201609

都市・映像・まなざしの地政学

地図のパーソナライゼーション、「いま・ここ」の多層化、航空写真やストリートビュー、データベース化......これらの特長をもつグーグルマップは、都市や社会を認識する枠組みにどのような影響を与えているのだろうか。本対談では、社会学の観点から地図を研究してきた若林幹夫氏と、『グーグルマップの社会学──ググられる地図の正体』(光文社、2016)を上梓した松岡慧祐氏をむかえ、グーグルマップ以降の地図の想像力のあり方を議論する。




〈地図〉から〈マップ〉へ──物語性をめぐって

若林幹夫氏

若林幹夫──『増補 地図の想像力』(河出文庫、2009)のもとになった『地図の想像力』(講談社、1995)はいまから20年前に書いた本です。私は都市論やメディア論の仕事は一貫してやってきましたが、それ以外はその都度関心が向いたことをやるという仕事のスタイルなので、最近は地図について集中して考える機会がなかったのですが、松岡さんの『グーグルマップの社会学──ググられる地図の正体』を読ませていただき、久々に地図について考えました。『増補 地図の想像力』の補章「織物とデータベース──地図の成り立ちと社会の行方」で触れたようなデジタル化とインターネット環境の変化のなかでの地図をめぐる話題は、私よりも若い人たちがやっていくべきことだろうと思っていたので、『グーグルマップの社会学』はまさにいま出てくるべくして出てきた本だと感じました。今日はまず、私がこの本から得た発見や疑問などについてお話ししたいと思います。
入口の第1章「地図の社会学」は『地図の想像力』での私の仕事とも重なるような総論になっていて、第2章から「グーグルマップ前史」に入っていきますが、そのなかでまず住宅地図の話が興味深かったです。私は都市論、郊外論もやっていますが、ご指摘のように都市における人の流動化や脱地縁化、匿名化という文脈があり、そこから住宅地図が必要になったという指摘はまさにその通りだと思います。しかしもう少し踏み込んで考えると、ビジネスとも強く結びついていたのではないでしょうか。ゼンリンの住宅地図は価格が高いので普通の人はあまり買いませんが、セールスマンや彼らを使う企業は買いますね。都市が郊外へと広がっていくということは、ビジネスチャンスが広がっていくことでもあり、車や電化製品を売るための営業戦略を立てるうえで、また、そこに営業の情報を書き込んでいくうえで、住宅地図は必須です。国土地理院の地図はいろいろな人が使うものですが、住宅地図を誰がどう使うかは、そうした社会の構造との関係で捉えられると思います。同じくゼンリンが刊行している都市計画で指定された用途地域や容積率などが表されている「ブルーマップ」といった特殊な地図も、産業や社会、ビジネスの構造に深く関わっていると思います。「地図の社会学」については、そうした地図の目的、職業性、産業に踏み込むともう少し厚みが出るのではないかと思いました。


松岡慧祐氏

松岡慧祐──おっしゃる通り、住宅地図はまさに都市のインフラとして、郵便配達、宅急便、ガス会社などさまざまな企業に活用されています。あるいは、昭文社やゼンリンのような地図の企業にとっても、都市化や郊外化は、都市地図や住宅地図の需要を拡大させたという意味で、ビジネスチャンスが広がる契機だったと思います。ですが、今回の本では、そうしたビジネスの観点ではなく、一般市民が地図をどう使うのかということに関心を向けていました。例えば、郊外における一般市民にとって重要な意味をもっていたのは、住宅地図というより、町のなかに掲示された団地やニュータウンの案内地図だったはずです。社会学では、こうした生活や文化といった側面に目が向きがちですが、たしかにビジネスや産業といったものも含めて、社会は成り立っていますよね。新鮮なご指摘で勉強になります。


若林──第2章のなかの「〈地図〉から〈マップ〉へ」というところはすごくおもしろかったですね。『ぴあMAP』や『アンアン』などの事例が挙げられていましたが、確かにある時代に「マップ」という言葉がタウン誌や情報誌、観光ガイドなどで使われるようになっていったという変化があると思います。
それとも関係することですが、第4章「グーグルマップが閉ざす/開く世界」では、東浩紀さんの『動物化するポストモダン──オタクから見た日本社会』(講談社、2001)を理論的枠組みとして検討しつつ、「物語からデータベースへ」という流れが書かれているのですが、地図における物語とは何かをもう少し考える必要があるのではないでしょうか。確かに「マップ」は読み取り方が強く提示された「物語」を内包した地図だと思いますが、それ以前から存在したさまざまな世界地図や航海図は、どれだけ物語的でどれだけデータベースなのだろうかという疑問があります。例えば、カッシニ一族が測量してつくったフランスの地図は国王の物語として位置づけることもできるかもしれませんし、小説『宝島』の海賊が宝物を隠した島の地図は物語なのかもしれませんが、それらはむしろ物語を立ち上げるための「舞台装置」と言ったほうがいいのかもしれません。物語はシークエンスがあり、動きによって成立しますが、地図はそうした動き自体ではなく、動ける可能性を持った「空間」が描かれているわけです。紙に描かれた地図を物語のメタファーだけで語っていいのだろうかと疑問に思いました。 『増補 地図の想像力』で私も考えたように、グーグルマップの背後にデータベースがあり、ナビゲーションとして使われているというのはご指摘の通りだと思うのですが。


