(奇妙で不可解な)オブジェクトへの回帰

デイヴィッド・ルイ(建築家、建築理論家)
1990年代半ばから、建築の言説は、建築のオブジェクトから建築のフィールドへと、その主題を急速に移行させていった★1。そのなかで建築のオブジェクトが持っていた神秘的な魔力も失われた。そして最近の建築作品は、オブジェクトそのものよりも本質的であり、ダイナミックで、よりリアルであるとされる、関係性のネットワークという心象イメージに囚われている。

当時考えられていたグローバルなネットワークに建築を対応させようという狂騒的な試みは、今考えてみると、めまぐるしく変化しすべてのものが繋がってゆく世界に、建築が取り残されてしまう危機につねに曝されているのではないかという不安に対する、自然な反応であったのかもしれない★2。また振り返ってみると、映画『マトリックス』や『オズの魔法使い』にみられるような誇大妄想的なファンタジーは、現実とは、実際に見えているものとは違うものなのではないかといった人々の深い疑念を的確に表現していたといえる。そして映画のなかで人々は見かけの世界の奥底に横たわる、より本質的なネットワークを見ることができるヒーローに憧れ、物事の見かけというカーテンの向こう側に隠れている本当の現実を発見したいという欲望を共有していた。

今の建築家は、建築とは社会や文化的環境の副産物であるという考えに囚われている。彼らのなかでは、建築とは科学主義的なシステムとネットワークの一部分、もしくは、環境内(それが現実の環境であれ、コンピュータ内に再現された仮想的なものであれ)のパラメーターが与える一時的な計算結果でしかないと見なされている。おもに形態や美に対して関心を持っている建築家でさえも、仮想的な外部環境と建築オブジェクトとの関係性において、オブジェクトの存在意義となる、その生成のための外的なパラメーターや条件を見出そうとする奇妙な傾向がある。
(ローマ神話の)ヤヌスのように、建築におけるオブジェクトからフィールドへの変化はさまざまな側面を持っていたが、それらはすべてヴァーチュアルへの移行というひとつの胴体を共有していた。

今では、コンテクストという概念の定義はさておき、建築をコンテクストから導き出されたものとして考えることは極めて自然なことであると思われている。(コンテクストから建築への)外的な力(場合によっては計測可能、または仮想的なもの、ないしは建築家によるまったくの空想的なイメージとしてのもの)をコーディネートすることが、現代の建築実践における関心の中心にあると理解されている。
建築を愛する者は、このような状況について複雑な思いを抱いている。一方で、建築におけるコンテクストへの考慮とは、世界のさまざまな問題や状況に対して、建築から関わってゆきたいという実直な思いの表われであるということも理解できる。現在世界で起こっているさまざまな事態に対して、建築が関連性を持ったり関与したいという欲求は、建築のオブジェクトの重要性を低下させるとともに、建築の知性の他のさまざまな分野への活用が持つ重要性を高めた。この思いそのものは誠実であると強調したい。世界に積極的に関わってゆきたいという意志が間違いであると指摘することは難しいことである。しかし、幅広い分野で建築の活動を展開することは、建築家の権限というものを曖昧にしつつある。
そもそも「建築の知性」とは具体的に何であるかを定義することは難しい。そのような知性がはたして「現実世界」に求められているのかどうかも不確かである。そしてもしかすると、建築の知性が他分野に貢献できるという考えは、既存の他の実践分野の知性をまったく軽視しているとはいえないだろうか。
グローバルネットワークの詳細に関心が払われるようになるとともに、建築のオブジェクトの重要性の低下によって、建築が持っていた魔力は取り除かれてしまった。今、建築の持つ神秘的な力というものについて語るとき、そこにはつねに恥じらいが伴っている。一方で、かつて建築が独立したオブジェクトとして持っていた重要性や影響力が失われてしまったことを、人々はまだ嘆いているのだ★3

建築の長い歴史をみても、このオブジェクトからフィールドへの移り変わりは特殊である。というのも、歴史的に建築とは、外的な影響からは基本的に独立した物質的なモノであると考えられてきたからである★4
(価値や観念、または宇宙そのものの)具象化としての建築の役割から、コーディネーターとしての役割への変化は、モダニズムからの遺産を受け継ぐ独特な一面だといえる★5。建築におけるこの変化の独自性が今日見過ごされているのは、建築はその外的状況に対して偶有的に存在するものであるという考え方が当たり前のものになったためである。現代においてコンテクストから独立して、建築オブジェクトそのものについて考察するは、秘教的な印象さえある。また、建築の自律性を主張することも、時代錯誤であると今は考えられている。これについてはいくつかの例外が見られるが★6、現在、建築家は自律性よりも偶有性を求めているのだ。そして建築が、より大きな関係性のネットワークから孤立した存在になってしまうことを避け、現代世界のさまざまな状況により積極的に関わってゆくべきであるというのが、多くの人々にとっての願望なのである。

