都市文化の現在地──都市における新しい「ウラ」の誕生

門脇耕三(明治大学理工学部建築学科専任講師)

地理と都市文化の関係

都市を語る上での欠かせない観点のひとつとして、地理と文化の関係を挙げることができる。都市に花開く文化は、常にその場所性に紐付けられて語られてきたし、地理と都市文化が密接な関連を持つことを、我々は経験的にもよく知っている。なかでも、地理的に広範な範囲に及ぶ大都市には、時代とともにさまざまな場所で都市文化が勃興し、あるいは衰退した歴史が刻まれており、その布置自体が、都市の発展の過程を雄弁に物語る。試みに、我々にとって身近な大都市である、東京の地名を思い浮かべてみることにしよう。浅草、上野、銀座、新宿、渋谷、原宿、代官山──いずれの地名も、特定の時代をその背景に持った都市文化のイメージを、強く想起させることだろう。
本論では、この東京において、次なる都市文化の胎動がいかなる場所で始まっているか、ひとつの仮説を提示することを試みることとしたい。ただし、筆者は都市論を第一の専門とはしておらず、この仮説が筆者の限定された知識に基づくものであることは、あらかじめ断っておく。それでも、この仮説を提示することに何らかの意味が見いだされるとするならば、それは本論の後半で報告するように、この仮説が小さな実験を伴っていることによる。

西進する東京

よく指摘されるように、東京は西側に延伸することによって発展を遂げてきた。東京都の人口は、第二次大戦時の一時期を除いて、明治期以降一貫して増加を続けているが、増え続ける人口を吸収したのは都心部ではなく、どの時代にも東京の外周部であった。つまり東京は、都市部を地理的に拡大することによって発展を遂げてきたのであるが、この拡大は人口増加によるものであったのだから、東京を物理的に押しひろげたのは、新しく開発された宅地にほかならない。東京の地形は、東部には低地が展開し、西部には丘陵地が続くことを特徴とするが、宅地化が目論まれたのは、主として西部の丘陵地の南斜面の土地であった★1。こうした丘陵地の宅地化を最初に大きく前進させたのは、第一に、もともとの土地所有者である農民自身による、耕地整理や区画整理に基づく農地の宅地化であり、第二に、私鉄による沿線開発であった。
このような東京の周縁部での宅地開発は、関東大震災で都心が壊滅的被害を受けたことによって加速したのであるが、西部に宅地開発の重点を置くという流れは第二次大戦以後も続き、東京西部は、鉄道を利用して都心に通勤するホワイトカラーの居住地としての位置付けを確立していく。このホワイトカラー層は、戦後の東京の経済が第三次産業を中心に発展したため、経済発展の立役者として躍りでることになるのであるが、このような経緯もあって、富裕層が比較的多く住まうこととなった東京西部には、さらなる開発と資本投下が行われ、東京の地形的特徴である「西高東低」は、そのまま都市の経済状況の地理的特徴としても受け継がれていった。
宅地化によって西進する東京という構図は、高度経済成長期が終わり、住宅数が数字の上では一応充足してからも続き、バブル期の土地価格高騰に伴う都心からの人口流出なども、これを後押しした。計画人口30万人を掲げ、2006年まで続いた多摩ニュータウンの開発は、東京西部の最後の大規模開発として位置付けられることだろう。2000年代になると、東京における住宅建設のトレンドは、ようやく東部や臨海部、都心部へと移っていくのであるが、ここまでで東京西部は開発されきったといってよい。高度成長期に入る前までは、田畑や山林、原野が入り交じる風景が残っていたという東京西部は、いまや市街地によって隙間なく埋め尽くされているのである。
このような西部の宅地開発にあわせて、都心の重心もまた、西側へと移動することとなる。1958年に国が策定した首都圏整備計画では、都心の機能分散を目的として、東京都に3つの副都心が指定されているが、副都心に指定されたのは池袋、新宿、渋谷であり、この決定は、東京の重心の西側への移動を追認するものであったと捉えることができるだろう。そして、このようにして勃興した新しい都市の中心地は、それぞれが独自の都市文化を発展させていくのである。

