インドネシア、なぜモダニズムは継承されるのか

ハリー・カーニアワン(東北大学大学院博士課程、インドネシア、ガジャ・マダ大学建築計画部講師)
インドネシアにおいて、建築のモダニズムとインドネシア固有の建築は、一緒に議論されるのはもちろんのこと、別々にも議論される興味深いトピックになってきた。この議論は、同じ程度の熱心さがある必要がないにもかかわらず、記録されうるかぎりではオランダ植民地時代に始まり、今日にいたるまで議論は止む気配がない、という事実によって証明されている。これらの議論は、継続され、数が多いだけでなく、書籍や雑誌の記事や教授による開会のあいさつ、会議、セミナー、シンポジウムでの議論、デザインコンペなど形式も豊富だ。例を挙げると、1923年の『Indisch Bouwkundig Tijdschrift』(インドネシアで発行され、オランダ語で書かれた「インド建築雑誌」)は、C.P.ヴォルフ・シューメーカーとマクレイン・ポントによる、西洋の建築的アプローチとバナキュラー建築のコンセプトは対立するか共存するかを問う論争の舞台となった。他にも、1982年のインドネシア建築家協会の第2回総会では「インドネシア建築の探求(Mencari Arsitektur Indonesia)」というテーマのもとセッションが開催された。2011年のシンポジウム「111111」では、建築家と学者を招いた卓上で、「伝統建築の死(Matinya Arsistektur Tradisional)」について話し合われた。そして、2013年からは毎年、「ヌサンタラ建築(Arsitektur Nusantara)」★1を題材としたコンペが民間部門の後援によって開催されている。これらの論題周辺の学術的な知識や議論、調査はアジアにおける近代建築、タウンスケープ、土木遺産への関心を共有するmAAN(modern Asian Architecture Network)が2001年に設立される引き金となった。

この機会に、出版物や展示を通してインドネシアの外から注目され始めたインドネシアの建築運動と一緒に「インドネシア、なぜモダニズムは継承されるのか」のテーマを議論する。変化の過程としてのモダニズム、または建築を語る方法としてのモダニズムという2つの観点からモダニズムを俯瞰することによって、このテーマの問いに答えていこう。

変化の過程としてのモダニズム

ヒルデ・ハイネンは、著書『Architecture and Modernity: A Critique』(The MIT Press, 2000)のなかで、モダニズムには3つの意味合いがあると述べている。ひとつめは、現在あるいは潮流。2つめが新しさ。3つめがつかの間のこと、もしくは一時的なものだとほのめかすこと。これらの3つの意味は「過去と異なり、未来への方法論を指し示す明確な特性」★2という印象を与える。上述に続いて、モダニズムには、過去の遺産への拒絶と伝統への葛藤が連動している。これらの記述は、近代化(モダニゼーション)の過程、つまりまだ「モダン」ではないものから「モダン」な状況への変化の過程をさりげなく示している。建築史家のヨハネス・ウィドド★3にとって、近代化とは、移住や適応、順応、適合、同化、交配、具現化──ただし、じつにさまざまな建築の仕事による具現化──といった多様な形式で連続して起こる社会文化的な過程であると捉えている。

インドネシアでは、社会文化の進歩という意味での近代化は、太古のオーストロネシア語族がほぼすべての東南アジアの島々に住んでいたおよそ6000年前まで遡及することができる。その後、貿易活動を通じて、ヒンドゥー、仏教文化、イスラム文化や中国、ヨーロッパの文化の影響によって、近代化は続いてきた。これらの影響は、多くの文化の構成物や工芸品のなかに見出すことができる。建築であれば、住宅や寺院、宮殿、モスクや都市構造に含まれている。一方で、ムーヴメントとしてのモダニズムは、1917年の産業革命の衝撃[訳者註──ロシア革命(1917)を契機とした産業構造の変革の意]としてヨーロッパで発生した技術的、社会的、文化的変化と緊密に連動している。この視点を考慮すると、インドネシアでの建築の発達におけるモダニズムの見取り図は、1920年から現在までと限定できるだろう。

