スペキュラティヴ・デザインが拓く思考
──設計プロセスから未来投機的ヴィジョンへ

水野大二郎(デザイン研究者、デザインリサーチャー)+筧康明(メディアアーティスト、インタラクティブメディア研究者)+連勇太朗(建築家、NPO法人モクチン企画代表理事)
「問題解決」のためのデザイン・プロセスの開発から、問いや視点を生み出し、アクションを経て、望ましい未来や「ヴィジョン」へと接続する「問題提起型」デザイン=「スペキュラティヴ・デザイン」へ。提唱者のアンソニー・ダン&フィオナ・レイビーは「ふつう理解されているところのデザイン」から「私たちが実践しているタイプのデザイン」へとして、このような次元を構想します。

「Affirmative」(肯定的)から「Critical」(批評的)へ
「Problem solving」(問題を解決する)から「Problem finding」(問題を発見する)へ
「For how the world is」(今ある世界のため)から「For how the world could be」(実現しうる世界のため)へ
「The "real" real」("現実的"な現実)から「The "unreal" real」("非現実的"な現実)へ
「Process」(プロセス)から「Authorship」(根源)へ ......

──アンソニー・ダン&フィオナ・レイビー
『スペキュラティヴ・デザイン』(ビー・エヌ・エヌ新社、2015)

2010年前後から興隆する「スペキュラティヴ・デザイン」とは、どのような射程をもったデザイン思想なのでしょうか。1960-70年代のアーキグラムやアーキズーム、ピーター・アイゼンマンなどによるラディカルな建築活動にも触発されて生まれた「スペキュラティヴ・デザイン」は、翻って、社会関係の構築が重視される近年の建築傾向へのカウンターとしても機能するでしょう。
ときに高度な情報工学や生命工学、地球科学などの技術を伴いながら、また新しい哲学的存在論を形成しながら、「スペキュラティヴ(思弁的、投機的)」にアクションすること、作品をつくる実践とその意味を考えます。


「スペキュラティヴ・デザイン」の歴史的源流

水野大二郎氏
水野大二郎──今日はよろしくお願いいたします。ここ数年、デザインの分野から「スペキュラティヴ・デザイン」という言葉を聞くことが多くなり、より広義のデザイン領域でも「スペキュラティヴ」であることの意義が今後思考されていくと思います。その一方で、「スペキュラティヴ・デザイン」の定義があいまいなまま独り歩きを始めているように見える状況もあります。そこで、まずは僕がイギリスのRCA(ロイヤル・カレッジ・オブ・アート)で「スペキュラティヴ・デザイン」、あるいは「クリティカル・デザイン」について学び、考えてきたことなどをもとに、口火を切りたいと思います。

まず、「スペキュラティヴ・デザイン」の歴史的な源流はどこにあるのか。さまざまな源流があると思いますが、デザインリサーチの一部としての位置づけを考えてみると、1962年にインペリアル・カレッジ・ロンドンで行なわれたデザインの方法論に関する国際学会(通称・Design Methods Conference)に辿り着きます。このカンファレンスを運営したひとりであるジョン・クリストファー・ジョーンズ(John Christopher Jones)は、自身の国際会議の発表内容など基にまとめた設計プロセス論『Design Methods: Seeds of Human Futures』(John Wiley & Sons、1970)を出版し、後年建築家の池辺陽が翻訳をした(『デザインの手法──人間未来への手がかり』[丸善、1973])[fig.1, 2]ことで知られています。本書では、今から考えれば非常に一般的であるような手法、例えば「アイデアを生み出すにあたっては、ブレイン・ストーミングという手法を用い......」といったことですら記述されていました。このような手法紹介は、直感的な勘だけに依存するのではなく、理性的な秩序立った方法を成立させるための手法を検討した結果だと考えられるでしょう。

fig.1──John Christopher Jones,
Design Methods:
Seeds of Human Futures.

