《馬見原橋》から考える

青木淳(建築家)+浅子佳英(建築家、インテリアデザイナー)

世界を変える方法


青木──浅子さんからの「原っぱと遊園地」についての質問に戻りますね。
ディズニーランドがどのようにできているか、むかし一度雑誌のために取材したことがあります。雑誌に載せる写真は、ディズニーランドの許可が必要です。そのなかの一枚、鳥が木にとまっている写真がNGでした。理由は、その鳥はディズニーランドが飼っている鳥ではないから(笑)。
ディズニーランドというのは、そこまでつくられた空間なんだ、というのが印象的でした。すべてがつくりもので、そのなかで時間を過ごすことになっている。弁当の持ち込みもできない。たしかに味噌味おにぎりの匂いが漂ってきたら、ディズニーランドの世界が壊れてしまいますね。ディズニーランドでは、その世界にそぐわないものが排除されている。その徹底ぶりは、本当にすばらしい。
しかし、「原っぱ」もつくられた世界です。それは「野っ原」ではありません。「原っぱ」というのは、有刺鉄線で囲まれていたり、土管が置いてあったり、砂利が敷かれていたり、建物をつくるために区画・整地され、その状態のまま放っておかれた空間の土地のことです。そしてそのあり方がとてもうまくいっていたら、そこで思いがけない遊びが生まれる。その意味で、完璧な原っぱ、という言い方もできる。ディズニーランドが、完璧な遊園地であるようにね。
「遊園地」と「原っぱ」の違いは、だからつくられているかどうかではなく、お膳立てされているかどうかの違いです。そこでの楽しさの質があらかじめ決まっているのが「遊園地」で、そこに思わぬ楽しさが生まれる可能性があるのが「原っぱ」。「原っぱ」はだから、そこで行なわれることが規制されていない。
たぶん問題は、ディズニーシーに味噌のおにぎりを持っていけるかということではないでしょうか(笑)。

浅子──そこですか(笑)。「原っぱ」と「野っ原」についてはいろいろと突っ込みたいこともあるのですが、そろそろ終了の時間のようです。一つだけ会場から質問を受付けられるとのことですが、いかがでしょうか。

質問者──建築家の藤原徹平といいます。面白いお話をありがとうございました。対談のなかでオリベッティのタイプライターの話がありました。青木さんのデザインはいつだって卓越しているのですが、オリベッティのタイプライターのように、どこか未来的なイメージやポップさを伴っているように感じます。
著作のなかで、映画にでてきたシーンをスタッフと延々と話しながらデザインをつくったということが書かれていました。そこで質問なのですが、青木さんの個人的な記憶のなかで、ずっと引き寄せられている原風景や、記憶のなかで繰り返しでてくるような、SFやアニメや漫画などがもしあったら教えていただけますでしょうか?
というのも、青木さんの「ばらばら」の美学というか、複数の成り立ちの異なる形態が自然に併置されるのは、どこか現代のわれわれの錯乱した身体感覚を表象しているようにも感じています。たとえば、電車に乗りながら非日常的なSFの漫画を読むような、複数の尺度や世界観が一つの身体に境なく同居しているということは、われわれにはもはや自然なことですが、そうしたパラレルな世界観、身体性を当たり前に認識する感覚を青木さんは、どうお考えなのかにも興味があります。

青木──そうですね......、いろいろあります、としか言いようがないなあ。案をつくっている時、「これでいける」と思える瞬間がありますね。その時の判断って、論理というより、その案が喚起させるイメージが、自分のなかにある何らかのイメージと繋がって、「あ、あの感じ」というふうになるかどうか。だから、イメージの引き出しがいっぱいでないと。映画って、どんなに現実の世界に見えても、現実ではなく、人工的につくられたイメージでしょ。だから、映画のシーンって、記憶に残って、引き出しに入りやすい。
《大宮前体育館》のプロポーザルコンペをやっていた時は、『テレタビーズ』のイメージに繋がりました。入り口の棟を、地下2階まで到達する末広がりの円錐体でできていて、それ自体が地下へのトップライトでもあるような立体でつくることを思いついて、そうすると地上に出てくるのは氷山の一角で、そこに入ると下に思いがけず、大きな空間が広がっていて、「え?」って驚く。それが、架空の世界が舞台になっているBBCの子ども向けテレビ番組のイメージに繋がったのですね。この敷地、さっき言いましたが、木が鬱蒼としていて暗かったから、あの明るさはいいなあ、と。この『テレタビーズ』のイメージは、最終的にはだいぶ弱まりましたけれども。

