「切断」の哲学と建築
──非ファルス的膨らみ/階層性と他者/多次元的近傍性

千葉雅也(哲学者)+平田晃久(建築家)+門脇耕三(建築家)+コメンテーター:松田達(建築家)+モデレーター:平野利樹(東京大学大学院隈研吾研究室)

ディスカッション


平野──まず3人のプレゼンテーションについて、コメンテーターの松田達さんからの感想を足がかりにして議論を進めていきましょう。

松田達氏
松田達──大変に刺激的なプレゼンテーションでした。想像以上に情報量が多かったため、建築と哲学との近年の関係も含めてざっくりと整理をしつつ、お三方へのコメントをしたいと思います。
平野さんから今日のテーマを提示いただいたとき、久しぶりに建築と哲学が交差する、ハードコアな議題だと感じました。今回のイベントは企画段階から関わっており、果たして様々な固有名詞すら聞いたことが少ないであろう現在の学生らにどれくらい関心を持ってもらえるかと多少心配しながら今日を迎えたのですが、平野さんの尽力もあり、このように多くの方にご来場いただきました。いま建築に新たな議論が求められていることの証左だと感じています。
1990年代には磯崎新、ピーター・アイゼンマンらによって企画された建築と哲学をめぐる国際会議、ANY会議が毎年開催されるなど、建築家と哲学者が議論する場がありましたが、近年そうした動きはめっきり少なくなっていたからです。アメリカでは、ANY会議を編集長として取りまとめたシンシア・デヴィッドソンが、2003年からそれを引き継ぐかたちで建築・都市理論誌の『Log』を刊行していますが、日本ではこのような流れはほぼ途絶えていたといっていいと思います。

今日の議論の焦点のひとつは、フランス現代思想の哲学者ジル・ドゥルーズ「以降」の哲学が建築に与える影響についてかと思います。思い返せば、80年代末から90年代前半にはジャック・デリダによる脱構築(デコンストラクション)の哲学が建築にどう影響するかがさかんに議論されていました。90年代後半にはドゥルーズの哲学に関心が移り、建築におけるコンピューテーショナル・デザインの議論にも合流していきました。2000年代からは哲学と絡む建築の話は少なくなり、形而下のモノのレベルに落とし込まれた議論が中心的になってきたように思います。
その後、2000年代後半には、哲学分野で思弁的実在論やオブジェクト指向存在論といった新しい思潮が生まれ、ここ数年ほどのあいだにWeb上でも展開され、広く知られるようになりました。この思弁的実在論やオブジェクト指向存在論を建築の分野で最初に取り上げたと思われるのが、先ほど千葉さんが言及されていたデイヴィッド・ルイの2012年の論考です。その後、現在に至る4年のあいだに、アメリカではオブジェクト指向存在論や思弁的実在論を主題にした建築的議論やプロジェクトが見られるようになりました。
建築分野ではまだ始まったばかりの試みですが、一方メディア・アートの分野では、それに類する作品も生まれています。例えばMITメディア・ラボの長谷川愛は、人間が水中でイルカを生む映像《I Wanna Deliver a Dolphin...(私はイルカを生みたい...)》(2011-13)という作品を発表しています[fig.18]。人間が代理母となって絶滅危惧種であるイルカを出産するという主旨の映像で、荒唐無稽と思われることでも、思弁(speculation)を重ねていくとある種の合理性を獲得していくことが映像から窺えます。アートのこうした試みは「スペキュラティブ・デザイン」と呼ばれ、普通の思考方法では思いつかない考えを思弁によって解き明かすことを特徴とし、思弁的実在論の展開のひとつだと言われています。

fig.18──長谷川愛《I Wanna Deliver a Dolphin...(私はイルカを生みたい...)》(2011-13)

では、このような新しい「切断の」哲学が、建築に対してどのような影響をもたらすだろうかということを考えるのが、今回のシンポジウムの核心部分になってくるだろうと思います。

さて、議論のきっかけとして、まず私から3人へお聞きしたいことを挙げたいと思います。

fig.20──『有限性の後で』
今日の千葉さんのプレゼンテーションの中心になっていた議論は、オブジェクト指向存在論をベースとされています。この議論の代表的な哲学者グレアム・ハーマンは、現在アメリカを中心に活動していて、2016年の秋から南カリフォルニア建築工科大学(SCI-Arc)の教授に着任しました。一方、双璧を成す哲学の流れとして思弁的実在論があります。千葉さんは、その中心にいるカンタン・メイヤスーというフランスの哲学者の主著『有限性の後で──偶然性の必然性についての試論』(千葉雅也+大橋完太郎+星野太訳、人文書院、2016)を翻訳されています。私は、今日メイヤスーの議論も出てくるだろうと予想していたのですが、今日特に出てこなかったのは何か理由があるのでしょうか。また、思弁的実在論と建築とのつながりが見出だせるとすれば、どのような点にあるとお考えか、お聞きしたいと思います。