1920–1940年代

インドネシア★4が独立国となる以前約350年ものあいだ宗主国だったオランダをはじめ、インドネシアにはヨーロッパ諸国による長い植民地政策の時代があった。この植民地政策は、現地固有の文明と植民地文明のあいだに多くの相互作用の歴史をもたらした。ごく小さな一例として挙げられるのが、倫理政策の実行の後、オランダ領インド★5政府が新しい政治的状況と意識に気づき、「民俗学者の忠実なスポンサーとしての役を受け入れた」★6時代である。建築においては、この新たな進展は、現地の建築に対する調査と、オランダ領インドのアイデンティティを表象する新たな建築様式に対する探求の引き金となった。この探究精神は、19世紀に確立されたコロニアル様式──ほとんどが新古典主義の建築だが──が気候や社会文化的条件に直面するオランダ領インドの状況に、もはや適していないとする時勢にも支えられた。オランダ人建築家たちは気候対策のために、現地の建築から学び、解決方法を提示している。雨と日光、湿度に伴う問題を、長いキャンチレバーで支えられた急傾斜の屋根とベランダなどの現地の建築では基本的な要素と、建物の境界に沿った通路にダブルファサードをつくりだすことによって解決した。この時期にインドネシアへ働きに訪れたオランダの若き建築家たちの手によって、デ・ステイルやアール・ヌーボー、アール・デコ、機能主義などのヨーロッパの近代建築運動の影響が、問題解決の過程において現地の建築と融合していった。それらの例の一部が《Villa Isola》(1933)や《Preanger Hotel》(1929)といったC.P.ヴォルフ・シューメーカーの仕事で、言葉では単純だが、気候の問題を解決している。ヤン・ファン・デゥルメ★7は、オランダ領インドでのヴォルフ・シューメーカーの作品について論じる際、「Tropical Modernity」という表現を著書のなかで使っている。その他の例では、A.F.アールバースによる《Savoy-Homann Hotel》(1947)や、J.ガーバーによる《西ジャワ州知事公邸》(1920、[fig.1])、コイペルスによる《PTPN XI Office Surabaya, East Java》(1924、[fig.2])が挙げられる。これらの「熱帯オランダ様式(Tropical Netherlands)」★8の建物は、西洋の建築が東洋の建築よりも優れているという視点と、東洋の建築は単に装飾や飾りとしてのみ適応されるという視点を代弁している。

fig.1──W.レミー《東ジャワ州知事公邸》(1931)。熱帯気候に対する複数の解法を統合した前例として、W.M.ドゥドクによる《ヒルファソン市庁舎》(1928–31)を扱った。

fig.2──東ジャワ、スラバヤにあるカイパルス設計の《HVAビル(Handelsvereenging Amseterdam/アムステルダム労働組合ビル)》(1924)、現在の《PTPN XI事務所》。アール・デコと伝統要素、熱帯気候への解答を組み合わせている。

「熱帯オランダ様式」に加えて、近代建築とアイデンティティのもう一方の歴史は、「ニューインディーズ様式(new Indies style)」の誕生で占められている。数人の建築家が西洋と東洋の特徴を損なうことなく統合したこの様式が現われたのは1920–30年代のことだった。その頃、この一帯に滞在した著名なオランダの建築家H.P.ベルラーヘは、インディーズ建築は2つの要素──普遍的で、それゆえ常に変わらない合理的で理知的な知識から生まれた近代の建設的な精神の要素と排他的でそれゆえ独特である精神的な美の要素──の総合体であると明確に述べている。課題は2つの要素、モダニストの「西洋」と土着化された「東洋」★9の統合だった。ヘンリー・マクレーン・ポントとトーマス・カーステンは好例だ。ポントによる、西ジャワにある《Bandoeng Technische Hoogeschool(現在のバンドン工科大学)》(1919)、東ジャワにある《Poh Sarang Church Complex》(1936)と、カーステンによる中部ジャワにある《Sobokarti Theater》(1931)がそれにあたる。《Bandoeng Technische Hoogeschool》のミナンカバウ[訳者註──西スマトラ地方の民族]の屋根の形態の使用に見られるように、プロジェクトの場所と引用された現地の建築がある場所は、同じである必要はない。より重要なことは、建物のプログラムにうまく機能するように土着の建築の原則を使用するための技量であった。

