ポストメディア都市と情動資本主義の回路
──YouTuber、「恋するフォーチュンクッキー」、Pokémon GO
──YouTuber、「恋するフォーチュンクッキー」、Pokémon GO
今年の初夏の頃、JR大阪駅付近の地下街でYouTubeが大規模な街頭広告キャンペーンを打っているのを見て、なにやらもやもやした複雑な気分になった。件の広告は、「好きなことで、生きていく」というキャッチフレーズでYouTubeが2014年から展開しているプロモーションの一環であり、いわゆるYouTuberが一組と二人取り上げられている。学ラン姿で歴史ネタのダンスを披露する男性二人組(エグスプロージョン)、自分の顔を実験台にしてメイクアップの技を披露する看護師の女性(関根りさ)、洋楽の日本語カバー動画でブレイクしてメジャーデビューした女性歌手(MACO)。私はこの広告を目にするまで彼らのうちの誰も知らなかったが、それぞれ数十万規模のチャンネル登録者数を持つ人気YouTuberであるらしい。街頭広告では、巨大に引き延ばされたそれぞれの写真に本人たちによる手書きのメッセージが添えられ、その下方に「好きなことで、生きていく」というキャッチコピーが添えられている。その全体が、ポジティヴでハッピーで害のなさそうな雰囲気にあふれている。
彼らは清潔感のあるスマートな風貌をしており、しかし、ずば抜けた容姿に恵まれているわけは必ずしもない。また、特にあくが強かったり個性的すぎたりはせず、そつがなく感じのよさそうな雰囲気であり、しかし、人並み外れた才能や努力の持ち主のようにはあまり見えない。要するに彼らは万人受けしそうな無難なキャラクターの持ち主であり、一般市民に対して、ことによったら自分も彼らのようになり得たかも、とは思わせないにせよ、自分とかけ離れた存在のようにはあまり感じさせないのである 。
YouTuberとは一般に、YouTube上に自分のチャンネルを持ち、定期的に動画をアップロードし続け、YouTubeとのパートナーシップに基づき、動画再生回数に応じてYouTubeの広告収入の一部を受け取っている人たちのことである。一部の人気YouTuberは相当な額の収入を得ていると言われている。実際、上記の「好きなことで、生きていく」キャンペーンに起用されるようなYouTuberたちは、なんらかのかたちでプロダクション会社やマネージメント会社と関わりを持っており、事実上、YouTubeを活動の舞台としている芸能人と呼ぶのがふさわしい。その点で、YouTuberたちの活動は、テレビメディアで無名の新人が一躍スターダムにのし上がっては忘れ去られていくのと構造上変わるところがない。「好きなことで、生きていく」というキャンペーンは、ごく普通の一般市民が自分の活動を動画にしてYouTube上で共有し、さらにはささやかな生活の糧も得る、そんな舞台をYouTubeが提供してくれているという肯定的で幸福感に満ちあふれた印象をつくりだしているが、そこにはもちろん明らかな欺瞞がある。
しかし、私が冒頭で表明したもやもや感は、そのような欺瞞を感じとっただけのものではなかったように思う。ここで適切な比較の対象となるのは、iPhoneの街頭広告であろう。広告全面に美しい写真が大きく引き伸ばされ、その下方に「iPhone 6で撮影」という文言とともにアップルのロゴと撮影者の名前が添えられているものである。つまり、iPhoneのカメラ機能は、これだけ大きく引き延ばしても鑑賞に耐えられるクオリティの写真を撮影できます、とアピールしているわけだ。YouTubeとiPhoneの街頭広告は、両者とも、それらを実際に活用しているユーザーを起用し、シンプルで分かりやすいメッセージを打ち出しているという点で、比較的似た趣向のものであると言って差し支えない。また、iPhoneの広告にせよ、いかにiPhoneのカメラ機能が優れているとしても、特に写真撮影の技術やセンスを持っていない一般ユーザーが街頭広告に使用されているようなクオリティの写真を撮影できるわけはないのだから、YouTubeの広告と同じ種類の欺瞞を抱えている。しかし、両者の背後で働いている広告のロジックはずいぶん異なるものである。