勃興する新都心の都市文化と都市の「ウラ」

3つの新しい都心のうち、最初に活発な都市文化の発信地となったのは、すでに歌舞伎町などの繁華街が地区計画に基づいて形成されていた新宿であり、1964年の東京オリンピック以後、学生運動やベトナム反戦運動などの政治運動と連動しながら、1960年代後半の新宿では、数々のカウンターカルチャー・ムーブメントが一気に噴出する★2。1970年代になると、全共闘運動の挫折や浅間山荘事件などを機に、政治運動は下火となり、都市文化の発信地も次第に渋谷へと移行していくのであるが、その流れを決定づけたのは、いわゆる「セゾン文化」などに代表される商業資本による文化戦略であった★3。西武や東急などといった電鉄系企業によって、都市の文化発信が牽引されるという現象は、池袋でも同様に生じており、文化発信地としての渋谷と池袋の地位は、1980年代のバブル期にはいよいよ確固たるものとなる。一方、これらの地域では、大規模資本を背景に持つ百貨店などばかりではなく、比較的小さな資本による小規模店舗も数多く出店しており、これらもまた、都市における文化的な発信を大きく担っていたことは見逃すことはできない。最先端の情報は、むしろこうした小規模店舗からこそ得られると認識されていた感さえある。
ところで、このような小規模店舗は、運営面で実験的な側面を持っていたがゆえ、商業的には必ずしも盤石ではなかったためか、商業地域の中心ではなく、その周縁に展開することが多かった。たとえば、先端的な店舗が集積する地域として、1990年代頃からメディアに取り上げられることが多くなった代官山は、都市情報誌では都市の「ウラ」として紹介されることが多かったというし★4、「ウラハラ」と通称される裏原宿は、狭隘な道路が入りくんだ不便な立地であることを理由として、建物賃料が安く設定されており、その結果、若い世代による小規模店舗の出店が相次いだため注目を集めるに至った、まさに都市の「ウラ」であった。
しかし、このような都市の「ウラ」も、先端的な小規模店舗が集積し、注目を集めるようになると、たちまち商業的な開発の対象となる。開発による地域の洗練は、地価や建物賃料を引き上げる方向に作用するから、ひとたび商業的な開発の対象となると、新たな店舗の参入障壁が高まり、その場所は、もはや都市文化の実験場としては機能しなくなる。したがって、新たに開店を目論む小規模店舗は、実験的な側面が強いものほど、そのさらに周縁へと追いやられることを余儀なくされる。実際に裏原宿は、メジャーなブランドショップの出店が相次いだ結果、かつてのような「ウラ」の雰囲気をすっかり失ってしまったし、代官山では大規模な再開発が行われたことを契機として、先端的な小規模店舗群は中目黒へと移動していった。しかし、移動先の中目黒でも大規模再開発は行われ、こうした店舗は現在、駒沢通りの周辺にいくらか展開しているといった具合である。都心での隙間のない開発により、都市文化の発信を担っていた実験的な小規模店舗は、周縁から周縁へと追いやられ、いまや商業地域ではなく、住宅地にひっそりと根付いている。たとえば多くのセレクトショップで取り扱いがあり、東京を代表するファッションブランドのひとつである『DIGAWEL』の2号店は、住宅地の古くなった住宅を改装して店舗としており、その外観はほとんど民家と見分けがつかない。

