まなざしの現在性──都市・メディア技術・身体
帝国からポスト帝国へ、社会的身体
──『都市のドラマトゥルギー』以降
吉見──南後さんが指摘してくれたように、『都市のドラマトゥルギー』のなかでやり切れなかった問題があり、それらにその後、取り組んできました。戦前の浅草・銀座、戦後の新宿・渋谷という比較があり、また、浅草から銀座へ、新宿から渋谷へという2つの変化が似ているということを書いていますが、戦前/戦後が近代日本の東京の歴史でどうつながっているかはあまり論じていませんでした。その後の作業では、戦前から戦後への連続性を帝国からポスト帝国への連続性として考えようとしてきました。戦前の東京は帝都であり、軍都であり、そしてアジアで最も近代的な大都市だった。この中心性が戦後、より大きなアメリカのヘゲモニーのなかに組み込まれていきます。それは、帝国が完全になくなったというわけではなく、グローバルな帝国的体制のなかで自らを再規定していくプロセスでした。私の仕事のなかで言えば、アメリカニゼーションやグローバリゼーション、ポストコロニアリズムを考えていく流れのなかで東京を捉え返してきています。
また、都市のテクスト、意味的世界を読み取り、物語っていく主役/主体はけっして抽象的なものではなく、その存在自体がジェンダー、エスノシティ、階級などにおいて差異化され、社会的に構成されています。その主体の差異化を都市がテクストとして読解されていくプロセス自体のなかで考えることが大切です。『都市のドラマトゥルギー』では、そうした都市の主体が割と単純に捉えられていました。
南後──『都市のドラマトゥルギー』の「あとがき」では、今後の研究の展開可能性のひとつとして、高度成長以降の都市についての文献調査だけではなく、聞き書きや参与観察による調査を挙げられていましたが、吉見先生の都市論がそうした調査の方向に向かわなかった理由は何でしょうか。
吉見──そうしたエスノグラフィックなフィールドワークは、たしかにあまりできませんでしたね。80年代半ばには都市民俗学の連中と一緒に研究会を開いたりしましたし、あるいは東京ディズニーランド論や『路上のエスノグラフィ』、『東京スタディーズ』のなかで学生のみなさんと一緒にフィールドワークの可能性を考えようとした時期もあったのですが、結局、フィールドワークをするには忙しすぎたのかな。本格的にエスノグラフィをやるのなら、ひとつの地域で長年調査を重ねる必要があるのですが、どうもばたばたしていて、そうした余裕がありませんでした。もうひとつの理由としては、一人ひとりの当事者の経験や認識以上に、それらがどう条件付けられているのかに関心があったということです。それぞれの人の経験は多様ですが、やはりある傾向や方向性、構造を持っていると思います。ジェンダーやエスノシティによっても異なりますし、物理的な空間や場所によっても異なります。それが地政学であり、そこに大きな関心を持ってきたのです。
- 吉見俊哉の方法論
- 帝国からポスト帝国へ、社会的身体──『都市のドラマトゥルギー』以降
- 新しい工学、情報技術と都市論
- 「終章」をめぐって
- 原広司研究室での経験
- 理論と実践の奥行き