fig.2──John Christopher Jones
『デザインの手法──人間未来への手がかり』
1960年代初頭にヨーロッパの戦後復興も次の段階へと移り、一方でアメリカでは工業デザインが産業の表舞台に現われ、大量生産・大量消費を前提としたデザインの時代に入りました。その結果資本とデザインが整理されないまま複雑に絡まり合い、有象無象の合理的でない商品が市場に流出していきました。こうした状況に対し、どのような方法によってよりよいデザインが可能なのかということを、建築家、画家、工業デザイナーなどのいろいろな分野のプロフェッショナルが集まって議論をしたのです。このカンファレンスを皮切りに、イギリスでは「デザインリサーチ」を実践的学術領域として推進していくことになります。1960年代には同じくDesign Method Conferenceに参加していたブルース・アーチャー(Bruce Archer)によってRCAにデザインリサーチの学科ができますし、イギリスのDesign Research Society(デザイン学会)成立も設立されます。

しかし、当時は「分析-統合-評価」のプロセスを経ればデザインは完成するのだ、そして問題は分析のフレームワークなのだ、と研究者らの多くは理解しており、問題発見から解決案の実装に至るまでの複雑さに対する理解が十全ではなかったのです。『デザインの手法』にも顕著ですが、彼ら「60年代デザイン方法論者」の手法はわかりやすいマトリクスなどになっており、列挙された条件を的確にクリアしていけばデザインは成立するように考案されています。ブルース・アーチャーも同様に、条件設定を明確に行なったうえで解決を図ればよいという考え方でした。詳細に関しては1980年代になってからデザイン研究者であるナイジェル・クロス(Nige Cross)編集による論文集『Developments in Design Methodology』(Wiley, 1984)にありますので、興味がある方はぜひ読まれてみてはと思います。ナイジェル・クロスは本書で80年代にデザイン方法論の進化過程をまとめ、新しいデザインリサーチのパラダイムを明示したことで知られており、60年代から70年代にかけての進化についてもまとめています。

ナイジェル・クロスによれば70年代には社会の複雑化が進み、事前に設定された設計評価条件や尺度に基づく方法ではデザインが機能しないことがわかったため、60年代のデザイン方法論は機能不全に陥ったと指摘します。これがホルスト・リッテル(Horst Rittel)によって指摘された、Wicked Problem(意地悪な問題)と呼称されるデザインの問題です。デザインには明快な解はなく、ひとつの解は他の問題の兆候を示し......といったように、1+1=2のように明快な答えを持たないのが意地悪な問題としてのデザインの特徴です。「Design Methods Conference」に参加していた建築家のひとりにクリストファー・アレグザンダーがいましたが、彼は70年代には60年代のデザイン方法論研究を、自身が発表した方法も含め「すべて忘れろ」とまで言いました。デザインプロセスにおける試作や対話、反復、ユーザー調査なども含めた「多様な実践としてのデザインリサーチ」によって、意地悪な問題にどう取り組むかが70年代以降に問われたのです。

そして少し時間を早送りし1993年、当時RCAの学長であったクリストファー・フレイリング(Christopher Frayling)が「Research in Art and Design」という論文において、3種類のデザインリサーチの方法を提示しました。ひとつは理論的な研究である「Research into Art and Design」で、つまりは論文を書くこと。2つめは「Research for Art and Design」で、論文を補完する意味での制作をすること。そして3つめが「Research through Art and Design」というフェーズで、制作自体が知の具現化であると指摘しました。この3つめこそが、現在「Research through Design」と呼称される「制作を通して問題の所在を明らかにし、解決案を模索する」研究のデザインであり、デザインの研究なのです。

