社会の課題から東南アジアの建築を考える

村松伸(建築史・都市史)+山名善之(建築史・意匠学)+岩元真明(建築家)+市川紘司(中国近現代建築史)

国民(ネーション)と国家(ステート)

山名──岩元さんの発表に、国民(ネーション)と国家(ステート)の概念が出てきましたが、国家という概念ができる前から国民はあったということでもありました。それはフランスでも同じことが言えますね。例えばクーデター(coup d'État)を起こすということは、文字通り国家(État)を撃つ(coup)ものの、国民はその後も引き継がれる。似たような状況は他の国でも起こっていたということですよね。

岩元──1950–70年代は新興国のみならず、世界的に国家建築家(ステートアーキテクト)の時代でした。例えばフランスでは戦後復興のために国家建築家が活躍しており、モリヴァンの師であるボザールのルイ・アレッシェもそのひとりです。しかし、新自由主義の時代になると国家建築家は徐々に影をひそめていきました。かたや新興国では、ナショナル・アイデンティティとなる建築のほか、インフラストラクチャー、社会住宅、官庁舎の整備など、西洋的なシステムに範をおいた国民国家に必要な一揃えをつくるために、国家建築家が不可欠でした。

村松──ある地域に奉仕しながら建築をつくる人が出てくるという現象は、近代特有のものなのでしょうか。徳川幕府に仕えて江戸城をつくった中井家や紫禁城をつくった雷家、はたまた宮廷建築家もそうですが、彼らと国家建築家にはどのような違いがあると言えますか。

岩元──一般市民が政治に参画するシステムを持つのが近代的な国家と考えると、そのような国家が成立する前後で、建築家が参画する範囲は大きく異なるのではないかと思います。

市川──モリヴァンが国家建築家として国家的建築をつくるとき、カンボジアの伝統建築のモデルとしてアンコール・ワットを持ち出していると聞きました。けれどもカンボジアにはヒンドゥーとは関連のない古建築も伝統的には存在するから、ここで伝統の選択が行なわれているわけですね。そうした非アンコール建築にあらためて伝統を見出し、新たな国民的建築(ナショナルアーキテクチャー)をつくりだす動きはあったりするのでしょうか。

岩元真明氏
岩元──カンボジアのアンコール遺跡は、現在まで継承されている王家の建築であるという意味で伝統的とされています。ただしモリヴァン自身は、そうした伝統を引き継ぐ一方で、カンボジアのヴァナキュラーな木造建築にも注目し、近代的な表現と結びつけた住宅を設計しています。モリヴァンという1人の建築家のなかで、宮廷的な表現と民衆的な表現が対置されていたわけです。
ナショナル・アイデンティティを模索する上で、このように2つの源流を見出す傾向は他の新興国にも見受けられます。例えばナチス・ドイツの時代には、アーリア人の起源とされたギリシアに範をとった新古典主義建築が建てられる一方、勾配屋根を持つ民族的(フェルキッシュ)な農村建築が参照されていました(八束はじめ、小山明『未完の帝国──ナチス・ドイツの建築と都市』福武書店、1991)。オスカー・ニーマイヤーも、コロニアル・バロックの伝統と風土的な建築を統合したと言われています。日本の縄文/弥生論争における「宮廷的な弥生 vs. 民衆的な縄文」の構図もその一例です。伝統に2つの源流を求め、その対立や統合を考えることは、新興国において典型的な議論なのです。現代の傾向にあてはめてみると、SEAは民衆寄りの現象として捉えることができそうです。

市川──「宮廷的な弥生 vs. 民衆的な縄文」という対立は、中国でも似たことが「北方 vs. 南方」という構図で起こっています。北方の宮殿社寺建築をフィーチャーするか、南方の文人庭園や民居をフィーチャーするか、というものです。現代でも中国は国民的建築を押し出そうとするところがあって、例えば王澍(ワン・シュウ)のプリツカー賞の授賞式は北京の人民大会堂で行なわれました。ようやく国際的に認められる建築家が中国にも現われたということで、国を挙げて押し出そうとしたわけです。しかし彼自身は浙江省を拠点にして、国の中央=北京にはあまり寄り付かない文人的スタンスを採っているので、国のお膳立てにはあまり応えようとしませんでしたね。

