「モノ」が先行する空間のつくり方
──『島田陽|日常の設計の日常』刊行記念対談

青木淳(建築家)+島田陽(建築家)

矛盾を許容する

青木──ところで今日、最初のほうで、島田さんの建築は明快な図式を持っていると言いました。拝見した《川西の住居》(2013)にも明快な図式がありました。こういう図式性は島田さんのひとつの特徴だと思うのですが、しかし、それが図式の「表現」で終わらず、図式にバラバラなものが持ち込まれ、矛盾が起きている。
なぜ矛盾を許容するのだろう? なぜ、それでいて図式が必要なのだろう? それを考えてみたのですが、これはきっと、この本のタイトルにも含まれている「日常」ということを関係があるように思えてきました。つまり、島田さんはある意味とてもリアリスティックで、「日常」、つまりそこでの自然な人のふるまいの状況を込みにしたことをしようとしているのではないか、と思ったのですね。島田さんの目標は、もともとクライアントがもっている、けれど言葉にならない、ここでこういう気分で暮らせたらいいな、というような漠然とした気持ちが、住宅という形を得て実現することであって、図式はそれを受け入れるための器にすぎないのではないか、と思ったのです。逆に言えば、できた住宅はクライアント次第でもある。

島田──そうですね、図式は住人がより自由に感じる為の器です。ぼくは比較的建物によってスタイルが変わるのですが、そのひとつにはクライアントの違いがあると思います。そのひとつにはクライアントの違いがあると思います。建築家が、本当はやりたいことがほかにあったけれど、クライアントの都合で実現できなかったと残念そうに言うことがありますが、ぼくはそういう設計はしたくありません。設計とは巴投げのようなもので、クライアントの要求があってこそ、より遠くに投げられるものだと思っています。そして、これはクライアントの要求に限った話ではなく、スタッフ、工務店、敷地それぞれが求める条件のベクトルが合成されるからこそ、妥協ではなく一番よいものがつくれるあり方がおもしろいのではないかと思います。建築家はそうして出てきたいろいろな事象をポジティヴに再編集できる。ネガティヴではなくポジティヴ・フィードバックをできます。これが建築の大きな魅力です。

青木──ポジティヴ・フィードバックによって、最初に設定した図式も自分の美意識も、プロセスのなかで流転する。ぼくもそれが楽しくて設計をやっているようなものです。ただ建築がある程度以上に大きくなると、フィードバックができなくなってどうしてもリニアな応答しかできなくなってしまいます。つまり、一度決めた図式を引っ込めることはできなくなる。図式がそこで生まれるべき日常を受け入れる器ではなく、設計プロセスを進めるため、関係者皆が乗らざるをえない列車のレールになってしまう。

島田──なるほど、そうかもしれませんね。青木さんのお仕事に《馬見原橋》や《大宮前体育館》、《三次市民ホール》のようにごろんと置くようにつくられたラインがあるとすると、その一方で、マジカルな視覚効果で幻惑するルイ・ヴィトンでのラインもあります。海外の人から見た青木さんのイメージは、ルイ・ヴィトンのように美しくマジカルな表層をつくり出す建築家で、国内のイメージとは隔たりがあるように思うのですが、ご自分ではいかがでしょうか。

青木──写真で伝わるデザインと伝わりにくいデザインの違いでしょうね。デザインのある側面は写真で伝えられます。しかし伝えられることだけがデザインのすべてではありません。やっていることは、自分のなかではそれほど変わりません。まず今話したようにどちらも設計のスタンスとして、自分の外から来る「前提」に丸腰で跳び込もうとしています。自分のなかからフツフツと湧いて出てくるものをつくるというのではないので、やはり怖いのですが、ぼくの関心は、自分をどこまで捨てられるかにあるようです。《馬見原橋》や《大宮前体育館》や《三次市民ホール》には、それがストレートに出ています。
ルイ・ヴィトンの仕事も、丸腰で跳び込んだ結果です。じつは、初めてルイ・ヴィトンの仕事をやった頃、もし建築内部の構成を主題にできず、そのため外観を内部構成の結果とすることができなければ、今の自分には建築はつくれないな、と感じていました。だから、そういう外観を主題として扱う仕事が来たら困るなと。そうしたら、来たのですね(笑)。
《ルイ・ヴィトン・名古屋・栄》(1999)は、お店のインテリアには携わっていないけれど、それを除いて、構造体からすべてを設計する仕事でした。ただ内部は5年ごとに改装するということだったから、建物の形はできるかぎりシンプルな形がいいと思い、直方体の形を提案しました。そうすると外観はブラックボックスを包む包装紙のような位置づけになります。その時の自分にとってはどんな包装紙がいいのか、というのは、建築の問題ではないのですが、包装紙であることが前提だから、それを受け入れる。と同時にそれを建築の問題にできないのか、もう一度虚心坦懐に考えてみる。その葛藤の結果がその後のルイ・ヴィトンの仕事です。それが《ルイ・ヴィトン銀座並木》(2004)で解決する。「装飾あるいは衣服について」(『JUN AOKI COMPLETE WORKS |1| 1991 - 2004』LIXIL出版、2004)でそのことを書きました。

