ウォーフェアからウェルフェアへ──戦中と戦後、空間と言説

八束はじめ(建築家・建築批評家)×青井哲人(明治大学准教授・建築史)

現在の問題へ──戦後体制の終わり、グローバル自由主義


青井──1960年代から70年代にかけて、ゼネコンや組織設計、シンクタンク、ディベロッパーといった企業が何でも担えるようになり、官僚は制度や補助金を通した管理者の位置に下がる体制になりますね。だから、それ以降の建築家の想像力が小さくなったということを、一方的に批判しても酷なのではないかと最近は思います。

八束──けれど現状では、官僚がいろいろなものを担保するその体制自体が壊れています。国土計画そのものがもはやないに等しく、調整の機能しかありません。国家やそれを主導するはずの官僚が自信を喪失しているわけです。モデルになっていたソ連のゴスプランなどもなくなってしまいました。国土庁もなくなったし。中央からのコントロールではなく、末端から吸い上げ、それらをいかにハーモナイズするかということが課題になっているので、建築家は如何ともし難い状況です。みんな調整役じゃあね。主体は何処にあるの、みたいな。
新国立競技場のコンペはその最たるものですよ。官はあのイヴェントの主催者たり得ないことを露呈したし、最後の二案が、最初のコンペに参加していた組織事務所の人にどちらの案も大差ないといわれてしまったり(だとしたら、いわゆるアトリエ派の存在理由ないよね)、突然「日本的なもの」という亡霊みたいな命題が「民衆(国民?)レヴェル」で論われたかと思うと、丹下さんが香川県庁舎で、その空間制御モジュールと併わせながらコンクリートで表現した庇の垂木が、あっさりと木そのもので出てきてしまったり(実は林業関係の圧力もあったみたいですが)。何処のレヴェルでも主体は大幅に後退してしまっている。

青井──もちろん70年代以降と、90年代後半以降とではまた違います。ただ、70年代以降の構造が今度は尾を引いています。僕も「建築家が小さくなった」という言い方でよいと思っていましたし、それ自体は今でもそう思いますが、やはり国家のかたちそのものが変わったので、それを踏まえずに、50−60年代のような建築家像を取り戻せ、といっても仕方がないと思います。

八束──それはそうね。飯島洋一さんなんか一生懸命それを取り戻せと呼びかけているけど、まぁ大勢からはそっぽ迎かれているんでしょう。それこそ『戦争と建築』で(何故ここで、という感じだったけど)五十嵐太郎さんは飯島さんに真面目に応答していたけれども、僕にはまぁどうでも良かった。そもそも批評家や建築史家は常に同時代に密着している義理はないとも思うので、僕はもう知りません、という感じかな?青井さんの年齢ではそれをやるというわけにもいかないでしょうけど。
日本の戦後に話を戻しますが、普通に考えると、高度経済成長期までは国家がでかい顔をしていたのですが、オイルショックなどがあり、国家が自信を喪失していくという図式が成り立ちますが、実際日本の戦後復興はアメリカ資本が入り、技術協力や借款の問題を絡めながら日本企業を海外進出させていきます。ですから、岸信介の中には最初から大東亜共栄圏を再現するというビジョンがあったんでしょうね。1960年代の時点では明確にはなっていませんが、ネーションステートで完結するという議論の足元はそもそも怪しかったわけです。
今や日本企業と言っても、本社が日本にあっても製造現場は人件費が安い海外です。そのうちにアメリカのように、税金の問題で本社まで移転して多国籍企業になるとしたら、日本経済すら主体が語れなくなっていくでしょう。戦争も、ネーションステートや国益という概念ではわからなくなっています。中東の戦場も先進国でのテロもネーション同士の戦争ではない。となると「戦争と建築」というような問題の立て方自体が成り立つかどうか。右にせよ左にせよ、安全保障関連法案で繰り返されている議論は単純過ぎる。

青井──戦後の言説空間の大きな特徴のひとつは、戦時中に拡大・変質した地政学的想像力が、一気に一国主義に縮小したということですね。つまり国内しか見えなくなり、先日まで支配していた朝鮮半島も台湾も樺太も満州も、そして沖縄も在日もタブーとして封印されてしまいました。それが再度高度経済成長期を経て、1970年代からいろんな学者がアジアにどんどん出て行って、いろんなデータを集め始めます。文化領域でも再び地理的な視野が広がるわけですが、今度は企業の経済的進出がベースにあった。