1950–1960年代

近代建築との第二の相互関係は、初代インドネシア大統領のスカルノによって着手された。独立後の彼のインドネシア建築に対する意向は、国家の象徴となる建物であり、国を建設するインドネシアの能力を示すこと、そして350年間もの植民地政策と自由を求める戦いの後、インドネシア人たちの精神と魂の再建と団結を図ることだった。オランダの存在をインドネシアの街や人々の心のなかから一掃するために、スカルノはインドの《チャンディガールの都市計画》(ル・コルビュジェ、1951–63)やバングラディシュのダッカにある国会議事堂(ルイス・カーン、1962–73)と同様の戦略を選択した。両者とも、愛国心の象徴として使用されている。彼らは近代建築の考え方を適用しながらも、現地特有の建築を参照して建設した。我々は、外国人建築家によって設計されたいくつかの政府のプロジェクトにその変容を見ることができる。例えば、ソ連の建築家による《Bung Karno Stadium》(1958–62)や《Istora Senayan》、アメリカ人建築家のアベル・ソーレンセンによる《Hotel Indonesia》などだ。同時代のインドネシア人建築家の作品は、FX・シラバンによる《Istiqlal Mosque》(1955)や、スユディ・ウィルイオアトモジョによる《Conefo Building(現在の衆議院棟)》(1964–65)、R.M.スーダルソノによる《ナショナル・モニュメント》(1961)、1964年の《ニューヨーク万博インドネシア館》がある。

fig.3──ジャカルタにある
《ナショナル・モニュメント》(1961)。
リンガ・ヨニのモダンな変形を通して
新たなインドネシアのプライドを
表象するために建設された。
純粋なモダニズムを披露する外国人建築家によっていくつものプロジェクトが実現するなか、インドネシア人建築家やアーティストによるプロジェクトは、芸術、特に彫刻と建築のコラボレーションへと向かっていった。リンガ・ヨニ(lingga–yoni)★10をモダニズムの表現へと変形させた《ナショナル・モニュメント》と同様、ジャカルタのメインストリートにある《Tugu Selamat Datang(歓迎の記念碑)》(1962)、や《Tugu Pembebasan Irian Barat(西パプア解放記念碑)》(1964–65)、《Tugu Dirgantara(ディルガンタラ記念碑)》(1964–65)など、似た動向はいくつかのモニュメントに見られる[fig.3]。最たるものは、《ニューヨーク万博のインドネシア館》で、屋根の頂部につく予定だった手の彫刻は、より単純な花の表現へと置き換えられた。建築に対してスカルノと同様のビジョンを抱いたシラバンは、「近代建築は、インドネシアのアイデンティティを説明できる(少なくとも表現できる)」★11と述べている。この方針は、地域固有の文化と技術が近代文化と同様のレベルに高まった歴史的で象徴的な意味をつくり上げた。

1970–80年代

fig.4──グナワン・チャフヨノによる
《インドネシア大学建築学科本部棟》。
アルド・ロッシに紹介された類型学を用いて、
原始の小屋の考えを変形し外観をつくった。
この時代には、第2代大統領のスハルトは経済の安定性を政府の主な目標に据えた。そして、海外からの投資と石油の輸出に門戸を開くといった複数の活動を遂げた結果として、インドネシアは高度経済成長を迎える。この間、行政システムは政府の手に中央集権化され、たとえ法令や規制が明文化されていなくとも、地方自治体によっ政府の展望や政策がて実行されたことがひとつの特徴となっている。