その後にお話しいただいた門脇さんのプレゼンテーションは、千葉さんと近接する関心を違う角度に展開する議論だったと思います。千葉さんは「ファルス」「非ファルス」という語を用いて単一性/全体性の話をされましたが、門脇さんのお話もエレメントと全体性についてだったと言えると思います。つまり、お二人の議論には、「単一性 vs. 全体性」あるいは「個 vs. 全体」というテーマが通底していたように感じます。千葉さんのおっしゃる「非ファルス的に、切断的に一個である」という第3の道に関しては、非常に難しくもさまざまな可能性を秘めた段階にあると思います。この第3の道と門脇さんの考えがどのように交差していくのか、お話しいただきたいと思います。

平田さんのプレゼンテーションの初めにありましたように、日米でコンピューテーショナル・デザインが導入された頃は、アルゴリズムの設定によって無限に続けられる設計をどこでフリーズし完成とすべきかが盛んに議論されました。しかし、今回テーマとなっている「切断」はそうした過去の切断の議論とは違います。そこで平田さんが提示されたのが「他者による切断」でした。ただ、ハーマンはこれまでの哲学が人間中心主義的であったことを批判しています。人間中心主義からいかに逃れるかという問いが今回の講演会の議論あるいは千葉さんのお話のバックグラウンドにあるとすると、平田さんの議論と具体的にどのように関連していくか、お聞きしてみたいと思いました。

無関係性と有限性

千葉──ありがとうございます。いきなりメイヤスーの話をしてもなかなか通じないかと思いますので、少しだけ文脈を補います。建築の世界では「デリダのデコンストラクションからドゥルーズの流動へ」という流れがあった、と。現代思想では、90年代にデリダの思想が流行しました。高橋哲哉さんの戦後責任論などの倫理的な文脈も、東浩紀さんの情報社会論への展開も、デリダ解釈から出ている。その後、2000年代にドゥルーズへの再注目が起きてくる。遡れば80年代のニューアカの時代にはドゥルーズが流行りましたが、それから90年代にデリダになって、そしてまたドゥルーズへという流れになります。
ドゥルーズと同時代の哲学者には、ジャック・デリダ、ミシェル・フーコー、ジャン=フランソワ・リオタールらがいて、彼らの思想を「ポスト構造主義」と呼びます。しかしこのフランス現代思想の黄金時代は、2004年のデリダの死によって一度終わりを迎えることになります。僕は、デリダ以後の、2000年代後半からのフランス現代思想の状況を「ポスト・ポスト構造主義」と呼んでいます。ポスト・ポスト構造主義を担うスターとしては、メイヤスーもそうですが、デリダの直弟子であるカトリーヌ・マラブーがいます。彼女は「可塑性(Plasticité)」という概念を打ち出しました。またポスト構造主義の生き残りとしてアラン・バディウの再評価も最近進んでいます。彼らはこれまでのフランス現代思想の文脈とつながっていますが、大きく「非人間の哲学」というふうに括れるのではないかと思っています。そして僕としては、かつては関係性の議論が強くありましたが、ポスト・ポスト構造主義では、むしろ「無関係」が問題にされていると考えています。
思弁的実在論の発端は、フランスではなくイギリスのゴールド・スミス・カレッジで行なわれた「思弁的実在論」と題するシンポジウムでした。ハーマン、メイヤスー、思弁的実在論の名付け親レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラントというシェリング研究を専門とする哲学者、この4人が思弁的実在論の中心的人物です。つまり、思弁的実在論はフランス直系のポスト・ポスト構造主義ではないのですが、フランス近辺で起きている重要な運動として挙げることができます。
しかし思弁的実在論の議論のなかでもメイヤスーとハーマンの方向性は異なります。メイヤスーの考えは数理的還元主義であり、科学哲学に基づいています。彼の考えるこの世界の構造は、数理的な次元、つまり人間の自然言語を介さない次元で、一義的に記述可能な実在として存在しています。そしてこの世界の数学的構造に究極の根拠はないと考えます。というのは、この世界がある公理系でできているとすれば、その公理を合理化する根拠はないからです。その公理はまったくの無から発生したとメイヤスーは主張します。存在することに根拠がないのであれば、あり続ける根拠もない。だから明日、突然数学的構造がまったく別のものに変わることは十分にありえるのです。しかし逆に言えば、別のものに変わる根拠もないので、今と変わらずにずっとこのままあり続ける可能性もある。メイヤスーの議論はこのような考え方に基づいています。