イメージのパッチワーク・シティとしての東京

現在の都市における文化の表出のしかたを考えるにあたって、ここでもうひとつの論点を差し込んでおかねばならない。東京における特異な地理感覚である。
東京は、震災復興、戦災復興、オリンピックをそれぞれ契機として、20世紀中に三度もの都市大改造が行われた世界的にも珍しい都市であり、結果として高度な交通網を発達させるに至っている。特に鉄道網の発達には、特筆すべきものがあるといってよいだろう。都心では、数百メートル程度の間隔で駅が配置されていることも珍しくなく、かつ鉄道の運行が正確で、運行間隔も短いため、東京に住まう人々は、高度に鉄道依存型の生活を送っている。したがって、東京での移動は駅を起点に行われことが一般的であり、地点間の近さや遠さは、鉄道での移動時間に基づいて判断される。つまり、ある地点からある地点までの近さや遠さは、実際の距離に基づいて想起されるのではなく、「電車で○分」のような時間間隔として想起されるのである。このことは、実際の距離が近いにもかかわらず、鉄道の乗り換えの関係などで遠いと認識されている場所や、その逆の場所が生じていることを意味しているが、評論家の宇野常寛は、こうした東京の地理感覚を、「人間の思考回路上の『距離』が意味を失い『時間』に置き換わっている」と表現する★5。東京では、地理感覚から方角や距離などの要素が剥奪されており、移動時間という単一的な尺度に取って代わられているというわけであるが、そこで人びとがイメージする東京の地理は、大きく歪んでいるのである。
以上のような地理感覚の特異性もあってか、東京は、鉄道駅を中心とした徒歩圏域を単位とするパッチワーク状の都市としてイメージされるということができないだろうか。加えて、こうした駅を中心とする各地域のイメージは、現在ではそこで実現するだろうライフスタイルのイメージと、ほぼ同義になっているといってよい。かつての「地域イメージ」は、たとえばお屋敷街や町人街といった、封建時代の身分階層と連動した空間的秩序のなごりや、その地域が抱える災害リスクと密接に関連するものであったが、封建遺制は解体が進み、また土木・建設技術の発展によって、土地に固有の災害リスクの克服が進んだため、現在の「地域イメージ」は、ほとんど趣味性に近いものへと変質している。駅中心圏を単位としたパッチワーク・シティとしての東京は、さまざまなライフスタイルのイメージによって彩られているのである。
こうした駅を中心とする地域イメージは、1980年代から1990年代にかけて急増した都市情報誌などによっても強化されていくのであるが、メディアや商業的戦略によって助長された趣味的なイメージをまとった地域が、パッチワーク状に配列された都市としての東京には、その構造を自ら強化する力学が働いていると考えられる。東京は、人口移入のひときわ激しい都市であり、そこで「先祖代々の土地に住む」という感覚はほぼ失われている。つまり東京に住まう人びとは、居住地を個々人が定める自由を最大限に謳歌しているのであるが、この都市での居住地の選択には、収入と住居費のバランスや、職場との距離(=職場への鉄道での移動時間)といった要素ばかりではなく、地域イメージも大きく関与していると考えられる。たとえば、家賃も通勤時間も同程度であれば、各々の地域がまとう趣味的なイメージを考慮して、小田急沿線より中央線沿線を選択するといった居住地の決定のしかたは、東京ではごく当たり前に行われている。したがって、ひとたび何らかのイメージが付与された都市のパッチは、趣味的同質性が強い居住者を呼び込むことになると考えられ、これによってそれぞれの地域は、自らの姿を自らのイメージに似せていくのである。このことに加えて、地価や建物賃料が上昇した場所では、「街のイメージ」を逸脱する商業施設を構えることのリスクが増加するため、「街のイメージ」の安易なコピーじみた店舗の出店が横行する。このようにして、たとえば代官山はより代官山らしく、中目黒はより中目黒らしく、人びとがイメージするとおりの姿に変わっていくのである。

都市の「ウラ」としての都心と郊外のはざま

これまでに見たように、都市の場所性に紐付いた先端的な文化が、都市の「ウラ」的な場所で醸成されるのだとすれば、現在の東京は、都市文化の母胎を喪失しつつあるように見える。開発が進行し、建物によって面的に埋めつくされた市街地が、駅を中心とする地理的なまとまりを形成し、それぞれがまちまちに同質性を高めているのが現在の東京の姿なのであり、これは都市が「ウラ」を失っていく様相に他ならないからである。都市が空間的な襞を失い、均質なパッチの不連続な縫い合わせに取って代わられていくにしたがって、都市の「ウラ」は、単に都心と郊外のはざま程度の意味に置き換わっていくだろう。このことは、ジェントリフィケーション★6の連鎖によって、先端的な小規模店舗が都市の周縁へと追いやられ、現在では都心とも郊外ともつかない場所に落ち着いていることとも符合している。一方で、こうした場所に足を踏み入れてみると、そこではこれまでにない興味深い動きが生じていることも事実である。以下、環状八号線のやや外側に位置する、とある駅を起点としたフィールドワークの様子を、簡単にレポートしてみることとしよう★7

