建築と言葉の関係について──映画『もしも建物が話せたら』から考える

香山壽夫(建築家)+長島明夫(編集者)

「都市」と「景観」という言葉の使われ方

長島──次に「都市」と「景観」はどうでしょうか。これも歴史と伝統と同様に重要で、ぜひ考えなければいけないと、建築界隈で言われる言葉です。でもよく考えてみると、例えばかつて「東京はカオスである」とよく言われましたが、それは東京都の村や南の島のほうまで含んでいるのか、それとも23区限定なのか、吉祥寺や町田は入らないのか。その辺のはっきりとしたかたちを都市は持っていないわけですね。これについては、先生が以前に書かれた文章がありました。

「都市の性格は、極めて複雑多様であるがゆえに、誰しもある観点において論を立てることは可能であり、かつ容易でもある。都市は現実としてよりは仮象として存在している場合が多いゆえに、その論は責任を問われることなく、空想的でもあり得る。」
(香山壽夫「都市」『建築論事典』日本建築学会編、彰国社、2008年)

言葉は悪いですが、歴史や伝統と同じように、捏造することもできるようなものが都市であると。景観はまたすこし意味合いが違いますが。

香山──都市も最近、中身がないというか、中身が色々であるにも拘わらず大手を振るっている言葉ですね。この頃、確かに建築のデザインについて議論がしにくい。共通の価値基準がない。だから「都市的なコンテクストからするとこれが正しい」と言われがちですが、これもね、実際はなにを言っているか分からないことが多い。すなわち、建築のデザインで一致できないのなら都市という言葉を出せば一致するだろうというのも、空想にすぎないと言っていいと思います。
あと、景観という言葉はそれ以上にいかがわしい言葉でね(笑)。この頃それが法律にも使われて、景観条例とか景観審議会とか、これは本当によくない。建築には内部の空間に対して外部のかたちがあるということは、昔から誰でも知っていることです。それをあえて景観なんて言葉で言わないといけない理由はまったくないと思うんです。建築は繋がっている。すなわち、それが建つ場所には丘や川があったり向こうに山が見えたりするだけでなくて、多くの場合、隣に建物が建っているわけですから、そういうものと一緒に考えるというのは昔から言われている大事なことです。もちろん、みんなが大事に守っているかどうかは別ですが。景観は土木のほうから出てきた言葉なんです。会場に土木の方がいらっしゃったら後で怒られるかもしれないけど、景観という言葉でルールを作って、それで街を良くしようという善意があるとしても、それは結果的に、多くの場合、ものごとを歪めるかたちになっている。

長島──若干補足をしておくと、景観とよく似た言葉に風景という言葉がありますね。風景のほうがもうすこし昔から使われていた。

香山──ああ、そうね。あれは良い言葉だ。風景はlandscapeの訳語として生まれたものですが、それまで無意識だったものを意識的に捉えるという姿勢が根底にある。

長島──風景というのは、原風景という言葉があるように、ある主体、それが個人であるか共同体であるかはともかくとして、その主体と山なり川なりのお互いの間にあるようなものを指す。その意味では主観的なものです。それと区別するために景観という言葉が使われているのだと思いますが、景観は誰が見ても良い悪いがはっきりしているような、ある種の客観的なもの。現実の社会のなかで、そうした確かなものを根拠にしたいという思いから、きっと景観という言葉が使われるようになった。しかしそうして現実を言葉の枠に嵌めようとすることで、むしろ現実とずれを感じるようなことが起きるのかなと思います。
今、「歴史」「伝統」「都市」「景観」といった言葉を話題にしてきました。いずれも言葉が現実に先立って、観念的に使われがちであるという例です。最後にもうひとつ、先生の本から一節を紹介しておきます。私たちが個々の建築のデザインについて語るときも、そういう観念的な言葉を使ってしまっているのではないか。これも痛烈ですが、考えなければいけないことだと思います。

「私たちがたとえば、コルビュジエ的造形と言ったり、ミース的空間と言ったりする時、ほとんどの場合、誰もがそれは共通に理解されたとして、議論を先に進めますが、同じことを皆言っているのか、同じものを見ているのか、多くの場合全く不明であります。」
(香山壽夫『建築意匠講義』東京大学出版会、1996年、p.236)