浅子──コンペ案の時はもう少し強かったですよね。

青木──ですね。長い期間を経て、だんだん変形してきますね。
でも、ご質問はそういうことでなくて、「この映画です!」というのを示せってことですよね。それ、やっぱり恥ずかしいんで、できたら言いたくない(笑)。じゃ、すまないでしょうから、一つ。中学の時に見てすごく好きだったのが『冒険者たち』(1967)かな。正しくはきっとシムキュと読むんだろうけれど、ジョアナ・シムカスが出てくるフランスの映画ですね。島で撃ち合いをするんですが、その海のなかに浮かぶ要塞島がすごい。ナントとボルドーのあいだくらいにある「フォール・ボワヤール」って島です。ただし、これはセットでなく、ロケ。実在してます。
それからご質問に出てきた話は、たぶんレオス・カラックスの『汚れた血』(1986)のことだと思います。1階が外から丸見えのガラス張りの部屋で、そこで何人もが住んで、道路に向かって座ってご飯を食べている。スタッフが、この感じですよね、って、ビデオを持ってきた。

浅子──ぼくも見直しました。あの部屋のシーンは少ししか出てきませんが、道路がすぐそばにあるにもかかわらず、道路が遠くにあるようにも感じられるという不思議な関係性があります。あれに惹かれるというのはよくわかります。
最後に古い本なんですが、今日は坂本一成さんの『建築を思考するディメンション』(TOTO出版、2002)という本を持ってきました。そこに収録されている坂本さんと青木さんの対談がとてもおもしろいので、それを紹介して終わりにしたいと思います。
その対談はギャラリー・間での坂本一成さんの展覧会『住宅──日常の詩学』展(2001)にあわせて催されたものです。補足すると、この展覧会は《House SA》(1999)という坂本さんの自邸でもある住宅が重要な位置をしめています。
この対談のなかで青木さんは、坂本さんが『住宅──日常の詩学』(TOTO出版、2001)の序文に書かれた「普通の、当たり前の日常の奥に、未だ見ぬ、さらなる自由な世界がある気がする」という言葉に反論し、《House SA》を見ても「日常の向こう側にある──非日常とは言わないですが──もう一つの何かというのは何なんだろう。そこがピンとこない」「僕だと、日常的なものを使っていても、日常的なものが日常的なものに見えない、感じられない何かをしなくては」とおっしゃっているんですね。さらに、「なにか全く無からつくっているというよりも、あるものを使って、それを変え(中略)いまだ見ぬものにしたい」と言っています。ちょうど今日の対談とは逆に青木さんが坂本さんを問いつめている形です(笑)。
ただ、最後に会場にいた山本理顕さんに、青木さんは坂本さんを「日常の向こう側に一体何があるの、そうやって開いていって、どこに向かうのだ」と問いつめているが、青木さん自身はどう考えているのか、と突っ込まれ、渋々ながらこう答えているんです。
「それが実現することで、そこを体験する人にとって、既存というのは『自分が望めば、変えうるのだ』という感覚が生まれればいいと思っています。」そして変える行き先は、「そこに居る一人ひとりがばらばらで、あるままに共存していることの可能な社会の、それにふさわしいほんのささいな場」であると。
今日の締めくくりにあまりにもぴったりなので最後に引用しました。本日はありがとうございました。

青木──へえ、ほとんど記憶にないのですけれども(笑)、素晴らしい引用をありがとうございました。



[4月29日青山ブックセンター本店にて]


fig.1-5 提供=青木淳建築計画事務所


青木淳(あおき・じゅん)
1956年生まれ。建築家。青木淳建築計画事務所主宰。作品=《青森県立美術館》(2005)、《大宮前体育館》(2014)、《三次市民ホール》(2014)ほか。著作=『原っぱと遊園地』(王国社、2004)、『青木淳 JUN AOKI COMPLETE WORKS|1| 1991-2004』(LIXIL出版、2004)、『青木淳 JUN AOKI COMPLETE WORKS〈2〉青森県立美術館』(LIXIL出版、2006)、『JUN AOKI COMPLETEWORKS |3 | 2005-2014』ほか(LIXIL出版、2016)。

浅子佳英(あさこ・よしひで)
1972年生まれ。建築家、デザイナー。タカバンスタジオ主宰。大阪工業大学工学部建築学科卒業。いくつかの設計事務所を経てタカバンスタジオ設立。2010年東浩紀と共にコンテクスチュアズ設立、2012年退社。主な論考に「コム・デ・ギャルソンのインテリアデザイン」(『思想地図β』Vol.1所収)など。主な作品に「gray」「2020オリンピック選手村代替案」「水戸新市民会館プロポーザル応募案(吉村靖孝建築設計事務所との共同設計、2次選出)」など


201606

特集 青木淳 かたちってなんだろう


《大宮前体育館》から考える
《馬見原橋》から考える
建築が町にできること
市民社会の建築家・青木淳
論理場としての建築の開放性について
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