世界とのインターフェイス
──グーグルマップの社会学をめぐって

若林幹夫(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)+松岡慧祐(奈良県立大学地域創造学部専任講師)

マップの未来──ビッグデータ、パーソナル化、教育

若林──「Pokémon GO」もそうですが、個人の位置情報や移動の情報が集客などのマーケティングに利用されていくことが予想されます。「ららぽーと」では「三井ショッピングパークカード」でポイントを貯めて商品券と引き換えたり、駐車場の割引が受けられますが、ショッピングモールの研究をしていたときに、三井不動産の担当の方から「そのカード、何のためにあるか知っていますか」と聞かれました。カードは顧客の行動をデータとして集めるためのもので、個人名とのひも付けはされていないそうですが、ある場所である商品を買った人が次にどこへ行って何を買ったかまでは解析できるそうです。例えば、ペットショップで買い物をした人が次にアウトドア商品を買うとか、ショッピングモールの運営側にとって有意な情報を発見し、それによって近すぎもせず遠すぎもしない場所に関係する店を配置して、ショッピングモール全体の売上増進を図るそうです。グーグルマップも、ある場所で検索をした人が次に何を調べたかなどのデータの蓄積によって、お店の出店計画などに役立つ情報として使われていく可能性があるのではないでしょうか。



松岡──グーグルマップでもすでに検索履歴などは解析されていますし、これからさらにパーソナライズ機能が発達していくでしょう。インターネット上ではすでにそうしたことが起きていますが、これからますます実際の都市で人を動かすアーキテクチャになっていきます。「Pokémon GO」はすでに集客に活用され始めていますが、グーグルマップもそうなっていくと思います。単にグーグルマップに情報が掲載されているかどうかで、人の動きや集まりがコントロールされることも出てくるはずです。


若林──現実に先立ってグーグルマップ上に情報があり、それに即して人びとが現実を生きると。マップがマーケティングや資本の論理と親和性の高い形で機能していきます。グーグルマップは無料で利用できますが、世の中にタダほど高いものはない。利用者の知らないうちに、利用者をコントロールするようなアーキテクチャに取り込まれている可能性もありますよね。


松岡──一方で、マッピングがオープンになり、単にグーグルマップに支配されるだけではなく、ユーザーが編集に参加し、世界のつくり手にもなるという方向性もあります。マップを与えられるのではなく、マッピングをめぐる権力の争奪戦にユーザーが巻き込まれ、積極的に参加していかなければいけなくなっていきます。


若林──印刷された地図はあるときにひとつの版をつくって、それを改訂していきますが、グーグルマップは随時変化していく動態的なものですね。空間的にも通時的にもシームレスに生成していく地図であり、その都度呼び出されたデータが地図の様相を取っているということですね。


松岡──それは若林先生が「全域なき世界」とおっしゃっていたこととも関係します。全域的なものが背景へと退いています。そして、その表層に断片的なデータが浮かび上がってくるわけですね。それでも、地図という様相は取っていますから、厳密に言えば、それは「全域が退いた世界」なのだと思います。グーグルマップでは、たとえズームアウトをしても、全体が見えているという気がしません。僕は東京に来たとき、全体をつかむために、グーグルマップよりも東京の路線図を見たいと思ってしまいます。


若林──想像力を媒介にして全域を把握しようとする知的な了解は退いていき、身体的感覚としては全域を了解する必要がないわけです。その意味では全域性が了解される世界から欠落していきます。その都度呼び出す局所のなかの広がりしかなく、マップ自体は全体像を持っていても、それを見ようという欲望はなくなっていくということです。


松岡──ナビゲーションとして使う人が多いとしても、例えば検索窓に「新宿 カフェ」という検索をすれば、一覧化した情報が表示されます。いまカフェは都市の中では結構重要な居場所なので、そうした使い方をする人も少なくないと思います。その街の面的な広がりのなかでカフェがどこにあるかがわかります。範囲が狭まって、断片化していますが、検索の段階においては一覧性や全域性は必要なのではないかと思います。つまり、全域は全域でも、茫漠とした面的な広がりではなく、都市に散らばっている点的な情報をなんらかのレイヤーで一覧化するための広がりは存在しています。そのとき、グーグルマップにも多様なマップが生成され、それが読み取られることで、物語が立ち現れていきます。それは、単なる局所的なナビゲーションではありません。点的な情報をその都度マッピングするための背景にすぎなくなっているとしても、全域性が失われることはないと思います。それは、データの検索を前提としているという意味で、全域性というより一覧性と言い表わしたほうがいいのかもしれませんが。


