千鳥ヶ淵から考える慰霊の空間

戸田穣(金沢工業大学講師・建築史)

 2016年1月26日から30日まで、天皇(1933-)・皇后(1934-)のフィリピン訪問が連日報道された。この旅は、日本とフィリピンの国交正常化60周年を節目とした親善だけでなく、終戦から70年を過ぎた慰霊の旅でもあった。天皇による海外慰霊は、戦後60年を数えた2005年にはサイパン、昨年2015年にはパラオに続いて、3度目となる。
 天皇は現地で、フィリピンの施設である「無名戦士の墓」に詣で、ついで日本の国立海外慰霊施設である「比島戦没者慰霊碑」を訪れたと伝えられた。
 この慰霊碑を誰が造ったのかなどとは、いつもながら関心を引かぬ事柄である。そもそも一般の建物にせよ、報道で設計者の名前まで言い添えられるのはごく稀な事態であり、その建物を、あるいは空間を誰が設計したのかへの関心は一般に薄い。
 《比島戦没者の碑》の設計者は谷口吉郎(1904-1979)。谷口は、《国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑》(1958)をはじめとして、《硫黄島戦没者の碑》(1971)、《沖縄戦没者墓苑慰霊碑》(1979)も設計しているが、それ以前から文学碑、記念碑を多く手がけている「碑の建築家」であることは建築に関心のある向きにはよく知られたところである。実は海外にある政府建立の慰霊施設は、谷口の手になる《比島戦没者の碑》(1973)、《中部太平洋戦没者の碑》(1974)も含めて、現在14を数える。谷口の二つの後には、菊竹清訓(1928-2011)が11基、横河建築設計事務所が1基を設計している。菊竹は1980年の《南太平洋戦没者の碑》に始まって、1996年の《樺太・千島戦没者慰霊碑》まで16年間にわたって、この仕事を続けることになる[表1]★1

表1──政府建立戦没者の碑等(厚生労働省HPより作成)

 とはいえ、これらの慰霊碑は存在感が薄い。千鳥ヶ淵からほど近い靖國神社は史学上の問題構成として大きなテーマであるし、とくに近年慰霊と顕彰、追悼を巡る議論は学術的にも政治的にも活発である★2。また広島平和記念公園は、原爆ドームという戦災遺産と原爆慰霊碑とを二つの焦点にして、近代国民国家が仮定した「広場」という公共空間が今日においても機能する稀な空間であるだろう。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑の成立とその役割

 設立の経緯も、役割も異なるこれらの慰霊の空間について比較することは難しい。さしあたって、筆者の現在の関心は、戦後の世俗の慰霊の空間にある。もう少し、千鳥ヶ淵をみてみよう[fig.1]。これは、そもそも、どのような施設なのだろうか。
 日本は敗戦後も、海外戦没者の遺骨収集の活動をこんにちに至るまで行なっている★3。1952年にサンフランシスコ平和条約が発効されるに及び、厚生省により遺骨収集が開始されるが、それ以前にも、米軍により遺骨が送還されることがあり、身元や遺族のたしかなものはそちらへ戻されたが、そうでないもの(いわゆる無名戦士)の遺骨は、埋葬場所のないまま厚生省庁舎等に仮に安置されていた。当初、これら遺骨を埋葬する「無名戦士の墓」として計画されたのが千鳥ヶ淵の端緒である。240万人といわれる海外戦没者のうち直接にここに納められている遺骨は33万人である。とはいえ、この場所を通じて、象徴的には全戦没者の墓としてあらしめようという意図が、当初から込められていた。靖國神社との対比においては、1. 軍人軍属だけでなく一般戦没者も対象とすること。2. 靖國神社が遺骨を埋葬する場所ではないこと。3. 宗教的に中立な場とし外交使節の参拝を受ける場所とすること。の三つが求められる機能であった。

fig.1,2──谷口吉郎《千鳥ケ淵戦没者墓苑》(筆者撮影、2015)

