辺野古:抵抗権

大澤真幸(社会学)

辺野古における抵抗権

米軍普天間基地の名護市辺野古への移設をめぐって、沖縄県と日本政府が対立している。翁長雄志知事によって代表される沖縄県は、基地の辺野古への移設に断固反対している。この反対を、政治思想で言うところの「抵抗権right of resistance」の概念によって正当化できるだろうか。ここで考えたいことは、沖縄県の行動が、現在の日本の法律に照らして合法的かどうか、ということではない。もっと原理的な水準に遡り、辺野古への移設を阻止しようとする沖縄の人々の行動が、哲学的に正当化できるのか、さらに沖縄の人々は基地の建設を拒絶できるのか、ということがここでの問いである。結論を先に書けば、私は、これらのことを正当化できると考える。重要なのは、しかし、その理由である。
抵抗権とは、人民によって信託された政府の不当な権力行使に対して、人民が(それをまさに不当と見なして)抵抗する権利である。極大の抵抗権は、政府そのものを廃し、置き換える革命の権利である。つまり、革命権right of revolutionは、抵抗権の一種である。
抵抗権は、教科書的に言えば、ジョン・ロックの名と結びつけられている。ロックは、抵抗権を人民の本源的な権利と見なした。しかし、ロックと並んで社会契約論の主唱者とされているトマス・ホッブズやルソーは、いったん社会契約が成立してしまった後には、抵抗権にあたる権利は人民にはないと考えた。たとえば、ルソーは、はっきりこう述べている。「統治者が市民に向かって『お前の死ぬことが国家に役立つのだ』と言うとき、市民は死なねばならない」(『社会契約論』)と。ルソーの考えでは、死が命じられているときでさえも、市民は権力に抵抗してはならず、殉死するか、さもなくば共同体を出て行くしかない。
このように抵抗権をめぐって、社会契約論者の間でも見解が分かれている。そもそも、抵抗権の存在そのものが正当化できるかを再検討する必要がある。

成熟とは何か

私の考えはこうだ。抵抗権には正当性がある。その根拠は、ロックよりも、カントの議論によって与えられる。
カントは、『啓蒙とは何か』で、未熟/成熟とは何か、ということを論じている。この議論が参考になる。カントにとって、成熟とは、自律的に決定しうる主体になることである。自律的に決定できない者、自分のことについて自ら決定できない者は未熟である。別の言葉で言えば、成熟した主体とは、自由な主体、強い意味での──(自由論の領域でのテクニカルタームを使えば)積極的な──自由を有する主体である。啓蒙とは、このような意味での成熟を促すことである。啓蒙は──カント的な啓蒙は──、それゆえ、知識を与えるとか、教養を身につけさせるということとは、直接には関係がない。
カントの観点からすると、最も悪いことは未熟な状態にとどまることである。つまり、他者の意志に服従すること、自由を放棄すること、これが最悪だということになる。たとえ、ある行動が第三者から見て道徳的にいかがわしいことや不合理なこと、当人の利益に反するように見えることであったとしても、その行動が主体の自律的な決定の結果であるならば、それは最悪のことではない(そこそこよいことである)。しかし、仮に立派に見えること、行動する当人や他人に利益と幸福をもたらすことであったとしても、それが、他者の命令や指示に基づいてなされているのであれば、それは悪いことである。それは倫理的に妥当な行為としての最小限の条件を満たしていないことになる。
抵抗権は、カントのこのような議論を根拠にして正当化できるのではないか。今述べたような意味での成熟が奪われているとき、つまり成熟した主体に帰属する権利が侵されているとき、人は抵抗する権利をもつ。政府の権力行使が、人民の自律的な意志決定の直接の結果と見なし得ない場合がある。そのような場合には、人民は抵抗権を行使してもよい。抵抗権は、人民が国家の自律的な意志決定の過程から疎外されているときに備えて、認められるべきである。
では、現在の沖縄の人々の「辺野古移設」反対は、このような意味での抵抗権を行使してもよいケースにあたるだろうか。これは、間違いなく、そのようなケースのひとつである。普天間基地を辺野古へと移設するという意志決定に、沖縄の人々も参加していたとは見なし得ないからである。それは、成熟した主体としての沖縄人民の自律的な意志決定の産物ではない。基地を辺野古に置いたときに、その影響を最も大きく被るのは、間違いなく沖縄の人々だ。沖縄の人々は、しかし、基地の移設についての意志決定にまったく参加していない。とするならば、沖縄の人々の自由が奪われていたことになる。これは抵抗権を行使しうる典型的な状況である。
繰り返し確認するならば、ここで抵抗権の行使を正当化している理由は、基地の移設や設置が、騒音の公害、オスプレイ墜落等の事故の恐れ、環境破壊、米軍関係者による犯罪等々の不都合な結果を沖縄の人民にもたらすからではない。そのような不都合をももたらしうる政策の決定に、沖縄の人民が参加しておらず、それゆえ、この決定が沖縄の人民の自律的な意思決定の結果ではないということ、これが抵抗権の行使を正当なものにする理由である。