岩元──先ほどの区分でいえば王澍は国民的建築家だけれども国家建築家ではないということですね。国民(ナショナル)/国家(ステート)のフレームで考えると見通しがよくなる部分が少なからずあります。例えば丹下健三も、国民的建築家(ナショナルアーキテクト)だけれど国家建築家(ステートアーキテクト)ではなかったといえそうです。ただし下河辺淳との関係があるので少し違うのかもしれませんが。

山名──丹下は国家建築家でもあったと思いますよ(笑)。国民的建築家を存在させる動きは、とりわけアジアの近代に色濃く現われます。まだ国として安定しておらず、アイデンティティを打ち出す必要がある地域ほど国民的建築家が求められたわけです。戦後日本で丹下健三が活躍したのも同様の背景があったのだと思います。

村松──国家(ステート)としての吸引力となるシンボルとして、建築の造形性が求められたということでしょう。絵画や音楽、スポーツでもそうですね。
岩元さんの発表の最後に、日本人は東南アジアにどのように関わることができるのか、という問いがでてきましたが、ご自身は建築のつくり手としてどこに落ち着こうと考えていますか。

岩元──今年の4月に九州に引っ越して以来、東京を介さずに東南アジアと直接つながることができないか、と考えています。ただし、最近は先ほど例にあげたBrexit(イギリスのEU離脱)やカタロニアの独立運動など、汎国家的な共同体(ユニオン)が弱体化する兆しが見え始め、単純な国民国家に戻ろうとする傾向も見受けられます。1990年代以降、グローバルな金融資本主義は建築をつくるうえで唯一の枠組みと言えるものでしたが、そこに綻びが見え始めているのだと思います。そこで、現在とはまったく異なるロジックが敷かれていた1950年代から1970年代についてまずは捉えなおしたいと思い、研究を進めています。

東南アジアの未来

山名──ASEANも共同体のひとつですが、EUとは違った取り組みを考えていく必要があります。mASEANaプロジェクトは教条的な教育機関ではありませんが、各地域での近代建築遺産に対する意識を高めるという意味では教育的です。近代建築を文化遺産としてみる土壌がASEANのなかには醸成されていないため、一緒につくりあげていくことが必要です。その時にヨーロッパ中心主義の価値観を押し付けないように注意する必要があります。

村松伸氏
村松──ここで試みようとしているのは、各国の都市遺産リテラシーの向上ですね。それぞれ固有の遺産をどのように活用できるのかを一緒に考える。そして各国の法律や都市ヴィジョンに活かされていくような状況をつくっていきます。彼らの自発的な意見のもと、一緒に考え議論を続けることが重要です。モダン・ムーヴメントの建築だからと無条件に保存するのではなく、その建築物が都市にどのような影響を与えているのか、あるいはその建築を利用することでどのように豊かな生活を享受できるのかを考えなくてはいけない。

山名──そうですね。過去を見るだけではなくて、将来を今の文化遺産とともにつくりあげる視点が必要です。しかしその際に課題となるのが、国家(ステート)の変化による価値観の変化です。例えば、ベトナム国民にとってフランス統治時代の建築物は良い印象を持たれていません。韓国における日本統治時代の建築物も同じです。このように国家が変わると文化的意義も相対的に変わってしまうため、オーセンティックな視点で判断できなくなってしまいます。近代建築全体を見渡せる長いヴィジョンによって、過去の植民地化もひとつの歴史であり、現在につながっているのだと捉えるべきかと思います。もちろん文化的意義ということを捉えるうえでは、個人の恣意性が入らざるを得ませんが、それからいかに離れながら全体を俯瞰できるかが問われますね。