 立地については、1952年の全日本無名戦歿者合葬墓建設会発足時には、皇居北面の皇族墓所に隣接する文京区豊島ヶ丘が挙げられていたが、1956年には九つの候補のなかから旧賀陽宮邸地であった千鳥ヶ淵が選ばれることとなった[その他の候補地は、(1)北の丸森林公園、(2)二重橋前楠公銅像付近、(3)三宅坂・半蔵門付近、(4)英国大使館前(短冊形の土地)、(5)護国寺墓地、(6)埼玉県越生墓苑、(7)桜ヶ丘聖蹟記念碑付近、(8)靖国神社境内]。千鳥ヶ淵が選ばれた理由としては、①靖國神社に参拝する人に便利であること、②皇居に近く、皇居の緑を借景とできること、③千鳥ヶ淵の水量が豊かであること、が挙げられている。そして1958年から59年岸信介内閣のあいだに着工・竣工を果たし、正式名称を「無名戦没者の墓」から「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」と改めて、1959年3月28日に第2回全国戦没者追悼式が行なわれた(全国戦没者追悼式は第1回が新宿御苑、第3回は日比谷公会堂、第4回は靖國神社、第5回以後は日本武道館でとり行なわれる)。

fig.3──1989年に撮影された航空写真。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
Attribution: Copyright © National Land Image Information (Color Aerial Photographs), Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism

 すべての戦没者の象徴的な墓所であることを期待されたこの場所に、谷口はどのように応えたのだろうか。谷口の造形は、具象的なモチーフの抽象化として表現される。千鳥ヶ淵では、細長く横にのびた休憩所の向こうに六角堂が建てられ、その傘の下に「陶棺」が一基設えられている[fig.2,3]。陶製としたのは先史の頃、古墳時代を思わせるからであり、長さ2メートル、幅90センチ、高さ1.1メートル。金重陶陽によって成型された備前で焼かれたこの棺の制作には、生きて帰国した戦友たち、遺族あるいは帰りを待つ家族たちが加わったという話は、谷口の藤村記念堂を思わせるエピソードだ。この土は、国内のみならず、中国、朝鮮、インド、オーストラリアとアジア、環太平洋から集められた。陶棺の中には昭和天皇から下賜されたという銅製金箔漆貼の骨壷が置かれている。地下納骨室には、第1室から第6室まで隔てられて、それぞれ本土周辺、満州、中国、フィリピン、東南アジア、太平洋、ソ連でそれぞれ収集された33万体の遺骨が納められている。谷口自身は、まず非宗教の「無名戦士の墓」というものが、それまでの日本に存在しなかったことから、日本らしい無名戦士の碑を苦心して追求し、古墳時代の埴輪の陶棺に行き着いたという。
 さて、この千鳥ヶ淵戦没者墓苑にたいする印象はやや鈍い。藤岡洋保は「知的」と評するが、たとえば隈研吾も藤森照信も、そこにショックや、衝撃を認めていない★4。藤森は、これを谷口による一連の碑の設計の脈絡のなかに位置づけられるものであろうとしているが、他の碑と比べてもやや一線を画するように思われる。

慰霊の塔──記念性と垂直性、そして軸線

 まず、はじめに指摘しておきたいのは、非宗教の慰霊碑が戦前においてなかったわけではないということだ。日清戦争・日露戦争に伴う大量の戦没者の発生に対応して、忠魂碑の建設が盛んとなった。これらのモニュメント政策を推進していた内務省は、碑の非宗教化政策をとっていたことを粟津賢太は指摘している★5。粟津によればこの方針が転換されて、碑を崇拝の対象とするようになったのは1939年以降のことであり、この年設立された財団法人大日本忠霊顕彰会よる忠霊塔建設推進が大きな動向を作ったという。忠霊塔は、内部に納骨室をもっており、仏教における供養塔=ストゥーパによる慰霊の伝統の延長線上に位置づけられる。そして忠霊塔は、対外戦争における戦地戦没者の遺骨を安置する目的で植民地に建設された。そのなかには戦跡に建設されたものもあれば、大連や奉天のように都市計画に組み込まれて建設されたものもあった。そして、これらの塔は、日本が大陸に版図を広げる里程標とも意識された。まさに屍を超えて行くのである。
 1939年の忠霊塔にかかわるコンペティションについては井上章一が詳しく論じている★6。忠霊碑に墓石型、あるいは塔が多かったことについては当時から批判的に検討されていたと井上は伝えているが、坂倉準三はピラミッド型(ただし五角形)で、前川國男は台形ピラミッドでそれぞれ忠霊塔コンペに臨んだ。このような記念碑性の垂直性による演出に、塔やピラミッド、門が召喚されるについては西洋の影響もみてとれよう。丹下健三は、大東亜建設記念造営計画(1942)において、神明造の水平性をもちこんだが、とはいえ高さ60mという巨大性に記念碑性がこめられているというべきだろう。


