世界集落の発見中川武教授最終講義・記念シンポジウム「世界建築史をめぐって」
中川武教授最終講義・記念シンポジウム「世界建築史をめぐって」
- 原広司
『集落の教え 100』
(彰国社、1998年)
これからご紹介致しますスライドは、『集落の教え 100』から取り出したものですが、かつて1972年から1997年にかけて研究室で現地調査したものです。私の意識の中では歴史的な建築、オーソドックスな建築というものがあり、それに対して集落というものがあるという認識を持っています。1970年代の10年間に集中的に、またそれ以後時々現地調査をしていました。たまたまそこへ行ったらあったというような、目撃してきた集落です。教科書でわれわれが最初に習う歴史は西欧のものです。連綿たる世界建築史としてのヨーロッパ版であり、それはまた、僕が西欧以外の集落を調べた方がいいと思った原因のひとつでもあります。
こちらのスライドはサマラの塔(写真1)です。現地で撮った写真ですが、こういうものに憧れていました。そして、空中庭園幻想という具体的な設計に関係するようなイメージをつかんだりもしました。
集落の調査をしていますと、ヨーロッパ周辺の集落、あるいはインドの集落というものとはちょっと違う集落がインディオのマリーラ(Malila, Mexico)にあります。ディスクリートな集落(離散型集落)と呼んでいます。世界建築史といえど、日本でも論争があるように、発生起源はいつなのかという細かい時間の特定はかなり難しいです。南米あたりだと、時間の特定はより難しいと感じております。
- 写真1. Samarra, Iraq
集落を調査しなくてはならないと思った出発点のひとつはガルダイア(写真2)です。ここを訪れた方も多いと思いますが、求心的空間のモデルです。モスクがあり、年輪のように壁が拡散して広がっています。これは都市論のモデルとしてしっかりしています。先端にモスクがあります。住居はいわゆるロの字型です。そしてあらゆる住居からモスクのタワーが見えなくてはいけません。パノプティコンの逆さまのような構図です。さらに、ル・コルビュジエのほとんどの造形ボキャブラリーはここにあります。ピロティ、ロンシャンの礼拝堂の開口部などを発見することができ、記号的建築の世界があることも実感できます。これが集落調査のスタートラインでした。
私は1970年代には調査をずっと続けていくという意識はありませんでしたが、結果、10年間で5回調査へ行きました。ヨーロッパの集落とは違う集落があるのではないかと思っていたのです。皆さんご存知のように、近代建築にはさまざまな文脈があります。均質空間とは、建物をつくる時に否定できない、逃れることができない、絶対的な相手です。その根拠は民族の否定であり、当時は説得力がありました。今日、このような場では集落の話をしますが、集落の話をおもしろがるのはアジアの人たちで、ヨーロッパの人もアメリカの人もほとんど関心を示しません。ただ、40年前と比べて少し状況は違ってきたと思います。1970年代終わり頃は、自然エネルギー、公害への関心が出てきました。集落を否定して、超えてきたのが近代建築ですから、当時も今さら集落なのかという意識は事実ありましたし、今もあります。
私は東大の生産技術研究所にいましたが、柄谷行人先生が生産よりも交換という概念の方が重要だとして世界史を書き直そうとされています。生産技術研究所は、最も新しい技術を開発するところで、まるで集落は関係ありません。さすがに研究所ですので、調査に出かけた時は休暇願いを出すのです。大学ではとても研究と認められないばかりか、遊んでいると思われるのです。とはいえども、サハラ砂漠を超えて行くのはいかに車が砂にうずまらないようにいくかという非常に楽しいスポーツです。
- 写真2. Ghardaia, Algeria
私は1970年代から集落調査を開始し、17〜18年前に退官しました。1997年の集落調査の中で、イエメンの山中にあるこの集落(写真3)を見て、これでもう他のところへは行かなくて良いだろう、これで集落調査は終わりだなと感じたのです。日干し煉瓦による20階建てほどの高層建築です。今は20階建てのものは探しにくく、12〜13階のものが沢山あります。モデル的にもしっかりしています。地形の頂点にお城をつくるのは有利です。実際にはこの中に入れません。集落調査は大体そういう制約を受けます。
中川研究室がおつくりになった、建築の世界風景を100見させていただきました。私は世界風景という概念をどう言ったかと言えば、世界を認識するための「情景図式」と呼んでいます。その情景図式が並び、イメージで世界が捉えられています。私は、世界を認識する時に条件付きで認識することが人間にとって重要であると考え、集落調査をやったのです。要するに言葉ではなく、図像で世界を認識するためにやったので、歴史という意識はあまりありませんでした。