この、オブジェクトからフィールドへの変化については、より詳細に考察すべきである。なぜなら、存在論的にみて、建築のフィールドの理論における仮定には大きな問題点がいくつも存在しているからである★7。より具体的に言うと、この変化が、建築家が持つ権限と建築が持つ力という概念に、予期せぬ変革をもたらしたのである。そして、この2つの概念についての問題(そして驚くべきことに両者は関係している)について考察することは、建築のディシプリンの現状を検証することと、建築の実務を待ち受ける暗鬱な未来に対する打開策を講じることに繋がる。しかし、これらの問題について述べる前に、まず自然という概念について言及しなければならない。

建築において、コンテクストを考慮する方法の例として、文化的価値の表現や、建築と都市との接続などが一般的に認識されている。しかし、現在もっとも緊急を要して考慮しなければならないのは、建築と自然との関係性である。自然とは、究極の環境であり、あらゆる物質現象を包含するフィールドである。この点から、建築のオブジェクトからフィールドへの移行についての考察とは、現代において、建築の自然への回帰についての考察も意味しているといえる。もしかすると、建築のオブジェクトからフィールドへの移行は、建築/自然★8という境界の消失へ収束してゆくのかもしれない。

そして、ディシプリンとしての建築と、実務としての建築という2つの見地からこれを考察することが重要である。古くから続くディシプリンとして、建築の歴史には自然の問題が深く根ざしてきた。自然は建築におけるイノベーションの源泉としてたびたび機能してきた。これは古代から始まり、ルネサンスで頂点に達し、モダニズムでは鳴りを潜めたが★9、建築は美的なインスピレーションや、形態のモデル、プロポーションなどを自然から見出そうとしてきた。たとえ合理的な理論を構築するために自然を意図的に避けているような場合であっても、そのような合理性の理論は自然をいつも崇高な「他者」として一括りにしていた。幾何学とプロポーション、形態と機能、そして構造と装飾という、ディシプリンとしての建築の主なテーマは、自然という問題の周囲につねに位置してきた。
現代において、もはや自然はデザインのためのインスピレーションの神秘的な源ではない。しかし、それに代わって非線形物理学や自己生成システム、遺伝的アルゴリズム、そして生物学的形態発生学などの研究への参照というかたちで、自然は建築の知識へ活用され続けている。そのような研究を参照することは、厳密には建築の学問領域内での行為ではないという指摘もあるかもしれない(それらの研究は建築ではなく科学の分野に属するからである)。しかし、このような探求は重要な建築オブジェクトをデザインすることを目標とし、少数の学術的な専門家たちによる高度な実験として行なわれている。

他方、建築の実務はここ最近まで自然について特に関心を払ってこなかった。地面の造成や、雨仕舞、内部空間への十分な採光と換気といった基本的な実用面での問題以外は、建築の実務は建設プロセスの効率化というような問題についてしか関心がなかったのだ。しかし、建築の実務は大きな変化を迎えた。地球温暖化や環境破壊などの差し迫った危機に直面し、これらの解決が非常に困難な問題に取り組むことを求められているのである。
そのような要求に応えるため、生態学(エコロジー)の理論が建築の実務に導入された。今日における持続可能性(サステイナビリティ)の実践の責務は、生態学の理論と、それが建築のマテリアル・プラクティス(物質的実践)の倫理観に拡張したものによって形成されている。そしてモダニズム以前に建築のディシプリンのなかで行なわれていた自然への探求は、生態学の理論にほとんど取って替えられたのである。