fig.4──吉村順三《戦没船員の碑》(筆者撮影、2016)
fig.5──吉村順三《戦没船員の慰霊碑》
(『吉村順三作品集』新建築社、1978)
 戦後における記念碑性の表現にも垂直性は生き残っている。丹下健三が淡路島に設計した《戦没学徒記念 若人の広場》(1967)の双曲放物面シェルによる慰霊塔や、吉村順三が横須賀市観音崎に設計した《戦没船員の碑》(1971)[fig.4,5]の45度の角度を導入した塔の造形にせよ、それ自体の意味性は希薄にしながら、しかし垂直性によって、そこに碑の置かれていることを指示している(ちなみに後者は、沖縄、広島、長崎、千鳥ヶ淵以外で、今上天皇が最も多く訪れる慰霊碑のひとつである。東京からの近さであろうか。魚類学者としての海への親しみの故だろうか)。丹下の《広島平和記念公園》の当初案においても、巨大なアーチがかけられる予定であった。最終的には、家形埴輪の屋根部のような鞍型の慰霊碑にスケール・ダウンするのだが、ここでは垂直性は、原爆慰霊碑をくぐる軸線の向こうの原爆ドーム、その上空に空想する原子爆弾の落下によって、そのつどトラウマ的に喚起される[fig.6]。これらと比較すれば谷口の《国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑》(1958)は、規模の大小はありながら、やはり特異に映る。それが「寝かされている」という水平性だけならば、谷口の作品歴のなかで説明もされよう。あるいは垂直性は六角堂に託されているとも解釈できる。
 それにしても埴輪になぞらえた陶棺という具象性に看過しえない不思議さがある。墓とは、文字が刻まれた石が立てられ、その地下に遺骨・遺品を納める櫃を置くのが一般的であろう。ここでは、棺が地上に露わにされている。すでに指摘されているように、これは日本よりもむしろ西洋の伝統のなかにある[fig.7]★7。また碑とは、文字の刻まれた石ではありながら、この陶棺にも、また六角堂の中にも言葉はない。苑内への、そうした標柱の設置については慎重に検討された結果、字句・執筆者の選定に困難を感じ、墓苑入口に標石を置くに留めたという★8
 軸線にも慎重であった気がしてならない。現在の苑内の構成では、休憩所と六角堂は左右対称に並び、さらにその奥に障壁を立て、地面には黒御影の石板が置かれている。碑の背後に障壁を立て、その障壁に碑の由来やらを説明した石版をはめ込むのも、西洋ではよくされる手法であり、谷口の碑にもみられるものだが、この正面奥には、1991年と2000年にあらたに地下納骨室が増設されており、奥への連続性はこの時の改変による。現在、六角堂は、正面と正面奥を開き、左右各2辺ずつを格子としているが、当初は正面を開いて左右に交互に格子が嵌められ、正面奥も格子で隔てられていた。つまり奥への軸性は弱く、六角堂頂部と陶棺を起点とした中心性の強い構成を与えられていた。そもそも、この軸性は、休憩所中央に立つ中柱(法隆寺中門になぞらえられる)によって塞がれている[fig.8]。垂直面(つまりは壁)の展開によって人を導き、視線を誘う谷口建築の妙は、墓苑入口からのアプローチにはみられるが、休憩所から六角堂へと広い空間の中央をまっすぐに進むのも、拠り所がなく、いささか心許ない。

