建築と言葉の関係について──映画『もしも建物が話せたら』から考える

香山壽夫(建築家)+長島明夫(編集者)
右から、香山壽夫氏、長島明夫氏(写真=アップリンク)

映画のなかの建築

長島明夫──『もしも建物が話せたら』という映画がまもなく公開されます。今日はこの映画を起点にして香山先生とお話しするということで、「建築と言葉の関係について」というテーマを事前に決めておきました。みなさんご存じかとは思いますが、『もしも建物が話せたら』は6人の監督によって各地の文化を象徴するような6つの建築が描かれ、なおかつその建築が自分で喋るという特異な設定で作られた作品です。この問題設定を中心に、まず先生にご感想を伺いたいと思います。

香山壽夫──僕も2週間くらい前に初めて観せていただいたんです。別に宣伝する役を買って出る資格もないのだけど、面白い。昔から建築と映画は色んな面で似ていると言われますね。監督がいて大勢のスタッフがいて作るといったようなことから、まさに今日のテーマの「建築が語る」ということまで。すなわち建築家は建築のかたちの意味──今日の話では言葉ということですが、それを考えながら作る。映画監督もそうでしょう。僕が学生の頃、ミケランジェロ・アントニオーニという面白いイタリアの映画監督がいて、僕や1学年上の原広司さんなんかは熱狂して観ていたのだけど、彼も建築の勉強をしてから映画監督になったと言われます。
今回の映画は、それぞれ定評のある映画監督が自分で建物を選んで、その建物を写している。語る言葉を聞くというのは、人間の場合もそうですが、お互いのなかにずっと入っていくわけです。ですからこの監督たちも建物の声を聞きながら入っていく。そういう点で6つそれぞれに面白いというのが、この映画についての僕のいちばん基本的な感想です。
タイトルでは『もしも建物が話せたら』と仮定文で書いていますが、実際建築を作るときに、僕たちは建物の声を聞きながら作っている、とも言える。後で色んな話が出てくるかもしれませんが、建築家が敷地の前に最初に立つとき、例えばライトでもコルビュジエでも、敷地がなにを求めているかを聞くと言います。その姿勢は建築設計の基本だと思いますが、さらに広くいうと、ある意味で芸術家はみんなそうです。ミケランジェロがダビデの像を作ったときに言った有名な言葉がありますね。みんなが「ミケランジェロ、あなたは神のような人だ。よくこんな石からすばらしい像を作った」と言ったときに、彼はこう答えた。「いや、私が作ったのではない、あれは神様が作ったんだ。像が石のなかに隠れている。私はそれを見つけて掘り出したにすぎない」と。ミケランジェロは詩人でもありましたから、特別な言い方かもしれませんが、他の芸術家もみんな、そうした根本において共通だと思います。日本の有名な棟梁の西岡常一さんだって、「良い建物を作るには木の声を聞かないといけない、木がどうなりたがっているかを聞いて作らなきゃいけない」と。それを電動のノコギリでばーんと切ったって、良い建物なんてできない。みんな同じことでしょう。これは後でもうちょっと、長島さんとの対話のなかで展開できればいいと思いますが。

ベルリン・フィルハーモニー(1963年竣工) 監督=ヴィム・ヴェンダース

6話あるうちの第1話が、ベルリン・フィルハーモニーの建物。ハンス・シャルーンという人が設計した。これはまさに、「建物が話せたら」というテーマが分かりやすい建物をよく選んだなと思います。よく知られている建物ですが、うねったようなかたちに作られていて、そのなかに聴衆を抱き込むような空間になっている。通常のコンサートホールはたいてい細長いかたちで、片側にステージがあって演奏し、それをみんなが並んで聞くわけです。この建物は違う。ワインヤード形式と言いますが、中央にステージがあって、ブドウ棚のように段々になって周りを囲んでいく。それはシャルーンが以前から思い描いていたかたちなんです。シャルーンは建築の歴史のなかで表現派と言われている人です。なにを表現するのか。簡単にいうと、命を表現する。すなわち植物が大地から生えてきたり、人が小さな細胞から子どもになっていく、生きものが育っていくように、建物を作ろうとした。その命の働きというか、僕たちの体のなかでうごめく情念みたいなもの、これは芸術を作るときのひとつの大きな力です。ですからまさに建物が表現をして、語りかけてくる。
2番目がロシアの国立図書館。この建物は、おそらくよほどの人でないと知らないと思う。200年以上前に建てられたロシアの巨大な建物で、様式でいえば古典主義。でも不思議でね。第1話と対比的です。あまり建物は写っていない。帝政ロシアのエカテリーナ2世が集めた膨大な本がある。それをひたすら写している。それとその本を抱えて動くロシアの図書館員。暗い顔をしてるんだよね(笑)。陰鬱な顔をして本のなかを行ったり来たりしているのをカメラが追っている。なんなんだこれは? という感じです。一口で説明できない。だけど僕はなにか不思議に面白かった。

