即物性への転回とその規則

日埜直彦(建築家)
つまるところ建築とは、地表面の改変にすぎない。

サンティアゴ・デ・コンポステーラの古い街並を歩いていたときに、そんなことを聞いて深く感じ入った記憶がある。イベリア半島の西の端、古くから聖地巡礼者が押し寄せた道の終着点だ。人の波は長い年月を経て硬い花崗岩の舗装をすっかり摩滅させ、かつてごつごつしていたはずの道がスベスベとした艶さえ見せていた。沿道の建物もまた花崗岩を積み上げて築かれ、すこし浅黒い石肌は堅固で厳しい表情を見せている。あたかも街全体が花崗岩でできているかのようだった。花崗岩は建築に使われる石材としては最も硬く、ちょっとした加工にも手こずる。彫刻もほとんどないままざっくりと仕上げられた石塊が無表情にひたすら積み上げられている。現代建築に用いられるようなペラペラの石ではないから、その石一つひとつがとても重く、石切り場から運ぶことすら容易ではなかったろう。それでも貧しいガリシアの地ではそこで得られる建材で建物を建てるしかなかった。硬い山肌を割り、岩を刻み、重い石を運んで積み上げて、ようやく人の棲家が作られる。地表面の改変、とは比喩ではなく、まさしく想像を絶する労苦により地表面を改変し、生きる空間を確保する営みとして建築が作られている。

しかしよく考えてみれば、ガリシア地方だけがそうなのではない。そもそも石、レンガ、木材から、鉄、コンクリート、ガラスに至るまで、建築の素材はすべて地表面に由来する。石を切り出す、粘土を焼く、木を刻む、といったプリミティブな素材から、鉄鉱石を焼いて鉄を精錬し、石灰岩を焼いてセメントを焼成し、砂をソーダとともに溶融してガラスを得るといった工業的な素材まで、建築の素材はすべて地表面の加工の産物だ。なにをあたりまえのことを、と言うなかれ。建築を作る人間の営みは地球の地表面の物質的様相によって例外なく厳然と規定され、また支えられているのだ。ガリシアほど材料に制約された土地ばかりではないし、近代以降ほとんどの建材ははるか遠隔地から運ばれてくるようになった。しかし結局はどうあれ、この地表面に稀な素材で建築を作ることはできないのだ。この条件は厳密に即物的なもの、あるいはむしろ唯物論的なもの、である。建築は地表面の改変によってできており、ある意味では地表面の延長ですらある★1

地表面の物質的様相とは、地形であり、地質である。建築の集積である都市が建築と同じ意味で地表面の改変であることは当然だが、都市は少し違う意味でも地形、地質に直接影響されて形成されてきた。地形、地質はその生態系を規定し、人間の土地利用を規定する。土地利用のために地表面の物質的様相は改変され、それが都市化の下敷きとなる。人間的な制度が土地を区画し、道を整備する。建造物環境=ビルト・エンバイロメントは人工的な地形であり、今では自然の地形と人工的な地形は一体化し見分けがつかない。雨水による土地の浸食は土木的に抑制され、河川の流れは上水道と下水道を迂回するようになり、かつてはありえなかった植生が灌水などによって生育し、高層ビルによって微気候すら生じる。われわれが漠然と土地と呼んでいるのは実体的にはそのような自然と人工の混合物なのだ。結局、都市もまた地表面だということになるだろう★2

とはいえ、ごく普通の意味では地表面を作ったのは人間ではない。花崗岩は地中深くでマグマがゆっくりと冷えたときに形成され、それが地表面に露頭して石材となった。レンガを作る粘土は水循環のなかで岩石が風化し流下、沈殿して堆積したものだ。鉄は鉄鉱石から得られるが、鉄鉱石はおよそ20億年前、当時海中に豊富に存在していた鉄イオンが最初の光合成生物、シアノバクテリアによって急速に豊富になった酸素と結合し、酸化鉄が沈殿堆積して形成されたという★3。コンクリートの材料となる石灰岩が石灰質を骨格とするプランクトンや貝類等の動物の死骸が堆積してできたことは周知のことだろう。つまり、万事がこうであり、地表面は、地質、気候、さまざまな生物種を含んだ生態系など、先行するさまざまな要因が相互作用する地球史的なプロセスによって形成された。人間はその途方もないプロセスの連なりの末端でようやく登場したにすぎない。人間は自らに適したニッチを地表面になんとか見出し、それを少しずつ押し広げ、生存が困難な場所にまで拡散して、ついに地球上をビルト・エンバイロメントで覆いつくした。人間の与り知らぬところで地表面は形成され、人間はその即物的な条件に一方的に規定されつつそれを改変することで建築を築き、自らの生活圏を作り出したのだ。