1) 駅前

駅前は商業地域であり、商店街がひろがっている。個人経営とおぼしき商店も多いが、フランチャイズチェーンの看板も多数目につく[写真1]

1──駅前にひろがる商店街 撮影=小野啓

2──住宅が入り交じる商店街の先 撮影=小野啓

3──行列ができる商店 撮影=小野啓

2) 商店街

商店街を進むにつれ、商店と住宅が入り交じるようになる[写真2]。突如として行列ができている商店が現れるが[写真3]、地元で有名なパン屋とのこと。ほとんど住宅地の雰囲気に変わった商店街のはずれには、トレーディングカードを扱う店が構えている。全国的にも珍しい、飲食ができるトレカバトル会場を地下に併設しているため(トレカはそれ自体がコレクション的価値を持つため、一般的なトレカバトル会場では飲食が禁じられている)、遠いところでは山口県からも来場者があるという。

3) 住宅地

商店街を抜け出て、住宅地をしばらく進むと、看板を出した風変わりな住宅が現れる。空き家を改修し、カフェ兼ギャラリーを営んでいるとのことである[写真4]
さらに進むと、住宅の一室を改装した小さな店舗が現れる[写真5]。実家の空き室を利用して、姉妹で営んでいる焼き菓子屋であるという。営業スケジュールを見ると、長い夏休みを2回とる模様。
さらに進んで、住宅地の最深部に至ると、木の生い茂る立派な庭をオープンガーデンとし、開放している住宅がある[写真6]。一般の住宅ではあるが、会員制でリビングを貸し出し、休日には演奏会やフリーマーケットなども行われているという。

4──空き家を改修したカフェ兼ギャラリー 撮影=小野啓

5──住宅の一室を改装した焼き菓子屋 撮影=小野啓

6──住宅地のなかのオープンガーデン 撮影=小野啓

以上のように、都心と郊外のはざまの住宅地では、使われなくなった住宅や、住宅の空いた一室などを利用して、小さな商いが営まれる光景が、珍しいものではなくなってきている。こうした住宅地は、開発されてからおおよそ40年近くが経過しており、その主たる構成要素である戸建て住宅は、3室から4室の個室を備えている場合が多い。一方で、1970年には2.7人ほどであった東京都の世帯の平均人員数は、現在では2.0人を切るまでに縮小しており、住宅の規模と家族の規模とのミスマッチが生じている。これらの小さな商いは、そのようにして生じた余剰の一室を利用して営まれているケースが多いのであるが、その形態は、以下のような点で、一般的な商店とは趣をやや異にしている。
第一に、商いの内容に個性的なものが多く、立地が駅から離れるほどその傾向は強くなり、収益を目的とした商いであるか否かが判別つかなくなる。また、こうした商売とも趣味ともつかない商いを営む人たちの働き方は、どちらかといえば悠然としているように感じられる。こうした商いが、自身や親族が所有している空きストックを利用して営まれている場合、賃料は不要なのだろうし、賃料がかかったとしても、駅前に商店を構えるよりもずっと安く済むだろうから、働き詰める必要もないということなのだろう。そこでは、空間資源の活用により、豊かな暮らしが実現しているように見える。
第二に、これらの商いが、いずれも驚くほど広域から集客している点である。ヒアリングをしてみると、都外からの来訪者も珍しくはないという。なお、古典的な施設配置論のベースとなった「重力モデル」によれば、商業施設などの集客力と集客範囲は、施設の規模に比例し、施設から距離の二乗に反比例して減衰するというが、こうした小規模な商いが、超広域から集客しているという現象は、「重力モデル」のような従来的な空間経済モデルでは説明がつきづらい。つまり、そこには空間的な距離に依存しない集客構造が存在していると考えられるのであり、ウェブサイトやSNSなど、インターネットを通じた口コミが集客に威力を発揮していると推測できる。事実、こうした商いのほとんどが、ウェブサイトやFacebookページを所有している。したがって、このような住宅ストックの活用のしかたは、インターネットの普及以後に広がった形態であると考えられるのであるが、こうした新たなストック活用方法の誕生に伴って、現在では住宅地の深淵も、「都市のウラ」と化すポテンシャルを持つようになっていると考えてよいのだろう。