少し前の『週刊読書人』(2016年7月8日号)に掲載された鼎談(千葉雅也+大橋完太郎+星野太「『ポスト構造主義』以後の現代思想」)でも議論しましたが、人間によるさまざまな解釈を超えた数理的実在、その人間に対する疎遠さをことさらに前景化させるタイプの作品表現は、いかにもメイヤスーらしいものとして考えられると思います。たとえば、囲碁の対局で人間を破ったAIソフトウェア「AlphaGo」などは、かなりメイヤスー的なものです。つまり、人間が推論する際に足かせになってしまっている自然言語を介さず、純粋に数理的推論を行なえるAIは、メイヤスーの考える数理的実在の表われであると解釈できる。
しかし建築のジャンルで、人間にはアプローチできない数学的な実在を「崇高なもの」「超知性」として表現した作品が現われたとして、はたしてそれは面白いものでしょうか? 建築を含めたアートへの応用としての可能性はあると思うのですが、今日はそういうことは話題に上げませんでした。どちらかというと私はもともとフェティシズムの問題をどう考え直すかという点に関心があり、ハーマンの議論はその点から捉えられる。しかし、あえて今日の議論とのつながりを見出すとするならば、「有限性」でしょうか。私は先ほどのプレゼンテーションで、「無限にポテンシャルを秘めるファルス」ではなく、「有限に仮固定される非ファルス的もっこり」ということを言いました。メイヤスーの考えるこの世界のシステムは、別様な世界に変わる「ポテンシャル」をもっていません。もし別の世界があるとすれば、この世界が消えて「突然」別の世界に変わる。ここがドゥルーズの議論と違うところで、ドゥルーズの考える世界は、何か別様な世界に変わりうるための「ヴァーチュアル(潜在的)」なものが絶えず満ち満ちている状態にあると解釈できます。これは私の解釈ですが、メイヤスーの考える世界はヴァーチュアリティを欠いています。たまたま、何の根拠もなく成立した純粋アクチュアルな世界があって、それが突然まったく別の純粋アクチュアルな世界に変わる可能性があるのです。世界はいくらでも別様になりうるという無限の可能性、その溢れをメイヤスーはハイパーカオスと呼ぶのですが、それを想定するにしても、それによって生じたこの世界自体はまったく有限的なものである、つまり、ハイパーカオスがこの世界に潜在しているわけではないのであり、その意味で、無根拠であり変化可能な世界とは非ファルス的もっこりである、と言えるでしょう。
私の考えている有限なものから別の有限なものへの切り替わりは、門脇さんが考えているエレメントとエレメントが作る近傍性という問題と関係してくるのだと思います。それは言い換えれば、メイヤスーの、世界の構造が突然別の構造に変化するという「切断」の巨大なスケールの問題と、オブジェクトとオブジェクトの隣接関係において有限性が「切断」されているという世界内スケールの問題との関係に対応する、と言えるのではないでしょうか。

門脇──思弁的実在論とオブジェクト指向存在論は一緒に語られることが多い思想ですが、私の理解では、思弁的実在論は崇高なものを仮定するので、一神教的です。一方、オブジェクト指向存在論は汎神論、多神論的なので、根本的に違う議論なのではないでしょうか。そして、建築に限らず現代世界を映しているのはオブジェクト指向存在論のほうであるように思っています。
例えばこのシンポジウムのはじめに、平野さんがグローバリズムやインターネットの話をされました。この2つもオブジェクト指向存在論の展開と双子の関係にあります。たとえばGoogleのような国境を跨ぐ巨大企業を渡り歩き、活躍する人のことをグローバル・マッチョ、ハイパー・ノマドなどと称します。こうしたグローバルな生き方が一般化するのと同時に、地元に引き籠る若者の存在も社会的に問われだしました。つまり世界の流動化と世界からの引き籠りは、対の社会現象として今まさに起きている。流動化を象徴する技術であるインターネットが一般化したばかりの頃は、すべての人が平等になる民主的なツールができたと思っていましたが、この20年インターネットを使ってわかったことは、世界にはさまざまな考え方をする人がいて、互いにわかりあえなくても、つまり切断的な状況にあっても、なんとか共に生きていかなければならないということでした。オブジェクト指向存在論は、こうした社会の状況と馴染みがいいのだと思います。

下北沢駅、その例外性のなさ

門脇──松田さんから私への質問は、「第3の道」をいかに考えるかでした。千葉さんがおっしゃった「第3の道」とは、純粋な言語論的展開から導かれたものです。ファルス/非ファルスという対立項から逃れうる概念を定義するためには、「『他からくっきり区別されている』という差異性を、例外性としてではなく認める」ことだというお話でした。私たちはそこに、ついつい具体的なイメージを与えようとしてしまいますが、まずは「その心」をお聞きしたいと思います。そもそもこれはどういった状況で召喚されるべき概念なのでしょうか?

千葉──もしかすると「四角い丸」のようなことを言っているのかもしれませんが、ある種の言語的構築としてその可能性を導き出してみたわけです。

門脇──なるほど。とすれば、先ほどの自分の発言を撤回して、具体的なイメージを考えていったほうがいいのかもしれません。

千葉──ええ、今日の議論は具体的なイメージをつないでいってよいと思っています。原理の帰結であるイメージを膨らませていくことで、原理の書き換えが起こるかもしれません。