補助金を拒否した村民

だが、次のように反論する者もいるかもしれない。「自分に不利な結果をもたらす政策に同意できないのは当たり前のことだ。しかし、このことがその政策が不当であることを必ずしも意味しない。したがって、政策に同意できないからといって、抵抗権の行使は、必ずしも正当化されない」。もちろん、その通りである。が、この反論に対しては、2つのことを言っておこう。
第一に、自分に不利益をもたらすことには人は賛同しない、という認識は必ずしも正しくはない。次のように考える人がいるはずだ。すなわち、「私にとってはよくないこと、望ましくないことがもたらされるとしても、私たちにとってそうした問題を凌駕するよいことがもたらされるのであれば、それを支持しよう」。ただし、この場合、「私」は、「私たち」として言及されている共同の単位にコミットしていなくてはならない。つまり、「私たち」が、広義の〈私〉になっていなくてはならない。
ここでひとつ、興味深い事例を紹介しよう。スイスの例である。スイスは、原子力エネルギーに大きく依存している。当然、放射性廃棄物の貯蔵場所が必要だ。しかし、どこのコミュニティも、そんな危険な廃棄物を抱え込みたくなかった。検討の末、スイス中央部の人口二千人程度の寒村が有力な候補地として上がってきた。最終的に、ここに廃棄物の貯蔵場所を置くには、連邦議会による決定と住民投票による過半数の支持が必要だった。1993年、この問題をめぐる住民投票の直前に、数人の経済学者が村民の意識調査を実施した。彼らは、村民に、「もし連邦議会がこの村に放射性廃棄物処理場を建設するのが望ましいと決定したら、処理場の受け入れに賛成票を投ずるか」と質問した。この施設はたいへんな迷惑施設だという見解が広まっていたが、ぎりぎり過半数の住民(51%)が、受け入れに賛成であると回答した。
経済学者たちは、続いて次のように質問した。「もし連邦議会が廃棄物処理場の建設を提案するとともに、村民一人ひとりに補償金を支払うことを申し出たとしよう。そのとき、提案に賛成するか」と。賛成の数は増えるはずだ、と思いきや。賛成者の比率は、25%と、半減してしまったのである!
この調査結果をどう解釈すればよいのか。とりわけ不思議なのは、補償金があるという想定の下で、かえって賛成者が減ってしまったということである。どうしてこんなことになるのか。次のように解釈すればよい。最初の調査では、過半数の村民が、迷惑施設である放射性廃棄物の貯蔵施設を受け入れてもよい、と答えたのだった。このとき、村民たちはこう考えたのである。「スイスに原発が必要ならば、国民の義務として処理施設のリスクを引き受けよう。処理場の受け入れは、スイス国民としての崇高な使命である」と。彼らが最初にこのような意識をもったということの何よりの証拠は、補償金が与えられるという前提のもとでは、処理場受け入れへの賛成者が激減したことである。補償金が与えられてしまえば、処理施設の受け入れは、崇高な使命ではなく、金銭的報酬を目当てにした下劣な行為になり下がってしまう。村民たちは、「補助金」を自分たちへの侮辱と受け取ったのだ。
この事例は、日本人にとってはまことに教訓的である。日本人は、原発の立地自治体とか、あるいは米軍基地のある自治体とかに、交付金を出すなど、まさにこの事例の「補償金」にあたる金銭的報酬を与えることで、問題を解決しようとしてきたからである。これは、本来、絶対の禁じ手なのである。米軍基地にせよ、原発にせよ、もしそれが「私たち」★1にとってよいものであるならば、私たちは、原発の立地自治体や沖縄の人々に、それを納得させなくてはならない。彼らも、「私たち」の仲間なのだから、私たちの説明に説得力があれば、そして彼らが「私たち」に十分に深くコミットしていれば、彼らはその困難な使命を喜んで引き受けるであろう。
補助金や交付金がもらえるから迷惑施設を受け入れようということと、迷惑施設そのものの本来の機能に価値があるから受け入れようということとは、まったく別のことである。われわれは後者の理由によって、立地自治体にその迷惑施設を受け入れてもらわなくてはならない。そして、原発とか基地とかといった迷惑施設の価値にほんとうに確信があるならば、われわれは、立地自治体を納得させることができるはずだ。