iPhoneの広告は、非常に単純でストレートなロジックによって成り立っている。つまり、iPhoneはこれだけ優れたカメラ機能を持っています、だからiPhoneを買ってください、というわけだ。一般的に広告は、商品を宣伝し、その結果、広告を見た者が商品を購入することで、広告を打つための宣伝費が回収できる、という経済的枠組みによって成り立っている。iPhoneの広告は、この仕組みをお手本のように遵守している。YouTubeの広告はそうではない。もちろん、YouTubeの広告も、もっとYouTubeを視聴してくださいと宣伝しているのだが、YouTubeの視聴自体は無償である。YouTubeの広告を見た者が、その結果YouTubeで動画を再生したとしても、それに対して対価は発生しない 。そのかわりに、動画の再生ボタンをクリックする度に、YouTubeのプラットフォームに対して広告収入が入ってくる。YouTubeの視聴者は、動画を再生する度に、いわばYouTubeに対してある種の労働を奉仕しているのである。この場合、YouTube動画の消費者は、その消費という行為において同時に労働者であり、しかも消費と労働の両方が無償で行なわれる。
このような消費=労働のあり方を、マウリツィオ・ラッツァラートらが提起した非物質的労働の概念になぞらえて、非物質的消費=労働と名付けることが適切である。ラッツァラートによれば、非物質的労働とは、脱工業化社会において優勢となった、「知的かつ非物質的なコミュニケーションにもとづく労働力」のことである。アントニオ・ネグリとマイケル・ハートは、この概念を拡張的に定義しなおして、そこに「情動を生産し操作することからなる労働」──ケア労働、対人サービス、娯楽産業など──を含めることを提案した 。とするならば、数々の動画をとり揃えたYouTubeは、個々の視聴者に対して情動的な労働を提供するプラットフォームなのであり、しかし、視聴者もまた、動画を消費し、みずからの身体に情動を充満させては放出することで、非物質的労働に従事しているのである。
この点で、AKB48「恋するフォーチュンクッキー」(2014)のミュージック・ヴィデオは範例的である。このソウル調の軽快な楽曲のMVにおける主要なシーンは、撮影のために借り切った大通りで仮設のDJブースを背景にAKB48のメンバーがダンスを披露するものである。しかし、このMVではそれ以外に、大勢の素人たちが同じ振り付けのダンスを披露する姿を捉えたショットが、各ショット2秒ほどで目まぐるしくモンタージュされている。登場する人たちは、会社員、タクシー運転手、漁師、プロレスラー、キャバクラ嬢、幼稚園児、女子高生、それに吹奏学部や剣道部などクラブ活動のコスチュームに身を包んだ高校生とさまざまである。MVには、AKB48のメンバーが素人たちに振り付けを指導する映像も含まれている。
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- AKB48「恋するフォーチュンクッキー」
MVより
それだけではない。それに加えてYouTube上には、このMVの無数のバリエーションが存在しており、それらのヴィデオで、さまざまな企業、大学、地方自治体のメンバーたちがこの曲のダンスを披露しているのである。もっとも、これだけなら、YouTubeやニコニコ動画上に無数に存在する、いわゆる「歌ってみた」や「踊ってみた」動画、すなわち、多くの場合アマチュアや無名のプロが、有名な楽曲の歌やダンスを披露する動画と変わるところがない。しかし、「歌ってみた」や「踊ってみた」動画のほとんどが、著作権法上のグレーゾーンで非公認に投稿されている海賊的行為であるのに対し、「恋するフォーチュンクッキー」のヴァリエーション動画の場合、その多くがAKB48の公式チャンネルに登録されている。それだけでなく、「恋するフォーチュンクッキー」の本来のMV自体が、AKB48のメンバーに指導を受けながら素人たちがダンスを模倣するという物語を内包しており、したがって、そこから無数のヴァリエーションを派生させることは、この楽曲のプロモーションの一部として最初から計画されたものと読み解くことが可能のなのである。