この期間の建築は、ビルディングタイプ、建物設計者または建設関係者によって多様に発展している。最初の例として、インターナショナルスタイルが大都市のスカイラインを支配した。通常オフィスとして利用されるタワービルは、箱型で総ガラス張りのファサードによって簡単に認識できる。次の事例は「スペイン風(Spanyolan)」「地中海様式」「ローマ様式(gaya Romawi)」「ギリシャ様式(gaya Yunani)」といったヨーロッパ折衷様式である。この折衷様式は、特にデベロッパーによる住宅において大半を占め、真面目で、それでいて滑稽な方法★12で実践された。3つめは「伝統折衷様式(Traditional eclectic style)」だ。この言葉は、伝統的建築の要素を付加した現代風の建物を説明するために使われる。政府の「指示」の具体化として、地域性を表現するために多くの自治体の庁舎に使われた。それ以来、一般の人でも集落や建物のゲート、加えて動物のかごといった多くのものに使用するポピュラーな選択となった。これらのバリエーションの例外としては、ポール・ルドルフによる《Wisma Dharmala Office Tower》(1986)、グナワン・チャフヨノによる《Head Office of Universitas Indonesia》(1984、[fig.4])、ポール・アンドリューによる《Soekarno-Hatta International Airport》、Y.B.マングウィジャヤによる2つの作品《Sendangsono pilgrimage complex》(1974、[fig.5])、《Wisma Kuwera》(1986–1999)があり、ロビ・スラルトによる《大阪万博インドネシア館》(1970)といった傑出した作品も生まれている。これらの作品にとっては、伝統的建築が調査対象となる一方で、合理的なモダニズムはデザインアプローチとして用いられた。

fig.5──Y.B.マングウィジャヤによる《Sendansono pilgrimage complex》は、現地のクラフトマンシップと近代技術と建築言語の総合体の展示である。

1990年代—現在

1990年代初頭には、インドネシア建築において重要な文化的変化が始まった。それは、1998年の変革──インドネシアの国民の生活のほとんどすべての様相に影響を及ぼした政治体制の変化(スハルト体制の終焉)──よりも少し早い時期のことだった。インドネシア建築の新たな文化は「インドネシア青年建築家(Arsitek Muda Indonesia/ AMI)」という名のグループによって始まった。マニフェスト★13を通じて、彼らは目的を次のように宣言した。「......理想主義のために戦う。建築の世界の明るい風潮のための理想主義、それはクリエイターとしての建築家に評価を与えてくれる。」彼らは、インドネシア建築界にデザイン批評をもたらした。議論やオープンハウス、展覧会というものは1980年代のインドネシアでは普及していなかった。同時に、マニフェストのなかで宣言されているように、彼らは生き生きとした精神とともに、インドネシアの建築デザインに対して、コンセプトや、形態、素材への新たな探求を提案している。その一例であるサルジョノ・サニによる《Duta Niaga House》(1993)は、勇敢にも住宅デザインにデコンストラクションの理論を導入している。

インドネシアの歴史上でも暗い時期のひとつとされる1998年の変革[訳者註──1998年5月、スハルトの退陣を求めるデモに参加していた学生らが何者かに銃殺されたことがきっかけとなり、ジャカルタ暴動が起きた]は、言論や集会の自由の保証や地方分権化、新しく正しい統治政府など明るい結果をもたらした。変革直後の経済停滞がゆっくりと解消された後、新しい経済と社会の人口動態の変化は、ますます多くの中年の高所得者層と中小の自営業者の層を生み出した。もちろん、変革以後の状況は、透明性が担保された入札制度の結果として、プロジェクトの数自体や種類、建築家にとってのクリエイティヴな余地や、政府のプロジェクトに関わる機会の増加など、より多くの建築プロジェクトを生んだ。最近の10年間、インドネシアの建築家たちは、一般の人や産業・商業の部門、マスメディア、政府機関の首長からの大きな理解を得ているとも言える。その結果は、さまざまな都市に広がりをみせる質の高い作品に確認できる。アンドラ・マーティン(によるジャカルタの《Andra Matin House》(2007–13)や、DCMによる《インドネシア大学図書館》(2007、[fig.6])、リザル・ムスリミン(Rizal Muslimin)による《西スマトラグランドモスク》 (2007、[fig.7])、バスコロ・テジョ(Baskoro Tedjo)による《Soekarno Blitar: Museum and Presidential Library 》(2003–2004) 、Budi Lim Architectによる《上海万博インドネシア館》(2010)などが、その例といえよう。彼らは、伝統的建築への参照と関連付けて自分たちの建築を表現し、現代の言語へと変化させるのだ。