松岡──ここで言っている「物語」とは、世界に関するテクストや世界観の提示によって紡ぎ出されるものだと捉えています。例えば、メルカトル図法による世界地図も、世界のイメージをある思想をもって科学的なかたちで提示しているわけです。送り手によってあらかじめ意味づけられ、固定された空間像を通して「かくの如く世界を見よ」というメッセージを発しているものが物語のある地図です。ガイドマップも、ある空間を切り取り、テーマを設け「この街はこうである」という意味づけをして伝達するものなので、物語の提示だと捉えています。それに比べると、地形図のように均質な地図に関しては、物語性は弱いと思います。それでも「地形」という切り口で世界が語られていると考えれば、そこには物語性がまったくないわけではありません。一方、グーグルマップは、つくり手によって固定された空間像が提示されるテクストではなく、読み手の読み込みに応じてつねに変化しうる流動的な空間像なので、それは「物語なき地図」であると考えたわけです。


若林──そこは私の「物語」の理解とは少し違っているところですね。私はテクストから「読み取られるもの」が物語だと考えています。航海を考えたり、過去の旅を懐古したり、そこにどんなものがあるかを想像するときに物語が立ち現われます。例えば、私が今日この対談の場所に来るとき、地下鉄の出口を出たところで方向がわからなくなったとすると、そこで地図を見ながら道を思い出し、さらにまた、これから進むルートとそこを歩く自分を想像することでひとつのストーリーラインが生まれます。最近の「小説」は物語のみのものとして読まれるものも多いのかもしれませんが、フローベールにせよドストエフスキーにせよ、テクストが物語を内蔵しているにしても、それらはみな物語にとって過剰な部分を持っています。顕在化している物語の背後に書かれていない物語、読み取られることによって立ち現われてくる何か、物語に還元できない描写や言葉の運動があり、それを読者は感知してしまうのです。『カラマーゾフの兄弟』などはまさにそういうものの典型かもしれません。


松岡──地図のつくり手が物語を書いているわけではなく、読み手が主体的に物語を紡ぎ出すためのテクストとして地図があるということですね。そうだとすれば、地図が、物語の読み取り方をいかに規定しているかということが重要になります。読み手によって物語が読み取られるとしても、地図が物語の読み取り方を方向付けている場合もあると思います。


若林──そうですね。観光マップには「ここは要チェック」などと書かれていますし、ドライブマップも「紅葉の名所」などと書かれていることによって、物語の読み取り方や世界の経験のしかたがあらかじめ水路付けられているものです。


松岡──マニュアル的に方向付けがなされているものですね。『ぴあMAP』などの都市情報誌もその典型でしょうか。街ごとのマップがあらかじめ用意されていて、そこにどんなスポットがあるかを一覧化して教えてくれます。とりわけ、80年代的な舞台化した都市では、そういったマップが舞台の台本として重要な役割を果たしていたのだと思います。


若林──『ぴあMAP』や『シティロード』は地図ではなくマップだとは思いますが、『東京ウォーカー』ほど強い方向付けは持っていなかったと思います。『ぴあ』や『シティロード』は、読み込むことで、実際に行ってもいないのにその地に詳しくなってしまったり、「この街でこの映画を見たらそのあとは......」といった妄想の物語も生まれましたしね。


松岡──そう考えると、グーグルマップでも読み手次第では物語が立ち上がることになります。今回の本で、僕はグーグルマップについて「シークエンス化」という言葉を使ったのですが、読み手が地図をシームレスに動かすことで、シークエンスが生まれ、物語を再構築していくことができます。また、グーグルマップにも、あらかじめスポットがマッピングされていて、それらのあいだを移動していくというマニュアルがあれば、そこに物語は発生すると思います。例えば、グーグルマップに観光マップのレイヤーが追加されるというイメージですね。今後、そういう可能性もありうるのではないかと考えています。


若林──この夏話題になった「Pokémon GO」は、そういう意味でまさに物語性を導入していると思います。「ポケスポット」が決まっていて、街を歩く行為をその物語のなかのひとつの出来事にしてしまっています。そうした拡張現実の物語に人びとが惹きつけられているのではないでしょうか。


松岡──しかし「Pokémon GO」には地名が載っていないので、実際の地図を読むのとは違っています。ゲームの土台として地図があり、グーグルマップのようにズームアウトやスクロールもあまりできません。自分が動かないと地図も動かないという設計です。「いま・ここ」を拡張するのが拡張現実であり、そこに魅力があるわけですが、そうであるがゆえに、「いま・ここ」を超越するような地図特有の想像力はありません。たしかに、ポケストップを巡ることで立ち現れてくる物語性はあるでしょうが、行ってもいないのにイメージが膨らんでいくという妄想の物語をみずから展開するのは難しい気がします。


「Pokémon GO」プレイ画面

若林──私の知人の高校の先生は、お子さんと一緒に「Pokémon GO」をやっていて、近所で気が付かなかった公園を発見したことはおもしろかったと言っていました。また、私のゼミの学生の一人も夏休みのレポートで、「Pokémon GO」をすることで新しい場所の発見があったということを書いてきました。一方で、高校生になったうちの子どもは1週間で「つまらない、飽きた」と言っています(笑)。彼は世界の発見のために「Pokémon GO」をやっているわけではないので、ゲームとしてはつまらないというわけです。


松岡──やり込んでいる人も、身近な場所を再発見する路上観察学的な感性は養われても、自分の地図が広がったり、地図的な知識が蓄積されてはいないようです。僕自身もそれなりにプレイしていますが、そこが勿体ないと感じます。「Pokémon GO」によって知らない場所へ行っても、地名も建物名も記載されていないので、結局そこが現実のどこかはわかりません。地図は背景にすぎないわけです。だからグーグルマップと行き来する必要があります。しかし、それは現実的には面倒です(笑)。たしかに、ゲームをプレイしたいだけの人にとっては、余計な地図情報は邪魔になるかもしれませんが、それでも普通に地図として使える程度の情報量があれば、「Pokémon GO」をグーグルマップに代わるナビゲーションとしても使えるようになります。そうすると、本当の意味で地図とゲームが融合して、ゲームをプレイすることで、地図から色々な物語を読み取ることもできるようになると思うのですが。