門脇──そうですね。では、具体のイメージを伴った話をしてみます。私が例に出した下北沢駅の現場は、たいへん異質で異常な状態にあるにもかかわらず、ごくあたりまえにわれわれの日常の中に現れている。この現場の光景には即物的・合理的・工業的なもののみで構成された統一性があり、一方で個別のモノたちは勝手気ままに存在してもいる。自分が下北沢駅の現場に惹かれるのは、ある種の「ザッハリッヒな美学」に基づいていて、これが既存の価値観に由来しているかもしれないという恐れもあります。ただ、現場を構成しているバラバラで異常なモノたちが、しかし「ある種の合理性に基づいているために普通さを帯び、結果として気にも留められない」ことが、千葉さんのおっしゃる「例外性のなさ」につながってくるのではないかと感じます。私の問いは、こうしたものをいかに方法的に、意識的につくれるかということです。こうしたものは、作者がいないからこそ成立しているともいえるわけですが、設計者という人格を通過しながらも、しかしその人格を通過していないかのような状態は設計することができるでしょうか。この問いは、どこに「他者」を設定し、そしてどのように切断を起こすのかという問題にもつながってきます。

平田──門脇さんは下北沢駅の工事現場を工業的とおっしゃいましたが、私にはむしろ自然界的に見えます。というのも、自然界は一見すると連続しているように見えますが、じつはまったく異質で不連続なものがぐちゃぐちゃに混ざってできているからです。そこが面白い。
松田さんが整理されたように、人間だけでなくあらゆるものが「他者」であるとすると、切断面はあらゆるところで起きていると言えます。そのときに、さまざまなものが並列状態にあると言ってしまうのでは、私が学生の頃から言われていたことの反復のように聞こえてしまう。かつてあったそれは、あくまでも同じ「お盆」──共通する規律──上での並列状態でした。千葉さんの「非ファルス」とは、お盆が想定されているかいないかという状態、それゆえバラバラであるしかない状態を指していて、そのことをどのように論じるかを考えていらっしゃるように聞こえます。「非ファルス」とは、その言葉を用いなければ現われない局面を一瞬でも現出させるための、有効な言語論的試みだと感じました。

平野──私が下北沢駅の例を見て思い出したのが、バーナード・ルドフスキーの「建築家なしの建築」です。建築家という主体なしに、素人がブリコラージュとしてつくりあげたものが魅力的に見える。このときに求心的なテーマになったのも、建築家とはどのような主体なのかということでしたね。

門脇──それを考えるうえで平田さんの規律についての指摘は非常に重要だと思います。一方で自分が下北沢駅に惹かれることにも、最近は懐疑的なのです。というのも、これは一種の数寄屋趣味なのかもしれない。つまり何か型があって、それをいかに外していくか。しかし数寄屋の話へ帰結してしまうのは、趣味判断に陥りやすいので避けたいところです。

fig.19──『「シェア」の思想/
または愛と制度と空間の関係』
千葉──そうですね。ただ、下北沢駅のかっこよさには共感しますし、フランク・ゲーリー《ゲーリー自邸》(1979)にも通じるところがあるように思います。《ゲーリー自邸》については、一度門脇さんと話したことがあります(「悪いこともできる建築──秘密とモノ」[門脇耕三編集協力『「シェア」の思想/または愛と制度と空間の関係』LIXIL出版、2015])[fig.19]。あの作品においても、オブジェクトがそれぞれの場所に存在しているのは機能的な必要性からであって、有限的なオブジェクトの寄せ集めだと考えられます。つまり、その存在に無限のポテンシャルやアウラがあるわけではない。

平田──たしかに《ゲーリー自邸》は「非ファルス」的だと言っていいかもしれませんね。あの建物は蓑虫のようです。蓑虫はファルス的に蓑をつくります。彼らは遺伝子に組み込まれた「イデア的な蓑」を目指して蓑を作る。しかし、そのときの素材は小枝でも葉でも紙でも、身の回りにあるものであればなんでもいい。《ゲーリー自邸》はアメリカ西海岸で手に入る身近な素材をつくっているとも言える一方で、あたりまえの使い方ではなくオブジェクトそのものが持つ可能性を引き出しながらつくっています。その意味で非ファルス的です。ここで結論が演繹的に《ゲーリー自邸》になってしまってはつまらないんですが(笑)、それにしてもあれは今から再発見される建築であると思います。

千葉──平野さんが「新コラージュ主義」として例に出されていたマーク・フォスター・ゲージの作品、あれなどはアメリカの過剰な商品経済のイメージと結びついているでしょう。ハーマンにおけるオブジェクトも、商品という観念と結びついていると思うんです。結局、オブジェクトとして切り取られるのは、商品として売り買いできる単位のものではないのか。商品的オブジェクト指向とでも言うか、その方向では、ドン・キホーテの店内のような状況を考えることになる気がするんですが、そういう筋からは距離をとって議論をしたほうがいいでしょうね。むしろ数寄屋のほうが可能性がある気もします。