イエメンのこのすごいモデルは、地形的な特異点、特に頂点にあります。回り階段を数えると150段くらいあります。登る時の動作のスタイルは当然上を向くことになりますので、首を切り落とすような装置としての階段なのです。絞首刑のような。つまり、砦のプランニングであり、ディフェンスの機構が様々に考えられていて、よくできています。非常におもしろいのですが、一番高いところが何かは実はよくわかっていません。自動小銃で武装されていて入れません。イエメンはほとんど雨が降らないところですから、とにかく襲われます。僕らも入ろうと挑戦するのですが、撃たれないまでも追い返されてしまいます。ただ、旅行会社の人が住んでいるところなどのいくつかのパターンを見せてもらうと大体わかります。下の方に家畜がいて、最上部には女性のキッチンがあります。谷の底からそこまで水を運ぶのは女性の役割ですから信じられません。日本には「奥様」という言葉がありますが、例えばインドのドラヴィダ族の住居には、ベランダ(縁)からヒエラルキーがあり、神聖さへの深度があります。高層建築、20階建てのもので集落ができているということは、それ自体おもしろいのです。こうした複合によって小さな村ができていて、それが離散的にあるというモデルです。普通の都市は集合的に並んでしまうのですが、変化のある山の地形によってこのようになっています。モカのコーヒーを沢山つくっています。ガルダイアとイエメンは、集落調査の始めと終わりでした。
- 写真3. Bani Mourah, Yemen
先ほどはアルジェリアのムザップの谷の都市ガルダイアと、イエメンの都市バニ・ムウラの話をしましたが、今日は時間も限られているので、これから2つエリアの集落について話をします。ひとつはイランの集落で、もうひとつは西アフリカのサバンナの集落です。
イランと西アフリカのサバンナの集落は、離散型を語ることで図式を捉えるというような集落とは違います。たとえて言えば、標準語を話そうとする集落と、方言しか話さない集落です。集落はいろいろな解釈ができますし、私も間違えたりします。しかし、そういうさまざまな解釈を可能にするという意味で建築がそこにあるのではないかと思います。
イランの方から始めます。イランの集落は建築的に標準語を話す集落と言えます。換気塔がありますが、換気塔は機能的にいろんな建て方がありながらも、概ね同じものです。厳密に言えば違いはありますが、違わないようにみんなが意識して建てています。
後ほどお話するように、これは典型的な標準系ではありませんが、水の供給を抑えられたところ、権利の売買から排除された集落です。(写真4)一般的にはイランの集落は、砂漠の集落とは違います。山にしか雨が降りませんので、地中に縦井戸を堀り、それを横にしたという技術的発明の産物だと思います。住居は変わったドームの屋根を持っています。これは等張力曲面で、幾何学的にはシャボン玉と同じです。曲面はふたつの主たる曲率を持っていますが、それらを足した平均曲率を日干し煉瓦でつくっているもので、恐れ入ります。これが全体図(図1)ですが、水道塔が建っています。これが標準語で、イランの砂漠から、東のアフガニスタンあたりまで共通していて、まったく不思議なものです。
- 写真4. Emrani, Iran
- 図1. Emraniの平面図
次に、こちらは断然標準形を示しています(写真5)。人工オアシスです。背後に山があり、そこに降った水を各住居の床下に流しています。水の流れが集落の配置になっていて、素晴らしくトポロジカルです。どこの家にもきれいな水が流れていて、魚が泳いでいるのも見えます。次に、集落というよりは小都市ですが、最もわかりやすい標準語を話しているのがわかるのがこれです。(写真6)ベルベル人はカスバと呼びますが、ここイランではカルレと呼ばれるタワーがあります。囲った壁があり、その回りにタワーが基本的に4本建っています。後で出てくるキャラバンサライは角に塔が建っていません。たとえば、ガラスの四角形が付いているとお風呂だというように、記号化されていて、それが全部標準化されているゆえに、標準語だと見なせます。
次に、この集落にはアフガニスタン寄りの集落で見られる風車がありますね。(写真7)そこに藁を縛り付けると、風をはらみ縦軸で回転し、臼で脱穀するというものです。水場や脱穀などが共同体の中心を形成しています。
- 写真5. Hoggatabad, Iran
- 写真6. Mushabad, Iran
- 写真7. Khunik, Iran
- 柄谷行人
『遊動論 柳田国男と山人』
(文藝春秋、2014)