ルイス・カーンの「沈黙の声を聞く」

長島──さて、ここまではどちらかというと言葉をネガティヴに捉えてきました。こういうことを否定してしまうと、もうなにも喋れなくなってしまうのではないか。私自身そう思ったりもするのですが、ここですこし方向転換をして、言葉と建築、あるいは言葉と物の、良い関係を考えてみたいと思います。そのときの道しるべにしたいのが、先ほどから名前が挙がっているルイス・カーン、香山先生の先生ですね。20世紀の後半に活躍したアメリカのユダヤ人建築家。そのカーンが「沈黙の声を聞く」という言い方をしています。これは『もしも建物が話せたら』のキャッチコピー「無口なものこそ雄弁だ」ともどことなく通じる、矛盾をはらんだ言い方です。はたして沈黙しているのに声が聞こえるのかどうか。カーンはおそらく、今お話ししてきたような、現実に先立って使われる言葉を批判して、現実そのもの、物そのものに向き合うべきだということを言ったのだと思います。物はそんなに大声でがなり立てているわけではない、でもそこにちゃんと耳を傾けることが大切ではないかと。

香山──カーンがこういうことを言い出した根本は、まさに長島さんが言われたところにあったと思いますね。僕もどこまで正確に言えるか分かりませんが、彼が言いたかったことは、まさに建築には言葉がある、そしてそれは人間に共通に伝わる言葉としてあるはずだ、ということでしょう。そうやって人間はずっと作ってきたわけですからね。日本の様式があったときでも、ヨーロッパの古典的な様式があったときでも、ゴシックの様式があったときでも、みんなそれを共通に理解して建ててきた。その声がなくなったのはいつからか。簡単にいえば近代からです。みんなわけが分からなくなってしまった。ですから「機能」という概念に寄りかかったり、「社会」とか「都市」とかに寄りかかれば繋がれると思ったのだけど、どれもなかなか頼りにならない。コルビュジエでもミースでも、善意に解釈すれば、そういう言葉を作ろうとしたと言っていいと思いますが、実際はできなかった。
言葉というのはある程度習えば下手でも使えるわけです。誰でも喋れるようになる。ゴシックの建築は、細かい色々な違いはありますが、ゴシックの方法を習えばゴシックの建築が作れた。古典主義の時代には、ルネッサンスの人たちが定型化したギリシア・ローマのかたちをきちんと習った。学校で文法を教えるように、例えばフランスのエコール・デ・ボザールはそうやって教えていたわけです。パリを埋め尽くしている古典主義の美しい建物も、そういう教育システムが作り出した。そうやってヨーロッパの近代の都市はできていた。しかし今行くと、新しい地区にはそれがない。パリの中心部、ロンドンの中心部は、今も昔と変わりません。僕が50年前に入ったパブに行くと、もう涙が出るくらい、カウンターまでまったく変わらないですね。だけど郊外はもう玩具箱をひっくり返したのと同じです。
ここから先は意見が分かれて、それがいいんだと言う人もいるかもしれない。要するにもうみんなギャアギャアと奇声を発して、それが楽しんだと、踊りたくなる、みんな勝手なリズムで踊ればいい、そういう考えもあるでしょう。しかしそれは言葉として原始的な状況に戻っているということです。そしてカーンは、そこでもう一回きちんとした言葉を持たないといけないと思った人です。彼の「沈黙」という言葉は、そこに向かっている。僕たちに聞こえていないけれども言葉は発せられている。だからみんながそれを理解するようにしたら、すこしずつ共通の言葉ができるのではないか。
これはカーンが一生をかけて依拠した聖書から来ていることです。旧約聖書にはどれだけ神の言葉が出てくるか。神は僕たちにはっきりと話されている。しかしその言葉はほとんど分からない。日本でも遠藤周作が『沈黙』(1966)という小説を書いたでしょう。苦しくて苦しくて、神様にどうしてくれるんですかと何度も聞いても、神は答えない、沈黙しているという話です。あのとき日本のカトリックの人たちは、なんて反キリスト教的な物語を書いたのだといって遠藤周作を非難しました。しかし神は沈黙しているんです。しかしなにかを発している。それが分からない。「神よ、なぜあなたは黙っているのですか」というのが絶えず旧約のなかで響く言葉です。カーンだけでなく、ユダヤ人は僕も友だちがたくさんいましたが、旧約聖書はユダヤ人の学校でみんな暗記するものでした。だからカーンの言葉遣いの根本にあると僕は思っています。語られているのだけど聞こえない。その声をあると思うか、ないと思うか。態度としては両方ありえるでしょう。これは今後の世界を考える決定的な差だと思いますね。