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地図/マップの使い方

若林──『グーグルマップの社会学』の第5章「グーグルマップの未来」、200ページに、東浩紀さんの『弱いつながり 検索ワードを探す旅』(幻冬舎、2014)を引きつつ、「旅先で重要なのは、つねにネットに接続し、新しく手に入れた検索ワードをすぐに検索できるようにしておくことであるという。このようなことはグーグルマップの使い方にも応用できるだろう。まず身体を移動させることで、わたしたちは新たな場所に出合う。そこで重要なのは、現地でグーグルマップにアクセスして、地図をググり、その場所をマッピングすることである」「......マッピングをくりかえす。そうすることで「いま・ここ」はたんなる断片ではなく、相互につながり、重なり合って、シークエンスやレイヤーを構成するようになる」と提言されています。これには半分同意するのですが、それだけでいいのかなとも思います。建築家の古谷誠章さんは、学生が海外旅行へ行くときに「『地球の歩き方』を持って行くな」とアドバイスするそうです。『地球の歩き方』を持って行くと、そこに書いてあるところへ行き、書いてあるものを見てきてしまう、自分の目で見なくなってしまいます。学生には世界をちゃんと経験してほしいのでそうしたガイドブックを持たないでほしい、と。これは東さんや松岡さんの主張と正反対ですね。グーグルマップやSNS、さまざまなサイトから得られる情報の量は、『地球の歩き方』どころではないのですから。


若林幹夫『増補 地図の想像力』
(河出文庫、2009)

もうひとつ思い出したのは、『増補 地図の想像力』の文庫版のあとがきでも書いた堀淳一さんのことです。堀さんは地図マニアであり、歩くのがすごく好きな方で、地図には描かれていないものや、痕跡だけ残っているものを見つけるのが楽しいとおっしゃっていました。古道は地図上の地割を見るとわかりますし、廃線も発見できます。もちろん、それを読み解くリテラシーがあればということですが。これは、東さんや古谷さんが言うのともまた違った地図のあり方、用い方です。
『グーグルマップの社会学』では、データベースに人が入り込んでいくことが強調されていますね。世界についての知覚をデータベースを媒介に広げていくのは現代的だし、多くの人が日常的にやっていることですが、月並みなことを言えば、データベースのなかにすべてがあるわけではありません。データになっていない世界に出会うための触媒としての地図があり得ると思います。堀さん流に言えば、地形自体が一定の選択の規則の下に作られたデータベースなのですが、当然ながらそこにすべての情報があるわけではない。地形から読み取られた情報を選択的に構成したひとつのレイヤーが国土地理院の地図なのですし、グーグルマップも、そのほかのネット上の情報もそれとは異なるレイヤーを構成していますが、地理的な世界、経験される世界のすべてがそうしたデータベースに収められるわけではない。


松岡慧祐『グーグルマップの社会学
ググられる地図の正体』(光文社、2016)
松岡──僕も『グーグルマップの社会学』で、グーグルマップでは世界中の地図情報検索できるようになったとはいえ、検索できるのはあくまでデータベースのなかにあるものに限られると書きました。それでも、グーグルマップを持ち歩いて移動することで、そこに載っていないものに偶然出合うことはありますし、グーグルマップはそうした偶然性を排除しているわけではありません。そういった偶然性も含めて、さまざまな経験や物語に開かれていく前提としてグーグルマップがあるのではないか、ということです。地図マニアにとってはグーグルマップのようなデータベースは必要ないかもしれませんし、古地図だけで街を歩ける人もいるかもしれませんが、例えばいまの若い人はグーグルマップがなければそもそもいろいろなところに移動する気にもならないし、遠くに行くことへの不安もあるようです。観光マップには限られたエリアの限られたスポットしか載っていませんが、そんな観光マップの外に出て行くため、また、マップの隙間を見つけるため、自分の居場所をズームアウトして全体像を掴むためにグーグルマップを使うこともできると思います。「見たいものしか見ない」というのは人の常ですし、それはグーグルマップが促してきたことでもありますが、見たいものをずらす、見たいものを増やすためのデータベースとして、グーグルマップを捉えることもできるのではないでしょうか。いままで見なかった地図を見る、いろんなレイヤーによって「いま・ここ」を見ることで、新しい経験、想像力の広がりをもたらすと思います。


若林──なるほど。ただ、「グーグルマップがないと始まらない」というような状況になったのはなぜでしょうか。もしかしたらグーグルマップや「食べログ」などのネット上のデータベースにアクセスし、リスクを回避することが身についてしまったからかもしれません。以前、早稲田大学の近くのよく行く昔ながらの喫茶店で、大学2年生くらいの女性2人組が入ってきました。おじさんとおばさんだけでやっているので、空いている席に勝手に座って注文を取りに来てくれるのを待つようなお店ですが、その学生たちは入ってきたのはいいけれど、「いらっしゃいませ」とも「こちらへどうぞ」とも言われないので立ちすくみ、「システムがわからないから帰ろう」と言って帰ってしまいました(笑)。飲み屋でも「飲み放題3,000円」とか、料金システムがはっきりしているところでないと怖くて入れないという話も聞きます。つまり、偶然性やリスクを回避するシームレスなデータベースの世界があり、そこに載らないものは存在しないものとして見過ごされてしまうという面があると思います。『地図の想像力』が出た頃、荒俣宏さんと対談する機会がありましたが、そのとき、カーナビをポータブルにして歩行者が使えるようにしたGPSナビゲーターが話題になり、これが普及したら、載っていないお店や場所は現実の世界にも存在しないことになってしまうんじゃないかとおっしゃっていましたね。