敬譲

第二に、「抵抗権」の理解ということにとってはより重要な再反論を記しておこう。ある政治的決定に同意できないということと、その決定をもたらす過程から疎外されているということとは別のことである。同意できないということは、つまり決定が正当とは思えないということは、直ちには、抵抗権の行使を許すものではない。最終的には賛同できない結論に達したとしても、その結論を導き出す過程の参加者として十分に尊重されていた、と見なしうるケースがあるからである。そのとき、人は、仮に自分が正しいとは思えない決定がくだされたとしても、それを敬譲するだろう。敬譲deferenceとは、あえて譲って敬意を払うという意味の法哲学の用語である。
民主的な意思決定の過程では、その意思決定に参加した者の半分近くが──不幸なケースでは半分以上が──、結論に賛成できない、ということが起こりうる。しかし、賛成できなかった者は、その結論に従わなくてもよい、ということにはならない。たとえば、自分は消費税率の引き上げには反対だという人でも、自分たちの代表者によって構成された議会でしかるべき手続きを踏んだ上で、税率の引き上げが決まったとしたら、より高い税を支払うだろう。このとき、その人は、税率引き上げを敬譲しているのである。
どのようなときに、人は、自分では正しいとは思えない結論でも、敬譲しうると見なすのか。次の機会には、あるいはやがては、自分にとって正しいと見なしうる決定をもたらしたい、という希望をもてるときである。民主主義とは、このような希望に根拠を与える、政治的意思決定の制度である。民主主義が機能していれば、人は、「今はまちがった決定がくだされてしまったが、いずれはその決定を変更することができる」という希望をもつ。
政治的決定が、共同体のすべての人に敬譲されているという意味で消極的に承認されているとき、その決定は正統性legitimacyをもつ、と言う。正統性と正しさrightnessとは別のことである。抵抗権を行使してもよいのは、決定に正統性がないと人民が見なしたときである。 では、普天間基地の辺野古移設に関してはどうだろうか。沖縄の人々は、この移設決定を敬譲できないと見ている。このような見方、このような感じ方に、十分な歴史的根拠がある、と私は考える。明治以降の日本近代の歴史の中で、沖縄は、あまりにも冷遇され、差別されてきたからである。そうした扱いを受けてきた者が、「いずれはこの決定(辺野古移設)の不当性を人々が理解し、自分たちを苦境から救ってくれるだろう」などという希望をもてなかったとしても、誰も責めることはできない。