長島──カーンの「沈黙の声を聞く」というのが具体的にどういうことなのか、レクチャーなどで語られた有名な例をふたつ紹介をします。

「あなたは煉瓦にこう問いかけます。『あなたは何になりたいんだ』と。煉瓦は答えます。『私はアーチが好きだ』。」
(『ルイス・カーン建築論集』前田忠直訳、鹿島出版会、1992年、p.8)

「男は開口をつくろうと壁を打ち破りました。壁は『私はあなたを守ってきたのに』と泣き叫びました。そこで男はこう言いました。『あなたが私に尽くしてくれたことはよく分かるが、しかし変化のときが来ていると私は感じるのだ』と。/壁は悲しく思いました。そこで男はある素晴らしいことに気づきました。男は開口部に架かる優美なアーチを思い描き、壁を称えました。壁はそのアーチと注意深くつくられた開口部の抱きを喜びました。」
(同上、pp.86-87)

これは煉瓦であったり、壁や窓であったり、建築の素材や部位など部分的なものですが、おそらくカーンは、例えば学校はどうなりたがっているのか、修道院はどうなりたがっているのかといったように、ひとつの建築のレベルでも、こういった問いかけをしながら設計をしていたのだと思います。

京都会館の改修計画をめぐって

長島──ところで先生が設計を手がけられたロームシアター京都が、この1月にオープンしました。ご存じの方も多いと思いますが、これは京都会館という、前川國男さんが設計して1960年に完成した建築の改修計画です。建物の都市的な骨格を残しながら劇場の機能や空間の在り方を更新した。まさに改修というのは、新築にも増して、既存の建築や環境の声を聞き、それに現在を生きる自分がどう応えるかという行為ですね。




ロームシアター京都(2015年竣工) 写真=長島明夫

香山──京都会館の改修は、今日お話ししてきたことの大きさからいうと、ささやかな事例です。でも先ほどの建築の言語、モダニズムのヴォキャブラリーはなんなのかということ、これは一般論として議論しても答えが出てこないというのが、僕のこれまでのところの結論です。すなわちこういう具体的な実践を積み重ねていかないと出てこない。
京都会館は戦後の日本の近代建築の傑作ですね。上野の東京文化会館の1年前にできた、前川さんの建築のなかで兄弟とも言える作品ですが、二条通に面して寺院建築のような柱梁のピロティをくぐって入る中庭、その中庭から岡崎公園への抜け、そういった都市との関係は京都会館のほうが断然に面白い。この実際の建物を前にして、僕たちはどこまで自分たちの力が及ぼせるか格闘したわけです。いったいこの建築のヴォキャブラリーはなんなのか。例えば大きな特徴である反り返った大庇、バルコニーの手すり、それから今言った都市に対する構え。そういったいくつかのことが、1960年代の前川さんの基本的な言語だったと、僕たちは捉えたわけです。そしてそれを可能な限り継承しようと努力した。もちろんこれは建物のひとつの捉え方にすぎないわけで、これについても色んな意見があるでしょう。しかし言いたいのは、こういうことを繰り返していくなかで、20世紀から始まった近代建築の言語がひとつの形式として確立されていくだろう、ということです。
というのはですね、古典主義の言語はまさにそういうふうにしてできたわけです。古代ギリシアや古代ローマの人たちがどういう議論をしていたかは、実際には誰も分からない。15世紀、ルネッサンスの人たちが古典建築をもう一度作り直そうとしたとき、建築家によって「これが正しい」「あれが正しい」と言い合いながら、みんなが色々いじっているなかで、200年かけて古典主義の言語はできあがった。ですからもしもモダニズムの言語がありうるとしたら、こういう個別的な修理、保存、改修を積み重ねていくなかでしかできていかないだろうと思っています。