未来との対話から生まれる投機的デザイン

fig.3──Anthony Dunne,
Hertzian Tales: Electronic Products,
Aesthetic Experience, and Critical Design
.
水野──クリストファー・フレイリングによる「Research through Design」が提唱されてから6年後の1999年、アンソニー・ダン(Anthony Dunne)が『Hertzian Tales: Electronic Products, Aesthetic Experience, and Critical Design』(Royal College of Art)[fig.3]を出版しました。彼はここで紹介されているプロジェクトでRCAの博士号をとり、よく「スペキュラティヴ・デザイン」と併せて耳にする「クリティカル・デザイン」という言葉もこの本で初めて登場しました。デザインは、必ずしも人間生活にポジティヴに寄与するだけではなく、作品を通じて社会状況を批評するようなものとしても機能しえるのではないか。この本は「スペキュラティヴ・デザイン」がそうであるように、実現可能性については一旦留保しつつも、「もしこうなったらどうするか?」ということを考えるための「Research through Design」としての「クリティカル・デザイン」を成立させたわけです。

fig.4──Anthony Dunne and Fiona Raby,
Design Noir:
The Secret Life of Electronic Objects
.
ただ、この流れがそのまま「スペキュラティヴ・デザイン」をかたちづくったわけではありません。2001年にアンソニー・ダン+フィオナ・レイビー(Fiona Raby)は『Design Noir: The Secret Life of Electronic Objects』(Birkhäuser)[fig.4]で一風変わったプロジェクトを紹介しています。そのプロジェクトは、われわれの目には見えないさまざまな電磁波が、われわれの生活のかたちを変えはじめていることから発想を得たものです。当時イギリスでは「送電塔の下に住むと頭が痛くなる」「携帯電話を使い続けると体調がおかしくなる」などの問題がまことしやかに起こり、目に見えない電磁波が広く国民の関心事になっていました。それでは、人間はこれから電磁波とどのように付き合っていくことになるのか。そこでアンソニー・ダン+フィオナ・レイビーは、電磁波の方向を示す方位磁針がたくさん埋め込まれたコーヒーテーブルなどの謎めいた家具を複数つくり、一般家庭に1カ月貸し出しました。そして1カ月後、アンソニー・ダン+フィオナ・レイビーがその家庭を訪問し、家族と電磁波の関係が家具を通してどのように変化したかをインタヴューし、日記や写真記録が「Design Noir」の最終成果物となりました。

このプロジェクトでは、新しい技術によって人間環境のなにが変わるのかということを拾い集める探査機のような目的に基づき、インタラクション・デザインの領域ではよく知られている「カルチュラル・プローブ(文化探査機)」というデザインリサーチの手法が用いられています。そして、この手法の開発者のひとりがほかならぬアンソニー・ダンなのです。このようにアンソニー・ダンはデザインリサーチの世界でも成果を残してきた人物でして、そういう流れのなかで2008年くらいに「スペキュラティヴ・デザイン」を提唱したと考えるほうが妥当でしょう。彼は進化する技術と前提に、試作としての作品を通していろいろな立場の人と対話をし、議論をしながら答えを見つけていくための急進的な方法、あるいは「態度」を生み出したのです。

こうして、ここまでを時系列的に簡単に整理してみると1993年にクリストファー・フレイリングが3種類のデザインリサーチの方法を示し、99年にアンソニー・ダンが『Hertzian Tales』を発表、その後10年ほどで「スペキュラティヴ・デザイン」を確立させた、という流れがあったことが確認できます。この数年で爆発的に広がった「スペキュラティヴ・デザイン」が対象とする領域はバイオ・テクノロジーから地球環境まで極めて広範に及びますが、スペキュラティヴ・デザイナーは作品に「私たちの判断を一時的に留保させる魔法をかけている」わけです。そうすることによって、社会の未来像を対話の対象にしようと試みているのだ、ともいえます。