小さな商いのネットワークを地域資源として活用する試み
《つつじヶ丘の家》(長坂常/スキーマ建築計画+明治大学 構法計画研究室)

住宅地における小さな商いの宿り代となる空き家や空き室は、都市の中心からの距離とは関係なく、ランダムに発生するとの指摘があり★8、この指摘にしたがえば、こうした小さな商いが特定の場所に集塊するようになることは、原理的には考えづらい。一般的な商店は、駅前などに集塊することによって商業的なまとまりを形成し、集客力を相乗的に高めあう傾向にあるのだが、空きストックを宿り代とする商いは、地理的に集塊することが見込めないためか、これらを結ぶネットワークを自ら生成し、強化することによって、擬似的な集塊性を獲得しようとすることがあるらしい。先にレポートした地域でも、自主的にまちあるきマップを作成することによって、点在する小さな商いをネットワークする試みが認められた。
このようなネットワークが形成された地域では、それ自体が地域の資源となる可能性がある。小さな商いのネットワークが、地域内である程度認知されていれば、自らの住宅に生じた空き室などを活用し、そこに参加させようとするインセンティブが働くと考えられるからである。そこで筆者らは、こうした地域に生じた空き家をリノベーションし、その一室を地域に開放できるように改めることによって、地域のネットワークへの参加可能性を住宅に付与することを試みた★9

7──擁壁を切り欠いて新たに設けたアクセス 撮影=Kenta Hasegawa

リノベーションの対象としたのは、築36年の木造戸建て住宅であり、従前の間取りは4LDKで、個室のうちの一室が地上階に位置していた。この住宅は、最大高低差が2mほどの擁壁の上に建っており、手始めにこの擁壁を切り欠いて、地上階の個室への独立したアクセスを設けることとした[写真7]。もともと和室であったこの部屋では、畳と床組みを取り払い、床をコンクリートの土間に改めるとともに、既存の掃き出し窓は、開き戸とFIX窓を備えた鋼製建具に交換し、アトリエや小規模店舗などとして、居住者が自由に活用できる場所とした[写真8]
しかし、この部屋を地域に開放しようとすると、新たに設けたアクセスによって、リビングが面する庭先を見ず知らずの人が行き来することになる。そこで、リビングの掃き出し窓は壁でふさぎ、構造的にも弱点となっている南側壁面の耐震補強とすることとした[写真9]。また、リビング上部の天井と床板を撤去し、エキスパンドメタル床に張り替えることによって、自然光は上階から導くこととした[写真10]。床にエキスパンドメタルを張った上階の部屋は、南側の建物にかかる北側斜線のおかげで安定した光が得られるため、サンルームなどとして利用されることを想定している[写真11]

8──さまざまな用途に活用可能な開かれた土間 撮影=Kenta Hasegawa

9──掃き出し窓をふさいだ耐震補強壁 撮影=Kenta Hasegawa

10──リビング 撮影=Kenta Hasegawa

11──リビング見上げ 撮影=Kenta Hasegawa

なお、このプロジェクトは、住まい手があらかじめ決まっているものではなく、リノベーション後に販売することを想定したものであり、筆者が主宰する事務所が事業主体となって進めているものである。周知の通り、ここでリノベーションの対象としたような中古の木造戸建て住宅は、その状態にかかわらず、不動産としては無価値であり、「古家」などと呼ばれて、むしろ土地に付属してしまった厄介者として扱われているのが現状である。この試みは、こうした無価値な戸建て住宅ストックを、地域資源としての小さな商いのネットワークに関連づけることによって、市場での価値回復を図ることも目的としており、事業モデルの実験としての側面ももっている。したがって、販売が始まっていない現時点では、実験は未完なのであるが、この顛末は、機会を改めて報告することとしたい。