fig.20──長坂常
『B面がA面にかわるとき[増補版]』
門脇──そこで趣味性に閉じた議論に陥らないためにも、先ほど平田さんがおっしゃった「お盆」を想定しない構築を考えることが重要です。お盆とは、千葉さんが長坂常『B面がA面にかわるとき[増補版]』(鹿島出版会、2016)所収の論考「フレーミングとオブジェクト──長坂常のリノベーション作品について」で書かれていた「演劇空間」と言ってもいいでしょう[fig.20]。私がエレメントにヒアリングをすることが重要であると考えるのも同じ理由からです。エレメントを演劇空間的視点、つまり全体を俯瞰する超越的視点からアレンジ、配置していくのではなく、演劇空間的視点を仮定せずにエレメントの在りようをエレメントからヒアリングし、さばいていくこと。
ただ、この議論を美学へとストレートにつなげてしまうと建築にとってもよくないので、切断的な複数の主体が集団的に作るための構成論として考えてみたいのです。《ゲーリー自邸》も美学的にとらえるのではなく、アメリカの2×4工法やホームセンター的DIYといった社会状況に対するひとつの建築的解答として見るほうが可能性があるのではないかと思います。平田さんのプレゼンテーションは、まさに集団的に作るための構成論でしたね。

エレメントへの「視野狭窄」的接近

平野──平田さんは《太田市美術館・図書館》で、事務所内で設計を完成させるという規律を外して投げ出してみることを試みられていました。また、市民との数回のワークショップのそれぞれには強い連続性がなく、そのため平田さんにとってはそれぞれ別の切断点として機能したというのも特徴的ですね。

千葉──門脇さんのエレメントへのヒアリングと、平田さんの市民のワークショップについて比較してみます。門脇さんの考え方で重要なのは、演劇空間を一望する視点をつくらないというところ。ところが、数寄屋の発想は、演劇空間を設定するからこそ成立します。つまり、単一の場所でのアレンジメントであると、と。門脇さんの提案は、複数のエレメントにむしろ「視野狭窄」的に関わることで演劇空間という設定を乗り越えようというものですね。ある視野狭窄から次の視野狭窄に移行する。複数の視野狭窄の束としての建築。平田さんの公共建築の設計における市民という存在も、必ずしも物事を俯瞰的に見ていないがゆえに、バラバラな意見を持っている。そしてそれでよい。こんなふうに、いずれも演劇空間を仮定しない建築を問題にしていると捉えられる。

平田──そうですね。複数の主体が使用する場合、当然ながら異なる意見、それも建築を俯瞰した意見ではなく、例えば風が強い地域だから外観は角張っていてはいけないとか、A地点からB地点はつねに見えている必要があるから壁を取ってほしいといったアイレベルでの意見が噴出します。それらを無視したり突き返すのではなく、必要な場合は構造体の考え方を変えたり、壁に穴をあけたりして要望に応える。そうすると、当初の壁構造がいつのまにかラーメン構造に変わってしまったりするくらいの変化が起きてきます。全体性をもたないバラバラな情報、視野狭窄的な意見を私たちが必死で回収するという状態のなかで設計を進めました。同じことをもう一度楽しめるかと問われるとわかりませんが、建築設計の新しい方向性を感じています。

門脇──エレメントへのヒアリングにおいて、建築家は翻訳者として機能する......、いやむしろ翻訳すら必要ではないかもしれません。

平田──いや、翻訳は必要だと思いますよ(笑)。一つひとつの要望が並列しているだけでは建築にならないか、よくて単なる近代建築の焼き直しになってしまう。そこにこそ、建築的思考が必要とされている。からまりの階層性を用いたプロジェクトの話のコアはそこにこそある。もちろん、「階層」として取り出しているのは、重層するより豊かな全体の一部でしかないのですが。しかし、新しい考え方を導入するための最小ユニットではある。

門脇──いずれにしても、演劇空間性が外されることでそれが可能になるということですよね。《太田市美術館・図書館》がワークショップを通じて「ワイルドになった」とおっしゃっていましたが、それは建築が人間のためのものではないような、建築自身にとってのある種の新しい価値、あるいは野生を獲得するに至ったということだと思います。それが良いことか悪いことかは判断を保留しても構わないと思いますが、そこに仮定された構造が、平田さんの場合は階層構造である。構造のシンタックスのあり方についても、これから議論する余地があるのではないかと思います。

平田──私は、お盆がまったくない状態を作るのではなく、かつ特権的ではない、その都度仮設的に変わっていく構造を設定したいと考えています。それが「からまりしろ」なんですよね。つまり、あるときは海底の岩が昆布にとってのお盆として機能するけれど、別のときには昆布が魚卵にとってのお盆になっている。つまりお盆はいつも安定して存在する基底面なのではなく、特定の関係性を特定の時間的スパンのなかで捉えたときに、その都度現われるものでしかない。建築は異なる複数の時間の流れを扱いますから、どうしてもより長く存在するものがお盆的な役割を帯びることになります。それを認めずに設計すると単なるバラバラ、並列にしかならず、それはあんまり面白いことではない。だからお盆が仮設的にあり、しかしそれもあるときは違う存在様態になっているという捉え方のほうが可能性があると思っているということです。