村松──かつて藤森照信さんたちは、日本国内をくまなく歩いて『日本近代建築総覧』をつくりました。この時も初めから選考基準があったのではなく、すべてを見ることによって日本の近代建築史は豊かになった。私たちがアジアで行なっている悉皆調査も同じヴィジョンです。ASEANでも同じように一緒に総覧を制作したいと考えています。

岩元──ASEAN全体で近代建築の研究を行なうと、それぞれの国・地域における差異や同質性も見つかると思います。

村松──そうした研究意義ももちろん重要ですが、住んでいる人たちにとって街をよりよいものにするための手段だと考えています。モダン・ムーヴメントの時代は、土を掘り返し新しく何かを構築することが豊かさにつながったのでしょう。しかし今は現存する遺産を利用することが豊かさにつながるのです。

市川──アジアの複数の「moderns」を研究することで、自国の小文字の「modern」も違って見えてくるのかもしれません。最近村松さんが取り組んでいらっしゃる「なかなか遺産」の取り組みは、ASEAN各国でのmodernの調査の国内へのフィードバックなのかと思いながら聞いていました。

村松──そうかもしれません。日本でもアジアでも、複数の歴史=世界の別の見方を提示し、本当の意味での「近代建築史」を書くことが必要です。

地球全体の問題に答える

岩元──村松さんのお話にあった大文字の「The Modern」の課題に対しては、どのような建築が考えうるでしょうか。

村松──気候変動、海洋の酸性化、資源枯渇などの世界規模の課題に対する答えですね。それを解決できるのがはたして建築なのかはわかりません。しかし、人類共通の課題に対して共通の解決方法を見出さなくてはならない。かつてのモダン・ムーヴメントは、共通の課題に対して答えようとした運動だったとも考えられます。

山名──国民国家をはじめとする近代国家の成立とモダン・ムーヴメントのロジックは相性がよかったので、世界中で近代国家が成立するときにそれぞれの国で導入されやすかったのでしょう。しかし、ヨーロッパも大きな目標を掲げた理想主義から脱却しはじめています。例えばEUの弱体化などですね。これが進むとヨーロッパという枠組みは無くなるだろうし、国家という言葉の重みもなくなってきます。アジアの国民国家のあり方についても、どこかでそんなもの意味がないということになってくるかもしれません。
その一方で、村松さんが提示されたような人類共通の課題の解決が難しいために、目の前の具体的な問題を解こうとしている。SEAはその象徴のようにも見えます。

岩元──ソ連崩壊以前は中国へ渡ること自体が困難な時代だったと聞きます。村松さんはその時代に清華大学で学び、中国・アジア研究を始められました。その後「Japan as Number one」の波に乗るように、日本ではアジア研究が加速したという印象があります。一方、市川さんや私の世代は、日本国内の建設産業が縮小していく時代に建築を学び始めました。そのため建築家としての可能性を広げるためにアジアを視野に入れたところがあります。

市川──中国で言えば、それがピークだったのがゼロ年代前半ですね。迫慶一郎さんや松原弘典さんが、中国では日本では考えられないようなビッグプロジェクトが若手にも巡ってくると伝えた。実際、私が北京にいた2010年代前半にも、そういう若い日本人建築家が大勢いました。ただ、最近は中国も経済成長は鈍化しているし、留学帰りのドメスティックな建築家が力量をつけてきたりで、日本で建築を勉強したからといっておいしい汁をそう簡単に味わえなくなっているように見えます。東日本大震災以後、日本では若手建築家はリノベーションやまちづくりなど、小さなプロジェクトを展開していくことが多くなっていますが、中国の日本人建築家を見てみても四合院改修とか、似たようなスケールになってきている。最近、一般メディアに出て人気を集めている青山周平さんという迫事務所出身の建築家が北京にいますが、彼が注目されたのもマイクロスケールの雑院(数世帯雑居で違法増築された四合院)の丁寧な改修仕事です。こういう状況に対して、東南アジアはどうでしょうか?

