わりにストリートのデザインや、市民参加を促す仕組みの企画などに従事するようになった。私はこれらの仕事を、建物の設計よりもよほど面白いと感じるようになっていた。

その後しばらくして、私は地域でのボランティア活動が高じて始めた会社を運営するようになっており、またTransit Miamiですでに数年一緒に仕事をしてきたマイクとより親しくなっていた。マイクと私は、ともによりよい都市をつくることに対して強い情熱を持っていて、そしてそのためにはストリートをつくり変えることが必要だということに気づいていた。私たちは共同で事務所を経営し、仕事を進めていくパートナーとなることを決めた。

それから今に至るまで、数百のプロジェクトやサロン、ワークショップ、講義などを行なってきた。21世紀の街づくりに対する私たちの考えは、つねに進化し、洗練され続けている。タクティカル・アーバニズムは都市に対する万能薬などではけっしてないが、低コストで細かな改善策を積み重ねていくというそのアプローチは、これから各地の都市が直面する課題の解決に幅広く応用できるはずだ。もちろん、すべての都市がニューヨークやマイアミではない。豊富な実践の経験から、私たちは都心部だろうが郊外だろうが、解決されるべき課題の種類は地域によってまるで異なることを知っている。各地のアーバニストたちには、それぞれの地域に合ったかたちで、小規模な改善策を即興的に見出していくことが求められるのだ。


翻訳=竹内雄一郎


From Tactical Urbanism by Mike Lydon & Anthony Garcia. Copyright © 2015 The Street Plans Collaborative, Inc. Reproduced by permission of Island Press, Washington, D.C. https://islandpress.org/book/tactical-urbanism




マイク・ライドン(Mike Lydon)
The Street Plans Collaborative主宰、ニューヨーク事務所代表。ベイツ大学にて、アメリカ文化の学士号を取得後、ミシガン大学修士課程(都市計画)修了。2006-09年、Duany Plater-Zyberk and Companyに勤務後、現事務所を設立。住みよい都市への貢献者として、プランナー、ライター、スピーカーとして活躍。オープンストリートプロジェクト、タクティカルアーバニズムを提唱。Anthony Garciaと共に2017 Seaside Prize受賞。共著=『Smart Growth Manual』(McGraw-Hill, 2009)、『Tactical Urbanism』(Island Press, 2015)

アンソニー・ガルシア(Anthony Garcia)
The Street Plans Collaborative主宰、マイアミ事務所代表。ニューヨーク大学にて、建築学と都市計画の学士を取得後、マイアミ大学修士課程(建築学)修了。Chael Cooper&Associatesで6年間プロジェクトディレクターとして勤務。2008-12年、「TransitMiami.com」の編集者。交通、歩行者、自転車のためのインフラストラクチャーに関係する建築家、ライター、スピーカーとして活躍。Mike Lydonと共に2017 Seaside Prize受賞。共著=『Tactical Urbanism』(Island Press, 2015)

竹内雄一郎(たけうち・ゆういちろう)
1980年、トロント生まれ。計算機科学者。株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所研究員、および科学技術振興機構さきがけ研究者。東京大学工学部卒業、同大学院新領域創成科学研究科博士課程修了、ハーヴァード大学デザイン大学院修士課程修了。情報工学と建築・都市デザインの境界領域の研究に従事。


201703

特集 タクティカル・アーバニズム──都市を変えるXSサイズの戦術


『Tactical Urbanism: Short-term Action for Long-term Change』イントロダクション
路上のパラソルからビッグ・ピクチャーへ──タクティカル・アーバニズムによる都市の新たなビジョンとは?
「合法的」なゲリラ的空間利用──愛知県岡崎市「殿橋テラス」の実践から
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