実際、この曲は、比較的単純な振り付けで構成されており、誰でもそれなりに模倣することが可能である。けれども、ところどころダンスの心得がない者にとって完全に再現するのが難しい動きも含まれている。したがって、それぞれの派生動画では、ダンスを披露する人たちの身体性に応じて、無数のヴァリーションのダンスが産み出されることになる。個人的な感想を述べるなら、さまざまな人たちがそれぞれの身体性を発揮して、いかにも楽しそうに踊っている姿は見ていて飽きることがなく、ついついいろんなヴァージョンの動画を再生し続けてしまう。とりわけ、これらの動画のなかには、普段マスメディアの注目を集めることが比較的少ない地方自治体や企業によるものが多数含まれており、彼らがダンスを通じて自分たちの活動をアピールする姿はなんだかほほえましい気分にさせられる。けれどももちろん、それらの動画に出演している者たちも、視聴している者たちも、結局のところ、同じ楽曲のMVを繰り返し再生させ続けるために案出された枠組みに奉仕しているのである。ここには、情動的な労働=消費の回路をつくり出し、そこから価値と富を吸い上げる新たな資本主義の機構を明瞭に見てとることができる。それを、認知資本主義──知的で非物質的な生産が優位を占めるようになった資本主義の段階──になぞらえて、情動資本主義と呼ぶことができるだろう 。
冒頭で言及したYouTubeの街頭広告は、ある意味で、こうした情動資本主義が作動する回路を都市空間において可視化している。とはいえ、それは秘やかなものである。すでに述べたように、広告に登場するYouTuberたちを私は誰も知らなかった。端的に、彼らの動画が私のYouTube画面に「あなたへのおすすめ」として挙がってくることがなかったからである。よく言われるように、YouTubeはじめ、一般にいわゆるWeb2.0以降のインターネットは、各ユーザーに自分の見たいものだけを見せるプラットフォームである。既存のマスメディアの場合と異なり、各ユーザーは、自分の興味関心の範囲内に閉じた空間をインターネット内部につくり出し、その外の世界をとことん知ることがない。街頭広告は、そのことを通りがかった誰の眼にも見えるかたちで可視化する。しかし、それと同時に、「好きなことで、生きていく」という耳あたりのよい標語でそのことを隠蔽するのである。
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大阪市内の私の家の近所に扇町公園という公園がある。大きな広場があるこの公園は、普段は子ども連れの家族の憩いの場であるが、電車でのアクセスの良さも手伝って、メーデーなどの集会やデモの出発地点として用いられることも多い。ところが、Pokémon GOの日本でのリリース以来、この公園はかつてなかったような種類の活況を催している。どうやらこの公園は、大阪でも有数のPokémon GOのスポットとして知られているようなのである。Pokémon GOのリリース直後の7月末に、たまたま深夜にこの公園を横切る機会があったが(その時点で私はまだPokémon GOを始めていなかった)、そこには大量のプレイヤーたちが、うつむき加減の姿勢でスマートフォンの画面に没頭し、ゾンビのようにのろのろと歩いては立ち止まっている姿があった。
すでによく知られているように、Pokémon GOとは拡張現実型のスマートフォン向けゲームアプリである。アプリはスマートフォンのGPS信号を取得してプレイヤーの現在地点をアプリ内の地図に表示しているのだが、その地図には「ポケストップ」や「ジム」と呼ばれるスポットが配置されており、また、ときおり地図上のプレイヤー付近の場所にモンスターが現われる。ゲームは、街を歩きながらモンスターが現われたら捕獲し、街中に点在するポケストップでアイテムを獲得し、ジムで自分のモンスターをバトルさせることで進行する。ゲームを進めるためには、とにかく街を歩きまわってたくさんのポケストップをめぐり、モンスターを捕獲したりバトルしたりするために必要なアイテムを獲得し続けることが必要であるが、ポケストップは、寺社仏閣、教会や特徴のある建築物、街頭のモニュメントや彫刻、壁画などに設置されていることが多い 。したがって、必然的にポケストップは郊外よりも都市に集中しており、Pokémon GOは都会でプレイするのが適したゲームである。