岩元──そうですね、実際にベトナムへ行くと、日本国内では経験できない規模のプロジェクトを手がけることができました。急速に発展している地域を設計対象とするのは建築家としては当然のことだとは思います。一方で、中国の次は中東、その次は東南アジア、と言った具合にマーケットの開拓が繰り返されているだけならば、虚しさも感じます。

山名──この時代、拡大し続けるマーケット像には現実味がないかと思っていました。

岩元──ベトナムで設計をしていて、日本の地方における問題とアジアにおける問題が接近していると感じました。それが日本へ戻ろうと思ったきっかけのひとつです。今は日本の地方都市でローコストの住宅に取り組んでいますが、ベトナムの低所得者住宅開発で得た知見を利用しています。アジアはフロンティアとして攻める対象ではなく、お互いに学び合う存在になったと思います。日本も東南アジアも、同じアジアモンスーン地域ですから、共通点が少なからずあります。
ところが、日本では2020年から住宅も省エネ基準に適合することが義務化されます。国の定める省エネ基準は基本的に高密度高断熱を誘導するもので、これは温帯以北の欧米的な考え方です。ボトムアップとしての意義はあるのかもしれませんが、日本のようなアジア蒸暑地域には別の道があるのではないでしょうか。東南アジアの建築のおおらかな対応から学ぶところもあると思うのですが。
ジェフリー・バワがル・コルビュジエのチャンディガールを訪れた時に、これが建築の未来だとすると自分は受け入れられないと言ったそうです(岩本弘光『解読ジェフリー・バワの建築―スリランカの「アニミズム・モダン」』彰国社、2015)。ヨーロッパのモダン・ムーヴメントの原理と蒸暑地域の気候は合わないところがありますよね。

山名──そのとおりです。アジア蒸暑地域の気候、風土に対応する近代建築として、坂倉準三「タイ国文部省職能教育学校施設改善計画」(1966–70)の事例を紹介しましょう。これは、タイの気候に対応する近代建築として庇の確保や通気性を意識して設計されました。今年に入って現状調査のために訪れたのですが、タイでも小中学校のエアコン完備が義務付けられたため、すべての窓にガラスがはまっていました[fig.14–16]。通気性確保のためにさまざまな場所に開口が取られていたのですが、どこかの開口部から迷い込んだ鳥が出られなくなってしまっていて、バタバタとガラスに当たる様を見ていて、本来の快適さが失われ窮屈な建物になってしまったと感じました。

fig.14──《ナコンスリタマラ農業学校 学生寮》

fig.15──《ピサヌローク農業カレッジ 管理教室棟前歩道》

fig.16──《ピサヌローク農業カレッジ 新教室棟(元学生寮)》
fig.14–16 提供=東京理科大学山名研究室

村松──シンガポールは都市全体が同じような状況ですね。しかしここ数年、アジアの都市は皆シンガポールをモデルにしています。

山名──シンガポールの経済成長は著しく好景気に沸いていますから、他国が目指したくなるのは当然かもしれません。しかし、そうした経済的な流れから早いところ脱しないと、墓標のような建築ばかりが建ってしまいます。

市川──そうした状況を打開するためには、まずは「近代化」として国家が描いたストーリー以外の事実を掘り起こす必要があるかと思います。私は中国の天安門広場の近代史を博士論文の題材にしているのですが、問題意識としてはここにあります。「建国の聖地」として、中国のなかでも飛び抜けてデリケートな空間であるため、天安門広場には未だに中国共産党の革命史観を踏み外すような歴史研究が大陸にはないんですね。逆に欧米になると1989年の「天安門事件」のほうに引っ張られてしまって、こちらもけっこう偏向がある。ただ、「公共広場」という都市近代化を経て中国に誕生したこの空間は、本来ひとつの史観に回収できないもっと多様な読み取りができる歴史があって、そこには日本や列強諸国との関係もあって、掘り起こすことには価値があるだろうと。政治的にきわめて危うい天安門広場はかなり極端な例ですが、近代化の歴史がひとつではないことは、近代を経た建築や都市空間すべてに言えることですよね。