以上をふまえ、今日のひとつのテーマである「なぜいまスペキュラティヴであることが要請されているのか」という問いについて考えてみましょう。スペキュラティヴ・デザインは急進的な発想方法ですが、それが要請されているのはなぜか。現在、多くの企業は既存製品にちょっとずつ改良を重ね、バージョンアップを積み重ねた結果として素晴らしい製品を提供してきました。しかし、人間が技術によって生活様式を早く、大きく変えつつあるなかで、インクリメンタル(漸進的)なプロセスを採用しつづけることは企業にとって適切なのかという疑問に対峙するわけです。スペキュラティヴ・デザイナーがあえて「フィクショナルなヴィジョン」を提示することで、誰しもが技術の進化速度に対して漠然とした不安を抱えるなかでも、みんなと「ありうる」プロトタイプとしての未来像を議論する契機となりえているのではないでしょうか。

物語か実装か?
──「クリティカル・デザイン」「デザイン・フィクション」


筧康明氏(MITメディアラボよりSkype討議)
筧康明──僕は今、MITメディアラボで滞在研究を行なっています。MITメディアラボを例にとると、ヴィジョン・ドリブン(理念駆動型)でプロジェクトを進めるグループが多く、ヴィジョンを示したうえで実際に動くものをつくっていくというやり方をしています。代表的なところでは、石井裕率いるグループが提唱する「タンジブル・ビッツ」や「ラディカル・アトムズ」のように、画面のなかのピクセルに替わり、物質自体が形状や色などのプロパティを自在に変えていくというインタフェースの概念は、現在のHCI(Human Computer Interaction)の一分野を牽引しています[fig.5]。他方で、MITメディアラボのなかでもRCA由来の「スペキュラティヴ・デザイン」が入ってきていて、アーティストとしてもスプツニ子![fig.6]など、RCAで学んでからMITメディアラボに来ている人がいます。未来を見通すための手法・アプローチが混在していて面白い状況です。

fig.5──The Tangible Media Group,
"Direct and gestural interaction with relief: a 2.5D shape display".

fig.6──スプツニ子!《Tranceflora - Amy's Glowing Silk(エイミの光るシルク)》(2015)

fig.7──Michael Bruce Sterling,
Shaping Things.
fig.8──Michael Bruce Sterling,
"Design Fiction", in Interactions.
僕自身も、最近比較的大規模な研究プロジェクトを立ち上げに参加するにあたり、「スペキュラティヴ・デザイン」のアプローチを研究のプロセスに組み込むことに興味を持っています。これに関連して、先々週イギリスに行ってきました。「スペキュラティヴ・デザイン」や「デザイン・フィクション」という考え方をドライブさせている、RCAやランカスター大学、ニューカッスル大学の研究者たちに会いにいくためです。「クリティカル・デザイン」「デザイン・フィクション」「スペキュラティヴ・デザイン」は相互に重なり合うジャンルですが、2005年にアメリカのSF作家、ジャーナリストであるブルース・スターリング(Michael Bruce Sterling)が『Shaping Things』(The MIT Press)[fig.7]という本において「デザイン・フィクション」という概念を打ち出しました。その後2009年に『Interactions』という論文誌で「Design Fiction」と題するカバー・ストーリーを発表し、話題になりました[fig.8]。彼の「デザイン・フィクション」は、ユーザーの視点からものをつくっていくのではなく、物語を提示して、物語に乗るような未完成のプロトタイプをデザインしていこうというものでした。HCI分野のトップカンファレンスであるCHIではalt.chiというカテゴリがあり、通常の論文の形式では評価されにくいもの、あるいは評価の難しい新しい価値観を含む発表を集める場を用意しています。ここでは、必ずしも現時点で完成したシステムだけではなく、つくったものの先にある物語世界=フィクションを映像やプロトタイプ等の形式にまとめて、それを通してユーザーの反応を評価したり、議論することがメソッドとして行なわれています。先日訪れたランカスター大学やニューカッスル大学のチームでも、フィクションを用いたHCI研究を積極的に行なっています。

ただ一方で、実装性・実現よりもある種の問題を露わにすることを優位とするモチベーションと、この世界でまずは着実に稼働するものをつくりたいというモチベーションとが、いますこし乖離していると思っていて、それをどのようにブリッジしていくことができるだろうという議論が大切かなと感じています。スペキュラティヴ・デザインを通して問題を提起して終わるのではなく、どうヴィジョンへと導き、具体的なアクションを起こしていくかという点を考えたいと思っています。