- Pokémon GO ウェブサイト
http://pokemongo.nianticlabs.com/ja/
例えば先に挙げた扇町公園の場合、広いと言っても10分ほどで一周できる規模の敷地内に十数個のポケストップが密集しており、その上、珍しいモンスターが出現しやすいスポットに設定されている(ゲームのシステム上も、ポケストップの密集度とモンスターの出現率には一定程度の相関関係がある)。したがって、ポケストップでアイテムを獲得し続けながらモンスターを大量捕獲するべく、昼夜を問わずプレイヤーたちが押し寄せるのである。扇町公園に限らず、Pokémon GOは、この夏の都市の風景を一転させてしまった。
Pokémon GOは無料アプリであり、アプリ内課金でアイテムを購入することもできるが、課金なしでも十分に楽しむことができ、大半のユーザーは無課金のままプレイしているとも言われている。また、課金アイテムを購入しても、ゲームを楽しむために街を移動し続ける必要があることには変わりない。このゲームの本質は、ポケストップをめぐりながらモンスターを捕獲し続け、それを糧に強いモンスターを鍛えてジムバトルに備え、また、珍しいモンスターが出現する度に小さな興奮を覚える、そういったところにあるのだ。
ここにはYouTubeで動画再生ボタンをクリックし続ける行為と本質的に似た構造がある。実際、Pokémon GOをある程度プレイし続けていると、ゲームを楽しんでいるというよりはなんらかの労働に従事しているような気分になってくる。用事を済ますために街を移動する際にも必ずスマートフォンのPokémon GOアプリを起動しっぱなしにし、アプリの地図でポケストップの場所を確認し、効率よくポケストップを通過してアイテムを獲得できるルートを選ぶ。そのあいだ、モンスターが出現する度に立ち止まって捕獲し、ある程度モンスターがたまったらせっせと「博士」に送る(ゲーム内でのプレイヤーのミッションは、モンスターを捕獲して博士の研究に協力することである)。いったいこの労働は、なにに奉仕しているというのだろうか......。ある種、ちょっとしたすき間の時間に気軽に楽しむことができるゲームでもあるが、逆に言うと、ゲームをプレイする時間が日常生活にどんどん侵入し、ゲームの世界が現実の時空間に浸透してくる。そして、もちろんそのあいだ、自分の位置情報とプレイの履歴をゲームアプリに対して──ということは結局のところGoogleに対して(アプリはGoogleアカウントに紐付けされているので)──さらけ出しているのである。
開発・販売元のNiantic社にとって、Pokémon GOの直接の収入源はアイテム購入のためのアプリ内課金であろう。しかし、NianticとGoogleは、無課金ユーザーからも、それぞれのユーザーのプレイ履歴を情報として取得している。それらの情報を集積したビッグデータがどのような価値と財を産み出すのか、私には見当もつかないが、Pokémon GOのプレイヤーたちがなんらかの労働奉仕をしているとすれば、その宛先はそこにあるだろう。そして、Pokémon GO以前から、スマートフォンを常用している私たちは、Googleで検索し、Gmailでメールを送受信し、YouTubeで動画を視聴し、あるいはFacebookで「いいね」を押し、Twitterでつぶやき、LINEでコミュニケーションをとる度に、同じ種類の労働奉仕をしていたのである。メディアが私たちの認知機能を個別に拡張するだけでなく、私たちの日常的な身体性のすみずみまで情動のレベルで浸透しているこのような状況は、ポストメディア状況と呼ぶのがふさわしい 。Pokémon GO現象が産み出したゾンビたちは、このポストメディア状況を都市空間において顕著なかたちで可視化した。そのこと自体は、私たちがどのような条件のもとで生きているのかを考えなおすうえで、よいきっかけとなるのかもしれない。
註