現代の言説において、「自然」と「生態学(エコロジー)」という言葉は、同じ意味を持つものであるように思える。しかし、生態学的な思想というものが、自然というものについて非常に特殊な捉え方をしているという点から、この2つの言葉は明確に区別すべきである。
生態学の理論は、さまざまな関係性を記述するシステムを構築することを大きな目的としている★10。ここで特定の生態系システム内の個別の構成要素は、関係性そのものに比べ、軽視されている★11。そのため、生態系システムの構成要素自体も、また別の生態系システムとして存在しているといった具合に考えられる(例えば特定の人体内部の生態系ネットワークなど)。
自然とは、そのような生態系学的観点からみると、ひとつの巨大な関係性のネットワークである。そこでは、オブジェクトの見かけ(岩、木、カエル、雲、人間など)は表層的なものでしかなく、関係性のネットワークこそがより本質的な実在であると理解される。
建築のオブジェクトからフィールドへの移行のグランド・フィナーレでは、建築のオブジェクトは関係性のフィールドへと溶解し、そして世界を構成する関係性の生態系フィールドのなかへと消失してゆくだろう。そのようにして、建築の実務は意図せずして生態学の実践へと取り込まれてゆくのだ。
一般的に考えられている21世紀初頭における持続可能性(サステイナビリティ)に関わるわれわれの責務について、異を唱えることは難しく、またそれは非道徳的なことかもしれない。しかし、生態学的な思想をベースにしたまったく新しい実践形式によって建築の実践が消失してしまうことについて、懸念を禁じ得ることは難しい。 サステイナブルな社会の実現のための政治は、近年強制力を増し、融通の利かないものになっている。その結果、すべての物質的実践に対して新しい規約やルールが生み出され、建築もまたそれに従うことが求められている。しかし、サステイナブルな実践において、一体何が持続されるというのだろうか? この問題を扱う批評家も出てきているが、ここで持続されるものは、人間による物質的実践と自然との関係性における均衡であると一般に解釈されている。
建築などの人間の物質的実践は、強欲で短絡的に物質資源を浪費し、それに無関心であるとして、さまざまな批判(そしてそのほとんどは真っ当なものである)に晒されてきた。建築は他の実践(電子製品の製造など)と同じく、長期的な視点から自然との関係性を考慮することが現在求められている。しかし、ここで目指されている均衡とは、人類による邪悪な介入がなければ、自然はつねに均衡状態にあるという思い込みの上に成り立っていることを指摘しなければならないだろう。
もしも自然が巨大な時計だとしたら、人類はそれを狂わせる存在である。そして、この時計を時間通り正確に進めさせるには、正しい知識を持った世話人による慎重なメインテナンスが必要なのである★12。端的に言うと、自然は良き存在で、人間は悪しき存在なのである。そして、法規や規約というものは、そのような人々に善き行ないをさせるために必要であるとされている。善き行ないとは「自然に」できるものではないとされているからである。

自然にはメンテナンスをする世話人が必要であるという考え方に代わるものとして、世界は単一の生態系システム、またはネットワークであるという考え方がある。これは個人の自由権という点からすると穏やかならぬ考え方かもしれない。このような考え方において、均衡を維持するということは、人類全員が世界という機械のなかでそれぞれ役割を担っているということである(われわれ人間もそのシステムの一部であるからである)。つまり、人間一人ひとりは自然という時計を構成する歯車であるということなのだ。そして、もし人間が機械の一部であるとするならば、人間は自分が組み込まれているその機械を壊すことはできない★13。また、時計のなかの歯車のように、人間はシステムと自身との関係性を自分自身で変えることはできない。この考え方も政治的に問題である。
これに対して、最近の生態学者たちは自然の仮想的なシステムにおける自己組織化や変動を理論化する努力をしている。ここではフィードバックや非線形性などの理論を援用して、変化や新規性、そして政治的な観点からも必要である人間の行動の不確定性を説明しようとしている。しかし、これらの理論にもまだ課題は多く、結果、均衡状態にある自然という神話的なイメージが、明らかに感傷的なものであるにもかかわらず、硬直化した文化的価値観として残り続けている。

自然は一度も均衡状態にあったことはないということが、さまざまな観測結果によって示されている。そして詳細な観測によって浮かび上がってくるのは、つねに変化の状態にある自然である。自然の絶え間ない変動というものを真剣に受け止めるのであれば、サステイナブルな実践とは、人工的に作られた自然の均衡状態を維持することであると理解する必要が生じるだろう。そしてその均衡状態とは、長期にわたって人類が存続するための最大限の利益を生み出すという、自己中心的な目的のために作り出されているものなのである。自然そのものは安定した存在ではないために、安定性は強制的に生み出されるというわけだ。
神話的な自然のイメージに伴った感傷性が排除されたとしたら、紳士的な自然の世話役という美学や、自然の均衡のもつ人為性に対する偏った見方もまた消えるだろう。しかし、人類の存続のための最大限の利益とは具体的に一体何なのかという、答えのない問いが残される。また、一体どのようにしてそのような利益を生み出す状態を構築できるのかという、さらに答えることが困難な問いも残される。

