《馬見原橋》から考える

青木淳(建築家)+浅子佳英(建築家、インテリアデザイナー)

青木淳の平行世界

青木──浅子さんはツイッターで《大宮前体育館》[fig.3]のことを、ある意味では面白いけれども腑に落ちない部分もあると書かれていましたね。荻窪という街のなかに、異分子ではない建築をつくる《大宮前体育館》も《馬見原橋》と同じようなところがあって、周辺に馴染ませるという言葉では表わしにくいような馴染ませ方をしているつもりですけれど。

[fig.3]《大宮前体育館》(2014)

浅子──そうですね、異物と言えば異物ですからね。

青木──周りと合わせるだけなら、デザインはいらない。《大宮前体育館》の場合は、もともと小学校だった場所の傷口を異なるかたちに修復していこうとした。今まであった皮膚とは違うものにすることが目的だったというのは《馬見原橋》と似ています。

浅子──もうひとつ、両者のプロジェクトに共通するのは、ある種の反転が起きていることですよね。橋はそれ自体にはあまり意味がなく、向こう側とこちら側を繋ぐためのものです。だから橋を設計することは、橋そのものではなくその周りがどう変化するかということが重要になる。これは《大宮前体育館》についても同じことが言えます。というのも《大宮前体育館》は、敷地のなかの建物をよくすること以上に、周辺の荻窪の街の環境こそをよりよいものにしようとしているように見えるからです。

青木──そうですね、周辺の街をよりよくすることが出発点としてありました。敷地はもともと小学校でした。はじめて見に行ったとき、4階建て校舎の周りに木々が鬱蒼と生えていて、暗いと思った。昔の小学校はもう少しオープンだったはずですが、最近は完全に塀で囲い込まれて、なかの様子が窺いしれません。ぼくらの提案は、地上1階、地下2階でつくることで、それはコストが高くつくのです。

浅子──2層も地下に埋めていますからね。

青木──地下水が流れていたので掘るのも大変でした。ぼくらの案をよく通してくれたなと思います。その時は、この体育館ができれば、周りの土地も値段があがるだろうし、周りも喜ぶだろうと思いました。それでつくったのだけれど、後から、土地の値段が上がると固定資産税が増えるため、そこにずっと住んでいくにはマイナスになるという意見があることを知りました。

浅子──価値を落とすものをつくれるかと言えばそれはできない訳で悩ましいですね。
ぼくが《大宮前体育館》に違和感があったのは、地上1階とはいえ、外からみるとけっこう大きな建物だし、さらに地下に2層も埋めているのだから、内部にクライマックスを感じる空間を期待していたのに、それがなかったことです。この建築にはプールと体育館という2つのとても大きな部屋がありますが、体育館は特に大きい。だから、体育館には何かしらの驚きがあるだろうと期待して入ったのですが、オチがないというか、よくわからない空間になっていました[fig.4]。なぜそうしたのか。青木さんはここで、アンチクライマックスというか、気持ちをはぐらかすようなことを意図していたのでしょうか。

[fig.4]《大宮前体育館》体育館内部

青木──中心がないものをつくろうとしていたからでしょうね。《馬見原橋》と同じです。橋は目的地にはなりえず、あくまでも通過点ですよね。目的地よりそこに至る経路のほうが大事、というのがぼくの性癖でしょう。《大宮前体育館》の場合も、運動するために来る場所ですから、運動する場としてしっかりと、しかも快適にできていればそれでいいではないか、と思うんです。それに対して、そこへの経路、あるいは運動を終えて着替えて、出ていくまでの経路は、ある意味、特定の目的がなく、だからそこでいろいろいろなことが起きる可能性があるから、デザインとして大切だと思うのですね。都市で言えば、そこを使う特定の人しか入れない建築空間より、道や、誰でも時間を潰すために入れる建築のほうが重要だ、と思うのと同じです。

[fig.5]《大宮前体育館》地下2階ホール
浅子──うねうねした壁がある隙間の空間ですね[fig.5]。《大宮前体育館》は3層あるうちの2層分が地下に埋まっていて、最上階だけが地上から出ています。この最上階から、地下2層を見下ろす谷底のような隙間がある。そこはとてもおもしろい空間で、コンクリートの壁が波打っていて、仕上げも普通の打ち放しでも塗装でもなくパテ仕上げだけがなされている。たとえて言うとクレパスのような空間で、確かにこの部分がクライマックスであるように思えます。
とはいえ、体育館のほうも、体験としておもしろいものにすることは悪いことではないですよね。なぜわざわざクライマックスがないようにつくらなければばならないのか、いまいち納得できないんですよ。