fig.6──「古代インドネシア人は石板に英知を刻みつけた」という記録に着想を得た、DCMによる《インドネシア大学中央図書館》(2009)。現代技術の使用と機能、大学の未来像と態度を掛け渡した。

fig.7──《西スマトラグランドモスク》。リザル・ムスリミン(Urbane)設計で、巨大な4つの角の形状は勝利のデザインである。このモスクは地域の伝統と建築、イスラムの文化と価値を統合した最上の例であり、建物の形態に機能している。

この時期を締めくる陳述として、初となるヴェネチアビエンナーレ建築展への参加を通じて、インドネシアで建築がつくられる際の概略と傾向を見てみよう。2014年のヴェネチアビエンナーレ建築展のインドネシア館は、レム・コールハースによって与えられた「近代化の吸収:1914–2014」という全体テーマに答えるために、「クラフトマンシップ:物質の考え方」をテーマに掲げた。インドネシア館は、インドネシアでこの100年のあいだに起きた建築の実践と議論のダイナミクスと、建築を生産し創出する過程における根本的な物事、つまりクラフトマンシップの片鱗を見せた★14。インドネシアにおける建築の発展に関連して、インドネシア館でのクラフトマンシップは、発展と成長と進化へのインドネシア独特のアプローチとして示された。それらは、文化と地域性、意識的な決定/選択に深く起因し、インドネシアにおいて生活の質と綿密な関係を楽しむものだ★15

建築を語る方法としてのモダニズム

この節の題は、エイドリアン・フォーティによるモダニストの建築に対する解説に着想を受けている。彼によると、モダニストの建築は建物の新しい様式であることと同様に、建築を語る新たな方法でもあり、明瞭な語彙によって瞬時に認識されうると述べている。「形態」「空間」「デザイン」「オーダー」「構造」といった2つ、またはそれ以上の言葉はどこにでも同時に見つけられ、モダニストの対話の世界においてひとつはあると確信できる。これらの5つの言葉は、頻繁に双方の存在を通して定義され、繊細に存在し、また互いに対する関係性の均衡を不安定ながらも保っている。ひとつを乱すと、多くを乱すことになる。モダニストの対話がシステムを必要としていることが示すのは、とりわけ語彙の特徴だ★16

一方で何百年も前から、伝統的な建築は存在し、社会に役立ち続けている。その目標を果たしたという点において、疑うことなく、その成功を証明している。その定義を通して、「人間にとって根本的に必要であり、人間の住む社会と環境との複雑な関係性の結果」★17である伝統建築は、建築の理想的な役割を示し続けてきた。例えば、Limas house(南スマトラにある伝統建築)やRumah Gadang(ミナンカバウ文化の大きな住宅)、Rumah Joglo(伝統的なジャワの住宅)などから、個人や社会的な日常生活にとって、出産、結婚、葬式といった儀礼にとって、家がどのような場所か、また血縁関係がどのように家に表われているかを学ぶことができる。また、家のなかのそれぞれの要素がどのように活動や行事の目的を定義し、規定しているかもわかる。例えば、床のレベルや柱がプライベートスペースとセミプライベート、パブリックスペースとサービススペース、通路部分を分け、行事の際に向くべき方向や特定の使用者がどのようにふるまうべきかを指し示す[fig.8]