ロシア国立図書館(1795年竣工) 監督=ミハエル・グラウガー

例えば今日僕たちは、蔦屋がここにこういう空間を作ってくれているおかげで、集まることができる。普通建築はそういうふうに人間を集めるかたちで作るのだけど、この図書館は、ひたすら本を集めるために作られている。本を読ませる気持ちがあるのかという感じですね。ただ膨大な本が積み重ねられているだけ。厚い革表紙の、ほとんど聖書だと思いますね。アポカリプス、ヨハネの黙示録、と書いてあるのが見えた気がした。昔の図書館は、本を読ませるという気はなかったんです。みなさん本を読んでください、しかも無料で読んでくださいなんてことは考えられなかったわけで、本はひたすら集めて保存する。ウンベルト・エーコというイタリアの面白い物書きがいますが、あの人が面白いことを書いています。フランスの国立図書館にある中世以来集められている膨大な本は、どれだけ読まれたかというと0.0何パーセントしか読まれていない、あとは積まれているだけだと。2番目の監督は本ばかり撮って、ほとんど建築は撮っていない。しかしあの建築があればこそ本が集まっている。そして大きな閲覧室のなかに人がいるのがチラッと写ったりしていますね。色んなことを考えさせられますが、それはみなさんもご覧になって考えてみてください。
3番目のノルウェーのハルデン刑務所、これも行ったことがある人はいないでしょう(笑)。僕もこの映画を観て初めて知りましたが、最新の刑務所らしい。最新というのは建てられたのがたまたま新しいというだけではなくて、作り方がね。昔風の、悪いことをした人に懲罰を与えて閉じ込めておくのとぜんぜん違う。明るくて綺麗でね。中でサッカーをしたりバスケットボールをしたり、みんな個室と庭が付いていて、こんなところなら外にいるよりよっぽどいいんじゃないかという建物なんです。しかし、壁が絶えず映る。

ハルデン刑務所(2010年竣工) 監督=マイケル・マドセン

刑務所とはなにか。基本的にいうと、壁によって世界が仕切られているということです。壁の中に入ったら、刑期が終わるまで出られない。建築が人間になにかを強制するということの決定的なかたちが刑務所に出ています。強制というと言葉が強いですが、一般的に建築の強制はゆるいものです。例えば学校で、先生は子どもたちに「教室は勉強するところです」と言うかもしれない。しかしそう言われたって、勉強する子もしない子もいるでしょう。トイレはトイレだと言ったって、その中でタバコを吸う人もいるわけだ。そういったように、建築においてその規制は、一般的にゆるい。あるいは異なった解釈があると言ってもいい。しかし刑務所の壁は決定的な切り方をします。そして切られて外と内がどう変わるのか。このことはどんな建築の場合にも問題になりますが、このハルデン刑務所を見ていると、どちらがまともな世界なのか。もしかしたら刑務所の壁の外のほう、僕たちが普通と思っている世界のほうが、異常なのかもしれない。建築の人間に対する働きかけの力というものについても色々思わせる作品です。
4番目のソーク研究所。これはルイス・カーンの設計です。僕の50年前の先生で、当時の映像が出てくるので懐かしくて胸が締めつけられる。カーンはまさに、建築の意志を聞けということを盛んに言った人です。映画でもそういう言葉が次々出てきます。また、ソーク博士もカーンの考えに一致したわけですね。僕が働いていたときも一度ソーク博士が来たことを覚えていますが、科学者が科学を探求することも、建築家が空間を探求することも、他の芸術家──例えばピカソが絵を探求するのも、みんな同じだという点で、二人は一致した。ソーク研究所は今日でも生命科学の世界第一の研究所であるとされていますが、現在の科学者たちも登場してきて、科学者も自然の声を聞いて発見する、カーンが言っているのと同じだ、そういうことを言っています。

ソーク研究所(1963年竣工) 監督=ロバート・レッドフォード

まあ、後のふたつはお任せしますが、そんなことで、今のは僕の頼りない感想でしたけど、そういう感想が止めどもなく湧いてくる映画。長いので、ちょっとくたびれる。でもくたびれるけれども飽きないね。

建物は本当に話すのか?