都心と郊外のはざまは新しい都市文化の母胎たりえるか

さて、筆者がこのような実験を試みたのは、都心と郊外のはざまで起こりつつある新しい動きに、大きな可能性を見出しているからに他ならない。すでに見たとおり、こうした場所での空き家や空き室は、新たな役割を獲得した上で、互いの空間的な隔たりを超えたネットワークを形成しようとしているのであり、これらは地理的には点在しながらも、ひとつのまとまりを生みだしつつあるように見える。このまとまりは、居住という単一的な機能に特化した都市の面的なひろがり、すなわち「住宅地」と呼ばれる地域に上書きされようとしている、これまでにない構造であると捉えることもできるのであるが、そこには厳格にゾーニングされた都市とは異なる、新たな都市の胎動を感じ取ることができる。また、その要素である「小さな商い」は、駅中心圏の商業的な原理に依存せずに成立しているため、この構造はパッチワーク・シティ的な力学と無関係であることも特筆しておきたい。
さらに、このように変質した住宅の一室は、「住宅」という機能的なまとまりから逸脱して、むしろ「小さな商いのネットワーク」という都市的な全体の一部と化していると考えることができ、そこには「住宅」としての建物の完結的なまとまりが瓦解した、建築の新しい姿も認めることができる。したがって、ここで生じている都市の「ウラ」性は、都心と郊外のはざまという、単純な領域区分的な構造だけに帰されるものではなく、住宅地の深淵に、住宅地とは異なる要素が飛び地のように点在しているといった意味での「ウラ」性や、住宅の内部に都市の一部が入り込んでいるといった意味での「ウラ」性など、さまざまな様相が複雑に折り重なって生じていると捉えることができるのである。
そして、このようにして生じた都市の複雑な「ウラ」が、新しい都市文化の母胎となる可能性があるのだとすれば、そこに宿る文化は、商業資本と消費をその背景にもったこれまでの都市文化とは異なり、生活との連続性を保ったままの、生産的な都市文化になることだろう。かつ、ミクロに見れば点に過ぎないこれらの小さな商いは、マクロに見れば、東京という大都市の周縁にベルト状に展開する可能性があり、これが東京の無視しえない構造にまで発達することも、あながち否定することはできないと考えられる。
なお、このような新しい都市の「ウラ」の誕生は、近代的に整備された都市が、その整然とした空間的秩序を融解させながら、より複雑な構造へと組み替えられている過程の一断面と捉えることもできる。いずれにせよ、我々が暮らす都市が、これまでとは異なる段階に差しかかっているだろうことは、いよいよ強い実感を伴ってきているのである。

★1──鈴木博之『日本の近代10──都市へ』(中央公論新社、1999)pp.292-297参照。
★2──中川大地『東京スカイツリー論』(光文社、2012)pp.207-214参照。
★3──中川前掲書、pp.214-220参照。
★4──籾山真人、十代田朗、羽生冬佳、山田光一「都市情報誌にみる東京の広域集客型商業エリアの空間及びイメージの変容に関する研究」(『ランドスケープ研究』、Vol.65、No.5、日本造園学会、2002)参照。
★5──宇野常寛『日本文化の論点』(筑摩書房、2013)p.44参照。
★6──ジェントリフィケーションとは、都市の停滞した地域に富裕層が流入する現象のことを指すが、これによって、その地域の地価や建物賃料が上昇し、それまで根付いていた人びとが離散することがある。
★7──このフィールドワークの詳細は、宇野常寛(編)『PLANETS Vol.9──東京2020 オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト』(PLANETS、2015)に収録されている。
★8──簑原敬、饗庭伸ほか『白熱談義 これからの日本に都市計画は必要ですか』(学芸出版、2014)pp. 173-182参照。
★9──改修設計は、長坂常/スキーマ建築計画と、筆者が主宰する明治大学 構法計画研究室が協働して行った。2015年7月竣工。


かどわき・こうぞう
1977年生まれ。2001年東京都立大学大学院工学研究科修士課程修了。2012年より明治大学専任講師。専門は建築構法、構法計画、設計方法論。博士(工学)。近代都市と近代建築が、人口減少期を迎えて変わりゆく姿を、建築思想の領域から考察。著書・共著書に『PLANETS vol.9 東京2020 オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト』』『静かなる革命へのブループリント』『シェアをデザインする』など。Twitter: @kadowaki_kozo


201508

特集 都市学への思考


総合地上学へ向けて──ランドスケール、キャラクター、生態学的視点からのアプローチへ
都市文化の現在地──都市における新しい「ウラ」の誕生
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