松岡──逆に高齢者はスタバのシステムがわからなくて戸惑うわけですが、若者のほうがそうしたマニュアルへの依存傾向は強いのかもしれないですね。たしかに、リスクを回避するマニュアル的なものがないと動きづらいという側面もあると思いますが、いまの若い世代はそもそも普通の道路地図を使った経験がありません。僕は1982年生まれなので、大学生の時には道路地図や都市地図を使っていて、それが徐々にグーグルマップに変わっていったという過渡期を知っています。ちなみに、僕自身は就職活動をしなかったのですが、かつては就活生が面接会場に向かうときに、ポケットタイプの都市地図しか携帯していなかったので、よく道に迷って大変だったという話を友人から聞いたことがあります。いまの大学生はそれがなく、いきなりグーグルマップがあります。ですから、彼らにとっては、地図とはグーグルマップやカーナビであり、それしか世界を開くツールがないのかもしれません。そうだとすれば、グーグルマップを捨てるのではなく、グーグルマップを使って何ができるかを考えよう、という方が現実的だと思うのです。そういった世代論の問題は考える必要があると思います。


若林──私の場合、車のカーナビを使うようになって知らない場所に行くのが楽にはなりましたが、道を覚えなくなりました。ルートのことを考える必要がなくなったわけですが、それによって世界が広くなったのか狭くなったのかはわかりませんね。道路地図を使っていた頃は、運転しながら地図を見ることはできませんから、あらかじめ地図で予習をしておいて、交差点の目印を見逃さないように意識しますし、その意識によって、あとからでも頭のなかでぼんやり地図と、それに対応する風景を思い出すことができました。地図の画像を体と頭のなかに入れ込み、それにあわせて風景を記憶するというプロセスがありましたよね。


松岡──たしかにそうですね。でも、グーグルマップによってそれまでまったく地図を見なかった人が見るようになったという側面もあります。僕の妻もまさにそうで、移動先でグーグルマップを見ていますし、「広域的な都市の位置関係を把握できるようになった」と言っています。いままで地図を見ることがなかった場所でもパッと開いて現地の地図を見ることができるようになり、3次元の局所的な現実に過ぎなかった場所を2次元に変換したり、2次元と3次元を往復するという経験ができるようになりました。そう考えるとグーグルマップは世界を「開いている」とも言えるのではないでしょうか。地図マニアではない僕自身も、グーグルマップが出たことで、地図を見る機会そのものは確実に増えたので、やはりそちらの視点に立ってしまいます。


若林──「開く/閉じる」はどちらかではなく、ある種の開き方が閉じ方も同時に生み出しているのだと思います。『地図の想像力』の第3章「近代的世界の『発見』」でも書きましたが、近代的な地図によって近代的世界が「開かれ」、一方で、想像力の余地が狭まり、国民国家や地方自治体の境界線のなかに「閉じられ」ていきます。そう考えると、地図はどのようなかたちであれ、何かを開き、何かを閉じてしまうということですね。


松岡──グーグルマップはナビゲーションのためだけにに使うと閉じてしまいますが、なだらかにシームレスにつながった2次元の全域的な空間像があり、局所にしか生きていなかった人でも全域性へと開かれる可能性のあるツールだと思います。
実際はナビゲーションとして使っているだけの人がほとんどだと思いますが、僕自身は、人と話をしていて出てきた地名やニュースで聞いた場所を知らなかったら、まさにネットをググるような感覚で、その場ですぐにグーグルマップを検索したりします。そうして、いままで絶対に見なかったような場所の地図を見るようになりました。これはやはりグーグルマップが開いた可能性だと言えます。たしかに、自分とはまったく関係のない地図を検索することはなかなかないかもしれませんが、スマフォにグーグルマップが内蔵されたことで、その気になれば、いつでも地図によって世界とつながることができるようになったことは間違いないでしょう。問題は、どうやって自分をその気にさせるか、ということですが、やはり東浩紀さんと同様の立場から言えば、知らないところに行こうとすることが重要だと思います。グーグルマップがあれば、以前のように本屋で地図を入手することから始めなくてもよくなったので、知らないところにも気軽に出かけて、その場所の地図を開くことができます。


若林──私も知らないところへ行くときにはよく使います。子どもがオーストラリアにホームステイに行ったときには、ステイ先の家や街をグーグルアースやストリートビューに切り替えて見たりしました。「この家、プールがあるんだな」とか「ずいぶん広そうな家じゃないか」とか(笑)。妻もこの夏、ロサンゼルスに行く前に、旅行先のホテルや、友人が住んでいる場所を調べて、ストリートビューで見ていました。私のゼミ生でも、原広司さんの世界の集落調査についての本を読んで、それをグーグルマップやグーグルアースで探すことにはまってしまった学生がいました。そうした使い方はこれまでなかったものですね。グーグルマップの空間がシームレスなだけではなく、そうした情報への接続によって、世界へのアクセシビリティが高くなったのは確かです。ただ、そのような使い方をしている人はどれくらいいるのでしょうか。
ストリートビューを見ていると、進みたいのになぜか入れないところがあり、現実には存在しない結界が張られているようで違和感があります。やはり、グーグルマップもどうしても現実の地図という感じがしません。松岡さんのご本に吉本隆明さんの言う「普遍視線」と「世界視線」が引用されていましたが、「世界視線」は上から写真のように見ている、ランドサットなどの目であり、地図はまさにそれを描いたものです。それと比べてもグーグルマップは何かツルツルし過ぎていないでしょうか。「地図の画像」だと言われればわかるのですが、私たちがこれまで知っていた「地図」とは違う。実用的にはまったく問題がないのですが、どうしても違和感が抜けません。