さまざまな事象を解明してきた生態学の理論でさえ、生態系内の関係性のネットワークの変動について未だに的確な説明ができないほど、自然の変動や不安定性は非常に解明が困難な問題である。このような点から、哲学者のグレアム・ハーマンは次のような見解を示している。つまり、「関係性主義」は、(それが定義する意味での)関係性以上のものを想定しておらず、そこにどのようにして変動が起きるかについて適切な説明ができない★14というものである。

このような姿勢はいずれもオブジェクトを上方解体(overmine)している。このなかでオブジェクトとは、それについての直接的な記述によって簡単に取って代わられてしまう、役に立たない基体として扱われているのだ。たとえわれわれがオブジェクトについて語っていても、実際のところはそのオブジェクトについて自分たちが認知できる質であったり、オブジェクトが他の物に与える効果、またはわれわれの精神に現われるオブジェクトのイメージについてしか語っていないのである。しかし、このような方法で世界を関係性へと還元してしまうことには、いくつかの問題がある。第一に、もし全世界が、現時点で与えられている質に還元できるのであれば、それがなぜ変化しなければならないのかという理由が存在しえない。つまり、もし私と、インド製の黄色のシャツを偶然着ている私との間に違いがないのであれば、私の置かれている状況が変化する理由がまったくないということになる★15



ハーマンはこの挑発的な考察のうえで、精神と世界の関係性についての存在論(フッサールの現象学など)を破棄し、複数のオブジェクト、そしてオブジェクト単体の存在論の構築に焦点を当ててゆく。この新しいオブジェクト指向存在論(Object-Oriented Ontology/OOO)においては、人間存在は他の存在と同じように(他と同じようなオブジェクトとして)扱われる。この独特な思考から導かれるのは、オブジェクト同士は互いに引きこもっているという結論である。この一見謎めいたアイディアを説明するためには、関係性主義に関連して先に指摘した問題を今一度思い出す必要がある。もしもオブジェクトが、その関係性の総和へと完全に還元されるのであれば、オブジェクトがその関係性を変えることはできないという点である。つまり、オブジェクトにはそれが持っている質や関係性以上の何かがあるのである。そして、他のオブジェクトによるアクセスから引きこもった(ハーマンが言うところの)「オブジェクトが持つダークな核」のようなものが存在している。オブジェクトの存在とは、いつも関係性以上のものなのである。
この存在論が示唆することをここでの議論に当てはめてみると、建築のオブジェクトも、それがもし統一された存在であるのならば、つねにその内部の関係性の総和以上の存在であるといえるだろう。他のオブジェクトと同様に、建築のオブジェクトも、それが持っている質の列挙では還元できない「ダークな核」を持っているはずである。
さらに論を進めると、このオブジェクト指向存在論によって、すべての関係性モデルの存在に疑問符を投げかける必要が生じるだろう。ネットワークやフィールドといった概念モデルは物事を理解するうえで非常に役立つ道具としてあり続けるかもしれないが、一方でそれは欠陥のある存在論を抱え込んでしまっているのだ。つまりフィールドとは、オブジェクトと同じ意味で実在的ではないのである。これがフィールドの概念モデルすべてを破棄することを示唆しているわけではないが、フィールドのモデルはわれわれが直面しているものを理解するための本質的な方法ではなく、むしろその逆であるといえるだろう。フィールドの概念モデルは、その利便性のためにこれからも採用できるが、それが人為的な産物であるという認識をつねに頭の隅にとどめておく必要がある。