建築家のテキスト

島田──今回の作品集もそうですが、青木さんの文章は口語体ですね。自分もこの本で口語体を用いて執筆しましたが、これは何か理由があるのでしょうか。

青木──自分が学生時代に書いた文章はひどいもので、今読み返すと、自分でもさっぱり意味がわかりません(笑)。それは単に技術がなかったからではなく、ちゃんと考えていないことをごまかすために、わざと難しい言葉を使って難しい書き方をしていたからです。それに気づいてからは、これだとバカだと思われるなあ、と不安もありますが、できるかぎり平易な言葉と文章で書こうとしています。

島田──ある時期の建築家の文章ははっきりとした意味を示さず、わかったような、わからないような気になるものが多かったですね。

青木──反証可能性という言葉がありますね。これは、間違っている点を指摘できる可能性を持っていることが、科学であることの基本的条件だとするものですが、文章でも同じことが言えると思います。意味がつかめない文章って、いろいろなふうに読めてしまうから、合っているとも間違っているとも言えません。そういう文章はずるいんです。

島田──ぼくも自分が実感を持って使える言葉以外は使わないでおこうという思いで今回の本をつくりました。

「モノ」が先行する空間のつくり方

──今日お話しいただいたような「広義のリノベーション」とは少し話題がずれてしまいますが、いわゆるリノベーション作品では、今までトライされてこなかった分野に、ある解法が見出され、木造住宅のリノベーションの定番とでもいえるものが達成されたように思います。こうしたものと「広義のリノベーション」は、何かつながりが見出せるでしょうか。

島田──既存のありきたりの風景の再発見や編集としてと考えると、広義のリノベーションとつながるかもしれませんが、マンションのリノベーションにしろ木造住宅のリノベーションにしろ、「引き剥がし系」とでも言うべきスタイルが見られますね。これをただ定番化させるのではなく、僕としては新しい手法を発見したいと思っています。《塩屋町の住居》(2006)でのリノベーションの頃から、既存の躯体を引き剥がして木造軸組現わしにして空間が大きくなるということ以外の方法をつくりたいとやってきました。

青木──例えば煉瓦倉庫をリノベーションするとき、往々にして、モルタルは剥がして、煉瓦は残しますね。そこには、モルタルには価値がなく煉瓦には価値があるという、意味作用におけるヒエラルキーが横たわっています。木造住宅のリノベーションで、軸組の木だけ残すのも、それと同じことだと思います。
こういうタイプのリノベーションは、モノに即しているように見えて、じつはモノを認知するこちら側の観念をなぞっているだけなので、どれも似たようなものになってきますね。しかも、そのたびごとに、その認知コードを強化してしまう。
ぼく自身は、実際のリノベーションは《十日町のプロジェクト》(2016)がほぼ最初です。これには新旧の対比はありません。基本にあるのは、建物はずっとアップデートされつづけるものだという認識で、その流れのなかで、リノベーションとは、いわばスケルトンとインフィルの区分を再定義することだろうと考えています。スケルトンというのは固定部分、インフィルとは可変部分というくらいの意味で、構造と仕上げという区分とは必ずしも一致しません。その意味で、見た目の変更という以上にシステムの変更が重要で、結果的に、見た目に大きく関わるような新旧の対比はありません。
そういえば、石上純也さんの《神奈川工科大学KAIT工房》(2008)が竣工したときに見に行ったのですが、新築の建物に古い家具が置かれていても、それが不自然ではなく、とてもおもしろいと感じました。そのことを石上さんに尋ねると、古い家具を置いた状態が入ってきても壊れない、許容力のある場をつくることが目標だった、と明快に答えてくれました。しかし、しばらくして雑誌で発表された写真を見てみるとまったく家具が入っていない。編集部から家具は入れたくないとオーダーがあったそうですが、間違いですね。
モノとしてのバラバラさに開くこと、起きるコトをバラバラに開くこと、将来という不確定さに開くこと、という問題は、2000年くらいから、分野をまたがっていろいろなところで起きている事象のように思えます。「バラバラさを許容する」と言うと、一瞬、包容力があるように思えるかもしれませんが、ちょうど孫悟空がどこまで飛んでいっても釈迦の手の上にいるのと同じことで、どこまでやっても建築家のつくった空間から抜け出せないという傲慢さの表れであるかもしれない。あるいは、なにをやってもかまわないけれど、すべてが監視されていることを前提に生きなくてはならないという、現代社会の似姿であるかもしれない。
《大宮前体育館》では、釈迦の手モデルではない方法を探りました。ある解像度で見ればバラバラだけれど、別の解像度で見ればまとまっていて、解像度ごとのバラバラ/まとまりがミルフィーユのように重なったらどうなるか。それで一元的にまとまっていく状況を回避して、一息つける術が手に入らないか、というような関心です。

島田──《大宮前体育館》については賛否両論の評価を聞くのですが、けっきょくのところ、否定派も肯定派も同じことを言っていて、バラバラであることを是とするか否とするかの違いでしかない。そのバラバラさを建築家という職能の危機と捉える人もいるようですが、目指したものが実現されているのだから、建築家の職能は揺らいでいないように思うのですが。