fig.6──丹下健三《広島平和記念公園》(筆者撮影、2014)
fig.7──《ルソーの墓を望む》19世紀(フランス国立図書館 Gallica)
"Vue du Tombeau de J. J. Rousseau", dans l'île des Peupliers, à Ermenonville : [estampe] Source : Bibliothèque nationale de France, département Estampes et photographie, RESERVE QB-370 (46)-FT 4

fig.8──谷口吉郎《千鳥ケ淵戦没者墓苑》六角堂(筆者撮影、2015)

 六角堂の地下には、たしかに六室に分かたれた納骨室があるのだが、その中心は、荘重な記念性を必ずしももたない。原爆投下を想起させる広島平和記念公園や、原爆落下中心地を碑で示す長崎平和公園(公園が二つの平行な軸線に沿って平和祈念と原爆落下とを隔てて設計されている)[fig.9]とは、千鳥ヶ淵は異なる。ひとつは場所性の希薄さであろう。無名戦没者の墓が、ここに置かれる必然性は必ずしもなかったし、また靖國神社のような戦前からの連続性ももたない。六角堂が敷石と緑のなかに浮かぶ孤島のようにもみえる[fig.10]。

fig.9──長崎平和公園(Google Map、20160305)中央の長崎本線と206号線の右側に長短二つの軸線が見える。上の長いほうが平和祈念像地区、下が原爆落下中心地地区。
fig.10──千鳥ケ淵戦没者墓苑(Google Map、20160305)千鳥ヶ淵の軸線を延長すれば靖國神社拝殿に向う。武道館の八角形、科学技術館の十角形屋根がみえる北の丸公園も、「無名戦士の墓」の候補地のひとつだった。

 広島、長崎とは規模がちがうというのであれば、丹下の淡路や、吉村の観音崎と比較すればどうだろうか。海のそばに立つ、という点で、これらは強い軸性をもっている。地下壕を思わせる展示空間から屋上にでてその先の塔を望む《戦没学徒記念 若人の広場》にせよ、なだらかな斜面を登ると左手に、東西/南北に軸を揃えて置かれた舞台と白タイルの塔があらわれ、その軸と45度に交わる壁に沿って二枚の壁のあいだをくぐると東京湾が開ける《戦没船員の碑》と、いずれも海へと、歩と視線を誘われる。これらに比して堀の淵にはありながら、千鳥ヶ淵で苑内にて水の気配を感じることもない。

抱擁され折り返される軸線

 ここで海外に目を転じてみよう。政府による本土外での慰霊碑の建立は1971年と時間をおいてはじまった★9。谷口が最初にてがけた《硫黄島戦没者の碑》(1971)[fig.11]は千鳥ヶ淵と同様、上屋と碑とからなる。ただしコンクリート打放しの上屋は、屋根中央に穴をあけ、その直下に、遺品を納めた台石と、浮金御影の板石を嵌め封をして、稲田御影の碑を置いて蓋としている。碑のモチーフは骨壷に被せる装飾用の覆いを象ったもので、同じ谷口による《比島戦没者の碑》《中部太平洋戦没者の碑》でも、プロポーションをかえたヴァリエーションが採用されている。
 屋根中央の穴の空いたモチーフは、谷口が案内された地下壕の要塞のイメージ、光を求め、水に飢えた戦士の心境を暗示したものという★10。この碑は、敷地の入口から周辺よりも高く盛土され、正面のまっすぐな道を通って碑の前にでる。碑の向こうには上屋の下を抜けて視線が海へとのびていく。
 2016年の天皇の行幸地となった《比島戦没者の碑》(1974)[fig.12]は、最初の海外慰霊碑である。フィリピン共和国ラグナ州カリラヤにある日本庭園の一画にある。碑そのものは硫黄島で試みられたもののヴァリエーションだが、ここでは、背後に障壁が立てられている。この障壁両端袖は前方に折れ曲がっており、これは肉親による抱擁を意味すると説明されている。

fig.11──谷口吉郎《硫黄島戦没者の碑》全景(上)
fig.12──谷口吉郎《比島戦没者の碑》川澄明男撮影(左下)
fig.13──谷口吉郎《中部太平洋戦没者の碑》遠望(右下)
(出典=いずれも『谷口吉郎著作集』第5巻)より)