これはもっとも完成された、イランの砂漠周辺にある人工オアシスです。(写真9)円錐形の屋根の下に貯水池があり、その後ろに塔が見えています。周りでは畑でザクロなどをつくって生活しています。キャラバンサライの機能は、キャラバンを入れて封じ込めているのです。カスバから来ている系譜は、自分がそこに閉じこもって戦うという場所です。そういうふたつのディフェンスの装置です。平地は農耕ができますが、雨は山しか降らないので、距離の良いバランスを保っています。
こうしたものがいつつくられたのかは、はっきりとはわかりません。レヴィ・ストロースが言っているように、起源が問えないのです。話しが逸れますが、音楽はさらに難しいと思います。19世紀に初めて録音が出てきましたが、再現したとしても、本当にどういう音を出していたかはわかりません。ただ、このイランの集落には、音楽でいうところの音階や旋律に関する規則・体系のようなものを背景に感じます。イランの集落については以上になります。
- 写真8. Nostrabad, Iran
- 写真9. Zafal-Quand, Iran
次に、もう一方の西アフリカのサバンナの集落をお見せします。このエリアには標準語という概念がおよそありません。しかし、方法があります。登場する要素は3つしかありません。それは円形住棟、方形住棟、穀倉で、それらが次々と違った形で出てきます(写真10/写真11)。調査した範囲は、ニジェールから、マリの近く、コートジボワール、ブルキナファソ、ガーナあたりまでに限られますが、文化人類学的な宝庫として知られているエリアです。土と藁でつくっています。配列としてはこうして円環をつくっています(写真12/図2)。
- 写真10. Akabounou, Niger
- 写真11. Azzel, Niger
- 写真12. Bogue, Burkina Faso
- 図2. Bogueのアクソメ図
集落調査は大学院生を連れて行くのですが、全員言葉も話せませんし、何もわからないのですが、僕らが内部へ入って行っても何も言われません。奴隷として連れて行かれてしまうというのはこういうことなのかもしれません。スペインがいかに植民地で悪いことをしたのかと。南米では子どもをまず隠しますが、ここは非常に大らかです。ビクビクしないこと、誤解されないことが重要です。
この集落の出入口は敷居(threshold)という概念の代表のようなもので、大変おもしろいと思います。這ってしか入れず、相手が入って来る時に狙う、というようなものですね(写真13)。
回りはサバンナですが、調査は乾季を狙っていきます。『ナショナルジオグラフィック』などを見ますと、雨季には回りが完璧に緑に覆われることがわかります。当然、活動は中庭を主体としたものになります。動物から守るという意味もあります。各住棟は「コンパウンド」と呼ばれていますが、複合住居で家族構成も複雑なものです(写真14/図3)。先程ご紹介いたしましたイエメンの都市と構成が近いのですが、ひとつのコンパウンドが城壁のようになっていて、内部はゾーニングが非常に複雑です。穀倉は獣に食べ物を取られないようになっています。
サバンナの集落の形態は場所によって様々です(写真15/写真16)。壺のような形もありましたし、方形住棟と類似した方形プランのものもあります。円形と方形の間のバリエーションは、記号的な連鎖であり、差異と類似性を持っています。ベルベル人によるガルダイアと通じる建築的指針があります。西アフリカのサバンナの集落は以上になります。
- 写真13. Sumbrungu, Gana
- 写真14. Tenado, Burkina Faso
- 図3.Tenadoの平面図
- 写真15. Zaba,Burkina Faso
- 写真16. Sao, Burkina Faso
私はこれらをわかりやすいので「調査」と言っていますが、実際は集落を求め、旅をしていたのです。図面を描いていますが、すべては測り切れないのです。しかし、どんどん消えていくものでもあり、少なくとも1970年代にこのような集落があったのだと語れると良いだろうと思ったわけです。
「アフリカ的なるもの」という概念も有効ですが、伝統はその地域だけにとどまるものではなく、たとえばアフリカにあるものはすべて日本にあり、アフリカにあるものは大抵日本にもあると解釈する態度もあり得ると思います。私が分析した集落はその都度サブシステムとしてつくられる構造があるということ、そして、歴史というものは、いわゆるクラシックな世界史だけではないということを話したかったのです。ですが、集落は時間が曖昧であり、今は、少なくともある時点でこういう集落があったという記録が残れば良いと思っています。中川先生の前座としては以上です。ご清聴ありがとうございました。