八束──そうね。でも、それには希釈された拡散が伴っているのではないかなぁ。建設の規範をどこに求めるかが非常にわからなくなっています。かつては国威の発揚やその批判としての戦後民主主義というものがありましたが、今やそれがミクロ化して矮小な話になってきています。

──八束さんは建築家としてスタートし、建築批評の領域でも活躍されていますが、戦後の建築批評や思想には関心がなかったのでしょうか。

八束──その頃の僕は磯崎さんの影響下にあったので、そういう問題の立て方をしようと思ってなかったのですね。日本より西欧の方に関心があったし、個人の問題が第一関心事だった。日本の戦後は布野修司さんがいましたから、彼に任せればいいと思いました。彼の戦後建築史は戦中も含めて運動論なのです。前川担ぎのようなところは同調出来なかったけれども、それとしては見事なものだった。それもあって僕は運動論をやろうとは思わなかったんです。

青井──八束さんがものを考えるきっかけは布野修司だったとよくおっしゃいますね。

八束──それは何度も言っています。そのきっかけがなかったら今の僕はないでしょう。向いている方向は違いますけれど、同世代ですし、心情レヴェルではさまざまなものを共有しています。

──青井さんは、建築史家として今後どのような見取り図で仕事をされていくのでしょうか。今の建築史の中で何が足りないとお考えですか。

青井──今日お話したことは、僕なりにちゃんとやりたいと思っていることばかりです。植民地については、僕は台湾をやっていますが、最初は植民地政策への関心から入り、そこからアノニマスなものに視野を落としていき、最近はあらためて大きな政策的枠組を捉え直そうとしています。植民地支配は何といっても産業開発のための社会統治であって、それとアノニマスなものの変質を両方から繋ぎ合わさないとダメだと考えるようになりました。
3.11以降、とくに昭和三陸津波を考える研究もつづけていますが、最初は津波という自然現象に対して人間がどう動くのかという、動的な集落地理の関心から入ったものの、さきほどお話したように戦争につながるような恐慌下の産業政策・社会政策が深く関わっていたことを今は重視しています。それとアノニマスな動きをつなぐことが重要だと思います。台湾と同じですね。だんだんそういう問題の立て方になってきました。
ちょっと突飛なことをいいますが、大きな歴史的見取り図でいうと、今日八束さんと共有できた1930−60年代をひとつの歴史過程として見るという設定をしたとき、それ以前も大きくつかまえ直せるような気がしています。思いつきでいい加減なことをいいますが、たとえば近世後期、18世紀中盤くらいから1910−20年代くらいまでをあえてひとつの歴史過程として見てはどうだろうか、とか。江戸後期から明治・大正までは重商主義的な側面ではそれなりの連続性があり、大都市の商人資本が市場経済を形成していくと同時に、生産地(農漁村)もその経済に組み込まれて階層分化も進んでいくと思うんですね。17世紀の人口倍増をへて、18世紀以降は経済や都市がかなり自律的に動くことで社会が変貌していった。幕末以降は世界経済に接続したので一定の成長がありますが、1910−20年代には世界経済の動揺が波及するようになり、1930年前後の決定的な体制転換はすでに世界的なものだった、というような感じです。都市や建築、あるいはそれにかかわる思想も、そうした歴史過程のなかで見直す可能性がありそうな気がします。幕末と明治の「移行期」をつなげましょう、といった小さな修正ではなくて、もっと長期の歴史過程を考えるイメージなんですが......。


八束──それはおもしろいですね。枠組を組み替えるということですね。リオタールが「大きな物語」を否定して「小さな物語」を持ち上げたわけで、当時は僕もそれだ、とか思って(東大に講演聞きにいったし)お先棒を担ぎましたが、基本的には「大きな物語」を否定したら詰まらない。リオタール流のポストモダニズムは結局姑息でしかない。けど、だからといって「大きな物語」だけでは時代錯誤でしょう。だから青井さんが言われたことには共感します。