fig.8──ニアス島北部の楕円形の伝統住居。他の伝統住居の窓から眺めると、いかに環境と関係した形態かがわかる。

Y.B.マングウィジャヤによって「wastu citra」──生活(lebensanschauung)と美の完全性とのコンビネーション──であると提示されたこの理想的な役割は、建築の果たす機能とイメージによって示される。「機能は、恩恵ともたらされた〈利用〉、〈技術/能力〉を参照する:一方でイメージは〈意味〉を与える完全で総合的な理解の印象として表現され、家主の地位と尊厳についての精神的なレベルと「文化的な地位」と結びついている。この理想的な役割は、建築の語彙の先端的システムと、建築を語る方法を表現している。それはモダニストの建築と同様に普遍的な価値を共有し、加えて人間と社会の不可欠なつながりを与える。この性質にとって、伝統建築とはインドネシアのアイデンティティをもつインドネシア建築をつくること、また系譜への完璧な参照となる。

この理想的な役割は、Y.B.マングウィジャヤ★18によって、生活(lebensanschauung)と美の完全性のコンビネーションという意味の「wastu citra」として提示され、建築の用途と建築によって果たされるイメージによって示される★19。「用途」は利点と受容される「機能」「技術/能力面」と関連する。一方でイメージは完全で総合的な理解力の影響として表現されるもので、(家主の地位と尊厳についての)「精神的なレベル」「文化的なレベル」で人々に「意味」を与える★20。この理想的な役割は、建築の語彙、つまり建築を語る方法の先端的なシステムを表現している。モダニストの建築が人間と社会の不可欠なつながりを与えること以外の、同様の普遍的価値を共有している。この性質にとって、伝統建築とはインドネシアのアイデンティティをもつインドネシア建築をつくること、また系譜への完璧な参照となる[fig.9]

fig.9──テンガナン伝統集落(バリ)は、宗教、人、環境の相互作用として、プライベート、パブリック、神聖な空間へと区別された好例である。

エピローグ

終わりに、2つのことが言えるだろう。第一に、インドネシア建築の発展という歴史におけるモダニズムは、各時代において異なるルールのもと振舞っていること。それは、1920–40年代においては、2つの文明のあいだの架け橋である。1950–60年代においては、インドネシアの解説もしくは表現へと変化した。そして、1970–80年代にはアプローチとして、1990年代以降は文化的起源に対するコミュニケーションの言語として使われた。第二に、「インドネシアにおいてなぜモダニズムが継承されるのか」という理由は、ハイネンの3つのモダニズムの意味(現在性、新鮮さ、新しさ)と先に述べたことを思い起こすことで下記のように言えるだろう。

1.モダニズムは、その時分に従ってより良いインドネシア社会をつくるための道具を与えている。

2.モダニズムは、建築家にとってクリエイティヴであるためのコンテクストを与えている。現代と伝統、もしくは現在と過去の対立は、現代インドネシア社会によって実際に直面しているが、インドネシア人にとって、過去から離脱することもほとんど不可能というのも真実である。過去は常に個人特性に起因し、その時代に見られるものだ。当然、過去を受け入れ、無視し、もしくは交渉する解決策を提案するよう建築家を刺激する。

3.建築におけるモダニズム──特にコンテクストを必要としない普遍的な価値を伴うもの──は、探求する枠組みや秩序と、新しいアイデアの思考、使用者にとっての建築の本質に対して批評的であることを与えてくれる。

4.本質的にモダニズムはインドネシアの一部に埋め込まれている。モダニズムは社会の需要を満たすために順応しつつ思い起こされ、使われるだろう。


翻訳=椚座基通(東北大学大学院博士課程)