千葉──反転可能なものとして「からまりしろ」がある。その状態は「非連続の連続」みたいな感じで......。つまり、「からまっている」ということは、つながっていながらも、非連続的な状況である。複数の別々の有限の時間軸がからまって、お互いにぶら下がり合っているような、時間のもずくのような状態になっているわけですよね。

松田──平田さんは、階層構造を伴い、状況あるいはスケールに応じて変化するお盆──お盆をニュートラルな存在とは考えていらっしゃらないので「からまりしろ」と呼んでいるのでしょう──を仮設し、その上で非演劇空間的構造を作るという方法をとられているように理解しました。これは、門脇さんがおっしゃる近傍性の問題とほとんど一致しているように思います。くわえて、門脇さんはエレメントのざわめきをヒアリングすることを提案されていましたが、これはこれまでお盆を設定する主体であった設計者自身の位置を、エレメントのほうへと移動させていくための方法だということでしょうか。

門脇──基本的にはそのための方法です。にもかかわらず、建築を作るためには、機能・構造・コストなどの諸条件を成立させ、全体をまとめなくてはいけません。エレメントにヒアリングした結果をまとめられる仕組みをいかにして作るか、そこが悩ましい。
ただ、全体構造のシンタックスについては、何となく感じていることはあります。先ほどのプレゼンテーションで、自律的な構造Aと構造Bを媒介するエレメントのあり様についてお話ししましたが、このとき、構造Aと構造Bが違えば違うほどいい気がしています。つまり、そこでは位相が大きくジャンプしている。ここで媒介エレメントは、位相の変曲点に相当するわけですが、こうしたエレメントは切断的とも接続的ともいえて、そのあり方は両義的です。さらに、この媒介エレメントによって、違った位相にある異質な構造の要素の同時存在が許容される。この状態は下北沢駅的なものに通じる可能性があると思っています。

アクターネットワーク・セオリーはポリティカル・コレクトネスか?

松田──最近、ソフィー・ウダール+港千尋『小さなリズム──人類学者による「隈研吾」論』(加藤耕一+桑田光平+松田達+柳井良文訳、鹿島出版会、2016)という書籍を翻訳しました。この本は、人類学者ソフィー・ウダールが隈研吾建築都市設計事務所に集まるさまざまな人にヒアリングをして、事務所のなかで何が起こっているかを徹底的に調べることで、隈研吾には直接的に言及せずに隈研吾という建築家像をあぶり出すという手法を用いています。この手法はまさに門脇さんのおっしゃるエレメントへのヒアリングともつながるものかと思うのですが、いかがでしょうか。ちなみにウダールは、ハーマンにも影響を与えたフランスの社会学者ブルーノ・ラトゥールの弟子にあたる人物であり、脱人間中心的な思考という面では、今回の議論と一定の問題意識を共有しているともいえます(同書でも触れられているブルーノ・ラトゥールとアルベナ・ヤネヴァによる論考「銃を与えたまえ、すべての建物を動かしてみせよう──アクターネットワーク論から眺める建築」は、日本語翻訳版が本特集にて同時掲載されている)。

千葉──いま松田さんがおっしゃったのは、アクターネットワーク・セオリー(ANT)型の「ラボラトリーの人類学」と呼ばれるものですね。この方法論のポイントは、特権的な主題設定を外すということです。例えば隈研吾の建築家論を書く場合に従来重要だったのは、主人公である彼自身が何を考えているのかということでした。主人公を中心として、周りの人やものは従属的な立場に置かれます。しかし、アクターネットワーク・セオリーでは、すべての「アクター」を対等に扱います。つまり、構成するすべての要素、事務所に出入りする人間から電気ポッド、コピー機までが等価なアクターとして存在しているという考え方です。それらが何事かを語っている。ただその世界観に立つと、物づくしで、世界の記述を漏れなく徹底すればOKということになってしまう。私はそれに対しては懐疑的です。一方、門脇さんの考えている「エレメントへのヒアリング」はそれとは少し異なり、あらゆるエレメントを丁寧に見るのではなく、いくつかのエレメントに視野狭窄することがポイントになってきます。

門脇──そうですね。おそらく、構造Aから疎外されるエレメントが出てくるということが重要です。つまり、視野狭窄的にヒアリングしていくと、ある論理では汲み取れない内発的な論理がエレメントからにじみ出てくる。その論理は、全体が要求するコレクトネスからはみ出した存在を許すものになることもあるでしょう。構造Aから疎外されたエレメントが存在しうるような設計に可能性を感じているのかもしれません。

平田──門脇さんのおっしゃっている異なる構造A、B、Cというのは、見方によって違って見えるということでしょうか? A―B、B―C、A・B―Cなどの「―」が新しい構造を作ることもありえるのでしょうか。

門脇──ありえると思います。さらに、その構造が必ずしも建築全体につながれていなくてもよく、例えば単体のエレメントだけがもっている構造もあるはずです。ここで構造とは、構築の論理と呼んでも差し支えない。これは平田さんのおっしゃる階層性と近い考え方ではないでしょうか。