水野──問題を提起し議論を巻き起こすための「スペキュラティヴ・デザイン」と、つくったものを精査してその先を考えるための「スペキュラティヴ・デザイン」。この2つの傾向が並行して起きているという印象はありますよね。そして、物語性か実装性かという議論自体がインタラクション・デザインを中心に醸成されていることは極めて重要だと思います。アンソニー・ダンという人は、たしかに「スペキュラティヴ・デザイン」を提唱した人ですが、もともとはプロダクトデザインを勉強し、SONYにいた時期もあったデザイナーですし、カルチュラル・プローブに関する論文も初出は『Interactions』です。また、彼はもともとRCAの「デザイン・インタラクションズ」学科長で、それ以前の同学科はジリアン・クランプトン・スミス(Gillian Crampton Smith)がつくった「コンピュータ・リレイテッド・デザイン」学科だったわけです。名前は何回も変わっているのですが、基本線は、マン・マシン・インタラクションの関係性を探ることを目的とした学科です。

重要なのはインタラクション・デザインにおける設計・開発には、ほかのデザイン領域に比べて時間とコストがかかる、という点です。インテルやマイクロソフトといったIT系の大企業であればなおさらです。ですから「開発が終了した段階で、人間はどのように暮らしている可能性があるのか」「新たに開発される製品によって人間はどう変わる可能性があるのか」といった問題と、「実現するためにどのような技術を開発、実装すればよいのか」という問題がつねに並列に語られているのがインタラクション・デザインの領域の特徴のような気がしています。

われわれはいま、非常にやるべきことが多い時代を生きています。これからやってくる実用化が期待される先端技術=エマージング・テクノロジーについての知識や、例えば移民の流動のようなことから、地球に惑星が衝突したときの環境変動などといった途方もないスケールまで、いろいろな考えるべきことがあります。われわれがそのような要素に巻き込まれていくなかで、「なにをどうデザインするのか?」という上流の部分のデザインが重要な課題になってきています。デザインが上流に、例えば「素材」に立ち戻ろうとする傾向はデジタル・ファブリケーションとも大きな関係がありますが、そのなかには人間を含む動植物のDNAですらデザインの対象と考えられていますよね。こういう状況においてヴィジョンだけを描くデザイナーと、蚕を遺伝子操作し、育て、強い糸を紡ぎ、生地をつくるところまで全部自分で行なうデザイナーが分離しているのが現状だという認識でしょうか。

──そのときに、デザインやエンジニアリングで言われる、目指すべき世界として形成される「ヴィジョン」と、ここで言う「スペキュラティヴ」な眼差しは異なるものですよね。繰り返しになりますが、スペキュラティヴ・デザインでは問題提起を扱い、その問題に対して具体的な解を示し、アクションを取るところまでは行なわれないケースが多い。「スペキュラティヴ・デザイン」が露わにする問題や視点を、議論やアクションを経て「ヴィジョン」へと接続するプロセスが必要だという印象をもっています。例えば、MITメディアラボの長谷川愛さんの作品《I Wanna Deliver a Dolphin...》[fig.9]では、人間の女性がイルカを代理出産する世界が映像で描かれます。生物学・工学的知見から、現在どこまで可能になっていて、なにが技術的課題になるかというリサーチが背景としてきちんと語られて素晴らしいのですが、これを実際に実現する方向で動くか、これがそのまま実現したい未来かというと「議論」が必要です。巻き起こされる議論を通じて、「スペキュラティヴ・デザイン」がどう「ヴィジョン」の形成に作用していくかというところまで見ていくことが面白いと感じています。

fig.9──長谷川愛《I Wanna Deliver a Dolphin...》


201604

特集 スペキュラティヴ・デザイン
──「問い」を発見する、
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