このオブジェクト指向存在論が示すもっとも驚嘆すべき概念として、「自然」と「世界」という、現在の議論のなかで頻繁に用いられる2つの単語そのものが実在的(リアルな)オブジェクトではないということが挙げられるだろう。
われわれが「自然」や「世界」として参照しているものは、実在的オブジェクト(ここにいるカエルや、あそこに生えている木、ここに流れている川や、あそこに建っている建物)によって構成されている。しかし、それらの構成物すべてを包含する仮想的な容器自体は、本当のところ実在しないのである。このような点から、ハーマンのオブジェクト指向存在論によって、自然の問題に関連するさまざまな特殊な問題を再検討するユニークな可能性が開かれる。
オブジェクトへの回帰は、自然を神話的であったり感傷的に理解することからの脱却であるとみることができるだろう。そして、オブジェクトそのものが持つ、特質やその本質に備わっている不可解さに向き合うことを意味するのだ。ティモシー・モートンがエコクリティシズムのなかで「自然なきエコロジー」★16の可能性を探究する必要があると考察しているように、われわれも自然なき建築というものの可能性を考えてみる必要があるのかもしれない。
しかしここで注意しなければならないのは、これがけっして現在の環境問題への関心を放棄することを意味しているのではないということである。実際はその逆で、われわれが直面する環境問題の特質をより詳しく考察することへの関心をより高めるべきなのである。自然という理想主義的な概念を捨て、われわれに残されるのは、自然のなかのさまざまなオブジェクトそのものへの、より大きな関心と注目である。そしてオブジェクトが持つ特質とは、意味のない偶然の産物ではなく、その存在に折り重なったものであると、考えるべきだろう。また、オブジェクトを引きこもっていて不可解なものであると認識することで、われわれのオブジェクトについての考察にも有意義な不確定性が生まれるだろう。

そして、オブジェクト指向存在論について考えるなかで、建築家という存在がどのように理解されるかを考えてみるのは非常に興味深いことである。建築のオブジェクトがひとつのオブジェクトとしてまとまりを持っていると仮定すると、建築家はそのようなオブジェクトを作るために一体何をしているのだろうか? この存在論のなかで建築家は、オブジェクトの世界から超越し、無形のものに形を与えるような存在ではなく、他のオブジェクト同様にひとつのオブジェクトでしかないことを思い出してほしい。このなかで創作のプロセスは、今までわれわれが慣れ親しんできたそれとは大きく異なったものとなる。そして「創作」という語自体がもはやそのプロセスを表わすのに適切な言葉ではないのかもしれない。

現代思想におけるこの新しい動きについて、本稿ではその完全な評価をすることはできない。しかし、ここでの主な目的は、関係性のフィールドとしての建築の概念に代わりうる概念の提示と、建築のオブジェクトに立ち戻ることが何を意味するのかということについて、基本的な考察を行なうことである。
建築のディシプリンの関心を再び建築のオブジェクトに戻すことは、近代以前にあった、キャラクター性、設計上従うべき様々なルール、構成バランスの理想といった学問的な関心への懐古主義的な立ち戻りであってはならない。また、図像性や周囲から切り離されたヴォリュームといったものへの単純な回帰でもない。 「オブジェクト」は字義通りの意味で理解されるべきではないのだ。モダニズムを通して学んできた大半のことは、現在でも極めて価値がある。そして少なくとも、建築が世界に存在できる可能性にとって不可欠なものである。たとえ世界が実在的オブジェクトでなく、仮想的なものであったとしても、それは生存に不可欠なさまざまな価値を有している。
建築のオブジェクトへの回帰は、一見奇妙で不可解ではあるが、歴史の針を巻き戻すべきだということではないのである。欠陥のある存在論的基盤を下敷きにしているために、将来的に行き詰まってしまうかもしれない現在の状況に対しての、慎重な危機回避策の呼びかけなのである。建築のオブジェクトに再び着目することは、建築のディシプリンの過去をフェティッシュ化することではない。新しいオブジェクトを作り出すという現在の建築の実践を続けてゆくうえで、建築オブジェクトと(人間だけでなく、非人間存在も含めた)他のオブジェクトとの相互作用のなかの、引きこもっているものや不可解なものを認識することである。

建築のオブジェクトへの回帰とは、関心をモノそのものへ戻すことなのである。これはわかりきったことかもしれない。しかし、建築が実践を通して理論を描き出すという傾向を考えると、そうとも言い切れない。別の言い方をすれば、建築はなぜか作品そのものよりも理論が重要(または本質的)であるとする傾向がある。建築のオブジェクトへの回帰は、理論とは建築のオブジェクトができあがってから遡及的に導き出されるものであり、また理論それ自体が別のかたちでの創作であるといえることを示唆している。
建築理論はつねに遡及的であるべきである。なぜなら建築のオブジェクトが実在するのであれば、建築のオブジェクトには必ず理論的なアクセスから引きこもった何かがあるからである。一方、建築理論の構築についても、それ自体が創作のひとつのかたちとして、近年ほど束縛されず、自由でより創造的なものになるかもしれない。建築理論家と建築家との間での優位争いもなくなり、両者の協働関係はより自由で、生産的なものになるかもしれない。