リノベーション、コンテクスチュアリズム、即物性

ところで近年の建築の動向のなかで大きくクローズアップされてきたテーマとして、リノベーションとある種のコンテクスチュアリズムがある。リノベーションについては、特に説明は要らないだろう。既存の建物を改修し、新たなプログラムに向けた空間を再構成することだ。他方、ここでコンテクスチュアリズムという言葉が意図しているのは、単体で完結してしまう建築の視野を広げて、周辺環境との応答関係に意識を向け、そこでのローカルなポテンシャルを引き出そうとする試みのことだ。例えば住宅地のマイクロ・ランドスケープへの関心などは広く共有された着眼点だろう★4。前者は既存の建物を一種の素材として扱う。それを改変することで新たに空間が形成される。近代的な建設プロセスにおいては、図面に指定された建材が工場から現場に持ち込まれ、いわば出自を問われぬの素材として建築は組み立てられる。だがリノベーションにおける既存の建物はそうした意味ではではない。意味と時間にまみれ、不自由さと可能性を潜在させた、異物としてすでにそこにある即物的対象だ。多かれ少なかれ得体の知れない素材だが、うまく使いこなせばそこに重層的で複雑な空間が生まれる。コンテクスチュアリズムにおいては、周囲の都市組織が、リノベーションの場合と同じ意味で異物としてすでにそこにある即物的対象となっている。都市組織が形成してきた物的文脈に呼応し、そのポテンシャルを引き出すことができれば、建築単体の視野では見えてこない集合的可能性を実体化できる。その場所固有の可能性を建築が引き受けることによって生まれる建築の質の意味について、まだまだ考えうることは多いだろう。

リノベーションにおいても、コンテクスチュアリズムにおいても、建築とは地表面の改変である、という規定は意味深いものとなる。そこでは既存建物と周囲の都市組織は、いわばその場にある素材として事実上、地表面のように扱われる。そして実際、建築が地表面の改変だとするならば、既存建物は地表面なのであり、周囲の都市組織もまた地表面なのだ。近代以降の建設プロセスにおいて、その素材は地表面から一旦引き剥がされて漂白されていたが、この2つの現代的な営みにおいて素材はそうしたものではない。ちょうど土地が漂白されえない固有の文脈であるのと同じように、厳然とそこに存在し、取り替え不可能な即物的条件として現われる。図面に書けば現場にこつ然と出現する建材とその点で根本的に違うのだ。敏感な設計者であればこの違いに立ち止まらずにはいられない。形式的に置き換え可能な素材と、そうではない素材があり、形式的に置き換え可能な素材を配列構成することなら慣れたものだが、どうにも動かしがたい異物である既存の諸々には形式に代入することのできない過剰性があるからだ。

一般的に言って、建築論は長いあいだ形式論を中核としていた。オーダー、プロポーション、幾何学、構造形式、ビルディング・タイプなどなど。もちろんそれぞれにさまざまな実体的な側面を持っているのだが、それでもそれらを統べる技術としてarchi-tectureがあり、それはつまるところ形式だった。その洗練の極みとして、あるいは爛熟として、20世紀後半の例えばコーリン・ロウの建築論があった。だがポストモダニズムの衰退とともに、20世紀末に建築は形式からある種の即物性へと舵を切ったと言えるのではないか。例えばフォールディングは、結局さまざまな形に折り曲げられたスラブによって形成される空間の手法であり、特定の曲率とスケールを持ったその具体的な形態とストレートなマテリアリティの表現をもって、旧来の形式では捉えきれない3次元の空間を戦略的に組み立てた★5。使い古されたスタイルのオルタナティブを求める「スペクタクルの社会」と空間の編制における旧弊を打破しようとする政治的・文化的野心、それに応える大胆なヴォリュームの操作とそれを結びつける形態の実験。そこにそれを支える設計と施工の技術、素材の高機能化とオーダーメイド化が伴った。こうした建築を生む現実的な条件が整った時、一気に野心的なデザインが展開し始めたのは誰もが目にしているとおりである。