永遠の少年

さて、以上のことを確認した上で、より本質的な問題に踏み込もう。ここまで、私は、次のように述べてきた。沖縄の人民は、基地の辺野古移設の決定の過程から疎外されており、成熟した(自律的な意思決定の権利をもつ)主体として扱われてこなかった。そうであるとすれば、沖縄の人々が抵抗権を行使するのは当然のことである。
だが、そもそも、日本人は、あるいは本土の日本人は、この意思決定の過程に参加しているのか。辺野古移設は、日本人の自律的な意思決定の結果と見なすことができるのか。できない。日本人と日本政府がともに、この意思決定の過程から疎外されているのである。では、誰が、この意思決定の担い手であり、それに責任をもっているのか。言うまでもあるまい。アメリカである。しかも、──ここが肝心なところだが──(本土の)日本人と日本政府は、このことを積極的に容認してさえいる。
この事実をあからさまに示したのが、2010年の鳩山由紀夫首相のときの、普天間基地の県外移設をめぐる騒動だ。自民党から民主党への政権交代の結果として誕生した鳩山首相は、就任当時、非常に高い支持率を得ていた。就任したばかりの首相の支持率が高いのは日本では常態だが、鳩山首相への支持率は特に高かった。小泉内閣よりもあとに誕生した六人の首相の中で、(就任当初の)鳩山首相への支持率は最も高かった。鳩山首相は、普天間基地に関しては、「最低でも県外移設」を強い公約として掲げていた。ところが、2010年5月4日、沖縄を訪問した鳩山首相は、たった1日で、「県外移設」を断念してしまったのだった。沖縄で、アメリカ軍とアメリカ政府の強い要望を察知したからに違いない。
このとき、日本のマスコミと世論は、鳩山首相を厳しく責めた。政治手法の稚拙さやその見通しの甘さを、である。だが、冷静に考えてみると、──白井聡が『永続敗戦論』で述べていることだが──、そんなことよりもはるかに大きな問題が、このとき生じていたはずだ。民主的に選ばれた一国の首相が強い決意をもって公約していたことが、駐留している他国の軍隊を前にしただけで、1日、いや半日で翻ってしまうのだ。そうだとすれば、もう日本の主権はないに等しいではないか。日本の首相は、自国の領土内のどこに軍隊を置くかということすらも決定できないのだ。このとき、日本人が怒りを向けるべき相手は、自国の首相ではなく、自分たちの主権をあからさまに蹂躙したアメリカであるべきだった。
しかし、誰もアメリカを責めはしなかった。なぜなのか。日本人にとっては、この件について、アメリカに決定の権限があることは、当然のことだったからである。
米軍基地の問題についての、(本土の)日本人の、半ば無意識的、半ば意識的な思考過程を再現すれば、次のようになる。一方では、日本人は、他国の強大な軍隊が自分たちの領土に駐留していることに、少なからず、後ろめたさを感じている。平和主義を掲げながら、世界で一番強い軍隊、核兵器をもっているかもしれない軍隊に守ってもらうというのは、自己欺瞞ではないか。しかも、その軍隊の存在は、同胞(沖縄住民)に著しい苦痛を与えているのだ。しかし、他方で、日本人は、アメリカ軍の駐留が、自分たちにとって都合がよいことも知っている。アメリカ軍がいるおかげで、日本は安全だ、と。この矛盾、つまり後ろめたいが好都合だという矛盾は、その軍隊の駐留を、アメリカの強い意向、アメリカの要望だと見ることによって、有り体に言えばアメリカに強いられた結果だと解釈することで、解消される。アメリカに責任を転嫁できるからである。
先に、カントが、成熟/未熟をどのように定義していたかを解説した。この定義を用いれば、日本人は、自律的な意思決定の主体になることを自ら放棄し、自ら未熟な状態にとどまっているのである。「啓蒙」をあえて拒否しているのだ。GHQ最高司令官だったダグラス・マッカーサーが、退任後、アメリカの上院委員会で、日本人を12歳の少年に喩えたとき、当時の日本人は激怒した★2。しかし、戦後70年以上を過ぎても、日本人は、「永遠の少年」に自らとどまっている。
日本人は、未熟であることによって利益を得ている(と自分で思っている)。しかも、いつまでも未熟であることからくる問題、そのことがもたらす苦痛を、ほとんどの日本人は実感せずに済んでいる。問題や苦痛はすべて沖縄だけが担っているからである。日本では、現在、沖縄だけが、抵抗権を駆使することで、成熟した主体として振る舞っている。今や、一部の(しかも優れた知識人でもある)沖縄人は、日本からの独立さえも考えているのだ★3。現状では、独立国家にでもならなければ、沖縄は「決定の自律性」を獲得できないからだ。 本土の日本人にとって、抵抗する沖縄こそが模範(モデル)である。何の? 成熟の、である。日本人は、沖縄に倣って、成熟を欲すべきときではないか。


★1──その「私たち」は、日本人かもしれないし、日米同盟かもしれないし、東アジアかもしれないし、あるいは世界中の人々かもしれない。いずれにせよ「私たち」だ。
★2──マッカーサーが最高司令官だったとき、日本人は、彼を強く支持していた。マッカーサーとGHQを熱狂的に歓迎した、と言ってもよいくらいだ。マッカーサーが、トルーマン米大統領との対立から、占領政策の終結を待たずに、任を解かれ、日本を離れるとき、ラジオは、その帰還を実況中継で伝え、アナウンサーは、「ありがとうマッカーサー元帥」を連呼した。しかし、上院の委員会での、この「12歳の少年」発言で、日本人のマッカーサーへの評価は、一挙に180度反転してしまい、今日に至っている。人は、しばしば、自分について嘘を言われたときよりも、ほんとうのことをはっきり言われたときに傷ついたり、怒ったりする。劣等感とともに自分も(密かに)自覚していたこと、そうしたことを明示的に指摘されたときほど、屈辱的な思いをする瞬間はない。「12歳の少年」云々は、このような思いを日本人に抱かせたのではあるまいか。
★3──たとえば松島泰勝。もし沖縄が独立したいと本気で言い出せば、「尖閣の所属」の問題どころではない。

大澤真幸(おおさわ・まさち)
1958年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。社会学博士。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。著書に『身体の比較社会学』『虚構の時代の果て』『ナショナリズムの由来』『〈自由〉の条件』『世界史の哲学』他多数。

サムネイル画像 by Vitalie Ciubotaru/ Adapted: CC BY-SA




201601

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