青木──音楽家の菊地成孔さんの本に、ジャズにおけるコーダルからモーダルへの変遷を紹介しているものがあります(『東京大学のアルバート・アイラー──東大ジャズ講義録・歴史編』大谷能生との共著、文春文庫、2005)。コーダルは和音の進行によってつくられている音楽で、モーダルは調が展開しない音楽ということかな。ジャズでは、和音という構成が優勢のコーダルから、そういう構成が背景化したモーダルへと移行していったらしい。そして構成が退き、形式が崩壊していくぎりぎりの状態にまでいって、そこではもはや音楽を分析的・構造的に理解することができなくなって、音の入り混じりあってできた香りの変化を聴いているようになってしまったと。
かつての建築も構成が優勢でしたから、その点でコーダルと似ていていなくもない。とすれば、コーダルからの展開で、その上に乗る自由、あるいはバラバラさの許容という方に関心が向いていけば、それを建築のモーダル化と言って言えないこともない。《大宮前体育館》の設計は、やはり香水の調合な感じでしたから、なるほどなあと思いました。音楽から教わることがありますね。

島田──そういう意味では、菊地さんがやっているポリリズムの音楽に興味があります。複数の異なるリズムが同時に鳴らされることで、全体として独特なグルーヴをつくりだしている。そんな建築がつくれるといいなと思いますが、これはなかなか難しそうです(笑)。

青木──おもしろいですね。じつは、ポリリズムのことは、菊地成孔さん、認知心理学者の岡田猛さんと話をしたことがあります(東京大学情報学環連続シンポジウム第3回「形式の際」、青木淳+菊地成孔+岡田猛、2009年2月19日)。菊地さんが言うには、時間の概念にはいくつかの種類があって、カチカチと時計が客観的に刻むのが「クロノス」で、何もないところから発生する時間が「イーオン」と呼ばれるのだそうです。そして、音楽というのは、何もないところから時間を発生させることであるから基本的にはイーオンであると。しかし一定のリズムを刻み続けると、その時間はすぐにクロノス化してしまうため、それをイーオンに差し戻す必要があって、その方法がポリリズムなのだそうです。それでぼくは、客観的な時間というものに取り込まれてしまいがちなところで、主体的な時間を取り戻す行ないが音楽なんだ、と膝を打ったわけ。
翻って建築は、空間を相手にしますよね。すると、空間にもクロノス的概念があり、イーオン的概念があるのではないか、そして、放っておけばクロノス的空間に取り込まれてしまうところを、イーオン的空間に引き戻すのが建築という行ないではないか。では建築で、音楽におけるポリリズムに相当する方法は何なんだろう、客観的な空間が先にあるのではなく、主体的な意味での空間がどう生まれ、それがどう持続できるのだろうか、と考えてしまいます。
音の場が先にあって、そこに音が嵌まっていくのではなく、音が先にあって、それが音の場をつくるというのなら、建築でも、空間が先にあって、そこにモノが嵌まっていくのではなく、モノが先行して存在し、それが配置されることで場が発生するという捉え方も可能ですね。ぼくたちは、ついついX, Y, Z軸のデカルト座標で定義されうる空間が前提としてあるように感じてしまうけれど、モノによって──しかもリズムが1音でつくれないように、複数のバラバラのモノによって──主体的な空間を張ることができるかもしれない、なんて妄想が広がるわけです。どなたかポリリズム的空間のあり方について、建築批評の方に聞いてみたいですね。

島田──そうですね、ぜひお願いしたいです。 建築が通奏低音を作り出して、自然環境や人の営みがその上でコードを奏でるようなあり方に対して、それらの要素が同時に立ち上がり、モノが先行するような、コーダルからモーダル、そしてポリリズム的な展開としての「日常の設計」をこれからも探し続けたいと思います。



[2016年5月20日、青木淳建築計画事務所にて]


青木淳(あおき・じゅん)
1956年生まれ。建築家。青木淳建築計画事務所主宰。作品=《青森県立美術館》(2005)、《大宮前体育館》(2014)、《三次市民ホール》(2014)ほか。著作=『原っぱと遊園地』(王国社、2004)、『青木淳 JUN AOKI COMPLETE WORKS|1| 1991-2004』(LIXIL出版、2004)、『青木淳 JUN AOKI COMPLETE WORKS|2| AOMORI MUSEUM OF ART』(LIXIL出版、2006)、『JUN AOKI COMPLETEWORKS |3| 2005-2014』ほか(LIXIL出版、2016)。website: http://www.aokijun.com/

島田陽(しまだ・よう)
1972年、兵庫県生まれ。建築家。タトアーキテクツ/島田陽建築設計事務所主宰。2016年第一回日本建築設計学会賞大賞。作品=《六甲の住居》(2011)、《石切の住居》(2013)、《ハミルトンの住居》(2015)ほか。著作=『7iP #04 YO SHIMADA』(ニューハウス出版、2012)。website: http://tat-o.com/

201607

特集 建築・都市──人工知能という問題へ


コンピュテーショナル・デザインと拡張するAI技術
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人工知能の都市表象
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