長島──京都会館は、保存か改修か建て替えかというところで、かなり議論になって、保存運動も起きました。私自身は改修されたものもまだ見ていなくて、なんとも言えないのですが、例えば建て替えた大きな劇場部分は、四角いヴォリュームが上に伸びて、いちばん高いところで前よりも4mくらい高くなっている。それに対して、計画を批判する団体からは、「10階建てのビルに相当する巨大な舞台の建設によって落ち着いた景観も破壊され」てしまうという言葉が発せられたりもした。ただ、建物の変化自体はまぎれもない事実だとしても、それが本当に、そこに暮らす人たちの風景を決定的に変えるのかどうか。まさに先ほどの景観という言葉のレベルだと変わるわけです。人間の視界を占めるパーセンテージは増す。しかし完成したものの写真を見る限り、人々の日常にとって、僕にはそれほど重大な変化であるとは思えません。
一方で、その場所の文化やその場所の日常を生きていない僕にとって、最終的にその変化が重大か重大でないかを判断することはできないとも思うんです。だから意見を言えずに口ごもってしまう。ある建築がその場所に生きているとするなら、それは文化的環境、社会的環境、政治的環境の複雑な網の目のなかを生きているのであって、その外にいる人間が軽々しく言葉を発することはできない。これは今日お話ししてきた、現実から乖離した言葉の問題とも通じることだと思います。

香山──建物は骨董品ではないんですね。「いじるな」なんていうことは誰も言えない。生きて使わない限り建物はいずれ壊されてしまう。唐招提寺の屋根を僕たちは綺麗だと言いますが、あれは初期の屋根とはまったく違います。初期はもっと勾配のゆるいものだった。それが雨漏りをするから直し直し12回重ねて今のかたちになっている。ですから、建物は直すことによって生きていくものなんです。ちぐはぐとかなんとか言ったって、直さないといけない。建物の直し方の良し悪しは議論すべきでしょう。しかし使えないような状態になっているのを、大切な建物だからいじるないじるなと言っているだけでは、壊すと言った人のほうが勝ちになります。


長島──最後にもうひとつ用意してきた言葉がありました。おそらく同じようなことは色んな人が言っていて、誰の引用でもよかったのですが。

「言葉は私達の生れる前から存在し、長い歴史を生きて来たのであり、私達は日本語といふ大家族の一員として生れた新参者なのである。とすれば、私達は言葉を学ぶのではなく、言葉が私達に生き方を教へるのである。」
(福田恆存「言葉は教師である」1962年、所収=福田恆存『保守とは何か』浜崎洋介編、文藝春秋、2013年)

この指摘自体が非常に興味深いのと同時に、ここで言われている「言葉」は、「建築」に置き換えてもまったく成り立つのだと思います。今日は建築と言葉の違いも問題にしてきましたが、建築も言葉も、どちらも過去からの連続のなかで現在の人々が生きる日常を支えている。最後にまた映画に戻れば、ヴィム・ヴェンダースが監督した第1話のベルリン・フィルハーモニーの言葉、「建物はあなたが考える以上に世界に影響を与えている」も、そのことに繋がっている気がします。

香山──この福田恆存の文章は、長島さんが引用するということはまったく知らなかった。でもこれは、僕が京都会館の改修について言いたかったことに、まさに重なっています。すなわち、近代建築に形式があるとすれば、それは「近代建築とはなにか」と観念的に議論してもなにも出てこない。近代建築の作品自体を実際に直したり体験したりして、そのなかで初めて出てくる。
僕たちは単に言葉を学ぶのではなく、言葉と真剣に向き合うなかで、言葉から教えられる。建築もまさにそうだと思うんです。建築も言葉と同じく、僕たちに生き方を教えてくれる存在だと思いますが、それを単に知識として学んだり、時の流行としていじくりまわすだけでは、そこからいちばん大切なことを教わることはできない。とすると僕たちに今問われているのは、単に建築のモダニズムの問題ではなく、僕たちの建築に対する向き合い方、すなわち、とりも直さず僕たちの生き方そのものではないか、そのように思えてきます。


[2016年2月14日、代官山 蔦屋書店にて]



京都会館の改修計画について、実際のトークイベントでは香山先生による具体的な解説が30分ほどありましたが、この対話録では割愛しました。建築の詳細は『新建築』2016年3月号、『日経アーキテクチュア』2016年2月11日号などをご参照ください。(長島)

映画情報
映画『もしも建物が話せたら』
製作総指揮:ヴィム・ヴェンダース
監督:ヴィム・ヴェンダース、ミハエル・グラウガー、マイケル・マドセン、ロバート・レッドフォード、マルグレート・オリン、カリム・アイノズ
(2014年/ドイツ、デンマーク、ノルウェー、オーストリア、フランス、アメリカ、日本/165分/英語/Color/16:9/DCP)
製作・提供:WOWOW 配給・宣伝:アップリンク
2016年2月20日(土)より全国順次公開
公式サイト:http://www.uplink.co.jp/tatemono/