松岡──やはりストリートビューは写真を使って現実を装ったものであり、もちろん現実そのものではありません。シームレスのようでいて、結界があります。通常の地図では見えないはずの現実を見せようとしているのに、見えないものがあるという違和感はありますね。また、グーグルマップに対する違和感は、その縮尺では見えるべきスポットがしばしば省略されるせいもあると思います。少しズームアウトしたときに、同じ路線でも表示される駅とそうではない駅があったり、役所のように結構重要なスポットが消えることがあります。普通の地図だと、主要なスポットが選ばれて載っていますが、グーグルマップは均質性を装っているだけで、取捨選択が案外ランダムというか、意図がわからない気持ち悪さがあります。




若林──たとえて言えば、それを制御している規則がわからないロボットが喋っているような感じですね。それは人が描いていない地図、プログラムによって生成される地図だからでしょう。人間の知や思考は人間が自らつくり出してきた言説や規則のなかで作動しますが、データによって生成されるシステムは感覚が違いますね。そうした新しい感覚のなかで生きている人が、旧来の地図についてどう思うかは気になりますね。


松岡──逆に使いづらいと思うかもしれませんね。ポケット地図帳のほうが1枚の地図に表示される情報量は多いと言えますが、情報量が多いと、自分で情報を取捨選択しなければならなくなります。グーグルマップは、結局ユーザーがデータを検索して抜き出すことを前提としたデータベースなので、人間の思考に即した規則性のようなものはそれほど重要ではないのだと思います。


若林──旧来の地図とグーグルマップの関係は、純文学とラノベの関係みたいな感じかもしれません(笑)。


松岡──APIを公開し、最低限のツルンとした地図を提供していて、それをもとにユーザーが検索でき、カスタマイズもできる。基本的にはフラットなのですが、冗長性はユーザー次第というスタンスだと思います。先ほどの話に戻ると、場合によっては、そこから物語が立ち現れてくることもあり得るということです。


若林──そうか、白地図なんですね。ところで、そんな白地図にユーザーが書き込んだ情報や写真をグーグルはどう使うんでしょうね。


松岡──わかりませんが、どんどんグーグルマップに反映されていくことにはなるでしょう。いまのところは、お店の情報などが多いですね。口コミも投稿されています。ただ、熊本地震のときには、一般のユーザーによって被災地のさまざまな情報がマッピングされ、それがグーグルの災害情報マップに活用されたという事例もあります。


若林──地理的情報の集合知を目指しているということですね。


熊本・大分県内 避難所一覧(現在の更新は停止しています)
作成=塚田耀太(Youth action for Kumamoto)
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物への偏愛、物質とデータ

若林──これまでの地図にはマニアやファンがいます。私もきれいな地図の本を何冊かもっています。地図は美的な対象としても見られてきました。グーグルマップの本質に関わることかもしれませんが、パーソナルにカスタマイズできるグーグルマップの場合、「グーグルマップマニア」はあり得るのでしょうか。それぞれの人にとって「いま・ここ」の特定の目的におけるグーグルマップが存在するというシステムなので、印刷された地図のような個別の作品性がなく、マニアを生み出すようなフェティシズムの対象にはなりにくいのかなと思うのですが。


松岡──グーグルマップのヘビーユーザーであるということと、そのマニアであるということは、意味が違いますよね。システムのファンであること=グーグルマップのファンであるということだと思います。ストリートビューが好きで街歩きとか路上観察の延長線上で使っている人はいます。グーグルアースもそうですね。また、グーグルマップのデザインやインターフェースが好きという人もいます。じつは最近グーグルマップのデザインが一新され、パッと見ではわからないのですが、見る人が見れば違いがあります。道に輪郭があったのがなくなっていたり、フォントや色使いが変わっていたりします。そういったシステムのアップデートを楽しんだり、話題にしたりしている層はいますね。


若林──フェティシズムやマニアには具体的な物が必要です。コラムニストの小田嶋隆さんはビートルズのCDがリマスターされる度に買ってしまうそうですが、それは情報としてのコンテンツへの愛と同時に、それが収められたメディアやその付属物であるジャケット、ブックレットなどに対する「物への偏愛」があるからです。時刻表マニアは鉄道の運行時刻についてのデータが好きなのではなく、そんなデータを一定の形式で表象し、物質化した時刻表の本が好きなのです。ところがグーグルマップの場合には、データはその都度読み出されては消えてしまうので、マニアの対象になりにくいと思います。
また、マニアにとっては偏愛の対象を語る場があるかどうかも関係しています。マニアの世界には一定の公共性の空間があります。例えば地図マニアは古地図が出回る市場や、古書店が彼らの場所になっていますし、切手には切手博物館がありというように、現物を見て語り合うことができる場があります。


松岡──システムの変化に対して、気付く人は気付くところにマニア的な喜びがあったり、語りが起こります。そこに物への偏愛があるわけではありませんが、データであるがゆえのネタは生まれます。例えば、グーグルはエイプリルフールに期間限定でグーグルマップをドラクエ風のドット絵にするなどのネタを仕込んでいて、それを毎年ひそかな楽しみにしている人は少なくありません。あるいは、最近デザインが変わった時にツイッターなどのSNS上で「変わったよね」と語り合う空気はありました(笑)。