グーグルマップでの「新宿 カフェ」の検索結果

若林──空間的に一覧化するマッピングはいまでも重要だということですね。グーグルマップが人類有史以来のすべての地図を組み込み、それらの参照関係も見ることができるような、巨大な万能のマップになるという可能性が示唆されていますが、そうではない可能性として、街に立っている地図の看板、地下鉄の通路にあるような構内と出口の関係を表わすサイン、そして自衛隊や公安が持っているような隠された地図などと住み分けて、それらと共存していく可能性もかなりあると思います。そうした場合にグーグルマップはほかの地図とどういう関係をもつようになるのかが、地図の未来にとって重要な問題です。
それから、教育の問題もあります。いまは地理という科目があって地図帳もありますが、例えば、平野の位置や気候などの地誌教育は必要だけど、地図を読む技術は学校で教えるような科目としては要らないという未来もあり得ます。等高線などもグーグルマップで示せるようになればいいわけですから。かりに地理教育が変わると、そこから地図も変わっていくのではないでしょうか。グーグルマップの開く未来がどうなるかは、地図の使われ方や教育との関係で考える必要があります。


『空間の政治地理』(朝倉書店、2005)
松岡──若林先生は「思想としての地図──あるいは、「知の地政学」へ」(所収『空間の政治地理』)で、「ヴァナキュラーな地図と透明で正確な地図が協働していく」という書き方をされていますが、僕はそこにグーグルマップが加わったと考えています。グーグルマップが万能化してすべての共通のプラットフォームになるという未来も想像できますが、やはりグーグルマップだけですべてが完結する社会も想像しにくいです。例えば、街ごとのイメージを表わして物語を読み込ませる地図、鉄道路線図などのヴァナキュラーな地図は、データベース的なグーグルマップを補完するものとして必要とされると思います。僕は今回、『グーグルマップの社会学』を書きましたが、やはりヴァナキュラーな地図も含めた「地図とマップの社会学」をさらに展開していく必要性があると感じています。


若林──でも鉄道路線図は「乗換案内」のアプリがあればほとんど必要なくなりましたよね。


松岡──実践的にはそうなのですが、先ほども言ったように、東京に来て、ここがどういう街かを想像するときに路線図は見たいと思います。グーグルマップだけでは、東京という都市の全体像はつかめません。
かつて磯崎新さんが論じたように、そもそも東京のような現代の都市は、明確な構造をもたない「見えない都市」であり、そのイメージは融解してしまっています。行政区画の外延はありますが、シームレスなグーグルマップでは、それすら見えにくくなっています。「見えない都市」を可視化することが断念されているようにも思えます。そこで、イメージとしての都市を代補するテクストとして、街ごとのガイドマップや路線図があるのではないでしょうか。実際に、グーグルマップが普及した現在も、多様なマップがつくられ続けています。これらは、それのみで都市の全体像を表象しているわけではありませんが、互いに補完し合うことによって、都市を多元的な場の集積として捉えることを可能にしていると思います。言い換えれば、そういった多様なマップをとおして物語が紡ぎ出されるからこそ、グーグルマップはデータベースに徹することができるわけです。いまは、こうしてテクストとデータベースが協働するようになっています。ですから、個人としてはテクストとデータベースを相補的に使い分けながら、全域へと開かれていく必要があると思います。グーグルマップの普及によって、つねに世界へのインターフェイスが手元に存在するようになったからこそ、それをアクティブに使い、しかし同時に、それ以外のヴァナキュラーな地図も見ることによって、世界を全域的かつ多層的に経験していく。そんな可能性が開かれていくような気がしています。