 そして、現在アメリカ合衆国自治領である北マリアナ諸島サイパン島のマッピに建設された《中部太平洋戦没者の碑》(1974)[fig.13]は、かつての日本軍司令部跡地「ラストコマンドポスト」に近いそうで、背後は百メートルの断崖絶壁。碑の背景には稲田石貼で十曲一隻の屏風様の障壁が立てられている。障壁と碑の手前に、石灯籠が置かれているのが印象的だ。
 谷口の戦没者慰霊碑としては最後となるのが、《沖縄戦没者慰霊碑》(1979)[fig.14]だ。50近いさまざまな慰霊碑の集まる沖縄県糸満市の平和祈念公園内の国立沖縄戦没者墓苑の中心と成る。納骨堂は琉球トラバーチン切石積で、琉球王家の墳墓をモチーフにした。ここでも、フィリピンの例と同様に、両端が翼のようにコの字型に前に突き出しており、抱擁を意味するという。納骨堂手前には、万成石の延壇の上に浮金御影の石棺を置いて碑としている。この設えを琉球赤瓦で葺いた方形屋根の参拝所から望む。碑は1979年2月1日に竣工し、翌日谷口は逝去した。

fig.14──谷口吉郎《沖縄戦没者慰霊碑》公益財団法人沖縄県平和祈念財団HP

 御影石による小碑と台座、そして障壁との組み合わせは、谷口の文学碑にも通じるし、琉球赤瓦と玉陵(たまうどぅん)に想を得て直截なリージョナリズムを示した《沖縄戦没者慰霊碑》には、「抽象化された具象性」という建築家谷口に帰される様式性が認められよう。
 対して翌年1980年から建てられる菊竹による一連の海外慰霊碑11基は、谷口のそれに比すれば規模を大きくし、その都度ある意味性の獲得のための意匠が検討されているものの、一貫性を見出すのは難しい。
 たとえば、2015年4月9日に天皇・皇后の行幸啓を得たパラオ共和国ペリリュー島に置かれた《西太平洋戦没者の碑》(1985)[fig.15]は、島南端に位置している。周辺環境との調和を掲げて、立木など既存環境をできるだけ保存している。写真からは、周囲の海岸に散らばる岩石を擬したような肌をもったデザインは、折衷的なリージョナリズムで、《ニューギニア戦没者の碑》(1981)[fig.16]も同様の態度で民家風の姿をもっている。環境との調和を掲げた慰霊碑には《第2次世界大戦慰霊碑》(1994)や、《インド平和記念碑》(1994)、またパラオの《西太平洋戦没者の碑》は、大洋をはさんだ遠く日本へ軸線を向けているが、この軸線を中心にコの字型、あるいはハの字型に挟み込む形姿が「抱擁」に擬されるのは谷口の頃から変わらない。碑を門型として日本への軸線にのせることで、戦地と日本とが結ぶばれる。そこに象徴性が生まれる。軸線といっても、碑を正面に海を望めば、背後遥か3000kmの彼方に、長い列島が位置するわけで、その精度はいかばかりか。あくまで想像上の線だ。このような軸線の日本への設定は、他にも《東太平洋戦没者の碑》(1984、マーシャル諸島共和国マジュロ島)や、《インド平和記念碑》(1994年、インド・インパール市)にも採用されている。

fig.15──菊竹清訓《西太平洋戦没者の碑》厚生労働省HP(2016年03月10日)
fig.16──菊竹清訓《ニューギニア戦没者の碑》厚生労働省HP(2016年03月10日)