平野──「第14回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展」(2014)はレム・コールハースが総合ディレクターを務めました。総合館は「エレメンツ・オブ・アーキテクチャー」をテーマに掲げ、建築物を構成するさまざまなエレメントを膨大な量で示す展示を行ないました。これはどちらかというとアクターネットワーク・セオリー的な手法かと思います。また、同じビエンナーレ内での展覧会「モンディタリア」でもイタリアの文化、経済、社会状況を列挙していくことで全体像を明らかにする手法が用いられていました。建築分野では2010年代に入ってから、こうした細部を見ていく風潮が見られるようになったように思います。

千葉──そうなんですよね。すべてのものが差別なく、ある事柄の構成に役立っているはずであり、すべてに対して平等に記述しようという風潮は、近年あらゆる分野で見られることです。こうした手法は、民主的なイメージの提示として役立つとは思いますが、しかし、それをしたからといってどこかで切断しなければものはつくれませんよね。だからこそ、ファリックな特異点を作る以外の方法がさまざまに議論されているのでしょう。現代において、アクターネットワーク・セオリー的発想はファルス的全体性、超越性を否定するための倫理的方法論となってしまっている場合もあります。これは極めてポリティカル・コレクトネス的だと思います。すべてを記述するとは言っても絶対何か漏れはあるわけですから。

質疑応答

平野──では、少し時間をオーバーしてしまっていますが、会場からご質問を受けたいと思います。

会場1──非常に刺激的なお話で面白く拝聴しました。千葉さんのお話に対応して、門脇さん、平田さんがされたお話は建築的によく理解できます。今日のお話では演劇空間を設定しない、回避するための方法を議論されていましたが、そもそもの前提として、反対に演劇空間を「設定できない」、コントロールできず「切断するしかない」という状況についての議論は可能だと思われますか。

千葉──先ほども挙がった論考「フレーミングとオブジェクト──長坂常のリノベーションについて」で、少しそのことに触れています。例えば他なる秩序が押し入ってくる恐ろしさ、例えば部屋にゴキブリが入ってくる恐ろしさ(笑)をどう建築化するかといった内容なんですが、オブジェクト指向存在論のありうるひとつの展開として書いています。ハーマン的なオブジェクトの無限性を建築的に実装しようとすると、オブジェクトの秘密性を発揮させるような仕立てを考えることになるのではないかと思います。そこで、長坂常さんの設計されたリノベーション作品がかっこよく見えてしまうことを若干批判しながら書いています。彼の建築では、まっ平らに均された壁や床に対してオブジェクトが設えられているのでかっこよく見えるのですが、オブジェクトのもっと不気味な姿を追求できないかと。ただこのとき、人間が耐えられない場所になる可能性は否定できませんが。

門脇──私もそのとおりだと思います。千葉さんが「フレーミングとオブジェクト」で立てられた問いは、われわれ建築家に対してとても挑発的なものでした。建築界で議論されていたことと千葉さんたちが議論されていたことが隣接しながらも別々に進行していたため、こうした場がセッティングされること自体が非常に重要です。そこで千葉さんが投げかけた思弁的な問いのひとつが、ゴキブリが突然出てくるようなことが建築的にありえるのかどうか、です。そしてもうひとつが、今日提出された「非ファルス的もっこり」は建築的にいかなるものかという問いです。哲学から建築に投げかけられたこの2つの大きな問いを宿題として持ち帰りたいと思います。

会場2──質問というよりは感想ですが、オブジェクト指向存在論の美学的参照点となるムーブメントは過去、いくつかあったように思います。例えば新即物主義(ノイエ・ザッハリヒカイト)は、オブジェクトの客観的な成り立ちと姿をそのままあらわす新しい美学を打ち出しました。シュルレアリスムは、まったく関係がない事物がたまたま隣接させられたときに起こる一種の異化作用の効果に関心を持っていたかと思います。また、今日は何度かお盆の話や演劇性の話が出てきましたが、それらの話は結局美術批評家マイケル・フリードがアンソニー・カロの彫刻作品について論じたこととつながってきます。フリードは、カロの作品をシアトリカルなオブジェクトとしての彫刻の概念を崩す試みとして評価したわけです。
これら3つのムーブメントは、オブジェクト指向存在論の多数がざわめく世界観、脱中心的な美学の参照点となるように思えます。それらは一時脚光を浴びましたが、結局のところ20世紀という時代はそれを抑圧してきた。もっとラディカルな美術や建築を考えられるようになった現代において、そこで抑圧されてしまった芽をあらためて考えて直してみることは有意義なことだと思います。もちろんそれをトレースすることに意味があるわけではないでしょうが、こうした過去の参照点を振り返りつつ視野を広げてみることで、われわれの議論はより豊かなものになるのではないかなと感じました。

