〈人間-物質〉ネットワーク世界の情報社会論

清水高志(哲学者、東洋大学総合情報学科准教授)
──私たちへのモノの現れ方と、神に対してのモノの現れ方には、いわば「セノグラフィ」と「イクノグラフィ」のような違いがある。すなわち観る者の位置に応じて多数の「セノグラフィ」が存在するが、「イクノグラフィ」、あるいは幾何学的表象はただ一つである。──(「デ・ボス宛書簡」手稿)

かつてライプニッツが、その手稿に書き記した「イクノグラフィ」(Ichnographie)と「セノグラフィ」(Scénographie)という対比概念は、私たちを長い間当惑させてきた。これらはいずれも、「モノの現れ方」にまつわるものであり、たしかに「セノグラフィ」があるモノが複数の 観点 パースペクティヴ から眺められることを表していることは明らかなのだが、一方のイクノグラフィはというと、建築物の構造を平面図に写したものを指す言葉でしかないのである。──たしかにそれは、視覚を通じて得られる立体物についての情報ではあるのだが、それが《神にとっての》「モノの現れ方」であるとは、どういうことなのか?
イクノグラフィ(平面分解図)を見ることは、私たち人類にとっても可能なことである。ある建築物やある都市を描いたものとして、実際そうした図がかつては幾つも描かれてきた。しかしそれらとて、立体を二次元に投影した一つの視点に過ぎないのではないか。「幾何学的表象」と、さまざまな「パースペクティヴ」とでは、なにがそれほど異なっているというのだろう。
「モノの現れ方」をめぐって、神が持っている情報と、人間が持っている情報のなにがそれほど異なっているのか? この疑問を解く鍵は、おそらく現代のICT(Information and Communication Technology、情報通信技術)のめざましい発展のうちに潜んでいるだろう。「モノの現れ方」の意味そのものが、情報技術の革新によって今日、どうやら大きく変わろうとしているのだ。

ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ
《イクノグラフィア(古代ローマのカンプス・マルティウスのプラン)》
(紙、エッチング、1757-62)

モノ⇔情報──3Dプリンタと 交差 キアスム 交換

21世紀になって本格的に実現した高度情報化社会は、そこに生きる人々がすばやく、双方向的に知識のやりとりをすることを可能にしたが、しかし現実の世界から得られた情報が、伝達と分類に適したかたちにある程度還元され、そのうえでそうした受容がお互いに分かち合われているという印象から、どこかで抜け出せないものだった。──そこで成立した双方向性は、なにかしらまだ《閉ざされた》ものであり、受動的であったのだが、それが何に対してなのかもまだ、はっきりしなかったのである。
デジタル・ファブリケーションの技術とともに、しかし情報化社会はいよいよ、以前とは異なる能動性と双方向性を獲得し始めた。デジタル工作機械や3Dプリンタを操り、さらにはパーソナル・ファブリケータを駆使して、情報から自在にモノを作りだすことが当たり前になる日が、遠からずやってくる。さらにはモノをデジタル情報にし、複数の人間でそれを共有し、ときには改良や変形を加えたうえで再びモノにする、という操作すら、やがては容易になるのである。ミシェル・セール風に言えば、まさに《モノと情報の 交差 キアスム 交換》と呼ぶべきこうした操作が、技術的に一般化することによって、情報化社会における相互性の第2のステージが、いよいよ到来することになるだろう。
モノ、物質は、田中浩也が指摘するように★1、《情報にとっての新たな出口》であるとともに、また一つの「折り返し点」でもある。モノそれ自体が、いわば情報の出入口でもあるのだ。3Dプリンタによって、3次元で《モノの形態》が複製されるといったことは、それ自体まさに画期的ではあっても、本質ではない。むしろ、さまざまなモノがこうした情報の支持体であることが、形という側面から改めて再確認されたのが、そのような事例なのである★2。あらゆるモノがフィジカル・メディア化する、というのが、情報化社会の次の段階なのだ。