長島──今日、始まる前にすこし打ち合わせをしまして、先生にはぜひこの映画を誉めてくださいとお願いしたんです。批判は私がしますからと(笑)。いや、もちろん私自身も興味深く観たのですが、それは2,000字くらいの文章に書いて、インターネットで公開されているので、それをご覧になってください。
私は最初にこの映画の設定を聞いたとき、いま先生が仰ったような意味で面白いなと思う反面、半分くらいは、うーん、うまくいくのかな、という感じもありました。というのは、建築が言葉と一対一で、ひとつの意識を持って、言葉を話すことが本当にありえるだろうか、建築というのは言葉にならないものを含んでいるからこそ建築なのではないか、そんな気がしたんです。例えば映画のなかでこういう言葉がありました。

「毎朝 彼らが来る前に私は不安にかられる/"今日は みんなが私に興味を失い 来ないのでは?"と」(第6話「ポンピドゥー・センター」より)

「彼ら」というのはお客さんです。つまりいつもは毎朝行列ができるのだけど、本当に今日も来てくれるのだろうかと、建物が不安に思っている。これを字幕で見たときに、うーん、本当に建築がこういうことを言うだろうかと思いました。ポンピドゥー・センターの職員ならばこういうことを考えるかもしれない。でもはたして建築はどうだろうかと。

ポンピドゥー・センター(1977年竣工) 監督=カリム・アイノズ

香山──いちばんの問題は、建築が誰にとっても共通なひとつのメッセージを発しているのか。これは大きな問いです。翻ってみると近代建築は機能主義を標榜しました。機能というのは意味ですから、言葉とも言える。すなわち言葉に従って建築を作れと言ったわけです。しかし今日では、それでうまくいくとは誰も思っていないですね。そんな決定的なことは言えない。先ほどの刑務所はかなり決定的な機能を持っていますが、それでも中の使い方を見ると、一人一人それぞれです。すなわち幅があるということでしょう。
建築はなにかは言っている。その受け取り方は人によって違うかもしれない。しかしまた、まったく違うというわけでもない。例えば僕が良いと思うものを、あなたも良いと思う、別の人も良いと思う、でも誰かは良いと思わない、そういうかたちで世界は成り立っている。それがまったくバラバラだと世界は成り立たない。だからそれがどういうかたちで成り立っているか、これは面白いことですね。それはまさに長島さんが提起された問題で、建築はなにかを語っているとは思いますが、それがどの程度の幅を持っているのか、どういうふうに受け取られるのか。世の中、ものを作る面白さはみんなそこに係っている。
これが法律みたいなかたちになるとつまらない。この頃の建築は、法規やなにかで決まることがすごく多いわけです。これは建築を殺す。例えば身障者のためのスロープは1/20以下の傾斜でなければいけないという。そうでもないですよ。人によって、場所によって、色々ありえる。あるいは手すりの高さは1100㎜以上にしないといけない。でも1100㎜だって落ちる人は落ちるし、45㎝でも幸せに暮らしている人もいるわけです。ですから法規みたいにひとつひとつきちっと型に嵌めるのは、逆に悪い言葉だと僕は思う。このポンピドゥー・センターの一言も色んなことを考えさせますね。

長島──あのセリフを考えると、本当に建築がこんなことを言うかなと思うのと同時に、でもポンピドゥー・センターだったら言うかもなという気もしなくもない。やはりその意味でポンピドゥー・センターも、あれはスタイルとしてはモダニズムというよりポストモダンと言われますが、ひとつの機能や目的があってそれに建築が対応しているという意味では、大きく言ってしまうとモダニズムなのだと思います。お客さんに来てもらうのは建物の大きな目的のひとつだから、もしかしたらこういう言葉も話すのかなという気もする。ただ一方では、やはりそれ以外の色んなことも、ポンピドゥー・センターにしろ他の近現代の建築にしろ、その存在に含んでいるのだろうと思います。だからこの映画の「建物が話す」というテーマは、先ほど先生が言われたように、監督や制作者に「建物の声に耳をすませる」という行為を要求するものだった。