若林──それは結構重要ですね。マニアやフェティッシュは物の世界に存在しますが、対象自体がデータ化されると、語りが流通する場所もインターネット上になるということですね。


松岡──グーグルマップはインターネット上であればリンクしたり埋め込んだりできます。ですから、実際にひとつの場所に集まらなくても脱場所的な空間の中で語ることができます。むしろインターネットには、物理的な場所よりも開かれた公共性があり、語りの場として適しているとも言えます。例えば、自分で地図を面白くカスタマイズしたら、それを広く拡散し、共有することもできるのです。それはフェティシズムとは言いにくいですが、地図をめぐるネタをつくり、拡散する場が新しく生まれているということなのかもしれません。


若林──そうすると、昔の住宅地図や区分図は美術品になっていくのかもしれません。つまり、新しいメディアが出てくると古いものが美術品になります。「何年版のこの色使いがいいんだよ」「ここに間違いがあってさ」みたいな(笑)。グーグルマップは新しくなると古いバージョンが見られなくなってしまいますが、それはマニア化にとっては障碍になるのではないでしょうか。


松岡──グーグルマップもなんらかのかたちでアーカイブが蓄積されるとよいのですが。東日本大震災の被災地の写真がアーカイブされた「未来へのキオク プロジェクト」というサイトでは、震災前後のストリートビューを時系列で見ることができたり、平安時代の古地図をグーグルマップに重ね合わせる「平安京オーバレイマップ」という立命館大学アート・リサーチセンターの試みもありますが、グーグルマップ自体の過去のかたちは残っていません。


「未来へのキオク プロジェクト」

「平安京オーバレイマップ」

若林──ところで、地図は国家やオーソライズされた出版社などの専門家がつくる権威を持っていましたが、グーグルマップやオンライン上の地図はそれを民主化したのですね。誰もが情報を書き込めて、新しい地図をつくることができます。


松岡──そうですね。「〈地図〉から〈マップ〉へ」というのは、マップそのものが民主化する流れであり、さらにそれがデジタル化されています。従来マップをつくるにはそれなりにデザインの力が必要でしたが、グーグルマップのプラットフォームは、情報をプロットすれば誰でもマップをつくることができ、脱専門化しています。


若林──でも同時にグーグルマップのアーキテクチャのなかに閉じているわけですよね。


松岡──そうですね。マップをつくるといっても、結局はグーグルが用意したプラットフォームの上でしかないわけです。その意味では、マップの二次創作と言ってもいいかもしれません。


若林──かつて、自分たちでホームページを手作り的につくっていた時代がありましたが、いまはフリーソフトもあり、ブログやSNSのフォーマットも用意されているので誰でもそれなりのものがつくれます。地図の世界でもそうした変化が起きているのですね。


松岡──マップはやはり手描きのほうが自由度は高いですし、自分でつくっているという意識を持つことができます。グーグルマップには自分のデザイン性や思想を入れ込むことはできません。そこにつまらなさがあるのかもしれません。いまは、お店のホームページにグーグルマップが埋め込まれ、アクセスマップとして利用されていることが多くなっていますが、以前のほうがお店ごとにヴァリエーションがあって味わい深かったように思います。


若林──ロラン・バルトの『表徴の帝国』(新潮社、1974)に地図の話が出てきます。日本の道路には名前がないので、目的地を表現する時にみんな手描きで地図を描いてくれると。バルトが現代の日本に来たら、あのような記述はなかったですね。


松岡──地図を描くのは難しいことですが、ある種の快楽がありますね。それは世界を編集し、デザインする行為だと言えます。僕は苦手ですが、やはりイラストを描くのが得意な人は上手ですね。大学でマップをつくる授業をやっていますが、概ね男子はダメです。女子は相対的にイラストを描く力があり、字もきれいなので、マップをつくることと親和性が高いと思います。一方、男性は一般的に地図を読むのは得意だと言われています。地図マニアにも男性が多いイメージですね。あたりまえですが、地図を描くことと読むことは、まったく違う営みであるということです。


若林──『話を聞かない男、地図が読めない女』(主婦の友社、2002)というベストセラーがありましたね。


松岡──あれは先天的ではなく後天的な影響が大きいと思いますね。僕のゼミ生には、グーグルマップさえうまく読めないという男子学生がいる一方で、地図が大好きという女子学生もいます。結局は、男性にしろ女性にしろ、どのような環境のもとで、どのように地図と関わってきたかという経験が重要なのではないでしょうか。その意味で、地図は人間や集団が獲得していく文化なのだと思います。

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マップの未来──ビッグデータ、パーソナル化、教育

若林──「Pokémon GO」もそうですが、個人の位置情報や移動の情報が集客などのマーケティングに利用されていくことが予想されます。「ららぽーと」では「三井ショッピングパークカード」でポイントを貯めて商品券と引き換えたり、駐車場の割引が受けられますが、ショッピングモールの研究をしていたときに、三井不動産の担当の方から「そのカード、何のためにあるか知っていますか」と聞かれました。カードは顧客の行動をデータとして集めるためのもので、個人名とのひも付けはされていないそうですが、ある場所である商品を買った人が次にどこへ行って何を買ったかまでは解析できるそうです。例えば、ペットショップで買い物をした人が次にアウトドア商品を買うとか、ショッピングモールの運営側にとって有意な情報を発見し、それによって近すぎもせず遠すぎもしない場所に関係する店を配置して、ショッピングモール全体の売上増進を図るそうです。グーグルマップも、ある場所で検索をした人が次に何を調べたかなどのデータの蓄積によって、お店の出店計画などに役立つ情報として使われていく可能性があるのではないでしょうか。