 先に、千鳥ヶ淵の希薄な中心性について述べたが、菊竹の碑において漠然と日本に向けられた軸線の向う先があるとすれば、千鳥ヶ淵であろう。戦前の忠霊塔が、その先へと進む里程標であったとするならば、戦後の慰霊碑は帰還のための折り返し地点である。彼らは日本を発ち、どこまで辿り着き、どこで倒れたのか。千鳥ヶ淵の軸性の弱さと場所性の希薄さとは、環アジア・太平洋に広がる海外慰霊碑との関係において考えるべきで、図らずも六角堂という求心的な平面が、千鳥ヶ淵の位置づけに照らせばふさわしい計画であったというべきだろうか。
 そうした意味で、慰霊の場所においては碑、あるいは碑文そのもの、そしてその空間と同じように重要なのは実は地図である。千鳥ヶ淵の苑内案内板に掲げられた「先の大戦における海外主要戦域別戦没者数一覧図」には総数240万人という戦没者数の分布図が大きく19の地域にわけて示されている。たとえば《戦没船員の碑》においても、地面の敷石に、日本を中心とした樺太からインドネシア、パプア・ニューギニアまでの環アジア・太平洋の地図が刻まれている[fig.17]。

fig.17──吉村順三《戦没船員の碑》(筆者撮影、2016)

 相田武文は、東京都の施設として硫黄島(硫黄島は東京都である)に記念碑《鎮魂の丘》(1984)を建立する際にも、やはり「漠としたジャングルのような敷地に」、「軸線の設定、領域の確保、シークエンスの形成」などを第一の課題とし、軸線を摺鉢山へと設定した★11、[fig.18]。相田は、文京区春日の礫川公園上にも《東京都戦没者霊苑》(1988)を設計している★12、[fig.19,20]。マルク・アントワヌ・ロジエの『建築試論』をひきながら、モニュメンタリティにおける規則性と対称性に、どのように非対称性をもちこむかを──モニュメントの永続性と今日的な親近性とのあいだに、どのようにゆらぎの場を設定するかを──検討している。相田は、二つの軸線をずらして重ねあわせているのだが、ただしそれらの軸線はどこかへと向かっているわけではない。ひとつは春日通りに沿って建っていた既存休憩所の配置、すなわち周辺街区のコンテクストをそのまま導入しており、それに対して玄室の位置と方向は既存のものを継承することで霊苑部の計画軸を設定している。東京都心にあって千鳥ヶ淵よりも周辺環境との調停という意味では厳しい条件の中で、あえて既存の都市網を敷地内に引き込み、そこに整然と正方形を切りだすことで場を形成する[fig.21]。そして、ちょうど二つの軸線が重なりあう境界には、やはり「太平洋戦争における地域別戦没者数一覧図」がみとめられる。
fig.18──相田武文《鎮魂の丘》
(『新建築』1984年3月号)
竣工の翌年8月15日に東京都遺族連合会から寄贈されたもので、東京を中心に東西南北に展開した戦地を指し示す方位盤も埋め込まれている。ある対象との関係のとり結び方の基本は、その方を向くことである。オリエンテーションとは本来、東方エルサレムを向くことであり、教会堂は内陣を東に、正面入口を西に向ける。逆に西日を背後に受けて赤く染め上げられる浄土寺浄土堂に、西方浄土を思い描くことも間違ってはいない。あるいは大神神社から三輪山を望む。あるいはその場所を富士見と名付ける等々。バロック以来近代の建築設計や都市計画にことさらに持ち込まれた軸線には大仰さの感を抱かないと言えば嘘になるが、パラオのペリリュー島で天皇皇后が《西太平洋戦没者の碑》に拝礼した後、その碑を脇によけて海の向こうアンガウル島にも遥拝するふるまいはごく自然なものだろう。

fig.19──相田武文《東京都戦没者霊苑》(筆者撮影、2015)
fig.20──相田武文《東京都戦没者霊苑》平面図(1988)
fig.21──相田武文《東京都戦没者霊苑》(筆者撮影、2015)