再・創造される世界

古代人にとってのグノモンや、影の長さからピラミッドの高さを測定したタレスにとってのピラミッドないしは棒もまた、こうしたフィジカル・メディアである。このとき、棒の長さとその影の長さが1:1になる日時に、ピラミッドの影の長さを測ればその高さがわかるように、モノから得られた情報は別のモノの理解のために、つねに《転用》されてきた。そこに経験知やアブダクション、科学の始まりがあるともいえるのだが、今後こうした《転用》は、単なる理解ではなく、新たな「モノの創造」というかたちを採ることになるだろう。
ところで、モノから情報へ、情報からモノへという往還は、その両極を行き来しつつも、必ずしも同じところに戻って来るわけではない。むしろ、異なるモノ、異なる情報がこの往還のなかで、次々に生まれてくると考えるのが自然であろう。あらゆるモノは情報の支持体として、情報ネットワークのうちでの「折り返し点」、もしくはシャトル(杼)として機能する。──ある特定のモノの制作が、モノの最終形態であるわけではなく、制作する(創造する)ということの終局でもない。情報とモノとの往還をどこまでも経ながら、 その両極を混淆させるように織られてゆく世界のすべて 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 そこで起こるさまざまな 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 転用 、 、 までをも含めたものが 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
創造 、 、 という出来事の本来の意味なのだ 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 。 単独のファブリケーション、単独のモノの制作だけを見ていたのでは、現在起こり始めていることの本質を捉えることはできない。モノから情報へという一方向性を脱した、新しい世界全体の「創造」、あるいは途切れることのない「再創造」が、そこでは問題になっているのだ。

神、起成因、モノ

ここで、イクノグラフィ(平面分解図)という、ライプニッツの奇妙で素朴な比喩に戻らねばならない。セノグラフィが、すでに成立したものから受動的にその投影図を幾つも切り取ってきたものであるのに対し、それが意味していたのは明らかに、「制作のための」図である。創造者である神にとっての「モノの現れ方」は、モノを制作してしまえる、あるいは制作してしまった、という立場から眺められるものなのだ。そしてまた、イクノグラフィは、「 ただ一つである 、 、 、 、 、 、 、 」──つまり、あるモノが制作されるには、一つの制作方法だけで事足りるのである(これに対し、たった一つだけのセノグラフィというのは、ほとんど意味をなさない)。セノグラフィ的な情報は無数にあるが、重要なのはあるモノから、そのモノが制作されるに足る情報をたった一つでも(むろん、あえて複数でもいいが)見出すことである。一枚のイクノグラフィは、無数のセノグラフィをすでに含んでおり、一つと無限という差異、また神と人間の知の埋めがたい懸隔は、まさしくこのわずかな違いにこそ由来しているのだ。
このように考えると、神と人間とのあいだにある隔たりは、なんら超越的 トランセンデント な性格のものではないことが明らかになってくる。人間は無数のセノグラフィ、無数の情報をモノから得ることができるが、モノの制作という観点から情報を整備することはまれである。また逆に、神はモノを制作するが、すべてのセノグラフィやすべての情報を、モノに関してあらかじめ知ったうえで 、 、 、 、 、 、 行なうわけではない。神は、自分が制作しつつあるものについて無知、あるいは無関心でもありうる。こうも言えるだろう──すなわち、神が全知であるというのは、あくまでも起成因★3的なものについてであり、彼は自分が制作するモノからどのようなセノグラフィや情報、用途が導かれるかは知らぬままにそれを創造する。しかし、そうして制作されるモノの事実性のうちには、あらゆる情報、あらゆる用途(あらゆる《転用》)が、つねにすでに含まれているのだ、と。