松岡──グーグルマップでもすでに検索履歴などは解析されていますし、これからさらにパーソナライズ機能が発達していくでしょう。インターネット上ではすでにそうしたことが起きていますが、これからますます実際の都市で人を動かすアーキテクチャになっていきます。「Pokémon GO」はすでに集客に活用され始めていますが、グーグルマップもそうなっていくと思います。単にグーグルマップに情報が掲載されているかどうかで、人の動きや集まりがコントロールされることも出てくるはずです。


若林──現実に先立ってグーグルマップ上に情報があり、それに即して人びとが現実を生きると。マップがマーケティングや資本の論理と親和性の高い形で機能していきます。グーグルマップは無料で利用できますが、世の中にタダほど高いものはない。利用者の知らないうちに、利用者をコントロールするようなアーキテクチャに取り込まれている可能性もありますよね。


松岡──一方で、マッピングがオープンになり、単にグーグルマップに支配されるだけではなく、ユーザーが編集に参加し、世界のつくり手にもなるという方向性もあります。マップを与えられるのではなく、マッピングをめぐる権力の争奪戦にユーザーが巻き込まれ、積極的に参加していかなければいけなくなっていきます。


若林──印刷された地図はある時にひとつの版をつくって、それを改訂していきますが、グーグルマップは随時変化していく動態的なものですね。空間的にも通時的にもシームレスに生成していく地図であり、その都度呼び出されたデータが地図の様相を取っているということですね。


松岡──それは若林先生が「全域なき世界」とおっしゃっていたこととも関係します。全域的なものが背景へと退いています。そして、その表層に断片的なデータが浮かび上がってくるわけですね。それでも、地図という様相は取っていますから、厳密に言えば、それは「全域が退いた世界」なのだと思います。グーグルマップでは、たとえズームアウトをしても、全体が見えているという気がしません。僕は東京に来たとき、全体をつかむために、グーグルマップよりも東京の路線図を見たいと思ってしまいます。


若林──想像力を媒介にして全域を把握しようとする知的な了解は退いていき、身体的感覚としては全域を了解する必要がないわけです。その意味では全域性が了解される世界から欠落していきます。その都度呼び出す局所のなかの広がりしかなく、マップ自体は全体像を持っていても、それを見ようという欲望はなくなっていくということです。


松岡──ナビゲーションとして使う人が多いとしても、例えば検索窓に「新宿 カフェ」という検索をすれば、一覧化した情報が表示されます。いまカフェは都市の中では結構重要な居場所なので、そうした使い方をする人も少なくないと思います。その街の面的な広がりのなかでカフェがどこにあるかがわかります。範囲が狭まって、断片化していますが、検索の段階においては一覧性や全域性は必要なのではないかと思います。つまり、全域は全域でも、茫漠とした面的な広がりではなく、都市に散らばっている点的な情報をなんらかのレイヤーで一覧化するための広がりは存在しています。そのとき、グーグルマップにも多様なマップが生成され、それが読み取られることで、物語が立ち現れていきます。それは、単なる局所的なナビゲーションではありません。点的な情報をその都度マッピングするための背景にすぎなくなっているとしても、全域性が失われることはないと思います。それは、データの検索を前提としているという意味で、全域性というより一覧性と言い表わしたほうがいいのかもしれませんが。


若林──空間的に一覧化するマッピングはいまでも重要だということですね。グーグルマップが人類有史以来のすべての地図を組み込み、それらの参照関係も見ることができるような、巨大な万能のマップになるという可能性が示唆されていますが、そうではない可能性として、街に立っている地図の看板、地下鉄の通路にあるような構内と出口の関係を表わすサイン、そして自衛隊や公安が持っているような隠された地図などと住み分けて、それらと共存していく可能性もかなりあると思います。そうした場合にグーグルマップはほかの地図とどういう関係をもつようになるのかが、地図の未来にとって重要な問題です。
それから、教育の問題もあります。いまは地理という科目があって地図帳もありますが、例えば、平野の位置や気候などの地誌教育は必要だけど、地図を読む技術は学校で教えるような科目としては要らないという未来もあり得ます。等高線などもグーグルマップで示せるようになればいいわけですから。かりに地理教育が変わると、そこから地図も変わっていくのではないでしょうか。グーグルマップの開く未来がどうなるかは、地図の使われ方や教育との関係で考える必要があります。


『空間の政治地理』(朝倉書店、2005)
松岡──若林先生は「思想としての地図──あるいは、「知の地政学」へ」(所収『空間の政治地理』)で、「ヴァナキュラーな地図と透明で正確な地図が協働していく」という書き方をされていますが、僕はそこにグーグルマップが加わったと考えています。グーグルマップが万能化してすべての共通のプラットフォームになるという未来も想像できますが、やはりグーグルマップだけですべてが完結する社会も想像しにくいです。例えば、街ごとのイメージを表わして物語を読み込ませる地図、鉄道路線図などのヴァナキュラーな地図は、データベース的なグーグルマップを補完するものとして必要とされると思います。僕は今回、『グーグルマップの社会学』を書きましたが、やはりヴァナキュラーな地図も含めた「地図とマップの社会学」をさらに展開していく必要性があると感じています。