建築のオブジェクトの創作者にとって、(ギリシャ神話において芸術を司る女神である)ムーサのような神がインスピレーションの源泉として存在するというような考えは、相変わらず馬鹿げたものではある。しかし、創造性とはつねに複雑で神秘的なものであり、創作のプロセスにおける直感や卓越したセンスといったものは重要であり続ける。
オブジェクト指向存在論において、オブジェクト同士の、不可解で引きこもった相互作用は、ときに新たなオブジェクトを生み出すことになる。しかし、ここで生まれる新しいオブジェクトとは、単なるオブジェクト同士のブーリアン演算によって生まれるものではない。それぞれのオブジェクトにもとから備わっていた質が失われることなくオブジェクト同士の新しい関係性が構築され、そこで不可解な相互作用が起こることによって新しいオブジェクトが生まれるのだ。これを卑近な問題に当てはめてみると、オブジェクトとしての建築家と他のオブジェクト(場所、素材、ソフトウェア、既存の理論など)との相互作用のなかで、建築オブジェクトが生み出されるのだ。しかし、その相互作用のなかで具体的に何が起こっているのかは謎に包まれており、オブジェクトの創作がうまくいったとしても、その創作行為は再現性のある方法論によって完全に解明できるものではないのだ。優秀な建築家は、はるか昔からこのことを知っていた。
オブジェクト指向存在論は、まったく新しい地平を切り開くと同時に、建築のディシプリンに非常に古くから存在している知恵を、再発見し再評価することにもつながるのかもしれない。

また、この考え方に従えば、技能という概念について、一般的に考えられているよりも多くのことが言える。「技能」という曖昧な言葉は、創作プロセスにおける(オブジェクトとしての)創作者と他のさまざまなオブジェクトとの間に起こる非理論的な相互作用を指す言葉として定義できる。かつては素材と向き合う際の創作者に備わった独自の専門性を指していた。創作者と素材との関係性は、彼らの使う技法を通してある程度観察することができる。しかし、オブジェクト同士は互いに完全にアクセスできない存在として引きこもっているという点から、創作者と素材との相互作用もやはり不可解なものなのである。ここで、創作者の権限は、一般的に定められた基準にもとづく認証制度から与えられているわけではない。職人の権限とは、それぞれの創作者がもつ不可解で理解しきれない個性からきているのだ。熟練した職人とは、そのものがオブジェクトとして、その職人の持つ能力の集合へと還元できない存在であり、またその複製も不可能なのである。
もしも建築家が能力の集合へと還元できるとするならば、それによって建築家個人の権限が毀損されると感じるのは自然なことであろう。実際、なぜ建築家の持っている能力すべてを人工知能に備え付け、好きなだけ建築家を生産しようとしないのだろうか? それは人工知能にどのようにプログラミングすればよいのかという、単に技術的な問題のためなのだろうか? または、より考えられる原因として、(繰り返しになるが、オブジェクトとしての)建築家を、その能力の一覧で完全に記述することはけっしてできないという、より根源的な問題のためなのだろうか? 難しいことかもしれないが、建築家の権限の拡大のためにも、建築家それぞれの個性は、本質的で存在論的なレベルで認められるべきである。すべての創造者は唯一無二の存在であるからだ。

最後に、建築の持つ力に関して、建築のオブジェクトが持つ多様な意味性や、ひとつのオブジェクトに対する相矛盾するさまざまな解釈を、望ましくないものとしてや間違った解釈や勘違いとして考えてはならない。それらは、オブジェクトとの間での、不可解ではあるが、しかしリアルな相互作用なのである。なぜなら、オブジェクト同士の相互作用は、有限個の明示化された関係性に還元可能ではなく、つねに予測不可能で、不可解なものであるからである。また「意味」というものを、相互作用の結果としてオブジェクトが生み出すものであると考えると、その相互作用が適切か否かという点でその意味をを批評することはできなくなるだろう。奇妙で不可解なオブジェクト同士の相互作用を通したオブジェクトの意味の多様化は、個人的な読解や解釈を越えて、建築オブジェクトには神秘的な力が存在するという、大昔から存在してきた考え方を再提示している。