★1──ヌサンタラとは、12–16世紀のジャワ文学の専門用語であり、2つの大陸と2つの海のあいだに位置する島々の集まりを説明するのに用いられる
★2──Hilde Heynen, Architecture and Modernity: A Critique, The MIT Press, 1999. ★3──Avianti Armand et al. ed., Craftsmanship: Material Consciousness, PT IMAJI Media Pusata, p.9より引用
★4──1920–30年代の解説においては「インドネシア」という単語は、インドネシアのもつ独立した行政区域や地域のコミュニティの類似点を示すために使用する。植民地時代、特に早期は、植民地政策が、各地方や王朝が独自の指導者や王をもつ「インドネシア」の各地方に対して敷かれた。
★5──オランダ領インドとはオランダの植民地時代にインドネシアをかつて表現した名称である
★6──Gouda, 1995 as cited in Abidin Kusno, Behind the Postcolonial: Architecture, Urban Space and Political Cultures In Indonesia, Routledge, 2000, p.29より引用
★7──Tropical Modernity — Life and Work of C.P. Wolff Schoemaker, Sun, 2009
★8──熱帯オランダ様式(Tropical Netherlands)はヨーロッパから持ち込まれた様式で、現地の気候解決策を用いて建てられた建物を表現するAbidin Kusnoの言葉である(★6を参照)
★9──★6 p.32
★10──リンガ・ヨニ(Lingga-yoni)とは、しばしばヒンドゥー教の寺院に見られる豊穣のシンボルである
★11──Tegang Bentang, Gramedia Pustaka Utama, 2012, p.61
★12──ここでの「真面目さ」と「滑稽さ」とは各様式の建築的特徴の実施の質についてである
★13──Irianto P.H. and Yori Antar ed., AMI: Perjalanan 1999, 1999
★14──同上
★15──同上
★16──Adrian Forty, Words and Buildings: A Vocabulary of Modern Architecture, Thames & Hudson, 2004, p.19
★17──William S. W. Lim , Tan Hock Beng, Contemporary vernacular : evoking traditions in Asian Architecture, Singapore:Select Books, 1998, p.20
★18──Y.B.マングウィジャヤは牧師、学者、建築家、文化人である。彼は各分野に大きな影響を与え、建築分野においては『Wastu Citra』を出版した。《カンプンコード(Kanpung Code/ジョグジャカルタのスラム)再生計画》でアガ・カーン賞を受賞。
★19──Y. B. Mangunwijaya, Wastu Citra, Gramedia Pustaka Utama, 2009
★20──『Wastu Citra』中に書かれた文章。文章中の大文字は原文のままである(翻訳文中は〈〉で示した)。




Harry Kurniawan(ハリー・カーニアワン)
1980年インドネシア・パレンバン生まれ。現在東北大学大学院工学研究科博士過程後期在籍。ガジャ・マダ大学修士課程修了後、2009年より同大学講師。2011年、2010年に新聞上に発表した記事がインドネシア建築家協会建築著作賞を受賞。著書=『Arsitektur Minimalis: Memahami Minimal dalam Arsitektur(ミニマリストの建築:建築のミニマムの理解)』(2013),『Perancangan Aksesibilitas untuk fasilitas Publik(公共施設のためのアクセスシビリティデザイン)』(2014)。

椚座基道(くぬぎざ・もとみち)
1989年生まれ。2014年東北大学大学院工学研究科博士過程前期修了、現在、同博士過程後期在籍。著書=『デザイン化される映像』(共著、フィルムアート社、2014)『高層建築が一番わかる (しくみ図解)』(共著、技術評論社、2014)。寄稿=『おかしな建築の歴史』(五十嵐太郎編、エクスナレッジ、2013)、『図面でひもとく名建築』(五十嵐太郎・菊地尊也編著、丸善、2016)ほか。


  1. インドネシア、なぜモダニズムは継承されるのか
  2. Indonesia — Why Modernism is Inherited

201610

特集 グローバリズム以降の東南アジア
──近代建築保存と現代都市の構築


社会の課題から東南アジアの建築を考える
マレーシア・カンボジア・シンガポール紀行──近現代建築の同質性と多様性
インドネシア、なぜモダニズムは継承されるのか
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