若林──でも鉄道路線図は「乗換案内」のアプリがあればほとんど必要なくなりましたよね。


松岡──実践的にはそうなのですが、先ほども言ったように、東京に来て、ここがどういう街かを想像するときに路線図は見たいと思います。グーグルマップだけでは、東京という都市の全体像はつかめません。
かつて磯崎新さんが論じたように、そもそも東京のような現代の都市は、明確な構造をもたない「見えない都市」であり、そのイメージは融解してしまっています。行政区画の外延はありますが、シームレスなグーグルマップでは、それすら見えにくくなっています。「見えない都市」を可視化することが断念されているようにも思えます。そこで、イメージとしての都市を代補するテクストとして、街ごとのガイドマップや路線図があるのではないでしょうか。実際に、グーグルマップが普及した現在も、多様なマップがつくられ続けています。これらは、それのみで都市の全体像を表象しているわけではありませんが、互いに補完し合うことによって、都市を多元的な場の集積として捉えることを可能にしていると思います。言い換えれば、そういった多様なマップをとおして物語が紡ぎ出されるからこそ、グーグルマップはデータベースに徹することができるわけです。いまは、こうしてテクストとデータベースが協働するようになっています。ですから、個人としてはテクストとデータベースを相補的に使い分けながら、全域へと開かれていく必要があると思います。グーグルマップの普及によって、つねに世界へのインターフェースが手元に存在するようになったからこそ、それをアクティブに使い、しかし同時に、それ以外のヴァナキュラーな地図も見ることによって、世界を全域的かつ多層的に経験していく。そんな可能性が開かれていくような気がしています。



若林──そうした欲望は普遍的なのでしょうか。つまり、われわれは地理の教育を受け、普通の地図を見る機会があり、馴染んでいるからそうした欲望がありますが、いまの子どもたちの世代は気がついたらすでにグーグルマップがあり、乗換案内アプリもあるなかで、そうした地図を見たいという欲望を持つのでしょうか。観光マップも拡張現実の技術で可能になると思います。もちろんそうではない層も少数派になりつつある程度は残るとは思いますが。
以前、ある学生から「先生の時代はいまみたいに新書が沢山なかったから専門書を読む必要があった」と言われて、本当に呆れてしまいました(笑)。でも人間には結構そうした楽なほうへ行く側面があると思います。面倒なことをわざわざしなくても何も困りませんから。松葉一清さんは、あるときコンビニの前で若い人が携帯を眺めているのを見て建築の無力さを感じたそうですが、その話を聞いてからすでに10数年経ち、ますますそうした傾向が強まっています。電車の車内でもみんなスマフォを見ていますね。私はスマフォを持っていませんし、電車で音楽を聴いたりもしないのですが、それはイヤフォンをしていると周りの環境が遮断されている感じがして落ち着かないからです。朝、風の音や鳥の声が聞こえるなか犬の散歩をしていると、その脇をイヤフォンしながらランニングをしている人が通り過ぎていきますが、私は「なんで周りの音を聞かないんだ、信じられない」と思っています(笑)。駅や電車には雑音があり、人の気配があり、そのなかを生きるのが街を経験するということです。私にとって世界は雑音とともにあります。でも、いまの学生はイヤフォンをして、メディアで守られた環境のなかに入ることで逆に落ち着くそうです。
グーグルマップによって経験される世界は、一方では広がりがあり、松岡さんが言うようなアクティブな使い方をすれば強力なツールになりますが、多くの人間にそこまで希望を持ってよいのでしょうか。やはり教育が大切だと思います。松岡さんは地図の授業をしているそうですが、地図によって知ること/地図にないものを知ること、そうした経験が世界と自分のインターフェースを変えます。教育は、日常に介入し、知を変えます。具体的な世界への感覚や触覚を持たず、本のなかのことだけを考えている学生はつまらないのですが、逆に、本を読まずに現実の経験ばかりというのもじつは現実を読み取る技術を持っていないのでダメです。地図に描かれている世界/描かれていない世界の両方を、どう身体で感じるかは教えることができます。社会学とはそうした学問でもあるのではないでしょうか。大学で社会学を学ぶ人は世の中全体のほんのわずかですが、小学校や中学校の地理や生活の授業で、そういうことが教えられるはずです。けれども、昨今の教育はタブレットを積極的に使うとか、ネットで調べてまとめるということが重要視されているので、逆行していますね。
『地図の想像力』を書いたのは、地図について考えることによって、地図だけに留まらない、人間が社会を生きる構造について考えられると思ったからです。グーグルマップ以外の地図で世界を見ることにより、自分たちがどういった感覚や知の場に置かれているかを反省的に考え、世界へのインターフェースを変えていくという経験が大切だと思います。



[2016年10月1日、LIXIL:GINZAにて]


若林幹夫(わかばやし・みきお)
1962年生まれ。早稲田大学教育・総合科学学術院教授。社会学、都市論、メディア論。著書=『地図の想像力』(講談社、1995/増補版、河出文庫、2009)、『都市のアレゴリー』(LIXIL出版、1999)、『都市の比較社会学──都市はなぜ都市であるのか』(岩波書店、2000)、『都市への/からの視線』(青弓社、2003)、『都市論を学ぶための12冊』(弘文堂、2014)、『モール化する都市と社会──巨大商業施設論』(編著、NTT出版、2013)ほか。

松岡慧祐(まつおか・けいすけ)
1982年生まれ。関西大学大学院社会学研究科博士課程後期課程修了。奈良県立大学地域創造学部専任講師。文化社会学、都市表象論。論文=「地域メディアとしての地図と社会的実践としての地図づくり──地域社会における〈マップ〉の想像力」『フォーラム現代社会学』(第12号、関西社会学会)ほか。著書=『グーグルマップの社会学』(光文社、2016)

まなざしの現在性──都市・メディア技術・身体

吉見俊哉(東京大学大学院情報学環教授)+南後由和(明治大学情報コミュニケーション学部専任講師)

ポストメディア都市と情動資本主義の回路
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門林岳史(関西大学文学部総合人文学科准教授)

均質化される視線

阪本裕文(稚内北星学園大学情報メディア学部准教授)

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