建築のオブジェクトの関係性のフィールドへの消失は、建築家の権限の毀損と建築の力の減退という事態を招き、結果的に建築は意図せずして自ら墓穴を掘ることになったように思われる。世界により積極的に関わりたいという切実な願望から、建築は自身が向き合っていた、実在するオブジェクトから奇しくも目をそらしてしまったのかもしれない。そして、そのオブジェクトには建築のオブジェクトも含まれていたのだ。
この新しい存在論が提示するものは一体何かということは、まだ完全に考察されていない。しかし少なくとも、建築のオブジェクトの重要性を再認識し、その奇妙さと不可解さについて考えてゆくための大きなきっかけであるのではないだろうか。


原註
★1──これについては、スタン・アレンによって生み出されたコンセプトである「フィールド・コンディション(Field condition)」が重要な役割を持っている。Stan Allen, Points + Lines, Diagrams and Projects for the City, Princeton Architectural Press, 1999, pp.92-103. を参照。
[訳註]当該記事の日本語訳は存在しないが、以下にほぼ同内容のエッセーの日本語訳が掲載されている。スタン・アレン「分散、組み合わせ、場 序論」(『a+u』1998年8月号、坂元伝訳、新建築社、3-11頁)。
★2──Sanford Kwinter, "Virtual City, or the Wiring and Waning of the World," in Assemblage, April, 1996, pp.86-101.
★3──レム・コールハースはしばしば最近の講演で、かつてのように建築家が『TIME』誌の表紙を飾るようなことがなくなってしまったことを苦々しく語っている。これが意味しているのは、より大きな権限と影響力を建築家が持つことができれば、より積極的に現代のさまざまな状況に介入できるということである。一方で、逆の考えこそが必要なのではないかと考えることもできる。なぜなら、大きな権限と影響力を建築家が持つべきだとする傾向はすでにあり、これを進めたところで建築家の受難は解決されるどころか悪化する一方のように思われるからである。
★4──建築にはつねになんらかのコンテクスチュアリズムが存在してきたことは明らかである。しかし、モダニズム以前の実践と、建築形態は外的な要素によって決定、制限されるという(例えば、斜線制限によって建築形態が決定するなど)モダニズム期に生まれた方法論は区別しておきたい。ただ、これはあくまでも一般的な傾向であって、多くの例外も存在している。
★5──過去20年にわたって、サンフォード・クィンターは現代のアーバニムと建築におけるモダニズムの遺産の記録と批評に多大な貢献をしてきた。彼の示唆的な理論は現代の建築家に大きな影響を与えている。Sanford Kwinter, Far from Equilibrium, Actar, 2008. を参照。
★6──ここで最も知られていて特記すべき例はピーター・アイゼンマンであろう。キャリアを通して、アイゼンマンは建築のディシプリンの自律性を主張してきた。
★7──Levi Bryant, Nick Srnicek and Graham Harman eds., The Speculative Turn: Continental Materialism and Realism, re.press, 2011.以下にpdf版が公開されている。http://www.re-press.org/book-files/OA_Version_Speculative_Turn_9780980668346.pdf ★8──Jeffrey Kipnis, "/Twisting the Separatrix/," in Assemblage, April, 1991, pp.30-61.(日本語訳は以下を参照。ジェフリー・キプニス「/区分線をねじる/(前編)」[川田潤訳『10+1』No.32、LIXIL出版、117-128頁]。「同(中編)」[川田潤訳、同No.33、172-184頁]。「同(後編)」[川田潤訳、同No.34、171-185頁])
★9──デトレフ・マーティンスは、モダニズム初期におけるあまり知られていない有機主義的な思想について詳細な考察を行なっている。Detlef Mertins, "Bioconstructivisms," in Machining Architecture, Lars Spuybroek ed., Thames & Hudson, 2004, pp. 360­369.を参照。
★10──これについて、一概には言い切れない。ティモシー・モートンらはエコクリティシズムの分野から、生態学理論の枠組みに対して積極的に異議を唱えている。21世紀において生態学理論は大きな変化を迎えるだろう。
★11──これの最も極端な例は、ジェイ・フォレスターによって1970年に作られたシステムダイナミクスのモデルである。これは彼がスイスのヴィンタートゥールに現在拠点を置いているローマクラブの会員であった時に作られ、単一の因果関係のシステムによって全世界を記述するという試みであった。このモデルは21世紀初頭における環境問題を予測していた。
★12──Daniel Botkin, Discordant Harmonies, Oxford University Press, 1990.