平野──ありがとうございます。指摘のように、今日の議論の内容や、オブジェクト指向存在論をもとに現在模索されている建築のあり方は、新即物主義やシュルレアリスムなど、アートにおいて過去に出現した動きとの共通性が多く見られると思います。建築の歴史を振り返ってみても、例えば「新コラージュ主義」のフォスター・ゲージの作品に見られるコラージュの技法はポスト・モダニズム時代に行なわれていたものですし、また「新しいアニミズム」は、ジョン・ヘイダックの作品で頻繁に出てくる奇怪な生物のような要素と何かしら繋がるところがあるように思われます。
一方で、これらは単なる過去のスタイルや技法への回帰ではないように感じられます。パラメトリシズムをもたらしたデジタル・テクノロジーへの単純な反動として、デジタル以前のスタイルを追求しているわけではないのです。フォスター・ゲージの場合も、デジタル・テクノロジーの活用が当たり前になった現代の文脈に軸足をおきながら、コラージュが持つ、ポスト・モダニズムの時代には認識されていなかった価値を追求しようとしていると言えます。 過去の参照点を振り返ることの重要性が増しているなかで、つねに自分たちが置かれている現在の状況にもしっかりと配慮する。そのような姿勢を今まで以上に強く意識することが、これからの建築のあり方を議論する上で重要ではないかと思います。 では、これでシンポジウムを終了したいと思います。本日はご来場いただきありがとうございました。


[2016年10月7日、日本建築学会「建築文化週間建築夜楽校2016」]


千葉雅也(ちば・まさや)
1978年生まれ。哲学者。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。著書=『動きすぎてはいけない──ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社、2013)、『別のしかたで──ツイッター哲学』(河出書房新社、2014)。翻訳=『ジル・ドゥルーズの「アベセデール」』(KADOKAWA/角川学芸出版、2015)など。共著=『「シェア」の思想/または愛と制度と空間の関係』(LIXIL出版、2015)、『B面がA面にかわるとき[増補版]』(鹿島出版会、2016)など。共訳書=カンタン・メイヤスー『有限性の後で──偶然性の必然性についての試論』(人文書院、2016)。

平田晃久(ひらた・あきひさ)
1971年生まれ。建築家。京都大学工学部建築学科准教授。京都大学大学院工学研究科修了。伊東豊雄建築設計事務所勤務を経て、平田晃久建築設計事務所設立。第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展金獅子賞受賞。主な作品=《桝屋本店》(2006)、《House S》(2006)、《sarugaku》(2007)、《one roof apartment 》(2010)、《alp》(2010)、《Coil》(2011)、《東戸塚教会》(2015)、《かまいしこども園》(2015)など。著書=『animated──生命のような建築へ』(グラフィック社、2009)、『建築とは〈からまりしろ〉をつくることである』(LIXIL出版、2011)など。

門脇耕三(かどわき・こうぞう)
1977年生まれ。建築家。明治大学専任講師。建築構法、構法計画、設計方法論。明治大学理工学部建築学科/大学院理工学研究科建築学専攻専任講師 。共著=『シェアをデザインする』(学芸出版社、2013)、『静かなる革命へのブループリント』(河出書房新社、2014)、『PLANETS vol.9 東京2020 オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト』(PLANETS、2015)『「シェア」の思想/または愛と制度と空間の関係』(編集協力、LIXIL出版、2015)など。

松田達(まつだ・たつ)
1975年生まれ。建築家。武蔵野大学工学部建築デザイン学科専任講師。松田達建築設計事務所主宰。東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修了。作品=《第一回リスボン建築トリエンナーレ帰国展会 場構成》《フラックスタウン・熱海》《JAISTギャラリー》など。共著=『建築キーワード』(住まいの図書館出版局、1999)、『現代住居コンセプション』(LIXIL出版、2005)、『建築学生のハローワーク』(彰国社、2012)、『記号の海に浮かぶ〈しま〉(磯崎新建築論集2)』(編著、岩波書店、2013)、『建築系で生きよう。──若い人に聴いて欲しい本音トーク』(総合資格出版、2015)など。

平野利樹(ひらの・としき)
1985年生まれ。2009年京都大学建築学科卒業。2012年プリンストン大学大学院建築学科修士課程修了後、Reiser + Umemoto RUR DPC勤務。2016年東京大学大学院建築学専攻博士課程修了。Toshiki Hirano Design主宰。Japanese Junctionディレクター。http://toshiki-hirano.com


  1. 「切断」の哲学と建築
  2. 千葉雅也プレゼンテーション「不気味でない建築のために」
  3. 門脇耕三プレゼンテーション「切断と接続のパラドクス」
  4. 平田晃久プレゼンテーション「切断の哲学は新しい建築を生むか?」
  5. ディスカッション──無関係性と有限性/下北沢駅、その例外性のなさ/エレメントへの「視野狭窄」的接近/アクターネットワーク・セオリーはポリティカル・コレクトネスか?/質疑応答

201612

特集 建築とオブジェクト


「切断」の哲学と建築──非ファルス的膨らみ/階層性と他者/多次元的近傍性
即物性への転回とその規則
(奇妙で不可解な)オブジェクトへの回帰
銃を与えたまえ、すべての建物を動かしてみせよう──アクターネットワーク論から眺める建築
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