現実のものごとから乖離する言葉

長島──この辺りで映画からすこし話を広げていきたいのですが、この「ものごとの声に耳をすませる」ということが、今の世の中では軽視されているように感じています。「言葉」という日本語の語源は「ことの端(は)」だそうですね。つまり、ものごとのすべてを捉えることなんてできず、あくまで端っこにすぎない。でも最近の言葉は、そういうふうに現実の端っこを捕まえようとさえしていなくて、言葉自体が物質的に自律して、現実から乖離した観念が先行するような使われ方をしている。そういう傾向が強い。
今日は先生がお相手ということで安心して大風呂敷を広げてしまいますが、例えば「平和」という言葉がそのことをよく示していると思うんです。平和はもともと戦争をしていない状態を客観的に示す言葉だった。でもそれがいつしか、人間が目指すべき最高の価値として理想化されるようになった。もちろん僕も平和がいいと思います。でもそのことになぜ問題があるかというと、結局そうした理想化が「平和のために戦争をする」という矛盾した論理を成り立たせることにもなると思うんです。今の「積極的平和主義」という言葉で言われる平和は、戦争が終わって「ああ、平和っていいなあ......」と実感されるときの平和とは、まったく繋がっていません。観念が現実に先行している。
これは非常に大きな難しい問題だと思いますが、もうすこし建築寄りの話をしていくと、例えば「歴史」と「伝統」という言葉はどうでしょうか。どちらもすごく重要なものであると、一般的にも言われています。僕自身、まさに先生にインタヴューさせていただいた去年の『建築と日常』では歴史をテーマにしていましたから、もちろん大事だとは思っている。でもいま世間で歴史や伝統と言われているものが本当に信用できるかというと、かなり疑問がある。だからこそ、あの特集号を作ったわけですけれども。
例えば建築の分野でいうと、つい最近もそういうプロジェクトが話題になりましたが、「日本的なもの」とか「日本らしさ」をコンペやプロポーザルで求めたりする。これは往々にしてあまり楽しいことにはならないなと思います。去年、ある市の市庁舎のプロポーザルがあって、2次審査が公開で行われたので、興味を持って見に行ったんです。当然そこでも設計の要項に「この市らしい建築」というのが入っている。5案ぐらいあるうち、1案だけ超高層の案があったのですが、そのプレゼンのとき、審査員が聞くわけですね。「この案のこの市らしさはどこにありますか?」と。多少記憶に誤りがあるかもしれませんが、聞かれた建築家が答えたのは、まずひとつ、超高層なので細くて高い、そうすると地上レベルで空地を多く取れる。で、その市というのは市民活動が活発らしく、その空いた場所で色んな活動ができる、だからそれがこの建築案の「この市らしさ」ですと答えた。もうひとつは、超高層なので上に展望台がある。そこから富士山が見えたり、その市は競馬場がある市なのですが、そこから競馬場が見えたりする。だからそういうものが見えるのも、この建築の「この市らしさ」ですと。そういうことを言われたんです。地上にオープンスペースがあったり、高いところから遠くを見渡せるというのは、どちらも建築の価値だとは思うのですが、そのことを「この市らしさ」という理屈で建築の専門家が言い合っている状況に、なんだか虚しいなという思いがしました。

香山──大きな問題が出されましたね。歴史と伝統は、日常的に生きていて、毎日なんらかのかたちで考えないといけない問題でもあるし、建築の設計でも、自分のなかで問答したり、あるいは所員と絶えず議論する大テーマです。基本的な考え方は、さっき提起された問題と同じで、言葉がなにかひとつ意味を持っているとしても、その中身は状況や人によって色んな幅を持つ。良い言葉はむしろそういう幅を持っている。
僕たちは歴史にがんじがらめになっている。これは僕の大前提です。とりわけ建築家のように美というものを扱うとき、美はどうやって規定できるか。いかようにも規定できない。唯一言えることは、人間はある共通の過去を持って生きてきた、このひとつしかないんですね。近代のなかで美の根拠を説明しようとした試みはいっぱいあります。すでに古代ギリシア人もやった。比例だとか、心理学だとか、色んなことを考えたけれど、すべて失敗したと言っていいと思います。人々がなにを美しいと思うのか、科学的には説明しえない。説明しえるのは、僕たちの底に、僕たちの判断を作ってきたものが、なにか共通にあるということしかない。それが根本の意味での歴史と伝統です。僕たちは同じものを見て育ってきた。同じ建物を見たり、同じ音楽を聞いたり、同じ雲や同じ夕日を見て「いいなあ」と思ったことがあるから、誰かの絵を見て「いいなあ」と思うんですね。それが共通にあるからこそ、建築家は一生懸命提案してね、まあ駄目だっていう審査員もいるかもしれないけど、多くの市民は良いと言ってくれるだろう、あるいは自分が死んだ後でも何人かの人は良いと言ってくれるだろう、そう思って一生懸命やるわけです。しかし、それは定義しえない。僕たちの言葉の狭いところで定義しようとすると、しばしば食い違う。それが歴史と伝統という言葉が持っている問題です。大ジレンマを抱えている。極端に狭く定義して、例えば障子を使えば日本的と言ったって、今はそんなものどこにでもあるわけでね。軒下に格子を使えば日本的と言っても、まあそういうものもあるかもしれないけど、そうでないものもたくさんある。

長島──やはり現実に先立って「日本的なもの」とか「日本らしさ」があるわけではない。歴史や伝統というのは、例えば「このプロジェクトは伝統でいこう」「このプロジェクトは革新でいこう」、そういうふうに選択可能なものではなくて、とりあえず精一杯やってみて、その後に出てくるものだという気がします。


201604

特集 スペキュラティヴ・デザイン
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