オスロ・オペラハウス(2008年竣工) 監督=マルグレート・オリン




香山壽夫(こうやま・ひさお)
建築家、東京大学名誉教授。1937年生まれ。1960年に東京大学を卒業、64年から66年にかけてペンシルベニア大学に留学し、ルイス・カーンに学ぶ。著書は『建築意匠講義』(東京大学出版会、1996)、『建築を愛する人の十二章』(左右社、2010)、『プロフェッショナルとは何か──若き建築家のために』(王国社、2014)など多数。《彩の国さいたま芸術劇場》(1994)で日本建築学会賞作品賞・村野藤吾賞などを受賞。

長島明夫(ながしま・あきお)
編集者。1979年生まれ。2009年より個人雑誌『建築と日常』を編集・発行。2015年発行のNo.3-4合併号では、香山壽夫に約38,000字のロングインタヴュー「歴史としての建築」を行なった。編書に『映画空間400選』(結城秀勇との共編、INAX出版、2011)などがある。 http://kentikutonitijou.web.fc2.com/


  1. 映画のなかの建築/現実のものごとから乖離する言葉
  2. 「都市」と「景観」という言葉の使われ方/ルイス・カーンの「沈黙の声を聞く」/京都会館の改修計画をめぐって

201604

特集 スペキュラティヴ・デザイン
──「問い」を発見する、
設計・デザインの新しいパラダイム


スペキュラティヴ・デザインが拓く思考──設計プロセスから未来投機的ヴィジョンへ
スペキュラティヴ・デザインの奇妙さ、モノの奇妙さ──建築の「わかりやすさ」を越えて
思弁の容赦なさ──「プロジェクトの社会」における世界の複数性
【追悼】ザハ・ハディド──透視図法の解体からコンピュータの時代へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
INDEX|総目次 NAME INDEX|人物索引

PROJECT

  • パブリック・トイレのゆくえ
  • TOKYOインテリアツアー
  • 建築系ラジオ r4
  • Shelter Studies
  • 再訪『日本の民家』 瀝青会
  • TRAVEL-BOOK: GREECE
  • 4 DUTCH CITIES
  • [pics]──語りかける素材
  • 東京グラウンド
  • 地下設計製図資料集成
  • リノベーションフォーラム
『10+1』DATABASE

INFORMATIONRSS

移動する中心|GAYA 活動メンバー募集「サンデー・インタビュアーズ」説明会(世田谷区・11/27)

ロスト・ジェネレーションによる「声」の採集《準備編》 何を好み、嫌ったのか。 いつ笑い、泣いたのか...

公開レクチャー「神山に3年通って:石川初さん語り下ろし[東京編]w/若林恵、真鍋太一、西村佳哲」(渋谷区・12/5)

今年8月に徳島県神山町で開催した、石川初(いしかわ はじめ)さんの公開レクチャー「神山に3年通って...

アート&メディア・フォーラム「ポスト・オープンデータ時代のカルチュラル・レジスタンス」(目黒区・12/15)

21世紀に入り、IoTや人工知能、バイオテクノロジー、ロボティクスが飛躍的に発達し、20世紀にSF...

中村好文『芸術家(アーティスト)のすまいぶり』刊行記念「アーティストの住まいぶりと暮らしぶりから学んだこと」トークイベント(渋谷区・12/3)

アーティストにとって、住まいは「生き方の姿勢が、かたちになって見えるもの」(本文より)── ホンカ...

「窓展:窓をめぐるアートと建築の旅」(千代田区・-2/2)

わたしたちのくらしにとって窓はほんとうに身近なもの。それは光や風を室内に取り入れながら、寒さや暑さ...

「磯崎新─水戸芸術館縁起─」(茨城・11/16-1/26)

建築家・磯崎新による美術館設計を振り返るシリーズの一環として、当館では水戸芸術館の設計コンセプトや...

展覧会「Steven Holl: Making Architecture」(品川区・11/8-1/8)

アメリカを代表する建築家、スティーブン・ホールは72歳になった現在も、ニューヨークと北京にオフィス...

展覧会「日本建築の自画像 探求者たちの もの語り」(香川県・9/21-12/15)

われわれがよく聞く『日本建築』とは、何なのか? そもそも、何が『日本的』なのか? 本展では『日本建...
建築インフォメーション
Twitter Feed
ページTOPヘ戻る