★13──Adam Curtis, All Watched Over by Machines of Loving Grace, part 2: The Use and Abuse of Vegetable Concepts, DVD, BBC, 2011.
★14──グレアム・ハーマンは「下方解体(undermining)」と「上方解体(overmining)」の思想の否定を通して、現在普及している存在論(関係主義と唯物論がここでは想定されている)への批評を展開している。Graham Harman, The Quadruple Object, Zero Books, 2011, pp.7-19. を参照。
[訳註]グレアム・ハーマンのオブジェクト指向存在論の成立は、2007年4月にロンドン大学のゴールドスミス・カレッジにて開催されたワークショップまで遡ることができる。「Speculative Realism」と題されたこのワークショップには、ハーマンに加え、レイ・ブラシエ、カンタン・メイヤスー、イアン・ハミルトン・グラントなどの哲学者が参加した。参加者それぞれの思想には細かな相違がみられるが、ワークショップのタイトルを借用して「思弁的実在論(Speculative Realism)」と総称されることになった。そのなかのハーマンによる思想がオブジェクト指向存在論である。
思弁的実在論に属する思想家たちの思想的立場は、それぞれ異なっており、対立もある。しかし「相関主義」に対して批判的であるという点で、一致しているとハーマンは述べている。この「相関主義」とは、メイヤスーによる語であり、カントの哲学における人間(主体)と物(オブジェクト、対象)との関係性についての考え方に由来している。
カントは、人間が物を認識するとき、それは人間が物を現象として認識しているのであって、「物自体」は認識不可能なものであると主張した。そして、人間にとって、あらゆる物、そして世界は人間の認識や経験の枠組みのなかの現象の総括であって、その枠組み、つまり現象的世界の外部を認識することはできないとした。メイヤスーは、カント以降の哲学において、人間と物との関係性の問題のみを扱うようになったと指摘し、そのような思想を相関主義と呼んだのである。
ハーマンは、相関主義に属し、オブジェクトの存在を蔑ろにしてきた考え方を大きく2つに分類し、自身のオブジェクト指向存在論を展開している。すなわち「下方解体(Undermining)」「上方解体(Overmining)」という2つのカテゴリであるが、これらの思想は、それぞれ異なる方法でオブジェクトの重要性を毀損しているとハーマンは主張する。
「下方解体」は、オブジェクトとは表層的なものであり、何らかのより基本的な要素によって構成されているという見方である。つまり、「下方解体」の考え方のもとでは、一見自律的に見えるオブジェクトは、実際のところ、より小さな部分の寄せ集めであるとされる。
一方「上方解体」は、オブジェクトとは精神内でしか存在しないものであり、さまざまな質とそれら同士の関係性が本質的であるという、いわば関係性主義的な考え方である。この考え方において、例えば、リンゴというオブジェクトは「赤い」「甘い」「冷たい」「硬い」「固体である」「味がする」などの個別の質の関係性の表象でしかなく、そのような関係性こそがオブジェクトそのものよりも本質的である。
余談であるが、ルイとハーマンはセント・ジョンズ・カレッジにて同級生であった。ルイの話によると、2010年に偶然読んだアラブの春についてのネット記事の執筆者がハーマン(当時ハーマンはアメリカン大学カイロ校の教授であった)であることに気づき連絡を取り、これをきっかけにお互いの近況を共有するなかでハーマンのオブジェクト指向存在論を知ったという。
★15──同書、pp.12-13.
★16──Timothy Morton, Ecology without Nature, Harvard University Press, 2007.


翻訳=平野利樹


Title: "Returning to (Strange) Objects," 2013.
Author: David Ruy
© David Ruy



デイヴィッド・ルイ(David Ruy)
建築家、建築理論家。2016年よりSCI-Arc(南カルフォルニア建築大学)大学院教育課程プログラムチェア。Ruy Klein主宰。セント・ジョンズ・カレッジにて、哲学と数学の学士号を取得後、コロンビア大学大学院修士課程(建築学)修了。http://www.ruyklein.com

平野利樹(ひらの・としき)
1985年生まれ。2009年京都大学建築学科卒業。2012年プリンストン大学大学院建築学科修士課程修了後、Reiser + Umemoto RUR DPC勤務。2016年東京大学大学院建築学専攻博士課程修了。Toshiki Hirano Design主宰。Japanese Junctionディレクター。http://toshiki-hirano.com


201612

特集 建築とオブジェクト


「切断」の哲学と建築──非ファルス的膨らみ/階層性と他者/多次元的近傍性
即物性への転回とその規則
(奇妙で不可解な)オブジェクトへの回帰
銃を与えたまえ、すべての建物を動かしてみせよう──アクターネットワーク論から眺める建築
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