村松──複数の歴史を掘り起こすというわけですね。現在ある公式の歴史とされてきた歴史性、モダンとは違う像を掘り起こすことで人々の記憶を再編成していくという点で、これからmASEANaプロジェクトをやる意義ともつながってくるでしょう。

岩元──歴史研究、比較研究にはアウラを剥ぎとる役割があると思います。私も各国の国家建築家を比較することで、彼らに典型的な手法や態度が見えてきました。丹下健三やニーマイヤー、東南アジアで言えばモリヴァンなどの近代建築家は、1人だけを取り出すと神様のような、天才的建築家に見えるのですが、比較して相対化すると、彼らを取り巻いていた状況が把握されます。過度な評価を取り除くと、その人の創作力が精確に見えてきます。

山名──国際交流基金の協力を得て、mASEANaプロジェクトの活動が、昨年11月から始まりました。ASEAN或いはASIAの研究者、専門家とのネットワークが具体化しつつあります。ケネス・フランプトンの批判的地域主義の枠組みで日本を含めたアジアをモダン・ムーブメントの相対化のなかで見ようとする傾向があります。しかし、それだけの視点でASEANの近現代建築を捉えようとすると、結局、ヨーロッパ的視点を経由しての理解になってしまいます。今後、数年かけてインヴェントリーをつくることを目指して、フィールドワークを続けることから理解を始めようと思います。




[2016年9月14日、LIXIL: GINZAにて]




★1──台湾では1949年から1987年まで、中国本土より撤退してきた国民政府によって戒厳令が布かれ、約38年間に渡る独裁政治と言論弾圧が行なわれた。



村松伸(むらまつ・しん)
1954年生まれ。総合地球環境学研究所教授、東京大学生産技術研究所教授。建築史、都市史、都市環境文化資源開発学。著書=『中華中毒──中国的空間の解剖学』(ちくま学芸文庫、2003)、『シブヤ遺産』(バジリコ、2010)ほか。監修=『アジア建築研究──トランスアーキテクチャー/トランスアーバニズム』(LIXIL出版、1999)、編著=「メガシティ・シリーズ[全6巻]」(東京大学出版会、2016)。

山名善之(やまな・よしゆき)
1966年生まれ。建築史・意匠学。フランス政府公認建築家DPLG、東京理科大学教授。docomomo Japan副代表。パリ・ベルヴィル建築学校DPLG課程、パリ大学パンテオン・ソルボンヌ校博士課程修了。2002年より東京理科大学勤務。著書=『サヴォア邸──建築家 ル・コルビュジエ』(バナナブックス、2007)、『en[縁]:アート・オブ・ネクサス』(共著、TOTO出版、2016)ほか。

岩元真明(いわもと・まさあき)
1982年生まれ。建築家。ICADA共同主宰。2006年シュトゥットガルト大学ILEK研究員。2008年東京大学大学院修了後、難波和彦+界工作舎勤務。2011–15年ヴォ・チョン・ギア・アーキテクツ勤務(パートナー兼ホーチミン事務所所長)。2015年よりICADA共同主宰。2016年より九州大学芸術工学研究院助教。共訳=ロベルト・ガルジャーニ『レム・コールハース|OMA──驚異の構築』(難波和彦監訳、鹿島出版会、2015)。URL=http://icada.asia/wp/

市川紘司(いちかわ・こうじ)
1985年生まれ。中国近現代建築史。東北大学大学院博士課程。東京藝術大学教育研究助手。2013年から2015年まで中国政府奨学金留学生(高級進修生)として清華大学に留学。編著=『中国当代建築──北京オリンピック、上海万博以後』(編著、フリックスタジオ、2014)。共著=『中国的建築処世術』(彰国社、2014)、『20世紀の思想から考える、これからの都市・建築』(彰国社、2016)ほか。


201610

特集 グローバリズム以降の東南アジア
──近代建築保存と現代都市の構築


社会の課題から東南アジアの建築を考える
マレーシア・カンボジア・シンガポール紀行──近現代建築の同質性と多様性
インドネシア、なぜモダニズムは継承されるのか
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