デジタル・イクノグラフィ

あるモノについて、可能な限りすべてを知ることには、特段大きな意味はない。そうしたものを知りえないから、人間が獲得するさまざまなセノグラフィが《神の知》に劣るわけではないのだ。なにより必要なのは、情報を制作へと転換すること、またそうした意図のもとにモノから情報を得ることであり、あらゆるモノをそのための素材とし、少なくともモノと情報の一方向的な関係を作らないで、繰り返しどこかで「折り返す」ことである。
情報の受容と、制作への「折り返し」という両極を往還しつつ、モノと情報のネットワークが、お互いを混淆し合うようにこの世界を織りあげてゆくとき(まさに、これからはそうなろうとしているのだ)、そうした全体的な過程を担うのは、新しいテクノロジーと一体となった、ほかならぬ人間そのものである。このときイクノグラフィは、もはや「ただ一つである」が、それはおそらくパッチワークのように、あらゆるイクノグラフィ、あらゆる起成因的な知が、一体化することによってである。情報がICTによって世界規模で、すくなくとも間接的に一体化しているように、起成因的な知とモノの制作のさまざまな試みも、FICT(Fabrication - Information - Communication - Technology)を介して、やがては間接的にすべて一体化してゆく。──これは、いずれ神に現れたように 、 、 、 、 、 、 、 、 モノが人間の前に現れるようになる 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、ということである。

あらたなヒューマニティへ

「起成因的で全体的な」働きをなすもの、そして連続的に世界を創造するもの。これはかつて17世紀に、デカルトが神を形容して述べた言葉だが、ライプニッツやデカルトが思い描いた神とその創造の働きを体現する役割を、モノと人間は近い将来に担うようになるだろう。あるいは、神のイクノグラフィ的な知が形成されてゆく過程に、それらは能動的なエージェントとして巻き込まれてゆくだろう。人間についてのみこうしたことを述べるのなら、この物言いはまさしく僭上の沙汰だ。──ところが実際には、神と、人間と、モノとの三項のヒエラルキーが消滅する世界に、私たちは立ち会おうとしているのである。このとき、有難くも古めかしい、現在のヒューマニティなるものが、どのようなものへと変貌を遂げるのか、今はまだ誰も語ることができないのだ。


★1──田中浩也『SFを実現する──3Dプリンタの想像力』(講談社現代新書、2014)
★2──このようなメディアを「フィジカル・メディア」と命名した田中浩也は、音声を録音した「波形グラフ」を立体の物質にし、それをアクセサリーに転用するという例を紹介している。この《アクセサリー》の形態を写真に撮って「波形グラフ」に戻せば、元の音声を聴くことができるという。前掲書、65-66頁。
★3──起成因(causa efficiens)は、アリストテレスの四原因の一つであり、作用因、動力因などとも訳される。なんらかの結果が成立しているとき、それがいかにして成立したかという原因を指す。先の四原因のうち、古代において目的因や形相因が重んじられたのに対し、デカルト、スピノザなど近代の哲学者たちは、むしろこの起成因を重視し、機械論的世界観を確立したといわれる。



清水高志(しみず・たかし)
1967年生まれ。哲学。東洋大学総合情報学科准教授。主な著作=『セール、創造のモナド──ライプニッツから西田まで』(冬弓舎、2004)、『来るべき思想史 情報/モナド/人文知』(冬弓舎、2004)、『ミシェル・セール──普遍学からアクター・ネットワークまで』(白水社、2013)。翻訳(共訳)=『アトラス』(ミシェル・セール、法政大学出版局、2004)、『ライプニッツ著作集 第二期 哲学書簡』(工作舎、2015)、『ポストメディア人類学に向けて 集合的知性』(ピエール・レヴィ、水声社、2015)など。


201602

特集 ユーザー・ジェネレイテッド・シティ
──Fab、GIS、IoT...、
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ユーザー・ジェネレイテッド・シティ──Fab、GIS、Processing、そして未来の都市
概念化の源流から見るネットワークの世界
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