リノベーション、コンテクスチュアリズム、そして即物的可能性へ向かう現代建築の実験、ここには通底するものがある。かつて建築は積極的に個別具体の事物の即物性から自律する、建築的形式を組み立てることを指向していた。しかし近年のこれらの動向は、結局われわれが多かれ少なかれその指向を離れ、形式化しえない建築の可能性へと向かっていることを示唆しているのではないか。形式化しえない生々しい素材、形式化しえない固有の環境、形式化しえないスペシフィックなカタチ、そしてそれらの即物性を使いこなすこと。その即物性の根底を掘り下げていった果てで、建築とは地表面の改変なのだという突き放した事実とわれわれは邂逅する。素材は即物的=地表面的であり、環境は即物的=地表面的であり、空間は即物的=地表面的である。ただのマテリアルとしての地表面を改変し、ただのマテリアルとしての建築へと変成すること。形式の統制的効果に依存せず、ただの現実の物的様相の絡まりあいのなかで、その潜在的可能性を使い尽くすこと。イデオロジカルな問題の外側にあるマテリアリスティックな問題の規定力をあらためて位置づける視野を開くこと。これである。

OOOの議論との同時代性

OOO(Object-oriented ontology/オブジェクト指向存在論)の議論についてここで紹介するのは本論の任ではない。本論と同時に公開されているシンポジウムの記録にある千葉雅也氏による発表を参照してもらうのがよいだろう。ここで見たいのは、ただここまで述べてきた建築の状況とのある種の同時代性だ。

ここで意識されているのは実際のところ「オブジェクト指向存在論」にかぎらず、「思弁的実在論」とか、あるいは「新しい唯物論」とかいった名前で呼ばれる、それぞれにかなり違った目論見をもった一群の議論のことだが、それらは総じて、カント以来の哲学における認識論的枠組みから離れ、あらためて存在論的枠組みを再構築する、深く思想史に根ざした議論だと言ってよいだろう。哲学とはつねにそうして問題を組み立て直す営みであるのだが、とりわけこれらの議論は思想史をその文脈としている。したがって思想史を踏まえずこれらの議論に接すると、しばしば個々の論点の必然性はきわめてわかりにくいものとなる。

それらの論点を脇に置き、あえて概略的に言うならば、OOOの議論の目指すところは、彼らが「相関主義」と呼ぶところのカント以降の哲学が前提としてきたアプローチの外側に踏み出すことである。カントは、対象であるところの「もの自体」そのものを把握することは本質的に不可能だが、それが人間の知覚に現われた像、つまり現象においては把握できるし、逆に対象についてはそれが超越的存在者としての人間との「相関」をもつ限りにおいてのみ把握できると考えた。現象学からいわゆるフランス現代思想に至るまで20世紀の哲学・思想もまたこうした前提を受けて総じて認識論上の議論を展開した。それ自体が間違っているわけでは必ずしもないが、思考の領域が狭く限定されているのは事実だ。OOOの議論はこの人間中心主義を越えていかに思考が可能かを問い、他なるものとしてのオブジェクトの概念を再構築しながら、あらためて存在論へと向かおうとしている。人間を思考の特権的な位置から引きずり下ろし、あらゆるオブジェクトをフラットに扱うこと。しかし単に素朴な実在論のドグマに陥ることなく、あくまで概念と理論を作り上げ研ぎすますことによってそうする思想の挑戦、とここではOOOをイメージしておくことにしよう。

そうしてみれば、20世紀建築論の精華としてのコーリン・ロウもまたカントに多くを負っていた。そもそもカントの悟性と図式の構図抜きにロウの建築の形式の議論はまったくありえない。例えばコーリン・ロウの有名な「実の透明性」と「虚の透明性」の議論は、粗く言うなら、見たり計ったりすることのできる実在する空間と、悟性が図式によって把握する空間のズレにほかならない。したがっていわばロウもまた「相関主義」によっており、超越論的主体としての人間との「相関」における、そしてその限りでの建築を終始議論していたことになる。

20世紀の建築がある種の爛熟を遂げていたとするなら、20世紀の哲学・思想もまたそうであって、世紀の変わり目と相前後して、オブジェクトの即自性、客体性への注目が起こり、また建築の即物的な成り立ちへの関心が高まったのは、同時代的現象というほかないだろう。建築において近年、OOOへの関心が高まり、それが提示するヴィジョンに漠然とした期待感が抱かれているとすれば、その根底にあるものはこのシンクロナイゼーションではないだろうか★6