青木──クライマックスがあってもよいのでしょうけれども、実際にそこで行なわれるのはバドミントンでありバレーボールと決まっているわけで......。

浅子──いやいや、ぼくはそんなことではごまかされませんよ(笑)。ここでは変なことが起こっているということをぼくは言いたいんです。
《大宮前体育館》の体育館内部は、屋根を支える鉄骨の部分が淡いグリーン、床やその周りの壁が水色で塗り分けられていて、特徴的ですよね。この塗り分けは体育館のみならず、そこに辿り着くまでの階段室なども含め、1階はグリーン、地下2階はブルーと部屋の用途に関係なくすべて「階ごとに塗り分ける」という厳密なルールが徹底されている。しかし、なぜそのルールなのかはさっぱりわからない。ふつう、こういう塗り分け方はしないですよね。だけどよくよく考えて見れば、ではなぜ今までぼくたちはこのようなやり方をしなかったのかというのも不思議です。しかし、今までは試されてこなかった。
ぼくはしつこいタイプなので《大宮前体育館》にも5回くらい通い、水着を持っていって娘とプールで泳いだりもしました(笑)。何度も通いながら考えた結果、これは人間以外の誰かが設計した建物だと思えば説明がつくと思ったんですね。それこそ「平行世界」の人が設計した建物なのではないかと。
ロバート・J・ソウヤーというカナダ人のSF作家の書いた三部作『ホミニッド──原人』、『ヒューマン──人類』、『ハイブリッド──新種』(内田昌之訳、ハヤカワ文庫SF、2005、原著=2002-2003)という平行世界を扱ったSF小説があります。今の人間が住む地球と、ネアンデルタール人だけが生き残った平行世界の地球があって、たまたま同じ場所・同じ時間にニュートリノの実験を行なった結果、両者の世界が繋がって行き来できるようになるという話です。ネアンデルタール人は体が大きくて身体能力も高く、後頭部が大きいから知能も高くて、優しい人種でもあった。平行世界のほうではネアンデルタール人が生き残って、人間同士が争って勝手に死んでいったことになっています。一方、人間が住んでいる地球のほうでは、かつて人間たちが石などの武器を持ち、集団でネアンデルタール人たちを殺したということになっている。そして、ネアンデルタール人が生き残ったほうの平行世界では、さまざまな点がこちら側の世界と違うんですね。
物語としては、平行世界のネアンデルタール人がこちらの世界にやってきて、最初は白人たちとコンタクトをとり、その後地球中を見て回る。そこで平行世界のネアンデルタール人が、人間の色やかたちが違う──白人や黒人がいる──ということにとても驚くんですね。というのも、ネアンデルタール人たちの世界でも、もともとは地理や環境の違いにより人種の違いがあったのですが、差別のない平和な世界なので、交配が進んで、その差が無くなっていった。そこで逆に気づかされるのは、われわれは、いまだに暴力的で差別的な世界に生きているということです。
すみません、話が脱線しすぎてしまいました。ただ、ここで描かれている世界は、ぼくたちの世界を考えるうえでとても大きなヒントを与えてくれる。このような平行世界の話を踏まえたうえで《大宮前体育館》に話を戻すと、われわれがあたりまえだと思っていることも実は長い時間をかけてつちかわれたルールに支えられているということに気づきます。「美学上、こういうものがかっこいいんだ」とか「こういうものがクライマックスなんだ」と思えるようなルールというのは、デザインをすればするほど身体化されていきますよね。《大宮前体育館》の塗り分けのルールは、一般的なデザインのルールと齟齬を起こしている。それは意図的にされていることだろうと感じます。
何度も繰り返しているように、ぼく自身はクライマックスのある空間を求めてしまう。しかし、それはそれまでに身体化されたデザインのルールをトレースしているにすぎない。では、クライマックスのない空間をつくるのが本当にいいのか、それともやはり人々の欲望に半分乗っかるようなかたちで分かりやすいクライマックスを用意して、それをもう一度変えるようなことを試みるほうがよいのか、この塗り分けられた鉄骨を見るたびにアンビバレントな気持ちになるわけです。

青木──たとえばこの体育館が、ネアンデルタール人のつくったものだとすると、これは彼らなりの美意識でできているということになる。しかし、その美意識を説明できない。

浅子──青木さんのなかでもまだ、これはわからないんですね。

青木──わからないですよ、ネアンデルタール人じゃないから。

浅子──ええっ。ではどのようにして決定したのでしょうか? ここで起こっていることはかなり不思議なことですよ。

青木──それほど不思議ではないですよ。敷地のすぐそばにもともと大宮前体育館があって、それが古くなったので、敷地を変えて建て直したのが新しい《大宮前体育館》です。新しい方にはプールもあるので、「大宮前スポーツセンター」の方が名称としてはわかりやすいと思うけれど、改築の扱いなので名前が変わりませんでした。使用する団体も以前とほとんど変わりません。元の体育館の床にも、スポーツごとに別の色でコートを示す線が引かれていたわけですが、その色分けを、新しい体育館でも踏襲してくれ、という要望がありました。

浅子──なるほど。ただ、線の色を引き継いだこと自体は、床全体を水色にした理由にはならないですよね。

青木──元の体育館の線になかった色が水色だけだったんです。

浅子──床をフローリングにするという選択肢はなかったんですか。

青木──床の性能を考えた時に、木ではなくて合成の樹脂のほうがよいということになったのですが、そうすると特注色がつくれないことがわかって。

浅子──カタログにある既成の色のなかから選ばなければならなかったわけですね。

青木──性能として一番いいのは、さほど色数がないこと。そのうち、もともとの線の色が同化しないのは、茶色のと、水色のと、あと何だったかな......。茶色だと、フェイクのフローリングみたいになってしまい、実直につくっていっているこの建物に合わない。鉄骨の薄緑は、昔の鉄製の機械によく使われた色で、これも素直な選択です。

浅子──どうしてこんなにしつこく聞くのかというと、《大宮前体育館》と同じタイミングで、《青森県立美術館》にも行ったからなのです。《青森県立美術館》には《大宮前体育館》のような隙がなく、あらゆることを完璧に計算したうえで決定されているようにしか見えない。両者の建築はまったく違うように見える。

青木──ええ、ええ、正反対ですね。「ばらばらさ」を許容しようとしていることにおいては、両者はかなり共通しています。ただ《青森県立美術館》の場合は、ばらけていくものを繋ぎ止めるのがデザインだという考えでできていますが、《大宮前体育館》ではそうした繋ぎ止め方が、嫌になってきたんですよね。

201606

特集 青木淳 かたちってなんだろう


《大宮前体育館》から考える
《馬見原橋》から考える
建築が町にできること
市民社会の建築家・青木淳
論理場としての建築の開放性について
このエントリーをはてなブックマークに追加
ページTOPヘ戻る