若林──そうした欲望は普遍的なのでしょうか。つまり、われわれは地理の教育を受け、普通の地図を見る機会があり、馴染んでいるからそうした欲望がありますが、いまの子どもたちの世代は気がついたらすでにグーグルマップがあり、乗換案内アプリもあるなかで、そうした地図を見たいという欲望を持つのでしょうか。観光マップも拡張現実の技術で可能になると思います。もちろんそうではない層も少数派になりつつある程度は残るとは思いますが。
以前、ある学生から「先生の時代はいまみたいに新書が沢山なかったから専門書を読む必要があった」と言われて、本当に呆れてしまいました(笑)。でも人間には結構そうした楽なほうへ行く側面があると思います。面倒なことをわざわざしなくても何も困りませんから。松葉一清さんは、あるときコンビニの前で若い人が携帯を眺めているのを見て建築の無力さを感じたそうですが、その話を聞いてからすでに10数年経ち、ますますそうした傾向が強まっています。電車の車内でもみんなスマフォを見ていますね。私はスマフォを持っていませんし、電車で音楽を聴いたりもしないのですが、それはイヤフォンをしていると周りの環境が遮断されている感じがして落ち着かないからです。朝、風の音や鳥の声が聞こえるなか犬の散歩をしていると、その脇をイヤフォンしながらランニングをしている人が通り過ぎていきますが、私は「なんで周りの音を聞かないんだ、信じられない」と思っています(笑)。駅や電車には雑音があり、人の気配があり、そのなかを生きるのが街を経験するということです。私にとって世界は雑音とともにあります。でも、いまの学生はイヤフォンをして、メディアで守られた環境のなかに入ることで逆に落ち着くそうです。
グーグルマップによって経験される世界は、一方では広がりがあり、松岡さんが言うようなアクティブな使い方をすれば強力なツールになりますが、多くの人間にそこまで希望を持ってよいのでしょうか。やはり教育が大切だと思います。松岡さんは地図の授業をしているそうですが、地図によって知ること/地図にないものを知ること、そうした経験が世界と自分のインターフェイスを変えます。教育は、日常に介入し、知を変えます。具体的な世界への感覚や触覚を持たず、本のなかのことだけを考えている学生はつまらないのですが、逆に、本を読まずに現実の経験ばかりというのもじつは現実を読み取る技術を持っていないのでダメです。地図に描かれている世界/描かれていない世界の両方を、どう身体で感じるかは教えることができます。社会学とはそうした学問でもあるのではないでしょうか。大学で社会学を学ぶ人は世の中全体のほんのわずかですが、小学校や中学校の地理や生活の授業で、そういうことが教えられるはずです。けれども、昨今の教育はタブレットを積極的に使うとか、ネットで調べてまとめるということが重要視されているので、逆行していますね。
『地図の想像力』を書いたのは、地図について考えることによって、地図だけに留まらない、人間が社会を生きる構造について考えられると思ったからです。グーグルマップ以外の地図で世界を見ることにより、自分たちがどういった感覚や知の場に置かれているかを反省的に考え、世界へのインターフェイスを変えていくという経験が大切だと思います。



[2016年10月1日、LIXIL:GINZAにて]


若林幹夫(わかばやし・みきお)
1962年生まれ。早稲田大学教育・総合科学学術院教授。社会学、都市論、メディア論。著書=『地図の想像力』(講談社、1995/増補版、河出文庫、2009)、『都市のアレゴリー』(LIXIL出版、1999)、『都市の比較社会学──都市はなぜ都市であるのか』(岩波書店、2000)、『都市への/からの視線』(青弓社、2003)、『都市論を学ぶための12冊』(弘文堂、2014)、『モール化する都市と社会──巨大商業施設論』(編著、NTT出版、2013)ほか。

松岡慧祐(まつおか・けいすけ)
1982年生まれ。関西大学大学院社会学研究科博士課程後期課程修了。奈良県立大学地域創造学部専任講師。文化社会学、都市表象論。論文=「地域メディアとしての地図と社会的実践としての地図づくり──地域社会における〈マップ〉の想像力」『フォーラム現代社会学』(第12号、関西社会学会)ほか。著書=『グーグルマップの社会学』(光文社、2016)



201611

特集 地図と都市のダイナミズム──コンピュテーショナル・マッピングの想像力


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世界とのインターフェイス──グーグルマップの社会学をめぐって
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