即物性に対する2つの視線の交錯と隔たり

OOOとここでひとくくりしたムーブメントの広がりのなかで、地球、地質、地層といったメタファーが多用されるようになっていることは、興味深いことだ。地質学から提起されている人間の登場以降の変化を括る時代概念「人新世(Anthropocene/アントロポセン)」に対して、ブルーノ・ラトゥールは「新たな気候体制」を提唱し、カンタン・メイヤスーは人間中心主義的な世界観を逸脱する視点としての人間以前の世界を想起してそれを「祖先以前的」と言う。例えばそんなOOO周辺の着想を横目に見ながら、本論冒頭の、「つまるところ建築とは、地表面の改変にすぎない」という言葉を思い出した。こうした連想に本質的にどこまで意味があるのか、建築の側から一方的に眺めている限りでは本当のところはわからない。先述したような同時代的な背景の同期が建築の側からの視線だとするなら、逆に哲学・思想の側から見れば、哲学・思想の則を敢えて越え、特に建築ということでないとしても一般に科学が押し広げてきた世界への視野と並走するクリティカルな試みへと、踏み出す必然があったようにも思える。アートの文脈、メディア論の文脈等における、OOOへの関心の高まりの背景にも同じような構図を描くことができるだろうが、いずれにせよ現代建築とOOOの背景には共通点があり、それぞれの挑戦はあちらこちらで交錯さえしているように見える。だがここでさらにそれぞれの挑戦の具体へと迫ってみると、すこし様相は違ってくるはずだ。おそらくそれぞれの探求はその重なりから離れていくのではないだろうか。

建築におけるオブジェクト、素材、部材、リソースといったものの捉え方は、思想史的に見れば典型的に素朴実在論的である。だが思想史的文脈における尺度で建築の文脈上の認識を測ることが筋違いであって、OOOの代表的な思想家グレアム・ハーマン流に「建築の部分は他の部分との関係から引きこもっている」などと言ってみても話は始まらない。建築におけるモノの認識は素朴で理論的にもっと精緻にしうる、ということが問題なのではないく、むしろ逆に、モノを形式的=悟性的に扱うことしかできないということを建築の本性的条件として考えるべきなのだ。ハーマンが好んで用いる比喩を使うならば、焔が綿布を燃やすとき、焔は綿布の諸属性のほんの一部と出会っているにすぎない。それとちょうど同じように、汲み尽くせぬオブジェクトの諸属性のほんの一部を建築はブリコラージュするにすぎない。例えば地表面の改変によって生まれた新たな地表面としての建築の諸部分は、元の地表面に由来する諸属性を潜在させているが、しかし建築を構成するときにはそれがいわば括弧にくくられるように。リノベーションの現場でも、すでにそこにある素材は異物として、特有の深さと声を潜在させている。OOOの開いたざわめくオブジェクトの場のヴィジョンがそこで目指すべき方向のイメージを喚起するのも自然なことではあるのだが、重層的な深みを持った事物をそのまま建築として組み立てることは言うほど容易くはない。

むしろ建築において重要な問いとなるのは、それぞれが異物である諸々のモノが組み合わされてひとつの建築になる・・、という「謎」の周辺にある。謎、と言うと大げさだが、即物的に、経験的に、問題なくそういうことが可能であるにもかかわらず、それを経験論的にではなく、その本質的な意味をきちんと規定しようとすると難しいのだ。いやもっと単純に、例えばある素材とある素材が隣接すること、ある素材とある素材を混ぜること、ある素材がある素材を支えること、こうしたことはそもそもいったいどういうことなのか。そしてまた、そうして組み合わされた素材が、素材それぞれとは異なる固有の質を持つということはどういうことなのか。とどのつまり、さまざまな素材を組み合わせて建築が一個の全体をなすということはどういうことなのだろうか。こんなにも基本的なことがすでに定かでない。OOOの文脈ではマルティン・ハイデガーのよく知られたハンマーの喩えがしばしば用いられる。ハンマーは壊れて道具として機能しなくなったときにこそ、そのモノとしてのリアリティを露呈するというはなしだが、そもそも建築の日常のなかでモノを組み合わせるときにやりすごされているこれらの謎も、おそらくよく似た問題なのだろう。そうした謎のすべてが、とりあえずの「即物的」の一語に委ねられている。