 結局のところ形や場所の意味というものは、設計者によって企図された象徴性や、作品性そのものだけでなく、それについて重ねられた言説とそこでとり行なわれた儀礼や集会といったふるまいの継続と変化の重なりによってしか形成されえない。多くの広場論で語られているような「広場」という空間のもつダイナミズムは、碑の空間には乏しい。碑という物体は空間のなかにその位置を占めるが、その機能は去りゆく時間への重石である。であれば碑の空間のダイナミズムの乏しさは、ただちに不動性・永続性と言い換えられねばならない。碑の成立と碑の空間の形成のもつ意味を実証的かつ構成的に組み立て開いていく作業を、戦後の日本建築史のなかにも位置づけなければならないだろう。


★1──戦没者慰霊碑については厚生労働省HPを参照(http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/senbotsusha/seido01/index.html
★2──近年の慰霊と顕彰を巡る研究史については次の文献、とくに藤田大誠「日本における慰霊・追悼・顕彰研究の現場と課題」を参照した──國學院大學研究開発推進センター編『慰霊と顕彰の間 近現代日本の戦死者観をめぐって』錦正社、2008
★3──千鳥ケ淵戦没者墓苑については『千鳥ヶ淵戦没者墓苑創建50年史』財団法人千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会編集・発行、2009。また同財団によるHP(http://www.boen.or.jp/)、環境省HP(http://www.env.go.jp/garden/chidorigafuchi/index.html)でも情報を得られる。海外戦没者の遺骨収集については、浜井和史『海外戦没者の戦後史 遺骨帰還と慰霊』吉川弘文館、2014
★4──隈研吾・藤森照信・藤岡洋保「シンポジウム 谷口吉郎を通して"伝統"を考える」『谷口吉郎の世界 モダニズム相対化がひらいた地平』彰国社、1998(『建築雑誌別冊』1997年9月)
★5──本段の忠霊塔についての記述については次を参照のこと──粟津賢太「戦地巡礼と記憶のアリーナ 都市に組み込まれた死者の記憶―大連、奉天―」前掲『慰霊と顕彰の間 近現代日本の戦死者観をめぐって』
★6──井上章一『戦時下日本の建築家 アート・キッチュ・ジャパネスク』朝日新聞社、1995
★7──栗田勇監修『現代日本建築家全集6 谷口吉郎』三一書房、1970
★8──前掲『千鳥ヶ淵戦没者墓苑創建50年史』
★9──これらの国内外の慰霊碑に関する記述は『谷口吉郎著作集』(淡交社、1981、とくに第4巻、第5巻)ならびに先の厚生労働省HPの他、日本遺族会HP(http://www.nippon-izokukai.jp/)、沖縄県営平和祈念公園HP(http://kouen.heiwa-irei-okinawa.jp/kouen.html)、沖縄県平和祈念財団HP(http://heiwa-irei-okinawa.jp)等に拠った。
★10──「暗がりに魂魄がさまよっているような気がして、哀悼の意が胸に迫った。出口から這い出ると、晴れた空が一層青く見えた」『潮』1972年11月(『谷口吉郎著作集』第5巻)
★11──相田武文設計研究所「鎮魂の丘」『新建築』1984年3月号
★12──相田武文設計研究所「東京都戦没者霊苑」『新建築』1988年11月号:相田武文設計研究所「"ゆらぎ"の展開 東京都戦没者墓苑」『建築文化』1988年11月号



戸田穣(とだ・じょう)
1976年生まれ。建築史。博士(工学)、金沢工業大学講師。共著=Le Public et la politique des arts au siècle des Lumières, Bibliotheques d'architectureほか。翻訳=クロード・パラン『斜めにのびる建築──クロード・パランの建築原理』。共訳=ル・コルビュジエ『マルセイユのユニテ・ダビタシオン』(山名善之と共訳)ほか。


201603

特集 建築史の中の戦争


千鳥ヶ淵から考える慰霊の空間
ウォーフェアからウェルフェアへ──戦中と戦後、空間と言説
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