青井──一方で、なぜ僕らは今現に僕らが考えているようにしか建築を考えられないのかという問題については、戦後的バイアスの相対化という課題があると思います。だから戦後史もやらないと。とはいえ正直なところよく分からないことを勉強で埋めようとしているような感じで、勘違いも多そうな気がします。ましてや学生たちには今日議論したような関心を話しても通じません。もちろんしつこくやるわけですけど。何だか最近は「やらないといけないことリスト」が増える一方で、困ったことに大学もしんどくて全然追いつきません。

──八束さんの『思想としての日本近代建築』(岩波書店、2005)のような大著が必要ですね。今、建築批評をやる建築史家がいないという問題もあります。

八束──今の日本の建築史の世界では現代の批評みたいなことをやるとダメだと言われるそうで、驚きました。歴史と批評はもちろん時代や対象も方法も違うと思いますが、それが完全に分離しているのは大きな問題ですね。もうひとつの問題は、通史を書く人がいなかったということ。ここでも「大きな物語=歴史」がない。日本建築史で言えば、太田博太郎さんが戦中に書いた『日本建築史序説』で止まっています。あれ以降、教科書的なものを別とすると誰も通史を書いていません。

青井──最近耳にしたのですが、『日本建築史序説』は、中国でも翻訳されて何度か増刷もされているようですし、今でも日本の学生が大学院入試のためにあれを読んで勉強しています。けれど、やはりモダニズム美学というか、丹下・浜口路線の美学的バイアスが強くかかった本であることは間違いありません。その後、たとえば社寺建築の空間を宗教儀礼(身体・行為)の観点から読み直す研究が蓄積されてきていて、ある意味ではそれこそ機能主義的な見方の歴史化です。また構法・技術・制度の観点からの研究も進んでいる。言い換えると、近代の建築観が歴史に反映されるのにもすごく時間がかかっている。さらに、その蓄積をもってトータルに歴史を描き直すのは相当しんどいのだと思います。建築史をちゃんとやっている人は、当然太田博太郎で止まっていていいとは誰も思っていません。

八束──この間若い建築史家たちの間で日本建築の通史を英語で出さなくてはという動きがあると聞いて意を強くしました。太田さんの本を英訳すれば良いというのではないということですよね。
今の日本では、建築に限らず専門化=細分化が進んでいる。同世代ですが、内田隆三さんが社会学も同じだと言っていました。それは文科省が博士をとらせたがるからだと内田さんは言うのですね。若い内に学位を取ろうとすると、広いところではなく特定のテリトリーを縦に掘り下げることになりますが、そうすると横への広がりがなくなるのです。横断的な構想力が欠けてしまうと言うか。縦の実証に対して横には方法やコンセプトが問題になる。各論を深くやるのと同じようには総論をやりようがありませんから。総論は実証だけでは如何ともし難い。
僕が今『汎計画学』に取り組んでいるのは、たとえばロシア編だけいっても、日本のスラヴ学は実証的蓄積が膨大にあり、そこの部分では俄勉強では到底歯がたたないことはわかっているのですが、だからといって、われわれのディシプリンまで含めて横断的に書いている人がいないからです。この本では建築の話は少ししか出てきませんし、そこまで大風呂敷を広げるとものすごく大変なのですが、自分はメガロマニア(誇大妄想狂ということね)なんだから、と自分に変な言い聞かせ方をしてやっています。本の完成と自分の知的退行(ボケ?)との競争なので(笑?)、僕の最後の大きな仕事になると思います。ですから、建築史での大きな仕事は青井さんたちのジェネレーションに期待したいと思っています。


[2016.2.25、東京にて]



八束はじめ(やつか・はじめ)
1948年まれ生。建築家、建築評論家。東京大学大学院修了後、磯崎アトリエを経て、1985年、株式会社UPM(Urban Project Machine)設立。建築作品=美里町文化交流センター「ひびき」ほか。著作=『テクノロジカルなシーン 20世紀建築とテクノロジー』『ロシア・アヴァンギャルド建築』『ミースという神話ユニヴァーサル・スペースの起源』『思想としての日本近代建築』『メタボリズム・ネクサス』『ル・コルビュジエ──生政治としてのユルバニスム』ほか。

青井哲人(あおい・あきひと)
1970年生まれ。建築史・都市史。明治大学准教授。著書=『彰化一九〇六年──市区改正が都市を動かす』『植民地神社と帝国日本』『明治神宮以前・以後』ほか。http://d.hatena.ne.jp/a_aoi/


201603

特集 建築史の中の戦争


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