こうした原理的な、でもどこか青臭い問いに対して、古典的な建築の形式論は、建築の全体像としてある種のハイアラキカルな形式を仮構し、その一定の自律性をもった形式によって全体と部分の調停と統制がなされる、と考えてきた。この「形而上から形而下へ」という古典的なレトリックの外へとわれわれが向かうとすれば、そこで問われなければならないのは、そのような古典的な建築論のレトリックに代わる、モノをアセンブルすることの内的基準と規則性である。つまり、そうしたアセンブルが可能だとして、どのような分節、文法、統辞法によって具体的にその可能性へとアプローチできるか。そこに原理に裏打ちされた絶対確実な手法があるとは期待できないにしても、せめて手がかりとなり方向性を与えるようなヒューリスティックなアプローチは実践において必要になる。すでにあるさまざまな事例から、古典的な形式性を離れ即物性へと接近するこうしたアプローチに、特有の興味深いポテンシャルがあることは広く直感されている。であればただひたすらセンスに任せてあれやこれやの取り合わせをしてみること以上の実践的アプローチを見出すことが可能であるはずだ。多くの模索と実験と検証が必要だろう。その果てに、諸々の部分が全体に手なずけられることなく、ちょうど世界そのものがそうであるように、即物的アッサンブラージュのような建築がそのまま一個の全体としていつか現われるだろうか。こうした建築の野性的な可能性を踏査するための、いわば杖が必要なのだ★7

こうした建築特有の関心は、OOOの挑戦と重なるものではないだろう。哲学のオブジェクトに対する解像度と、建築のモノとその編制に対する解像度が、根本的に異なることになにも不思議なことはない。哲学が建築になにかを教えてくれるわけでもなく、ただ互いの視線が絡まりつつ、われわれはそれぞれにクリティカルな辺境に対面しているというだけのことだ。だがそれでも、そこに議論の交差と互いの交換があるだけでも幸運なことに違いない★8。かつてのポストモダニズムのブームにおける哲学と建築の交差とはずいぶん違った生産的なものになる可能性はある。そこであったような性急でリテラルな直喩に向かえば結果はろくでもないことになるはずだ。さまざまな状況は建築の古典的形式論の外側に向かうことをわれわれに強いているように見える。すでにわれわれは荒野にいるのであって、いまさら後戻りはできないのだ。



★1──中谷礼仁の『科学』(岩波書店)での連載、「動く大地に住まう」にはこの点に関連するより掘り下げた考察がある。
★2──この論点は石川初との対談「総合地上学へ向けて──ランドスケール、キャラクター、生態学的視点からのアプローチへ」(「10+1 web site」2015年8月号)の延長線上にある。
★3──ピーター・ウォード+ジョゼフ・カーシュヴィンク『生物はなぜ誕生したのか──生命の起源と進化の最新科学』(梶山あゆみ訳、河出書房新社、2016)
★4──例えば『JA』94「特集=Learning from the Neighborhood 住宅地から学ぶこと」(新建築、2014)参照。
★5──フォールディングがしばしば地形をリファレンスとしてきたのは偶然ではないように思われる。例えばBernard Cacheの『Earth Moves: The Furnishing of Territories』(The MIT Press、1995)をこの線上で読み返すことも可能だろう。
★6──本論で傾向的に輪郭付けた現代的な動向よりも、より積極的かつ直接にOOOの思想を援用した議論を展開している建築家たちのことについては本論では特に触れないが、そうした議論についてはデヴィッド・ルイの論考「(奇妙で不可解な)オブジェクトへの回帰」(平野利樹訳)が同時に本特集に掲載されているのでそちらを参照のこと。
★7──実際のところ、まったく見当たらないというわけではない。例えばOMAを中心としてさまざまな形態編制のコンセプトがあった。本論で取り上げた「フォールディング」もその例になるだろうし、「スタッキング」とか「ヴォイドの戦略」とかいったものもそうだろう。あるいは千葉雅也の「フレーミングとオブジェクト」(長坂常『B面がA面にかわるとき[増補版]』鹿島出版会、2016)が抽出した「フレーム」もまたそういうものとして理解できる。
★8──グレアム・ハーマン「代替因果について」(岡本源太訳、『現代思想』2014年1月号、青土社)は、哲学の議論としてはやや拙速な印象もあるが、さまざまな種がちりばめられた触発的論考である。本論から関心を持った読者にお勧めするとすればこれだろう。


日埜直彦(ひの・なおひこ)
1971年生。建築家。日埜建築設計事務所主宰。芝浦工業大学非常勤講師、作品=《ギャラリー小柳ビューイングルーム》《F.I.L.》《ヨコハマトリエンナーレ2014会場構成》ほか。共著=『白熱講義──これからの日本に都市計画は必要ですか』(学芸出版社、2014)、『磯崎新インタヴューズ』(LIXIL出版、2014)など。「Struggling Cities」展企画監修。


201612

特集 建築とオブジェクト


「切断」の哲学と建築──非ファルス的膨らみ/階層性と他者/多次元的近傍性
即物性への転回とその規則
(奇妙で不可解な)オブジェクトへの回帰
銃を与えたまえ、すべての建物を動かしてみせよう──アクターネットワーク論から眺める建築
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